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枯れた雰囲気にいきなり赤!

靴を脱いで左へと誘う
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山門からして格式あり

南天ではなく千両
禅宗寺院によくある
苔の庭に色を添える
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<1179> そうだ、錦秋の京都 (10)大徳寺塔頭、黄梅院
鷹峯の三寺をぐるりとまわって、まだ時間がある、さてどこに寄ろうかということになった。
「ここからなら大徳寺が近い」 わたしは大徳寺ファンである。
大徳寺の他とちがうところは一部の塔頭を除いて拝観できないということ。これを商業主義の排除といえるかどうかを知らない。しかし俗塵の濁りをとどめないし、ほどほどの神秘性を保っている。事実、ここでしか味わえない凛とした落ち着きがある。
そして春秋の一時期だけ、いくつかの塔頭で特別拝観がおこなわれる。お宝が見られるかもしれない。
すぐにタクシーを捕まえた。
***
黄梅院(おうばいいん)はそのひとつ、もちろん臨済宗大徳寺派の塔頭で、通常は公開されていない。
この寺は永禄5年(1562年)に織田信長が父・信秀の追善供養のために創建し、当初は“黄梅庵”と名づけられた。
20年後の天正18年(1582年)に本能寺で信長が急逝し、葬儀は羽柴秀吉により大徳寺で行われた。
秀吉は信長の塔所として黄梅庵を改築したが、小さすぎるという理由から大徳寺山内に総見院を新たに創建した。
秀吉の手を離れた寺に玉仲宗e(大徳寺112世)が入寺し、こんどは毛利元就の三男・小早川隆景の帰依を受け、“黄梅院”と改められた。
境内には毛利家、織田家の墓所のほか、小早川隆景、蒲生氏郷などの墓塔がある。
いつも思うことは、こういった有力武士たちが禅宗寺院に墓をもつことの理由。あるいは禅宗に帰依する理由。
やはり開祖栄西がキーマンかと思う。
南宋への留学で禅宗を学んだ栄西が、鎌倉に下向して幕府に臨済禅を説く。
最初の仕事は頼朝の死後に訪れた。政子は、夫の菩提を弔うため栄西を招いて寿福寺を開く。これが鎌倉幕府開闢8年後の1200年のことで、その翌々年栄西は京都に建仁寺を建立した。
以後幾多の名僧が誕生し、ときの権力者である武士に庇護されながら広まっていく。
なぜそうなったのかといえば、武家政権が国を支配するのに便利だったからでしょう。文字を知らなくても、自力本願できる禅宗が武士に合っていたということでしょうか。
***
表門をくぐって直角に左に曲がる。下地の苔と紅葉を眺めるだけで、格式の高さに怖気づいてしまう。
靴を脱ぐ、玄関のつくりにも上品なたたずまいがある。
人のいない静かな世界をかみしめながら廊下を先に進む。庭の気配はここでも感じ取ることができる。
書院の自休軒(じきゅうけん)で女性が由来を解説している。
一角に大徳寺開創の大燈国師の、太字で書いた遺墨「自休」の扁額をみた。
「自らやむ」と読む。
誰もが経験していることで、人は生きていくうちに自分の勢いを感じる時がある。なんでもできると思い込む。しかし勢いがあるときは、自分で気づかないうちに暴走しているのだ。バブル期に疾走した日本がよい例だろう。
ここでみずからブレーキをかけ、立ち止まって振り返ってみることが大切で、これが「自休」の教えだ。
大徳寺中興の祖「一休」、茶の湯を今日の隆盛に導いた「利休」、歴史に名を残したお二方の『休』の文字はこの「自休」からとったという。はてほんとうだろうか。
***
書院の前の池泉回遊式庭園を眺めている。無粋なことにカメラが禁止という・・・あるいはこちらが無粋ということなのかもしれない。カメラなんかを構える暇があるなら、自休せよと。
それにしても静かである。
静寂ではなく、静謐!
またまた煩悩の火が燃えて、「静謐の景」などという写真集をものしたいなどと思いはじめる。
(つづく 2014年11月)
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鷹峯常勝寺の秋
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秋深し青竹に黄の常勝寺

下部を注目
まん丸ではありません?
吉野窓 |
<1778> そうだ、錦秋の京都 (9)鷹峯常勝寺
寂光山常勝寺は光悦から土地の寄進をうけた。
光悦が帰依した日蓮宗・身延山久遠寺から、日乾(にちけん)上人を招いて開創した。光悦寺、源光庵からすぐ近くにあって、たいていの観光客は三寺をまとめて訪ねる。
秋の常勝寺庭園は色彩豊か、とくに竹林に映える黄や赤が印象深い。
***
朱塗りの山門を吉野門という。
命名の後ろに伝説の名妓の存在がある。
夕霧太夫、高尾太夫とともに寛永の三名妓、天下随一の太夫(たゆう)と謳われた吉野大夫が寄進したことによって“吉野門”と呼ばれるようになった。
開山の日乾上人に帰依していたというのが寄進した理由のようだ。
この方はただ美しいというだけではなかった。学問にも優れ、和歌・連歌・俳諧などの詩歌もこなし、書道・茶道・花道のほか香道・囲碁・すごろくも極めたという。歴史に残る“才色兼備”と言えるでしょうか。
“香道”などという道をご存知ですか?細かな木っ端をくすぶらせて、その香りをかいで当てるお遊びですな。“聞香”などという言葉があります。“もんこう”と読む。中国茶の世界でもよく聞きます。茶の香りや香木の香りは、嗅ぐのではなく、“聞く”のですね。
ビャクダンとかジャコウなどという香木が登場します!
話が逸れました。さだかではありませんが、この方は天皇にもお目見えが叶ったとか・・・?
***
以上の理由があって、すでに島原では廃止された島原太夫道中が、この地に残ることとなった。
今では4月の第三日曜日に『吉野太夫花供養』と称したイベントが開催されて、あの、うち八の字を書いてしゃなりしゃなりと進む太夫を見ることができる。
光悦寺から常照寺までわずか300mの距離を、太夫にふんした女性が禿(かぶろ=かむろ)や男衆を引き連れて、華やかに進む。どうせ見るなら夜のほうがいいと思うのだが・・・。
話が後先になった。“太夫(たゆう)”といえば江戸では吉原、京都においては島原(嶋原)が彼女たちの活躍の場、仕事の場で、いわゆる遊女の最高位をあらわすことば。
吉原の高尾大夫を紀伊国屋文左衛門と鈴木清風が争ったなどという面白話が伝播しているので、京都においても恋のつばぜりあいはあったに違いない。
天皇家のお忍びはあったのだろうか、などと邪推したくなる。そうでなくても位の高い貴族や武家が客として上がった。
結果として、豪商で時の町衆の代表的文化人の一人である灰屋紹益が吉野を射止めた。寛永8年(1631年)、26歳の時、しかしながら美人はつねに薄命である。12年後の寛永20年8月25日(1643年10月7日)に死去、38歳であった。
***
紅葉を求めて本堂の裏手に回った。
吉野太夫の墓がある。
その手前にささやかな茶室が立っていた。なかに吉野窓と称した障子の窓がある。円相を描いているのにどこかが違う。真ん丸ではないのだ、写真のように下部が少しだけ欠けている。
人間に完全はない。満つれば欠けるのが必然。
どうやら吉野太夫が何やら囁いているようである。
「ねえ旦さん、ようきばって京都へおこしやした。しやけど人生に満足したらあきまへんえ。これからもようけい頑張っておくれやす」 と。
(つづく 2014年11月)
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花魁や秋の花にも神宿る
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<1777> そうだ、錦秋の京都 (8)鷹峯源光庵(2)
心配した通り、隙をみた石田三成は挙兵する。そのとき伏見の徳川軍は、鳥居元忠(1539〜1600)以下1800人が籠城していた。一日でも多く三成の進軍を食い止めるのがかれらの役割で、はじめから死ぬのは覚悟のうえ。鳥居元忠は家康が駿府の今川義元のもとに幽閉されていた幼少のころからの忠臣であり、酸いも甘いも一緒に経験してきた兄弟のような存在だ。
元忠は13日間の攻防の末に憤死した。戦国時代の忠節話は数えきれないほどあるなかで、元忠はその後ずっと、『三河武士の鑑』としてたたえられた。
これが血天井にかかわる逸話。
もう一人この戦争の犠牲になって後世に名を残した方がいらっしゃる。
その名は、明智光秀の娘・細川ガラシャ(1563〜1600 =明智珠)、夫の細川忠興も家康の会津攻めに参戦していて、留守中に三成が動くことを悟っていた。
「もし自分の不在の折、妻の名誉に危険が生じたならば、日本の習慣に従って、まず妻を殺し、全員切腹して、わが妻とともに死ぬように」と言い残していた。
彼女の辞世が残っている。
散りぬべき 時知りてこそ 世の中の
花も花なれ 人も人なれ
8月24日没、享年37歳。
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源光庵の本堂に「悟りの窓」といわれる丸い窓がある。
みなさんむずかしい顔で、窓に向かって正座していらっしゃる。何を考えておられるのか、どうせたいしたことは考えていないでしょうに、オッと、口が滑りました、お許しください。
臨済禅の“円相”といえばすぐに思い出すのは、臨在“中興の祖”といわれている白隠禅師の書いた「一円相」。白隠は円相を何枚も書いているかと思うが、細川家の秘宝のひとつを見せてもらった。
その真理について、『円は宇宙』、『円は悟り』、『円はあなた自身』、『円はあなたの心』、『体の中でうごめく邪心』などと読める。しかし軽々しくは言えないことで、「正解は無い」。禅宗の“公案”にちかいものでしょう。
「自身の心に素直であればよい」 などと優等生的な答えは聞きたくないですね。
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もうひとつ隣りに、四角い窓がある。
ごつごつした人生の来し方をふりかえって、「反省をしなさい」という。
まじめにやりたい衝動にかられた。
静寂に囲まれて3時間も瞑想すれば、半分居眠りすることは仕方ないとしても、最後には慙愧の涙が出てくるかもしれない。
あれやこれを考えるのが“色”、さまざまが去来するなかで思い悩むことに疲れて何も考えられなくなる。それが“空”。
歳をとったら疲れやすくなる。すぐに頭がぼーっとして難しいことはどうでもよくなる、すなわち“空”。
年齢だけは“色即是空”に近づきつつあるが、充分に休息をとった後に元気を取り戻せばたちまち煩悩の火がめらめらと燃え出し、“色”の人となる。
これがコントロールできるようになって初めて“円”に近づくのだろうか?
それにしても源光庵は人が多くて、瞑想どころではなかった!
(つづく 2014年11月)
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鷹が峯 源光庵
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<1776> そうだ、錦秋の京都 (7)源光庵
今年の秋のJR東海のキャンペーン「そうだ、京都 行こう」は、はじめて源光庵に「大当たりー!!」。
このキャンペーンは春秋に企画されて、これまで清水寺、蓮華寺、常寂光寺、伏見稲荷大社、銀閣寺、円山公園、祇園、祇王寺、金閣寺、法然院、醍醐寺、青蓮院、嵐山、南禅寺、東寺、大覚寺、妙心寺、広隆寺、正伝寺、大徳寺(高桐院)、哲学の道、仁和寺、詩仙堂、相国寺、東福寺、知恩院、勝持寺、大徳寺(黄梅院)以下省略・・・・・・・など順番に、典型的な京都の観光資源に光が当たってきた。
暇にまかせて、これまでいくつ行ったのだろうかと数えてみたら37〜38あった。まだまだ志(こころざし)半ばというところで行きたいところは山ほどある。えっ「志ってなんだ?」って?
そうですね、御朱印をたくさん集めてカンのなかにでも入れてもらいましょうか。
「地獄の沙汰も金しだい!」といいますが、閻魔さまも御朱印に書かれた如来さんや菩薩さんをご覧になれば、「こりゃあかん!」と天国への道を開けてくれることでしょう。
***
やっと源光庵の話。
毎年ターゲットに決まるとテレビや新聞・雑誌への露出が圧倒的に増えて、知名度が一気に高まる。観光客もどっと押し寄せてきてもともとのファンにとって我慢の日が続く。
いやな言葉だが、“犠牲”になって荒らされる。
わたしが感じた不満は二つ。
その一つは、混雑のための事故を予想してか、今年のこの時期だけカメラ撮影が禁止になったこと。正直言って、普段はここに人が入るとも思えない。秋の紅葉にしたって他の寺社のほうが、よほど迫力がある。なのに、どうして・・・?
もう一つついでに。朱印帖に墨書してもらおうとしたところ、「忙しくて、あらかじめ書いたものでよろしいでしょうか」 と大寺院のようなことを言う。だから止した。
係りの方はこの混雑にも金儲けにも慣れていないのだろう、頭を下げ下げ、「申し訳ありません・・・」と謝るばかりで、こちらが気の毒に思うほど。
で、源光庵の話題も、世に流布されているなかの二つを。
***
源光庵は南北朝の動乱が激しさを増しつつある貞和2年(1346)、臨済宗大徳寺派により開創、江戸中期の元禄になって同じ禅宗の曹洞宗にあらたまった。
まずは天井。
本堂内の天井は伏見桃山城の血染めの床板を移したもので、“血天井”として世に知られている。天井が真っ赤な色をしているわけではないが、400年と少し前にその事件は起きた。
関ヶ原前夜の慶長5年(1600)、家康は西(豊臣)の騒擾を予測したうえで会津の上杉攻めにかかる。十分な余裕があったわけではなく、家康にとっては政権をかけてのぎりぎりのカケでもあった。
(つづく 2014年11月)
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光悦寺散紅葉にも命あり
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巧み群れて光悦垣を結う冬日

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<1775> そうだ、錦秋の京都 (6)鷹峯光悦寺−2
以前から、光悦さんのずば抜けたプロデュース能力のことを、もっと知りたいと思っていた。きっかけは会社で営業から宣伝の仕事に転じて数年間、企画プロデュースに携わったことにある。
凄腕のアートディレクターやコピーライターと接して仕事をすると、自然にそういう問題意識が生まれる。
すこし横道にそれるが、近世における名プロデューサーとしてわたしは次の三人を挙げたい。広範な学問に精通し自らも絵を描き俳句を詠み戯作もこなした“平賀源内”がまず一人。江戸吉原に生まれ細見(遊女のプロマイド)を編集、浮世絵では歌麿や写楽を世に出し、曲亭馬琴や十返舎一九の後押しもしたという“蔦屋重三郎”がその二。三人目がこの方、本阿弥光悦だ。
とくに斬新な発想とそれを表現する手法について、光悦は貴重なお手本となった。
当時からすでに20年が経っている。
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卑近な記憶は6年前の東博の『大琳派展』だろうか。
「いずれがアヤメかカキツバタ」という世紀の大作がずらり勢ぞろいしたなかで、大方の注目は俵屋宗達・尾形光琳・酒井抱一という琳派を継承する三者が描いた『風神雷神』三作品にあった。しかしわたしは鶴というモチーフが反復する『鶴下絵三十六歌仙和歌巻(わかかん)』に惹かれた。
宗達の自在に遊ぶ筆によって数えられないほどの鶴が、高く、低く飛翔する。
金銀で塗られた宗達の鶴に調和して、こんどは寛永の三筆・光悦の漆黒の墨文字が、太く、細く、軽やかに躍る。二人の名人のダイナミックなコラボレーションがここに実現した。何というレベルの高さよと、素直に驚いた。
そして昨年、御所の西に『楽美術館』を訪ねた。
利休の侘茶を焼き物で支えた、楽長次郎の館だ。
楽家代々十五人の一子相伝の茶碗がずらりと並ぶなかに、一寸も引けを取らない光悦の茶碗を見つけた。楽家の二代常慶、三代道入と交わってその製法をわがものにしたようである。
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もともと本阿弥一党の住まいは小川通りの上立売の西の一帯にあり、「本阿弥辻子(ずし)」と呼ばれていた。
「花の御所」と称えられた室町幕府に隣接する土地で、近くには狩野派絵師の狩野元信の屋敷があり、また利休を核とする茶の湯の世界もここにあり、ひとつの芸術発信基地になっていた。
しかし秀吉が没したのち、家康は光悦に、洛北・鷹峯(たかがみね)に土地を与え転居を命じた。 “洛外追放”を思わせる。
おそらく家康から江戸への移住を指示されて、それを断った結果なのだろうとわたしは推測する。そのためか、光悦は子孫に対して「江戸移住禁止!」のことばを残した。
「関東のご憐憫、われわれが親族ども残らずこうむり奉るといえども、いつまでも王城に住居して、ご用向きの節は出府仕るべく、けっして江戸表へ引越しの儀、ゆめゆめ有るべからず」
江戸に住むことはまかりならん、といっている。
家康にしてみれば、「鳴かずんば、鳴くまで待とうほととぎす」の気持ちがあったのかもしれない。
以上はわたしの単純な推測でまるっきり間違っているかもしれない。実際は世間に流布されているように、日蓮宗の熱烈な信者である光悦の反逆や、御所との強い結びつきを恐れたのかもしれない
***
光悦寺は光悦の死後に寺とされ、紅葉の名所として知られるようになった。
境内には7つの茶室があり、奥に光悦の墓がある。
斜めに竹を組んだ光悦垣は光悦の意匠で徐々に背が低くなり、奥行きが有るように感じさせる。
紅葉目当ての来場者は引きも切らずやってくる。
赤と黄色と緑の三原色が織りなす景は秀逸であった。
(つづく 2014年11月)
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蒸し苔に紅葉かつ散る光悦寺
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光悦寺参道 |
<1774> そうだ、錦秋の京都 (5)鷹峯光悦寺−1
昨夜は一日目ということで、年甲斐もなくはしゃぎ過ぎて、ホテル戻りが深夜の2時。
ゆっくり起きて一膳飯屋のブランチを食べて12時半、四条大宮からバスに乗る。コマーシャルで話題の鷹峯“源光庵”前バス停で下車した。
降り立ったバス停の細い道路に、周遊するこのバスで次の目的地に向かおうとする客があふれていた。
それはそうだ、もう1時を過ぎているのだから、紅葉拾いは佳境だろう。
普段は人影とてまばらな鷹峯(たかがみね)に突然関東言葉があふれて、良質な野菜を生産する農家の皆さんもさぞかし驚きのことだろう。
バス停からは今バスが上ってきた千本通を見下ろせる。タクシーが直線の行列を作って押し寄せる姿が壮観だ。
聞きしに勝る「そうだ、京都 行こう 源光庵」 のキャンペーンの威力よ!
***
まず光悦寺に向かう。
庭園へのアプローチ(参道)からして、驚いてしまう。
両側の紅葉がほど良く色づいてハッとするようなプロムナードを作っている。カメラマンはさっそく自慢のカメラを取り出して上を向いてカシャ、下を向いてカシャ、カシャ!
寺の入り口で入場料を取っていたのはこの時期だけの学生アルバイトだろう。軽口をたたきながら仲間同士でじゃれあっている中のひとりに、ちょっと意地悪な質問を試みた。
「ねえ、光悦さんは、家康からこの広い土地を賜ったというけれども、どうしてだろうか?」
間髪を入れずに返事があった。
「きっと、仲が良かったのでしょう」
「うーん、いい線いっているけど違うだろうね」 とわたし。
何が正しいか、歴史家たちがいろいろと考証しているようだが、のちほどわたしの想像を。
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目先を変える。
美術や工芸、芸能の技によって室町幕府に仕える人たちを同泡衆(どうぼうしゅう)といった。
剃髪法体(ていはつほったい)することで高貴の席に出ることを許された。
かれらには『・・・阿弥』の名がつく。
そういえば家康の祖先親氏(ちかうじ)の放浪時代に『徳阿弥』を名乗っていたね!
いっぽう、刀剣の鑑定や“拭い”、“研ぎ”の技を家職としていたのが本阿弥家だ。本阿弥家八代の光心(こうしん)の代になると刀剣の分野で市場を独占するようになる。そして、その子の光悦がすごかった。
二代秀忠の刀剣の世話をするばかりでなく、さまざまな分野に能力を発揮して、芸術の作者としてまたプロデューサーとして華々しい活躍を始める。
角倉素庵や俵屋宗達と提携して製版印刷した古典文学の書籍は“光悦本”と呼ばれ、人気を博し、また琳派の創始者のひとりとしても重要な役割を果たした。
加えて茶道においても古田織部、織田有楽斎に教えを受け、また千家三代の千宗旦とも深く交わって奥義を極めた。
***
バスが到着すると団体客が吐き出され、境内(という雰囲気ではないが)はたちまち姦しくなる。
「女性がたくさんいると賑やかでいいですねえ」 などとゴマすり小父さんの声が聞こえる。
(冗談じゃないや、もちっと静かにしてほしいや)静寂を愛する男子は口に出せない。
概して外国人(欧米系)は丹念にウォッチ(watch)し、日本人はさらっとシー(see)のみ。
興味関心の違い、あるいは問題意識の差だろうか。
ここには光悦垣と呼ばれる竹垣がある。もともと鹿の侵入を防ぐためにできた垣根に、光悦先生のデザイン性を加えて完成したものだが、竹の曲がり方や結び目の細部をしげしげと眺めるのはたいてい欧米からきた外国人だ。
さて、我が友のカメラマンは良い写真が撮れただろうか・・・。
(つづく 2014年11月)
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南座や顔見世近く灯り増す
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<1773> そうだ、錦秋の京都 (4)祇園やすかわ-2
二日目の夜9時を過ぎて、またしてもこの店の暖簾をくぐった。
夕食の店で期待に反する“肩すかし”をくったせいか、大きな声では言えない不満がたまっていた。
カウンターの内と外でも今晩のお高い晩餐のことに話が及ぶ。
「どんなお食事でした?」 とWちゃん。
「うーん、今一つでしたねえ」 とカメラ画像を披露すると、「そうでしたかぁ」 と気の毒がっている。
板前のM君が、「後学のために見せてください」 と律儀な口ぶりで割って入ってきた。
「ゴマ豆腐はあのお店の名物料理ですよね!」 「うん、それはまずまず」
「お造りはどんなんでした?」 そのへんに一番の関心がありそうだ。
「瀬戸内海の鯛とミンマイのまぐろ!」「ミンマイがわからなくて、この方が若い仲居さんを問い詰めていました」 とわたしを指している。
「あと、なんとか“しんじょ”が出ていましたね」「うん、そうだね」 もうどうでもよくなった。
「焼き物は?」と板前のM君。
「焼き物はいつ出るのだろうかって言っていたら、最後に出てきてね。ご飯の膳に一口で食べてしまいそうなやつ、親指の先ぐらいのサワラがちょこっと乗っていたね」 「いやー、ほんまですか」 といかにも気の毒そうで、しんみりとした雰囲気になった。
グルマン氏はいかにも腹をたてたような口ぶりで、「手間ですけど鯛を焼いてください」 と注文する始末・・・生まれ故郷の明石の鯛を想像しているのでしょう、まったく大ぐらいなのだから。
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隣に座ったご夫婦が恐ろしい話題に熱中している。
「あの女・・・」 とは保険金目当ての殺人と、巷で話題になっている女性のことである。
「彼女は間違いなくやっている、しかしだまされる男も悪い!」
事件が解決して犯罪が公になったわけではないから、滅多なことは書けない。
小金を貯めても使い道を知らない孤独老人が増えているのが、現実だ。そこにつけこんで犯罪を計画するのは鬼畜に等しい。断じて許されるべきではない。
しかし、嘘でも本当でも、一人暮らしの哀れな男が死ぬ時だけは幸せに死んでいくならそれでいいじゃない!という意見もある。
女将からは「ほな、みなさんはだまされんようになぁ」 と締めが入った。
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浅草育ちのプロカメラマンから、三年越しの無理オーダーが入った。
「ねえ、チクワブはないの?」
「いやあ、あんなもん、よう食べへんわ」 とはWちゃん。
実はこの翌日にごいっしょした両国OBのKさんからも、「チクワブはないの?」の言葉が発せられた。わたしもおでんのチクワブは好きだ。
しかし無いものは無い!
このあと、「ねえ、肉じゃがの肉は牛ですか、豚ですか?」 の質問が投げられた。
この答えも明瞭で、「関東は豚、さっぱりと豚がいいですよ」 これに反して「西は牛しか食べません」となった。
食文化の東西格差は確かにある。しかし、「江戸は食べ物がおお味で粗末、京都は品の良い薄味しか食さない」 などという結論は避けたい。
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店に入ってすぐに気付いたことがあった。
左奥の三人連れの小上がりで和やかに談笑されている方が、あの方にどうも似ている、いや間違いない。失礼にならない程度に注視してみると、いつものように渋い召し物を着流している。京都住まいでもあり、テレビや雑誌の対談やNET画像もこのいでたちだから、間違いない!
女将はあとのお二人とは旧知の間柄のようなので、「(もうひとりの)あのかたは日本の宗教学者としては第一人者」と伝えておいた。
こちらは入口ぎわのカウンターに居座り、そのうち話に夢中になって忘れてしまった。
ふと気がつくとご老体が立ちあがってお帰りになるようだ。
すぐ近くを通り過ぎようとしたときに、声をかけてみた。
「たいへん失礼ですが、山折先生ですね。いつもご本を読ませてもらっています」
「いちど大津の三井寺のイベントでお世話になったことがあります」
ご老体はすぐに察して、穏やかなことばを返してくれた。
それだけのこと。山折哲雄氏であった。
(つづく 2014年11月)
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夕闇がせまる

小堀遠州作
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<1772> そうだ錦秋の京都 (3)曼殊院門跡
曼殊院は700年代の末に伝教大師最澄が開創した。比叡山の西塔北谷にあって東尾坊(とうびぼう)と称した。
平安時代の12世紀初めに呼称を曼殊院に変え、現在の地に移ったのは江戸開闢からしばらく経った1656年、後水尾天皇(1596〜1680)の猶子・良尚法親王のとき。
後水尾(ごみずのお)天皇といえばその妻は徳川秀忠の娘和子(のち東福門院)で、家康の意図、悪く言えば差し金によって入内(じゅだい)が実現した。言ってみれば大変な荒療治が断行され、天皇側近の処罰や愛人の追放などを強要している。
天皇の失権を暗示する歴史の一つのイポックとなった。
若くして譲位した後水尾は晩年、後継を産むことのできなかった和子と平和に過ごしたというが、その場所こそ、曼殊院の北にある“修学院離宮(1655年造営)”である。
年代を比べてみたときに、修学院離宮造営の翌年、曼殊院が現在の地に移ったということになにか意味がありそうだ。
***
曼殊院は天台五門跡のひとつ。門跡(もんぜき)とは皇族の子弟が代々住持となる別格寺院のことで、白い寺壁に五本線が引かれている。
天皇家に生まれて天皇位を継承できるのは直系男子ひとりのみ。五人も兄弟がいたら残りの四人はどうなるのかと言えば、このように門跡を継いだり、他の皇族にユウシとして出されたりということになる。かつて嵯峨天皇の何十人も生まれた子女について、「臣籍降下」という英断をして財政問題を切りぬけたことを書いた。
後継男子が誕生しないのも困るけれども、数が多いのも困る。上から下まで人はすべからく中庸がいいということでしょう。
***
書院に上がった時には紅葉した木々のうえに湿った空が見えた。
入ることができたら勝手なもので、(はやく暗くなってライトアップしてほしい) (夕飯の約束に遅れたくはない)というわがままがあらわれる。
夜間拝観を目当てに客の数は徐々に増え始めて、やがて灯が点いた。
わが、プロカメラマンはあちらこちらと歩きまわる。そのアドバイザーが、「そうじゃなくて、これを入れて撮ったほうが立体感が出る。あの蛍光灯を入れたら、写真そのものがオジャンになる」 などと煩い(五月蠅い)ことを言っている。
庭は小堀遠州の枯山水。
コンパクトにまとまった枯山水は手入れがよく行きとどいている。庭を見るのに飽きて館内を一回り、廊下や壁、ガラス戸、障子、天井にいたるまで清潔で塵ひとつ見られない。
菊の紋に天皇家を感じ、『古今和歌集』の写本を眺めていると「そろそろ引き上げようか」 の声がかかった。
***
暗くなった帰り道、夜の永観堂に寄り道をしてみた。真っ赤に燃える夜の紅葉はたしかに人間の欲望をそそる。年甲斐もなく血が騒ぐ。
それにしても何という人の群れであることか。
次々と観光バスが観光客を吐き出す。暗がりの中に入館のための長い行列ができた。
「さすが、秋は紅葉の永観堂だ!」
「でもこの行列に並ぶ気はしないね!」
「帰りましょう」
(つづく 2014年11月)
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<1771> そうだ、錦秋の京都 (2)祇園やすかわ
おでん『やすかわ』には、常連というだけでは説明できないほどのご好意をいただいている。
こちらが東京から出向いて行って、滞在中は、毎晩のように立ち寄るのは事実。祇園の夜を「こうやって楽しみたい」 という相談を持ちかけると、女将はかならず答えてくれる。今回も後述するが、一つだけそれをやった。
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この方(女将)の代になって、芸舞妓の置屋からおでん屋に衣替えした。界隈にそういう店が多くみられるのは理由があるからだろう。
いっとき不景気の波に洗われて客が減ってしまったのと、芸舞妓のなり手がなくなったときに苦肉の策として業態を変えたのかと勝手に思っている。あるいはご両親の遺言であったりと・・・。
この町で生まれて町の小・中学校に通いながら育ってきただけに、界隈に同級生も多い。しかも普通の町と違って、いうなれば祇園という閉鎖された結界のうち。互いの切磋琢磨、平たく言えば競争をしながらも共通の利益を損なわないという暗黙の了解がある。
当然、「祇園のぬし」としての上質な情報をお持ちになっている。こちらはそれを、わずかな飲み代で絶えずもらい続けている、というわけだ。
店は普段から常連客でたいへん賑わっていて、カウンターが独占される。
6時、7時、8時ごろまではてんてこ舞いの忙しさだから、のこのこ入っていったら迷惑をかけてしまう。したがってわたしたちが店に入るのはたいてい午後10時を過ぎてからで、日付が変わるまで居座ることも珍しくはない。すでに食事を済ましているので腹を満たす必要はない。
豆腐や大根、牛筋を熱燗でいただく。この豆腐が、「さすが京都!」という美味しさなので欠かさず頼んでいる。
それに加えて、腹具合によってサバ寿司を切ってもらう。これがまた美味だ。深夜にもなれば腹も減る、夜食のようなものだ。
なんだか食べてばかりいるようで気が引ける。
そうして、「一元さんお断り」の界隈で新しいお店を紹介してもらって、明日の予約を入れるという算段だ。
これだけで互いの信頼関係を維持しているのが不思議なくらい、世間でこういう関係ってざらにあるようには思えない。
***
この日は珍しく、早い時間からやすかわさんで食事をすることになっていた。
高知に去った前田兄ご夫婦が京都の親せきを訪ねる予定を、わたしたちの京都旅に合わせてくれたという経緯があった。
そこにこちらの友人の男女二人が加わって、都合8人の大宴会だ。
直前まで京大病院に入院されていた、われらが都の水先案内人・ゴローさんもかけつけてくれた。お顔の色から回復に向かっているように感ぜられたが今が大事、みなさんから「我慢しなさいね」というエールをもらって威儀を正していた。
旅においてもこういった、裃を脱いで和気あいあいの水入らずで飲み食いしている時がいちばん楽しい。
「健康が大事、ゴローさん、回復したら盛大にやりましょう!」
***
祇園界隈の料亭や小料理屋では学生アルバイトが多くはたらいている。みな一流大学の学生だ。
やすかわさんの京大に通う女性二人とはすでに面識がある。満員御礼のこの時間、M子嬢も大忙しだ。
明るくて素直、能ある鷹は爪を隠して懸命に働いている。
さりげなく声をかけてみた。春の”みやこをどり”の際、偶然切り通しのタリーズの前で会ったことを覚えてくれていた。手土産が無駄にならなかった!
さて宴がお開きになって、女将に相談した。
「H氏が、歌が歌いたいといってまっせ。どこかいい店はありませんか!」
「そうやなぁ、S子はんとこ、どないやろか、すこしお待ちおす」
すぐに先斗町の同級生の店に電話を入れてくれて、OKがでた。
「ほな、これからうかがいますよって、よろしくお願いどっせ」
夜も遅いのに、ふたたびエンジンをかけてスタートする熟年男たち、ほどほどにしなさいね!
(つづく 2014年11月25日)
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火の如し楓紅葉や夜の門
永観堂山門
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<1770> そうだ錦秋の京都 (1)新幹線で
こう断言してしまうのに多少の躊躇はある。しかし老人が京都に向かうのには必然性がある。
年をとった人間が、風雪に耐えて年月を重ねた町に魅力を感じることに疑問の余地はないのだから。
逆に若者たちにとって京都は、末香くさい陳腐な町に見えるかもしれない。かれらにとって、沖縄の離島の、完璧なまでに青い海や白い砂、あるいは新たに誕生したエンターテイメント・リゾートに、より魅力を感じるのは自然なことだろう。
「そうだ 京都、行こう。」
このキャンペーンが京都に人を誘い込んだ。
パリやロスにちょっと詳しいより 京都にうんと詳しいほうが かっこいいかもしれないな。
外国のビジネスマンって、けっこう京都のことをよく知ってたりするんだよな。
キャンペーンの最初はこうだった・・・そしてこんなのもあった。
一年なんてアッという間に過ぎていく。
それじゃいけない。
ホーッ‥‥京都の紅葉が、ゆっくりとため息をつかせてくれました。
意識したことはない。しかし影響されている、いや洗脳されているのだろう。
そうしてこの秋も錦秋の都にでかけることになった、いつものメンバーと一緒に新幹線で!
***
あとすこし、日本人と旅について深堀りをしてみよう。
古来日本人は旅が好きだった。
野宿しても凍死しない気候が一役買っているし、どこでも生水が飲める。狩猟漁労も可能だ。それに「いまは山中、今は浜」と唱歌に謳われたように景観の変化を楽しめる。
とはいうものの古代の旅は、多分に呪術的な色彩があったのだろう。
神の島や、神の貴石を求めて、などという・・・その延長線のなかに熊野詣や伊勢参り、四国をはじめとしたお遍路、はたまた東海道五十三次の旅があった。
日本の旅は双六(すごろく)のように、ひとつひとつ上がりへ向かう形式が多い。
満願成就への旅。
さてわたしの旅はどこへ向かうのだろうか?
***
四条烏丸のホテルにチェックインするとその足でバスに乗った。
京都駅で今晩厄介になる店への手土産を吟味していたので、思わぬ時間を食った。時計はすでに3時を過ぎようとしている。
「とりあえず日暮れまでの時間で、詩仙堂、曼殊院あたりを見ておこう!」
「途中までバスで行って、あとはタクシーを捕まえれば何とかなるでしょう」
四条烏丸から銀閣方面へのバスに乗る。京都のもっとも混雑する中心を抜けていくので混雑が激しい。それでも祇園を抜けると、走り始めた。
銀閣寺で降りるとタクシーを探す。慌てて乗り込んで運ちゃんに、「・・・へ行きたいんだけど時間は大丈夫だろうか」と尋ねる。
「両方は無理やろうか、時間、大丈夫かなあ」 なんだか要領を得ない。
「じゃあ曼殊院へ行って!無駄になっても仕方ない!」
***
時計を見たらもう4時20分、門前の真っ赤な紅葉に感動している暇もなく、「こりゃあたいへんだ、あと10分で入場制限、走ってみるしかない!」 と哀れな声が漏れる。
しかしこの心配は杞憂に終わった。
「現在は、5時になったらライトをつけて夜の拝観もやっております。他所さんのように入れ替えをするようなこともありません。同じ料金でごゆっくり観ていただけます」 受付の老爺の微笑みはありがたかった。
ダメもとの気分はあった。しかし門跡の曼殊院に第一歩をしるすことができたのはラッキーだった。そしてやっと、一息をつくことができた。
(焦っているように見えますが、三泊四日の京都滞在ですから「流れにまかせればいい」といった落ち着きがありました)
(つづく 2014年11月25日)
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このドラマには魅力的な女性が
お二人登場する

サミーン・ショウ役
高い背遠島能力と
医学の知識を持つ

天才ハッカー・ルート役
現在CSで4話が進行中! |
<1769> パーソンオブインタレスト by AXN
久しぶりに海外ドラマ。
“Person Of Interest” 、直訳すれば「興味ある人間」ということでしょうが、ストーリーの中身からすれば、「特定された(危険な)人物」とすべきだろう。
”犯罪予知ユニット”という副題は的確だ。
公衆電話がリーンリーンと突然鳴って、コンピュータが、このユニットを開発したハロルド・フィンチのもとへ“厄介なperson”の名前を知らせてくる。
すぐに、フィンチのパートナーで、長身でスマートな“背広の男”ジョン・リースが立ちあがって人物調査を始める。
“危険な人物”の現在の仕事関係、過去のキャリア、家族のトラブル、それから女性関係も。調べが進むにつれて迫りくる危険の中身が明らかになっていく・・・。
***
具体的な実生活での例は、こんな具合だ。
当世の世知辛い世の中では何があるかわからない。
夫のDVに悩まされて、いつ家出をしようかと悩む女性。あるいは逃げられた女性の住まいを、出刃庖丁を隠して探している男。逆上するのは男だけではなく、当世は女性だっておとなしくない。
財布のなかに明日の食事代もなく、コンビニに押し入ることを考えている若者。
仕事のトラブルで上司にさんざんいたぶられ、復讐心を高めているサラリーマン。
で、いつそんな火の粉が我が身の上に飛んでくるか、わかったものではない。犯罪予知ユニットはそんな危険を察知して未然に防いでくれる・・・この発想がおもしろい!
***
解決への道筋で、監視カメラや携帯電話などの情報ソーズが威力を発揮する。
たとえば、「2014年8月25日の午後10時、マディソンアベニューの“J.Crew”の前で誰かと待ち合わせをした」という情報が入れば、すぐに町の監視カメラに侵入して状況を確認する。
そこに金髪の美人が現れて二人はセントラルパークに向かって歩きはじめる。さらに二人のあとをつける紳士があらわれる・・・さあ事件のカギを握るこの人物は誰だろう、といった筋書きである。
単純に一言でいえば「諸悪を暴いて鉄槌をくだす」 ドラマなのだが、現代アメリカ社会の歪みやひずみなど、負の部分を暴いて興味深い。
また悪徳警官の組織がからむのが味噌で、ハラハラドキドキと盛り上げてくれる。
このドラマを見る限り、アメリカではたいていの警官は悪人なのかと思ってしまう?
怖いですね、しかし振り返って我が国の官憲はどうなんだろうか!
普段考えたこともありませんが、まじめにやってくれているんでしょうね。
***
犯罪予知ユニッについて開発者のフィンチからのメッセージ。
<我々は見られている。 政府の極秘のシステム"マシン"によって常に監視されている。
開発したのはこの私だ。テロ行為を未然に防ぐためにマシンを設計したが、一般人を巻き込む凶悪犯罪も検知する。 政府には"無用"の犯罪だ。政府は何もしないので、私が防ぐと決意した。我々は当局の目をかわし秘密裏に動く。もしマシンが番号を告げたら、被害者でも加害者でも・・・必ず探し出す。>
情報通の方なら、似たような事件を思い起こすことだろう。
アメリカ社会を騒がせている『no place to hide スノーデンの暴露』だ。
グーグルにしろフェイスブックにしろ・・・・・入手した情報はすべてNSA(合衆国国家安全保障局)に通じている。
考えにくいけど日本だって・・・・同じようなことがあり得ないわけではない。
いまや外出すれば100%監視されているというほど、町中に監視カメラは多い。
知られて困る密会などにはくれぐれもご注意を!
わたしには政府にも、女房にも、知らされて困ることなどこれっぽっちもないから安心だ。
しかしそうでない方、個人情報が簡単にキャッチアップされ権力者のもとに届けられる、こういう危険な世の中になりつつあることは理解しておかないといけません。
(2014年11月7日)
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ラッキョウの淵で
ギターを弾くフチ子さん
写真は
合成ではありません |
<1768> 浅草『さくま』の“フチ子さん”(2)
酒席ではこんな小道具が助兵衛な笑いを呼んで、効力を発揮する。
カウンターに座って堅苦しい話をされているみなさんにも『フチ子さん話題』にはいるように呼び掛けた。なんてったってここは下町浅草、夜の飲み屋で仕事の話は似合わないですよ!
「あ、知ってるよ。このあいだテレビでやってたあれでしょ!」
乗りのいいかたもいらっしゃる。
「ふーん、初めて見たけど面白いねえ」 にやっと笑って相槌を打つ御仁。
近頃は女性の居酒屋進出がめざましいけれど、観音裏にまでは、丸の内のエリート女性たちはやってこない。この日のカウンターは男たちが居並ぶ、女性がいたらこんな話はできない。
たちまち「セクハラ!」と訴えられてお縄となる・・・。
***
浅草の『さくま』さんで飲んでいて話題ががらりと変わった・・・アカデミックに。
「このかたはプロの絵描きさんです」 トイレに立った友の一言がおねえさんとのコミュニケーションを劇的に変えた。わたしではなく、もう一人の連れのこと。
「巨匠です」 などと勝手に持ち上げる。
酔いのまわりつつある連れも、「まあね!」などとまんざらでもなさそうに相槌を打つものだから、さっそく美女2(two)が反応した。
「まあ、先生ですか。日展なんかにも出品されてるんですか?」 と興味を示した。
「・・・じつはウチの妹も絵を描いていて50号とか70号とか大きな絵を(なんとかいう有名な)展覧会に出展しているんですよ。このあいだ一枚売れたんです。先生はどんな絵を描かれるんですか?」
だんだん誤魔化せない雰囲気になってきて、深みにはまっていく。
さて、どうかわしたのか・・・ご想像にお任せしたい?
***
同行の友が絵描きという話は全くのでたらめということではない。
学生時代は芸術大学でデッサンに打ち込んだ。
「絵画はデッサンから始まる」とはよく聞く言葉だ。来る日も来る日もデッサンに明け暮れるのが絵描きを目指す美学生の日常。
花瓶一つも、美女の裸も同じ“対象物”。その対象を見たままに表現する訓練だ。
同じ対象を何回も書いていると理解が深くなる、というより対象についてあれこれを考えるようになる。
そうそて鍛錬を続けると目に見える部分だけでなく、目に見えないコアもというべき核心が見えるようになる。そうなれば本物、そうなって初めて、良い絵が描けるようになるということだろう。
心眼で見る、という話を思い出した。
断っておくが、美女2(two)を相手にそんな難しい話をしたということではない。
***
そろそろ八時半が近付いてきた。
これからショータイム・・・いや、彼女たちの飲みタイム。
馴染みになったばかりに長居をしてしまったら顰蹙を買う。この辺が潮時だ。
(おわり 2014年11月5日)
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円形の鉄棒にブラさがって体操をしているようにも見える
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そこまでして
生酒を飲まなくても・・・

ウワーッ! |
<1767> 浅草『さくま』の“フチ子さん”(1)
「美人三姉妹!」 と紹介した、浅草の居酒屋“さくま”に裏を返しに・・・。
仕事帰りの地下鉄の中で、先行するお二人から「もう店に入ったから、はやくいらっしゃい」 と催促のメールを受けた。
浅草駅の改札を潜りぬけて地上に出ると目の前に神谷バーがあった。そこから雷門方面を避けて馬道通りを選ぶ。まっすぐ5分ほど歩いて言問通りに行き合うと左手に赤黄色のネオンが目に入り、遠目に「さくま」と書いてあるのが読み取れた。時間はジャスト午後7時。
いつも混んでいる店に申し訳ないけど、カウンターの中ほどにひとつだけ、わたしを待ってくれる席があった。すでにビール瓶が何本か抜かれて、先達はいい気持ちで盛り上がっている。
遅ればせながらわたしも急ピッチで追いすがる。
***
二人はなにやら小さなプラスチックのフィギュアで遊んでいる。
掌に乗っているのは、ブルーの制服をまとった妙齢の女子社員のようだ。それが三人も、それぞれ特異なポーズをしていらっしゃる。彼女たちをビヤタンブラーの淵に乗せて尻を撫でている御仁。まるっきり欲求不満の、中年管理職の図。
昼間のスイッチオンのままの堅い頭には違和感しかないが、それもつかの間、アルコールが侵入しはじめて理解のスピードがずいずいと速まって、さっそく反応した。
「うん、おもしろい!」 これが直感。そして、
「ところでそれはなーに?」 と。
かれらは早々に浅草入りして、持て余した時間にロック(六区)に立ち寄った。「そこのドンキホーテで、興に乗って買ってきました」 と。
「いま流行りの“コップのフチ子さん”ですよ、これが! 知らないの?」とおっしゃる。民放を見ないわたしには初めての出合いだ。
「子供たちがやっている“ガチャガチャ”で買うのですよ。ひとつ200円です」
なに?ガチャガチャ?
そういえば孫たちが騒いで集めていた、“妖怪ウォッチ”というのがあったなあ。超ド級の人気とか聞いていた。それの大人版か!
***
お二人の残りもののつまみで少しばかり腹の虫を癒してあげた後、“煮込み”を頼んだ。
このスジ肉がトロッと柔らかくて、思わず「美味しい!」と唸ってしまった。
カウンターの中から美女2(two)が、「美味しい?あーらよかった!」と呼応してくれた。
こういう場所ではこういった会話が大切で、それをきっかけに話がつながっていく。
大事にしてもらえるか軽くあしらわれるかの分かれ目、同じお代を支払って飲むなら、大事にしてもらって楽しくやるのがいい。
話の接ぎ穂は“フチ子さん”だ。
“フチ子さん”のことを直感で「おもしろい!」といった。「よく考えているよね。アイデアが素晴らしい。マーケティングの原則を踏まえている」
などといいながら新しいパッケージを開けると、なかからいやらしくない“クローバー”のフチ子さんが出てきた。
「あら、それが可愛いわね!」 と美女2(two)がおっしゃる。じゃあ、ということで、いっしょに飲み始めた彼女のコップのフチにクローバーのフチ子さんを置いてみた。
「うん、いい、いい」 と美女2(two)が喜びの表情。
「お気に入りでしたらさし上げますよ」 と友のひとり。
「わあ、ありがとう!」
***
さて、これでわたしたちは常連の仲間入り。次の機会には“クローバーのフチ子さん”ですぐに会話が始まる。たったの200円、安いものだ。
さてさて、相手の美女2(two)さんにとっても、(しめしめ、これでかれらはまた来てくれる、男は単純なものだ) というしたたかな商魂がある。店が繁盛するゆえんである。
さてさてさて、このだまし合いはどちらに軍配を上げていいものやら・・・?
(つづく 2014年11月4日)
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近くのスターバックスは書斎代わり
落ち着いて本が読めます
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<1766> 開店した喫茶レストランの姦しさ
女性が二人だけならさして気にもなりません。
それが、三人集まると途端に耳をつんざくような雑音になってしまうのはどうしてでしょうか。
女 三人で姦しいとはよくいったものです。
数学的論理で言えば、3÷2=1.5 だから1.5倍のさわがしさなら我慢もできます。しかし実際には2の三乗=8倍もの大きさに増幅するのが現実でしょう?
近くで本でも読んでいようものなら、読書の進行度は2のマイナス3乗にまでペースダウンしてしまいます。
女性もいろいろで、感情もあらわにミーイズムを発揮されるかたもいれば、自身のやさしさをわきまえてこちらに気を使ってくれる方もいらっしゃる。最近は後者が増えてきているように感じて、うれしく思います。(ほんとうにそうかい?)
***
夏のあいだ冷たいものは“スターバックス”と決まっていました。若い店員が礼儀正しかったのと、“抹茶フラペチーノ”にはまったからです。
それまで謹厳実直に「レギュラーコーヒー!」一本だった頑固爺さんが、笑くぼさんに「フラペチーノはいかがですか」と誘われて、それがどんなものか知らないのに、知ったかぶりをして頼んだのが発端です。
どんな飲みものか、って? 抹茶にミルクとシロップを加えて氷をくだいてミキシング、カップに移して生クリームを載せて出来上がりです。テニスの後の火照った体に甘くて冷たい飲みものは癖になりました・・・。
我が家の近くのスタバは、大人の喫茶店。
パソコンを持ちこんで作業に熱中するアラサー世代、受験勉強の大学生もいらっしゃるし、わたしのように「今日は何ページまで」と決めて本を読む輩も多い。
そんな雰囲気を理解しているのか、女性の二人連れの会話もきっといつもより静かに話しているのでしょう。
大人の喫茶店を気に入っています。
***
最近になって、近くにあらたな珈琲店が進出してきました。
岐阜発祥で関東初出店の『さかい珈琲』といいます。
店のコンセプトは何でしょう?どんなメニューを用意していて価格帯はいかほどでしょうか?客層は?長続きしそうですか?
そんなことに興味をもって、朝9時のモーニングに行ってみました。
最初は客席も空き席があったりして静かでした。
徐々にお客様が増えてきました。ほとんどが女性客で、二人客、三人客です。やがて、二人がけ四人がけの合計四十席がいつの間にか満席になってしまいました。
徐々に口数が多くなって喧噪の雰囲気になるのに10分か15分です。まあよく口を動かします。
食べることとしゃべること、互いに一瞬の隙間もおかないという超高速のコミュニケーションパワーです。騒がしくなったのと、わたしの読書も一時間を過ぎましたのでそっと席を立ちました。
***
女性の元気さは国の繁栄の印で、けっこうでございます!
(2014年11月01日)
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まずは石鯛、上品でほんのりと脂を感じながらも淡白な味わい

食べ応えのあるメジナ
両者とも魚類の中の”スズキ目”で、同じ仲間
いずれも美味!
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きれいな身です
秋の魚は脂も乗っています
端麗な酒に合います |
<1765> 珍客到来、イシダイとメジナ
土曜日の夕方、テニス仲間からの携帯電話が鳴った。
休日は携帯を身近においていないので何回か鳴ったあげくに気づいたようで、出るなり相手から「なにしてんのよ!」ととがめられた。
しかしこの電話は朗報というべきか、喜ぶべき知らせであった。
「釣った魚を取りに来い」と。
***
「あな、ありがたや」と勇んでハンドルを握って駆けつけた。
大物釣りが趣味の釣り人は、いつも1万円札をはたいて船に乗る。
この日の釣果は格別に素晴らしかった。
いただいた白い保冷パックをあけたときに、まさか・・・こんなサカナ、滅多に口にすることはないぜよ!
大物がなかに、窮屈そうに胴体を曲げて寝そべっていたのだ。まだ目が生きているかのような、30cmのイシダイと40cmのメジナ、加えて20cmアップのメジナ二枚、つごう四枚の高級魚だ。
これで今晩は美味をいただけると、家に帰ってふたたび中身を眺めてにんまり。
おっと喜んでばかりはいられない。現実にきれいな柵(サク)になっているわけではないので、これをさばかなければならない。はて、どうさばこうか・・・。
日頃ヤワなサバやアジにしかつかわない包丁でこの手ごわい猛魚に立ち向かわねばならない。普通なら重さのある大ぶりな出刃包丁が必要なところ、しかし残念ながらそこまでりっぱな持ち物がない。
えーい、やるしかない!
***
すでに血抜きはしてもらっている。
まず、頭を落とす。次に腹に包丁を入れて、背に包丁を入れて、骨から剥がしにかかる。
片身が剥がれました。反対側も同じようにして、三枚にする。
骨の部分を適当に切り落とし、次は皮むき。
これでやっと柵(サク)になりました。
四枚全部をこの要領でおろして、フーーー。
文字にするとこれだけだけどこれがたいへん、慣れない方がやったら間違いなく血の海になることでしょう!
***
たまたま娘家族が来ていて、味などわかるはずもない子供たちが凄まじい勢いで箸を動かしてくれた。小学1年生にも、美味しいものはわかるようだ。
「ジイジン家(ち)に来ると、いつも美味しいものを食べさせてくれるね」 は、まさか“おべんちゃら”じゃないよね。
おかげで半分くらいはなくなったかな?
しかしイシダイもメジナも店頭ではなかなか手に入らない高級魚、あらためてWEB上で感謝の意を表します。Sさん、ありがとうございました。またお願いしますね!
(2014年 10月31日)
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壮麗 富士
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コリコリという食感
酸味と甘味のハーモニー
スーパーマーケットのでは感じられない
天の恵みを感じる
それにしても鈴なり!

せっかく奮発したのに・・・
うなぎはふっくらがいい
興に乗ってビールまで頼んだのに
残してしまった
わたしとしたことが・・・ |
<1764> 南信州の秋 (5)秋の美味、りんごと酒と鰻と
「鈴なりの」といったら何を連想しますか?
やはりイメージするものはなにかの果物でしょうね。柿、イチゴ、ミカン・・・、それから下に垂れる花などもあるだろうし、人とか客とかもあっていい。また、鈴なりの美女などに詰め寄られたらどうなってしまうのだろうか。
もともとこの”鈴”は“神楽(かぐら)鈴”のことで、鈴を12個結んで柄(え)をつけたものだそう。
この季節に信州をドライブしていると、繁くこの「鈴なりの」光景に出合う。
朝風呂につかってアルコールを抜いたつもりでも、大宴会の余韻は身体に残っている。意識は朦朧に近く、もちろん運転などできるわけもない。
***
まつかわインターの近く、昨日見当をつけておいた林檎の「鈴なり」に車を止めた。
午前10時をすこし過ぎた時間で、家族経営のリンゴ園は店を開いたところ。この日は日曜日、紅葉見物の観光客で年に一番のかきいれどき、それは間違いない。
「ここはインターの近くで立地としては一番なのではないですか」 と話しかける。
「いやあ、近過ぎてよくない部分もありますね」 「みなさん、先にもっといい農園があるだろうと考えるようですね」 と農園主。さもありなん、だろう。
「味見はできるのですか?」 とわたし。
すぐに皿の上に細かく切りそろえたやつが出てきた。その6種類を片っ端からいただく。
それにしても鈴なりのリンゴは、近くから見ると壮観さを増す。
「遠くから見ると小さくしか見えないけど、こうして近寄って見ると成りが大きい。食べ応えがありそうだね」
***
太陽と大地の恵みを受けて大きく育っている。下地にビニールを敷いているのは、太陽の反射を利用するためで、「こうすることで甘さが増すのです」と説明してくれた。
わたしには、太陽の恵みだけでこんなに大きく育つのだからさぞかし儲かるだろう、しかも現金商売だという頭があった。
「いえ、これでもけっこう手間をかけているのですよ。それに台風が来たりしたら、すべてが売り物でなくなってしまい、たいへんですから」と農園主。農業経営者かつ販売業をいとなむお父さんはしたたかだ。
ゴールド何某のほか1種を買い求めた。
支払いをしていると、おかみさんが「木から落ちたキズものですけど、どうぞ」と二つばかり手渡してくれた。完熟、という言葉が浮かんでにんまり、これが美味いのだ!
***
時間は10時を少し回ったところであとは帰るだけ、「お酒を買って帰ろう」と息子君がいう。
下諏訪に宮坂酒造という有名な蔵元があって質のいい酒を造っている。二日酔いの気分でも美酒への欲求は衰えていない。
街道沿いに目立つ『真澄』の文字を横目で眺めながら、清潔で落ち着きのある蔵元の暖簾をくぐった。
「何年か前に立ち寄ったのですが、移りましたか?」
「どのお酒がおすすめ?」 「以前、玉村豊男さんの描いた絵皿が置いてありましたが・・・?」などと相も変らぬ質問攻め。
試飲コーナーをのぞいてみたものの、手が、いや口が出なかった。
結果的に、ごく常識的で値段も少々高めの”真澄 純米吟醸”を買い求めた。大事に飲もう!
***
さていつの間にか時計の針は午後1時を指しており、昼飯の時間だ。
「ここからなら、鰻の”小林”が近い。このあたりでは名前の知れた店だ。そこにしよう」と決めた。
しかし、しかし、かつてのイメージが覆されてこのアイデアは大きな失敗に終わった。
(ん、なんだかおかしいぞ、この焼き方は・・・美味しくない、以前と比べて味が落ちた?)などと思いをめぐらしながら食事をしている最中に、なんと観光バスが団体客を引き連れて店の前に停まったのだ。
そうかわかった、大量生産によって味が落ちる、値段は観光地価格?
きっと常連さんたちも離れていったに違いない。もうこれから行くことはないだろうと思うと、残念至極。
帰りの車、運転は息子君に任せて後部座席でぐっすり。
バラエティに富んだ、いい旅でした。
(おわり 2014年10月30日)
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宴会食なんてこんなもの
食べ散らかすのはもったいない

信州の秋 |
<1763> 南信州の秋 (4)温泉でのブレイク
南信州の飯田や伊那地方は、天竜川の中流域の河岸段丘に古い時代から人々が住み着いて村里が形成された。暖かい太陽があって清らかな水があって、山の恵み、里の恵み、川の恵みすべてに満たされて、不足するのは海がないことぐらい、きっと住みやすかったのでしょう。冬の寒さも、信州の他の地域にくらべたら緩い。
そのうえにこの景観だ。
左手遠くには南アルプス、右手には中央アルプスの高みを望むことができ、風光明媚の形容がそのままあてはまる。
***
40年近く前に中央自動車道の西側が開通した。「恵那山トンネルを穿って、まず名古屋から伊北までが通じた」ことを鮮明に記憶している。そんなことをなぜ覚えているのかといえば、当時住んでいた愛知県の春日井から歩き始めてしばらくの娘を連れて、開通直後の伊北で降りて上高地まで車を駆ったからである。
南信は昔から中京文化圏であり、この地の優秀な学生は名古屋大学を目指す。
そういう文化が生まれたのは至極当たり前で、江戸時代やそれ以前のことを考えてみても、中山(仙)道まで出て江戸に向かうよりも飯田街道で名古屋に向かったほうがずっと近かった。名古屋に出れば、その先には京都や奈良があって、都の文物がわりあい早い時期にこの地方にもたらされる。江戸志向というより、名古屋志向あるいは京都志向というべきだろうか。
したがって人々のプライドは高く、同じ長野県でも北信(北部信州)の長野、中信の松本、東信の上田・佐久などとは県民性が違う。
***
夕方暗くなりかける時間にやっと、宿の「まつかわ温泉清流苑」にたどり着いた。
この日はここに15人ほどが集まって母方の従兄妹会が行われる。早い時間に到着して湯浴みも済ませた弟たちの出迎えを受けてほっとする。
宴会の開始時間を決めてあった。
一人あわただしく、ドボンと風呂に浸かってサッと出て、ザッーっと汗を流して宴席に向かった。
兄弟従兄妹たちはみな還暦を迎えようというほどにいい年を取って、憂いを除き、独立した道を歩んでいる。こうして遠路はるばるやってきて宴を持てるのがその証拠で、この集まりは一年で一番ほっとする時間でもある。
乾杯のあと、子どもたちの祝い事の報告が次々となされた。
豊かとはいえないが平穏無事な生活、”日々是好日”を実践している。
宴半ば、その昔父親が撮った、坊主頭やおかっぱ頭の子供たちがアルバムのなかから登場した。それぞれの悲喜こもごもの思い出がいっぱい詰まっていて、アルコールが入ったら盛り上がらざるをえない、それも際限なく。
毎年の神社の例祭の写真のとなりに、コダックプリントの大人たちの集合写真があった。さすがに今もって鮮明である。驚いたのは母の意外な若さ、しかも当時としては美人だったのではないかと新鮮な思いにひたった。
その母が亡くなって10年も経ち、昨年は三名出席できた叔父叔母も一人きりになってしまった。しかしながらこの家系は子供たちのほとんどが成人して次代に流れを継いでくれている。
***
広間での宴会のあと館内にあるスナックで“カラオケ大会”。
気分に任せて40年ほども若返り、フロアに出てジルバなんぞを踊ってしまった。まだやれる!
そのあとまた部屋に戻って痛飲、時間のことなど気にしていられない、そんな楽しい気分だった・・・!
来年は、箱根のわずか5部屋しかない温泉旅館を、借り切った。
箱根だったら、孫たちも引き連れて参加しようかと思う・・・。今から楽しみである。
(つづく 2014年10月28日)
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下栗の秋
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斜面の里が
山の陰に

狭い展望台から
団体客が去って |
<1762> 南信州の秋 (3)下栗の里、再訪
『下栗の里』へは、来た方向には戻らずまっすぐに進む。
山里の午後3時は夕暮れといってもおかしくない。しかし稀なほどの晴天が日没を押しとどめてくれた。
***
急な斜面を耕して生計を立てている山間の鄙(ひな)の里は、この10年のあいだにずいぶん有名になった。
山の多いこの国の、いずこにもない独特の景観が旅人の心をくすぐるのだろう。
村人が整備してくれたけもの道は15分ほどの距離でビュースポットに案内してくれる。
小金は貯めたが体力に自信のない年配者は、体力だけには自身のある係累の若者を道案内にして登ってくる。我が家の90歳に近い義母は少し登ったところであきらめた。
(景観に優れたこの場所に案内するのもこれが最後になるかもしれない。そう思って勧めたけれどやはり無理だったのか)の思いがあったが・・・。
急斜面に通した一本道は、人がやっとの思いですれ違えるほどに狭い。
行く手から展望を済ませた観光客が続々と下りてくる。胸にツーリスト会社のワッペンを吊るしたみなさんは観光バスで来たのだろう。場所に似合わないほどにぎやかだ。
しばらく歩いてたどり着いた展望台で、大型のカメラをぶら下げたご仁が声を掛けてきた。
「凄い観光客の数でしょう。名古屋から来ましたけど、道が混みあってたいへんでしたよ。数年前に来た時はこんなんではなかったけどなぁ!」
わたしは少し後悔していた。
(時間が遅かった)
この山里の人々は東南の斜面に暮らしている。したがって午前中から午後2時ごろまでは陽光が当たる。いまの太陽は谷を隔てた西向きの斜面に100%降りそそいで、猫の額のような下栗集落は陰のなかに隠れてしまっている。
(ちがう)という思いに浸される。(ここの秋はお昼まで)とつぶやきが漏れた。
わたしではない。大型カメラの名古屋のご仁だ。わたしはただ肯くだけ・・・。
***
いつも思うことながら、旅は景観を愛でるだけではつまらない。
土地の文化や生活習慣、生産される作物や経済・教育のことなどに想像をめぐらし、できるならば生活者と会話を楽しみたい。それには宿泊するのが一番だが、今回は目的が違う。
単純に紅葉の下栗の里で我慢しなければならない。
それにしてもこの斜面に住み着いたはるか昔の先人たちはどこから来たのだろう?
源平盛衰記のころの平家の落人たち?
足利尊氏に敗れて全国に散らばった後醍醐の末裔たち?
ペルーのインカ都市マチュピチュはいったん歴史の流れから消えて、500年ののちによみがえった。カンボジャのアンコールワットも森の中から発見された。
そんなロマンがあったらいいなどと勝手な空想を楽しみながら、夕暮れに向かう天空の里にさようならを告げた。
(つづく 2014年10月27日)
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左奥の山が荒川岳 3,083m
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鮮やかな秋
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<1761> 南信州の秋 (2)しらびそ高原の南アルプス
蕎麦の話が出たところで、しばし垂涎の食の世界に脱線する。
ここからすぐ近く、同じ南信州の山を隔てた上伊那・高遠に、著名な松茸名人がいる。藤原さんとおっしゃる。
藤原さんが数十年をかけて、赤松の茂る山を活性化させたノウハウがすばらしい。
かれは言う。「国産の松茸を安価で供給するために、自分がしてきたことを全国に広めたい。そうすればこの香りのある美味が、もっとたくさんの消費者の口に入るようになる」と。
確かに、全国に出回っている松茸のほとんどは外国産であり、味も香りも国産ものとは別物。手ごろな価格で国産ものが口に入るのは大歓迎だ。
運転している山道の、少し方向を変えたところには松茸で有名な宿がある。
友人から紹介を受けた、大鹿村の「右馬允(うまのじょう」という料理旅館だ。ここでは蒸し、焼き、またグツグツと煮た、薫り高い松茸尽くしの料理をいただける。あたり一帯はまさしく松茸の宝庫なのだ。
***
おっと、のんびりしている場合ではない。あわただしく店を出て道を急ぐ。
蕎麦屋の店主から「ここからだったら、先にしらびそ高原に上って、そこから下栗に下りるのがいいですよ。道はこうして・・・・・」 と親切に教えてもらった。
紅葉はこの辺りまで登ってきていて、眩しいような出合いが見られる。
しかし運転手は目をそらせない。崖淵の、くびれたような狭いところはすれ違いも容易ではなく、ハンドルを切り損なえば車もろともまっ逆さまに転落する。
地元の方に「今シーズンで今日が一番だよ!」といわれたほどの紅葉日和ゆえに車も多い。バックして道を譲る場面もしばしばだ。
かなりの距離を上昇すると今度はすれ違う車すら見えなくなって、一瞬道を間違えたのかと心配した。
車に付属している古いナビが信用できないからと、アンドロイドのナビを取り出して確認していたら突如電波が途切れた。それだけ山が深い。
***
午後2時20分、やっとの思いで、わたしにとっては二度目の“しらびそ高原”に辿り着いた。
つるべ落としの季節の夕日が沈んでしまったら次が見られないので、ゆっくりしている時間がない。
小高い展望台に駆け足でのぼる。
その先に、これこそが絶景といえる景観が見えた。
秋の高い太陽をしっかり浴びた南アルプスの高嶺が大きく横に広がっている。「重畳する」ということばがある。じっくり眺めてみると手前から向こうに向かって、重なるように続いているのがわかる。
山肌はしらびその緑が多く、登り道で感動した七色の色彩はない。しかしそれに数倍勝る山脈のダイナミックな展開。その壁のような山々と相対して無心になった。
いいものを見せてもらった。
***
“しらびそ”とは中部山岳の1500〜2500mの高山帯に分布する常緑針葉樹のこと。南アルプスと言われている赤石山脈は広葉樹の紅黄葉と赤が混ざり合うことで異彩を放つ。”しらびそ”の緑はそれらの引き立て役を担う。
奥の壁は左から荒川岳(3,083m)、小赤石岳(3,030m)、前聖岳(3,022m)など3,000m級がそびえ、右になだらかに上河内岳(2,802m)、茶臼岳(2,600m)と下っていく。
高みには白いものが見て取れ、冬の到来を暗示している。
そうなれば通う人とていなくなる・・・。
(つづく 2014年10月26日)
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下に急流矢筈川が音を立てて流れる
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鴨なん蕎麦 |
<1760> 南信州の秋 (1)谷川のほとりの蕎麦
八ヶ岳から、中央自動車道の岡谷ジャンクションを左方向にターンする手前、トンネルに入る直前の前方遥かに、屏風のような山が見えた。
「あの山は、大噴火した御嶽山じゃないか!」
「今日は霞んでいて噴煙がよく見えないけど、たしか中央道のうえから見えるはず、御嶽山に違いないと思う」
わたしが叫んでも、同乗者たちは「ふーん」という顔つきで関心を示さず、かの山はあっという間に山の端に消えていった。みなさん早朝の出発に疲れて、ひどい眠気をもよおしているようだ。
車は諏訪湖に水源をもつ天竜川の河岸段丘に沿って、長い距離を南下する。
***
そのまま走って松川インターで下りたときには正午をすこし過ぎていた。
ここで道選びに迷っていた。
欲張りのわたしがターゲットに定めていた目的地はふたつあった。ひとつは標高2000mの高みにあって、南アルプスの高嶺が横に広がってその雄姿を見せるという『遠山郷 しらびそ高原』。
もうひとつは3年前の夏にも訪ねた、“日本のマチュピチュ”といわれている『上村 下栗の里』。
迷いのもとは、道の混雑をどう予測するかにあった。『しらびそ』と『下栗』のあいだは普段なら車もわずかしか通わず、1000mの高低差があっても30分の距離にある。しかしいずこも紅葉の最盛期、TVコマーシャルで紹介されたせいか下栗の里には観光バスもやってくる。
そんな七曲がりの細道を走らねばならない。
混雑必至というなかで、どちらを先にすべきか?どちらを早い時間に見ておくべきか?
***
そんな悩みを抱えながら車が山道にさしかかったとき、後ろから声がかかった。
「お昼を、まだ食べていないんだけど、食べさせてくれるの?」 かれらは早朝に東京を発ってから何も口にしないで、空腹を抱えているようだ。
過去に、時間が気になって食事を抜くということがしばしばあった。敵は、今回もそういうことがあってはならないと早めに手を打ってきたのだ。
そんなとき運悪く(運よく?)、行く手の谷川のほとりに「新そば」の幟(のぼり)が見えた。
これは停めざるを得ない。食べるとしたら蕎麦しかないと思っていたから、渡りに船だ。みなさんにもほっとした安どの表情があって、タイミングの良いトイレ休みにもなった。
信州には蕎麦処が多い。このあたりも米作の難しい山間地で、昔から蕎麦作りにはげんできた。おいしい蕎麦が食べられる!
メニューの数少ない記載のなかから”鴨南蛮”を頼んだ。ひょっとして、猟で撃ったマガモの肉が口に入るかもしれないという期待・・・、出てくる訳ないでしょう!
冷凍の合鴨しかありませんでした。
「今年収穫した新蕎麦を二八で打っている」 という。香りが立ってそれなりの喉ごしも楽しめた。でも、何かが足りない。水っぽいというのだろうか。しゃきっとした、角が立つような蕎麦ではなかった。
都会なみの値段にしては中身がお粗末のように感じた。残念。
カメラをもって外に出ると天竜川の支流・矢筈川が、水量豊かにすぐ近くに迫っていた。紅葉が、すすきの穂の向こうに日差しを浴びてまぶしく光っていた。
(つづく 2014年10月25日)
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長池公園 水辺の風景
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オーナーのこだわりを感じる店

けっこう いけます!

秋の陽射しがやさしい

土手にススキが
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<1759> 南大沢という街の鮮度、喫茶レストランと散歩
あらし去り柿をむく朝富士青く
10月14日朝こんな句を詠んでみた。青臭くて感心しない句で、赤面の至り。
しかし句のとおり富士山は、空気の澄んだベランダから眺めると濃緑色の衣装をまとっていた。
そしてわずか三日後、17日朝の富士山は、なんのためにいそいだのか純白に変装していた。
このところの気候の変化はすさまじくまたたく間に秋がやってきたようだ・・・。
***
アウトレットと都立大のキャンパスで有名になった南大沢の南側は新興の住宅地らしく整備され、明るい陽射しがあたっている。
広くて面数をたくさんもったテニスコートの周りが公園(松木公園)になっていて、そのすぐ近くの和風喫茶店『柚子木庵』で昼食をとった。和風ハンバーグのセットにババロアがついていた。
店に入ってまず疑問に感じたのは単純に、住宅街にどうしてこういう店ができたのかということ。周辺には工場もオフィスもないし、商店街もない。果たして客は集まるのか、そして採算は合うのだろうか・・・。
***
最近は住宅街の中にこういうスタイルのレストランが増えている。
二階が住まいになっていて一階のレストランは趣味の延長線にある。
一つの例はこういうパターンだ。
・・・・・夫は昔からコーヒーに凝っていて入れ方が上手い。妻は普段から料理自慢で友人たちにふるまうのが大好き。二人が力を合わせて小さなレストランをやってみたらどうだろうか。会社からは早期退職の肩たたきの気配を感じている。割り増し退職金をもらって独立する。今がチャンスだ、とね!
はたして、子育て世代がP仲間を誘って苦労話の品評会に、あるいは老後のテニスを楽しむ小父さん小母さんのプレイ後の一休みに、時間がくれば席が自然にうまった。
わたしなどが心配することは無用だった。
我が家はコーヒーをいただきながら、これから2週間ばかりの多忙なスケジュールについて詳細をつめた。そして一段落。内はこれから1時間半ほど、目と鼻の先のコートで仲間たちとの練習会があるからと、あわただしく去って行った。

外に出て、きれいな空気と街並みにまたしても驚いた。
すぐ前に小ぶりの脳神経外科の看板がかかっているほか、街の景観が住宅展示場のように見えた。新しい街ができる“導入期”、人間でいえば15歳から20歳ぐらいにあたるだろうか。
小さな公園があって、白亜の結婚式場が池をリニューアルした水辺の高台に立っている。水の公園を“長池公園”という。
季節を代表するススキと、セイタカアワダチ草が大きく成長した土手を水辺まで下りてみた。ちょっと昔、四谷見附の旧い橋をもってきてここに架けた。真ん中を中心にして完璧なシンメトリーは、名のあるデザイナーが考えたに違いない。
青い空に白い雲のコントラストも、秋らしい。

周囲の見渡せる長椅子に座ってチェーホフを読み始めた・・・。
(2014年10月17日)
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ネイマールの攻撃には
だれも太刀打ちできない |
<1758> ワールドカップが終わって3か月
再び、三度(みたび)、ブラジルと闘う貴重なチャンスをもらった10月14日夜のシンガポール、日本軍は天才フォワード・ネイマール独りにかきまわされて玉砕した。
前半こそ若い力が躍動してこのメンバーならやれるかもしれないと期待をもたせた。
しかし後半の展開をふりかえると、前半のブラジルは“お遊び”をしていたのではないかと思わせる。
多くの若手が「まったくの力不足、この差を努力して埋めなければならない」とコメントしていたが、言外に言葉以上の差、あきらめ感がにじみ出ていた。
***
<死力を尽くして戦った世界最大のエンタテイメントワールドカップは、ドイツの圧倒的な迫力による優勝で幕を閉じた。
真ん中を固めたアルゼンチンの守備は堅固で、体力で突き破ろうとするドイツにとって難しい要塞となった。人を割いて攻撃に集中すればア軍の反転速攻に対応できないため、限られた人数で攻めるしかない。
全体的に眺めれば、虚々実々のせめぎ合いといえようか。高度な戦術と体力・技術のぶつかり合いは見ごたえがあって、特殊なカメラをつかっていたら、ピッチのあちこちで火花の飛び散るシーンをとらえたことだろう。
そして最後にドイツが笑った。>
これが3ヶ月前のわたしの日記、いまさらワールドカップを反省しても仕方のないことだが、我が軍団をきちんと評価しておくことは大事なこと。
<あまく評価すれば「二歩前進するための後退の一歩」で、「次回こそ」と期待するファンも多いだろう。
厳しく問い詰めれば、「世界に肩を並べるにはまだまだ時間がかかる、何年先のことやら」と悲観が支配することにもなる。
日本のトップレベルの選手のなかで個として世界に通用する選手は誰?
少し接触するだけでバタバタと倒れて、「審判に憐みを乞うような視線を送る」ような選手に、成長はない。
故意に足をかけられても倒れないで、相手の股間をくぐってでもボールを支配して前に進む精神が必要。Jリーグはそういった鍛錬の場であったのではないのか。日本の成長のためには、精神の鍛錬やごまかしの排除は、勝負にこだわることよりずっと大事なことのように思う。
中東のかさ上げを思うと、4年後に出場することすら危ういと思っている。>
***
今年のワールドカップはマスコミが騒ぎ過ぎた。
何とか言う選手の「優勝を狙う」などという大言壮語に騙されて、「優勝を狙える、史上最強のチーム」とはやし立てた。尻馬に乗って期待したファンが可哀そうだが、試合内容はお粗末至極。相手は主力を温存させるほどになめられていたし、結果が実力を証明していた。
捲土重来の秘策はない。
Jリーグで相手の失策やイエローカードを期待するのではなく、そんなものを突き破って点を取るという迫力こそ必要だ。
間もなくアジアカップが始まる。ブレークスルーする選手が何人か出てこないかぎり連覇は難しい。
(2014年10月14日)
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ここは何処でしょう ? |
<1757> マネ会にまねかれて 新宿発新橋行
以前にも紹介した、誰が名付けたのか“マネ会”なる飲み会にマネかれた。
マネ会のマネは“招く”ではなくて“真似”の意。3年ほど前、40年も続いた四谷三丁目のカウンタースナックが店を閉じて以来、「ママの作ったカレーが食べたい」 と40年来の客たちがさわぎだした。
月に一回、年老いたママを引っ張り出してカレーを作ってもらい、和気藹々にそれを食する。
ついでにアルコールの無礼講がいいだろうと、各種の酒が出るようにした。当時から一の子分を自称していた“声優くずれ”の可愛い姉御が「おいで、おいで!」と“招きネコ”をやっている。もっともこの姉御が最近結婚して従順になった。角(つの)をおっ立てて戦闘意欲満々の彼女の昔が懐かしい。
客は呉越同舟で昔を懐かしむ。
玉石混交ということばも頭に浮かんだが、それをいったらみなさんに失礼になる、石はわたしぐらいのものだから。
***
この日は新宿3丁目末広亭近くの裏通り、50年も昔の学園紛争の時代から名前を売っていた“どんぞこ”の、隣の店に集まった。
“どんぞこ”の看板を見たからには一言語らずにはいられない、あの暗い時代のことを。
悩み多き学生たちはその不満のはけ口として、「安保反対!学費値上げ反対!」、何でも反対のシュプレヒコールを上げるしかなかった。
安田講堂事件もあったし、石つぶてを投げ合う新宿騒乱もあった。
“どんぞこ”には絶望寸前の若者たちが集まった。ロシアの作家ゴーリキーの戯曲を借りた店の名は、共産主義革命を標榜する学生たちを奮い立たせた。
そして幾歳月が経ち、貧しさのなかにソ連共産主義は崩壊した。
しかし新宿の“どんぞこ”がこうして活性化しているのはどういうことだろう。いかにも日本らしいといったら怒られるだろうか。
***
テーブルに並んだ食べ物をむしゃむしゃと食し、アルコールをがぶがぶと飲んだ。
隅のほうに客とは違うご仁が一人小さな看板をもってたたずんでいる。何かと思ったらトランプを使っての占い師。15分ほどの相談で鑑定代は3000円ほど、これは協定料金があるようだ。
独り隣りで飲んでいたサラリーマン小父さんがトランプの前に腰をおろした。ざわついた店内では占い師の言葉が聞き取れないのでこちらは「朝日新聞の醜態」の話題に集中した。
さて件のサラリーマン59歳氏が戻ってきた。
今度はこちらの占いコーナーだ。これがまことに厳しい。
「どうしたの?」 の質問に、思いがけずあっけらかんと悩みを白状しはじめた。けっこう前置きが長い。
「若いころに好きな女性、大部屋の女優であった女性と結婚した。その女性がハチャメチャな性格、酒乱で暴力を振るう。飲み始めると手がつけられず、家に帰るのが怖くてアパートの前で佇むこともしばしば、地獄のようだった」 という。
へー、考えられないけど、そんな女性がいるんだ!いったん好きになったらあばたも笑窪に見えるっていうから、こりゃしかたない。
かれは、いまだ女性への未練があるのか、あるいはもう女性はこりごりというのか、再婚できないで独り身をもてあましている。
女性の問題は別としてこれまで真面目に仕事をやってきた。貯金も将来困らないほどある!(これが一番!)
今日の相談は、会社から肩たたきに遭って、仕事を辞めるべきか続けるべきか、というどこにでも転がっている話。 われらの結論はすぐに出た。
「断然つづけるべきだ。70歳まで仕事をする時代、躊躇することなし!」
「給料が半分に減らされるのですが・・・」
「稼ぎなんか、三分の一に減らされても継続することが大事、お金の問題ではない。仕事を終わらせて毎日が日曜日になって、早く人生を終わらせる男の悲劇をたくさんみている」 と隣の席を眺めてニヤリ。
「それより落ち着いて新しい嫁さんでも探したらいいんじゃないの?」
悪女のトラウマと“いざ、さらば”して、いい女性を見つけなさい、世の中そう捨てたものではないですよ。
われらはずけずけと言いたいことを言って次のターゲット新橋へ向かった・・・。
(2014年10月10日)
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椎茸、地鶏、北あかりの治部煮
北あかりは北海道で開発された
ジャガイモと栗の交配によってできた芋
別名”黄金男爵”

なぜか
カキフライ
でも油モノが恋しかったのでグッド

鰯の時雨煮
薄味で柔らかく煮込んでありました
このあとは栗ご飯に味噌汁
最後にデザートをいただきました
老体に優しい食事でした |
<1756> 神保町 おとなの隠れ家 “栄家”にて(2)
タイミングよく火の通った料理が出てくる。
シニア世代の身体に優しい素材が多く、そのぶんパンチに欠けるという欠点はある。とはいうもののリーズナブルなお値段なので文句を言うべき筋合いではない。
おまけに、福岡から空路もたらされたプレミアム焼酎の突然の持ち込みを、ノーチャージで許可してもらった。ありがとうございます!
***
そのプレミアム焼酎をもちこまれた大宰氏は古希を迎えた。
このグループでは二人目になる。健康のことが気になる年代、にもかかわらず直近の健康診断では「どこも問題なし」 のお墨付きをいただいた。健康の秘訣は“仕事”のようだ。それも秘密の仕事!この話をし始めると長くなるので、「また、いつか」ということにしておきましょう。
みなさん、何もしないでいることの悪弊をよく理解しているゆえにそれぞれの楽しみをもって日々精進されている。誰一人として惰眠をむさぼるようなことをしていない。
ふたたび博多で、たらふくの河豚をいただく日が来ることを願っています。
山の隊長は愛妻と同伴でスイスの高原をトレッキングしてきた。
地元の人でも見つけることができないと聞く、清く美しい白花エーデルワイスとのご対面はあったのだろうか?
日本に戻ってわれらと独標に登った後、日本アルプスの高嶺も踏破して山男の面目躍如だ。
その隊長に待望の初孫が誕生した。すぐにお顔拝見と名古屋まで急行したところ、感染症にかかっているからと「ビデオ面会しかできなかった」。
初孫が東京に戻ってきたら盛大にお祝い事をやってください!
早くから田園生活をエンジョイされている山梨氏はゴルフ生活も楽しんでいる。今年もすでに70ラウンド近く回ったとか。もともとあった運動能力に毎朝晩のスクワットの鍛錬が加わってパワー倍増、ドライバーが280ヤードと並外れて飛ぶ。「アマチュアの方でこれほど飛ぶ方に出会ったことがない」とキャディさんに驚かれたとみずからご披露された。
「ところでこのところの平均スコアは?」 と問われると、なぜか口ごもられた。
今回も自ら造られた、南高梅の梅ジャムをお土産にいただいた。
Thank you !
***
今回の幹事役の赤門先生は本物の先生になられた。浮世に生きる人々の有為転変を風刺する川柳は天職かもしれない。頭脳明晰で直感が冴えわたる。
都内何箇所かで教えているほか、通信教育の添削、いわゆる赤ペン先生もされている。
以前赤門先生が漏らした言葉を思い出す。
「俳句は森羅万象の自然をうたうのだが、川柳は人間を詠む」 と。
人間観察が趣味なんて高尚ですねえ。わたしも人間観察が趣味、できるなら表参道・青山通りあたりで、カメラを構えて。
春先に愛妻を亡くされたダンディ氏は75歳までゴルフを頑張ると話し始めると、すぐに外野から野次が入った。
「そういうことも大事だけれどもっと大切なことは、後添えを早く迎えることだ」と。
そうはいうものの、愛妻とのこころのなかでの訣別が前提だ。ご本人は「わだかまりはない、その問題は終わった」という。
このホームページでも募集してくれとも頼まれた。
「若い方がいい」とおっしゃる。
どなたか、これからの人生をおふたりで楽しみながら過ごしたいというかたは当サイトにご連絡を乞う。委細面談!
***
3時間ほどが知らぬ間に過ぎた。
次は京都で会いましょう、とは決まっている。さて何処をどう巡るのか、たしか話したはずだがとんと思い出せぬ・・・。
(おしまい 2014年10月9日)
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この季節に欠かせない
松茸の土瓶蒸し
魚の生臭さを消すのがポイント

まぐろの中トロと
白身魚はスズキ

胃腸に優しい
こんにゃくの刺身
甘めの酢味噌でいただく

松茸の飛竜頭
ここまで
お腹にたまるものはない
このあたりで日本酒に!
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<1755> 神保町 おとなの隠れ家 “栄家”にて(1)
そもそもこの食事会は九州の太宰府に移住されたT氏の上京に合わせて計画され、さいわいなことに古い勉強会の仲間ほぼ全員、八名が神保町に集まった。
T氏の東京に住む二人のお嬢さんが、氏ご夫婦の結婚40周年を記念して旅費を工面してくれたという。「たまには孫の顔を見にいらっしゃい」 というお嬢さん方の優しい心根があったからこそ実現した。
そういえば我が夫婦も明年4月に40周年を迎える。ルビー婚とかいうそうだ。ルビーを買ってくれとせがまれたら困ってしまうが、いちおう子供たちには伝えておかなくてはいけない・・・我が家の子供たちは何かしてくれるだろうか・・・?
***
神保町“栄家”は都会のなかの隠れ家という表現があたる。
靖国通りのみずほ銀行から一本なかいはいると中小のビルが軒を接してならんでいる。裏通りにはちがいないが、目に見えない塵芥のただよいを感じる、多摩の田舎の匂いとは違う。
そんな通りのビルの古いエレベーターを5階で降りると、そこにはだいだい色の薄暗い照明と茶褐色のフローリングというしごく落ち着いた世界があって、瞬間、町の喧騒を忘れた。
この店は一日限定二組様のみ、という小じんまりとした懐石料理の店、幹事役の赤門氏が早々と予約してくれていた。
夕刻5時、そろりと大人の男の食事会が始まった。
***
八人がそろうのは久方ぶりと、宴は、それぞれが自身の近況を紹介するところからはじまった。
手元には優しい味わいの松茸の土瓶蒸し。松茸とタラと鶏肉と、スダチをしぼってゴクリ!ああ、いい味だ。
独立して華やかな業界で孤高を保つ好漢経営者W氏は、「好きなことをやっているだけで、儲けていませんよ」 とのたまう。早い時期から東北復興のボランティアに取り組んでいて、いまも継続的にかの地の皆さんと交流を続けている。なにもしないでテレビ情報を鵜呑みにしている此方と違って、立派としか言いようがない。
とにもかくにもこの方の築いた人脈は厖大で、豊かな日々を送るための大きな財産となっていらっしゃる。
ひとつ、初めて味わった酷い痛みのことに話が及んだ。しかも有名ホールにおける音楽会の最中に。
痛みをこらえて病院に駆け込むと「尿管結石」の診断をされた・・・これは痛い。七転八倒の言葉そのままに痛む。この痛みは経験者でないと理解できない。
私の専売特許かと思っていたら仲間が増えた。いつ発作が起きてもいいようにわたしは“ポルタレン”を肌身離さず持っている。
***
大手企業の会長に重用されているK氏は、見込まれているだけに仕事を手仕舞いさせることができない。「永久に放してくれないでしょう」がおおかたの感想だ。
プライベートでは五人目の孫が誕生するという。多産は家の繁栄の証拠だとか、羨望の眼差しが集まった。
神楽坂に住む孫の保育園の迎えに、奥さまが、千葉の流山から遠路はるばるやってきて面倒を見られている様子。ご本人もたまに代役を務めるとか、そのことは歓びでしかないでしょう。「2時間が限界!」とはおっしゃいますが。
(つづく 2014年10月9日)
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苦労して
栗をむいたら
まちがいなく季節を感じる

渋皮を
重曹を入れて三度
茹でて磨く
最後に重曹を落として
砂糖で煮る

色は悪いが
苦労の結晶
一粒300円?
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<1754> 台風ならぬ栗と格闘
台風が東海・関東を直撃した10月7日、夜明け前から「本日はお休み」を決め込んだ。
電車が走っているのかどうか、確かめるまでもなかった。こういう日に年寄り(自分ではそう思ってはいない・・・)が外に出て行っては危ないし、何かあったときに他人さまに迷惑をかけること必定だ。毎度、危険なシーンをテレビ報道で目の当たりにしている。言ってみれば「危険を察知した年寄りは家の内」 がリスク管理の常識でしょう。
重要会議のある仕事バリバリ世代なら「なんとしてでも行かなければならない」という義務と責任がある。
そういう青年、壮年たちこそ優先して、間引きされた電車に乗らねばならない。目には見えないことであるが、のこのこと年寄りが台風のさなかに混雑する電車に乗り込んだら、その人たちに迷惑をかける。
***
テレビ報道は暗いうちから台風一色だ。
朝の9時には我が田舎の町の近くに上陸した。
築40年という木造の実家はまだなんとか台風に耐えられる構造を保っている。加えてしっかりした地面の、台地の上に立っているおかげで万に一にも水害の心配はない。
ところで、今年のように自然災害の多いときにはいつも、住む場所の安全性について考えさせられる。
テレビ画面で水浸しになった街の光景を眺めていると、少年時代の台風の記憶が鮮やかによみがえってきた。
台風がやってくる度に古い家の板戸に、太い釘で補強板を斜交(はすか)いに打ち付けていた。これを内側から、台風が去るまでの1時間ほどを懸命に支えていたという記憶。こんなことを子供たちに話しても信じてくれない。でも、あばら家だったから仕方なかったのでしょう。
もっと酷い記憶もある。
わが家からなだらかな台地を300mほど下ったところ、そこは江戸の昔からの田園地帯で灌漑水路が縦横に走っていた。たしか2度ばかり出逢った、その広い稲作地帯が210日を迎えるころに海になったこと。大地に降った台風の雨が、小さな川からあふれ出て一帯を飲み込んでしまったのだ。
今は田園地帯を引き裂いて東海道新幹線が走っている。洪水の話は新幹線の開業より10年ほど前のこと・・・そうそう、海抜ゼロメートル地帯といっていた東京の下町も毎年のように床上・床下浸水を繰り返していた、そんなラジオのニュースとともに思い出される。
***
台風上陸のニュースが一段落して、じっとしていられない性格が行動に出た。
傘もささずに外を歩き始めた、などということではない。
休日に買っておいた栗のことを思い出して、躊躇せず台所に立った。
「夕飯は栗ごはんにしよう」
つけあわせは、群馬産の荒々しい姿の舞茸を醤油で焼いてみよう。この取り合わせは相性がいいはずだ。
60個ほどある形の良い栗の半分を栗ごはんに、あとは焼き栗がいいだろう・・・。
さっそく30個の栗の解体作業に取り掛かった。
しかしこれはたいへんな作業、経験したかたはよくご存知かと思う。底部のざらついたところに包丁を入れて固い殻を剥ぐ。次に甘皮を剥きとる。1個1個丁寧に・・・包丁を持ちなれない方には耐えられないだろう。いや、包丁を滑らせて指をざっくりとやりかねないので細心の注意が必要だ。
耳で台風情報を聞きながら指先で1時間、やっとの思いでこの作業を終えた。
ヤレヤレ・・・・・。
と思う間もなく、「残った栗を甘皮煮にしたらいいね!」と、勝手気ままな無心があった。
***
何時間かかったのだろうか。
途中大失敗があって目を白黒。画竜点睛を欠く、よりもっとひどい間違いを犯してしまった、ああ・・・。それってなんだかわかりますか?
想像力が豊かで料理を楽しんでいる方にはわかるかもしれない。
それでもなんとか修正を加えて完成、どっと疲れてしまいました!
(2014年10月7日)
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宵の伝法院通り
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浅草寺境内からスカイツリーを望む
ノーベル賞を受けたお三方の
青色発光ダイオードが
活用されています

『さくま』のお嬢さん
この店が千客万来のはず?

飲んだあとお腹が減って
こんなものを食してしまいました
おいしいんだ!
このナポリタン |
<1753> 浅草の美人三姉妹
呑み癖がついて少々疲れた肝臓が気になっていた矢先の土曜日、浅草倶楽部の仲間から呼び出しがかかった。
さいわい家族とは何の約束もなかったので電車に乗って文庫本を読みはじめた。
すぐに眠気をもよおして、うとうとと・・・電車のなかの居眠りは健康を回復してくれるから嫌いではない。博労横山駅で都営浅草線に乗り換えて、浅草に到着。人込みを避けて休日の観音様にご挨拶をしていると、携帯が鳴った。
「待ち合わせの店がいっぱいで入れない。場所を“赤垣”に変えました」というメール。
観音裏に行こうとした足を曲げて、伝法院通りに入った。土曜の夕方は観光客でにぎわっている。
***
屋台の並んだ飲み屋街にも活気があって、小粋な女性たちが客引きの手によって誘い込まれてゆく。かつて隆盛を誇った飲み屋“松風”(すでに廃業)のすぐ近くに“赤垣”はあった。
あまたある有名店の中で変哲のない小さな飲み屋が知られるようになったのは、『酒場放浪記』というテレビ番組のおかげだろう。
多少トウが立った、失礼、歳をすこしばかりとられた美男美女のご主人と女将さんが気持ちよく客を迎えてくれる。なんどか通えば味が出てくるのかもしれない。
生ビールをいただいたあとは日本酒だ。
土佐に去った友人を思い出してかの地の銘酒“酔鯨”をお願いした。
翌日のテニスをかんがえると飲みすぎは禁物で、二杯目をぐっと我慢して店を出た。
***
この日の目的は観音裏にあった。言問通り沿いに客を惹きつける三姉妹がいるという。店の名を「さくま」という。
邪念が底にあるとロクなことにはならず、案の定、満席で断られている。
しかし元気なオジサンたちのこと。最初に断られた店に、「この時間だったら大丈夫だろう、もう空いているはずだ」と足を向けた。恥の上塗りなどという言葉は他人さまのこと、きっと空いていると信じて、赤垣よりすこしきれいな店の前に立った。
暖簾をあげて中をうかがうと、「あーら、さっき店に入れなかった方ですね。また来てくださった。ありがたいですね。今度は大丈夫、席がありますよ」。
ありがたく、願いがかなった。
で、こちらはひそひそ話。
「・・・どこに美人三姉妹がいるの?・・・」
***
カギ形に曲がったカウンターの内部に、たしかに三姉妹がいた。
しかし多少なりとも期待していた私が甘かった。
何を期待していたのかって?
“おしとやかな”美人姉妹です!
そんなことありえないですよね、ここは浅草なんだから、鉄火肌の姉御が当然といえば当然。
“粋でいなせ”が浅草女!
「なにをとぼけてんのさー!」って叱られる。おーこわ!
***
カウンターに大皿料理が載って好きなものが選べる・・・しかし人定め(人別ともいう)ばかりしていてなにを食したかをまったく覚えていない。
「ずっと混んでいるようだけど、何時ころおじゃましたら座れるの?」 と、こちらは無粋を承知で質問する。なんとか会話の糸口をつかまないと・・・。
常連のファンは毎日通って肌で込み具合を知っている。はじめて訪れて質問が図々し過ぎる?
でも教えてくれた。
「5時開店の30分前から並ぶこと。一段落するのは8時で、そのころに来て運が良ければ座れる。ラストオーダーは9時です」・・・9時半には店を閉められてしまう。
これが美人三姉妹+おっかさんの店です。効率経営ですなあ。
最後に一枚だけ写真を撮らせてもらった。うん、いい写真だ!
(2014年10月4日)
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量もたっぷり
香りものどごしもいい
そのうえに天麩羅の食感がなんともいえない
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昼酒は一杯が適当! |
<1754> 八王子みなみ野の蕎麦『穂科』
横浜線を八王子から出発すると、ふたつ目に“八王子みなみ野”という駅がある。
周辺のランドスケープの形状から丘陵を削って開発してきたことがわかる。それも最近のことだろう。丘のスロープに沿って新しい道路を通し、宅地を開発し、ピカピカの建物がうれしそうに立ち並んでいる。
新宿や渋谷への通勤なら十分に可能で、あと10年もすれば、子供連れの若い夫婦でにぎわう光景が見られるかもしれない。
***
わたしの今の住処は町田市北部の山のあたり。昔八王子から横浜へ、大八車で特産物の上質絹織物を運んでいた時代のことを想像する。幕末から明治にかけてのころのこと。
何しろこの丘陵地帯は、片方は川もう一方は小高い山に鬱蒼たる樹木が茂っていて、どう考えても山賊が出てきて大事な絹織物を奪って逃げる、商人たちもそういった危険を十分理解していて用心棒を雇っている。近藤勇たちが修業した天然理心流あたりだろうか、刃傷沙汰になるのは必至で、だからこのあたりの坂道でチャンチャンバラバラが普通にあって死人もたくさん出た。
しかしそういう昔話をトンと聞かない。
きっとわたしの想像の行き過ぎでしかないのだろう。
年を経て文明文化が丘陵地帯にもやってきて、ブルドーザーが活躍する。
雑木林を根こそぎなぎ倒して狐狸たちを追いやったところにいま住んでいるのだから、多少の疚しさがある。
コーヒーを飲みながらそんなことをあれやこれやと想像する。また楽しからずや!
話が逸れすぎてしまった・・・。
***
八王子みなみ野に『穂科』という蕎麦屋を見つけた。
中層階のマンションらしきビルの1階にある店はきれいにしてあり、川柳の同人誌がおいてあるところなどからは、店主の良質なこだわりとウイットネスを感じる。加えて、“手打ちそば教室”などもやっているのは金儲けだけではない心意気があるのだろう。
同時に“うどん教室”もやっているのは、歴史的に米よりもうどんで生きてきた多摩の店らしい。
昼時でいささか腹がへっていたので“天ぷらせいろ”をお願いした。
しばし待つと、やや緑が買った蕎麦が出てきた。つなぎが海藻などであったなら、小千谷(新潟県)の“へぎ蕎麦”のながれかもしれない。
いや違う。名前の『穂科』の科は、信州(長野県)の名前だ。信州すなわち信濃はもともと科野の意だろうし、更級も更科であり、蓼科、豊科、明科の地名もある。会津の松平容保の先祖は信濃の保科氏だった。いや、こんな話はもう止めよう。
サービスをしている女性に二つ三つ質問してみたところ彼女は何にも知らない。
「お聞きしてきましょうか」という言葉が好きではない。だいいち手間をかけるのが悪いし面倒だ。店の探求はこれで終わり、てんぷらがカラッと揚げられていて酒への欲求を止められなかった。メニューに八海山があったのでそれを頼んでしまう。隣にいた内が一瞬にらんだような気がしたものの、運転は彼女任せだから気楽である。
蕎麦屋のテンプラに冷やした酒はよく合う。昼酒というのがたまらない。
二杯目を我慢して蕎麦と対峙する。
うん、うまい。こんな田舎でこんないい蕎麦と出会うことができるとは、ちょっとびっくりだ。
***
内に言わせると、もう一軒、もっと評判の店があるそうだ。
小さな楽しみが増えた・・・。
(2014年10月02日)
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本日の料理を順番に並べてみよう

なにかおもしろい素材のスープ

魚

肉

デザート ?
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<1753> 本郷駅近く、家族的フレンチ
丸の内線を本郷3丁目で下りた。
東大工学部に研究機材を売りこんでいたころの記憶しかないから、あれから何年経つのだろうか。
で、それと同じくらい久しぶりに四組の老(このことばはそぐわないけど)夫婦が集まった。
先般送別会をやった、こんどは奥方たちを誘っての第二弾の送別会だ。
駅を出て、雨が降ってもほとんど濡れないほど近い距離の、建物の三階にそのレストランはあった。そんなに近くなのに、外看板やアテンションが出ていないので簡単にはたどり着けない。
店の名をフランス語で『ククセモア』という。

おもしろい模様のランチョンマット
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「たしか孫が生まれたばかりのころかと思う。芝三田の、清朝王族につながるお婆ちゃんがやっていた北京料理店に集まってオーダーバイキングをいただいた。それ以来だろうか。あのときは子どもたちも集まって、東京タワーを背景に撮った(?)記念写真も持っている」
「そのあと忘年会などで何度もお会いしているけど、こうやって8人が一堂に会するのはずいぶん昔の話ですね」
50歳代が60歳代になって、この10年は人生の秋、いろいろな変化があった。
そんななかで前田兄も土佐国に移住する。
他の家族にもたくさんの変化があった。
元気だった緑の葉っぱが光合成の機能を失って茶や黄や赤に変色して、強い風に吹かれていままさに落ちんとしている。
わたしは真に“日々是好日”を望んでいるのだが、それを許してくれるのか、先のことを考えると、怪しい雲が漂っている。どうか杞憂であって欲しい。
周辺のざわざわとした雰囲気をけっして望んでいるわけではない。しかしながら人の世は落ち着いた生活を許さない。自分の心に巣食った煩悩という悩みの源が、離れてくれないのだ。
***
『ククセモア』はテーブルを囲んで6席が基本、したがって一日一組の予約しか取らない。8人で予約のわたしたちのために補助テーブルがくっついた。(完全予約制 03-3813-1962)
ロブションで修行されたまじめなご亭主が奥様といっしょにもてなしてくれる。
3種類のコース料理のなかから6000円という一番安い“梅コース”をあらかじめ頼んでいた。
こういう料理はシャンパン(スパークリングワイン)で始めるべきなのだが、ビール党がゆずらないので止むなくそれで乾杯。あとは赤ワインで、店主の奥方がソムリエ役、ミドルテイストのリーズナブルワインを選んでくれた。

2 bottles of wine
梅コースゆえに「ほっぺたが落ちそうになるほど美味」だったとは言わない。
問われれば「ふつう!」というしかない。しかしこの夜は料理よりお話が美味しい。久しぶりに連れ出した内が盛んにでしゃばっていたのを、心地よい酔いのなかで覚えている。
***
「来年5月に京都で会いましょう」 が別れの言葉となった。
(2014年9月23日)
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更科で打ったそばの寿司

毎度
きれのよい蕎麦
この日は挽きぐるみの田舎蕎麦! |
<1752> 観音裏大黒屋にて前田兄を送る(2)
送前田兄 帰高知
隅田奔流観音裏
秋桜涼風闇深沈
勧君更盡一杯酒
出立明朝無故人
この朝、冒頭に掲げた拙い漢詩を、思いつきで読んだ。
お遊びと言ったら失礼になると思いつつ、筆を持って色紙に書いてみた。
王維の”元二の安西に使するを送る”を真似た。不真面目さはなく真情の吐露と考えて欲しい。
前田兄は隅田川の向こう岸の住人であったから、浅草界隈は庭のようなもの、観音裏ではよく遊んだ。
桜花爛漫の花見酒もあったし、寒空の雪見酒もあった。
今は秋、墨堤にはさみしがりやのコスモス(秋桜)が風に揺れている。浅草観音裏のこのあたりは、闇に沈んであくまで静かだ・・・。
***
酒が“乾坤一 純米大吟醸”に変った。酒米山田錦を65%も磨き落とした上等な酒だ。
一升瓶に半分ばかり冷えていたのを、そっくり膝に抱えた。
鉄器の急須状の酒器から、猪口に注いで口に含む。舌のうえで転がすと発酵した米こうじとアルコールとのバランスが素晴らしくよい。
なんとぜいたくなことか。
めずらしい、純白の更科で打った蕎麦寿司がでてきた。
モノの本によれば、「昭和4年に片倉師は両国“與兵衛ずし”主人からそば寿司を教えられた」とある。その流れをくんでいるに違いないこのそば寿司、「食べてしまうのがもったいない!」
***
直情怪行(けいこう)型の氏は土佐の“いごっそう”というにふさわしく、気骨のある快男児だ。
「土佐藩士らしく」といっていいのか、ずっと“居合道”に精進して、いまや五段の腕前。
若者の元気のなさと精神のゆるみを指摘して、憂愁の念を吐露する。
「戦場に引きずり出して精神を鍛えなおさねばならん!」 と一直線だ。
日韓・日中の国際関係においても政府外交の弱腰を容赦なく批判する。
「ズドンといけ!」 仲間内でのはなしだから急進的意見も許される。
概して己の信念を貫く“いごっそう”ゆえに、たまには意見の衝突も起きる。
しかし底に流れる真情で通じ合っているので、ディベートは和やかに幕を閉じる。
***
〆の蕎麦を食べ終わったとき、ご主人が現れた。
一番弟子の旅立ちにこの方を欠かせない。
「寂しくなるけど、たまにはお店に顔出してくださいよ」 まるで同級生交歓のような和やかさの中で、席はオヒラキとなった・・・。

つぎはおでんの店、『おかめ』・・・。
(2014年9月17日)
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獺祭スパークリング
四合瓶が
あっという間に空いた

いつの間にか
鴨すきが・・・
ほうれんそうの緑が美しい
この鋳物の鍋
その辺りで売っているものとはモノがちがう
30年も昔
片倉師のところで叩いてもらったもの
現在ではつくることができない、と聞いた
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<1751> 観音裏大黒屋にて前田兄を送る(1)
長いつきあいの友人が人生の終盤を迎えて、生まれ故郷の高知の田舎に帰る。
奥方の賛同もあって決心した。悲喜こもごもあって、言葉では言い尽くせず、ただ寂しさが募る。
送別会を浅草でやることになった。
庶民の人情が篤く、すこしばかり江戸の情緒が残っている町。人の心があったかくて、食い物が安くて美味しく、昔からやっている飲み屋が客を大事にしてくれる。暖簾を上げれば「あーら橋ちゃん、いらっしゃい。お久しぶりね、元気!」 などと嬉しそうに迎えてくれる。
宴を催すならこの街しかなかった。
店は、このグループの原点ともなった『蕎亭 大黒屋』、敷居は少し高いかもしれないが、ほかのお客とはちょっと違うような迎え方をしてくれる。
何回も書いていることだけれども、ご主人は蕎麦の鬼といわれた一茶庵・片倉康雄師の晩年の直弟子で、長野駒ケ根の丸富、吉祥寺の上杉、鎌倉の竹之家、八ヶ岳の翁、達磨、車屋などの有名店が先輩あるいは同門である。
実はこの日集まった、前田兄とグルマン氏のお二方はかつて大黒屋主人に”にわか”弟子入りをしたことがあって、以来、前田兄が一番弟子、グルマン氏が二番弟子を自称している。一番二番のわけは単純。蕎麦打ち道具が二階に揃っていて、最初に二階に上ったのが前田兄ということ。
その後道具いっさいをととのえて、そば粉は大黒屋さんで調達して自宅で打った。
何度かごちそうになった蕎麦は、蕎麦粉のせいでしょうか、美味かった。
そんなゆかりのある店なので、年の仕舞いの忘年会もここでやるし・・・送別会もここ以外は考えられなかった!
***
この日(9月10日)は全国を豪雨が襲って北海道や東北に特別注意報が発令された。夕方の短時間、東京の下町もこの雨にやられて、突然マンホールから水が吹き上がるシーンも見られたようだ。わたしは遅れて地下鉄に乗っていたために、豪雨を免れた。それどころか、そんな雨が降ったことも知らない。
「大丈夫でしたか?」 今日も参加してくれたM女が気を使ってくれた。
「ええ、まったく! なにかあったんですか?」
それよりも駆けつけ三杯。でないと、先行する皆さんのペースに合わせられない。
ちょうど店に酒屋さんが見えていて、珍しい酒がちらりと見えたのでそれを所望した。
家庭ではなかなか手に入らなくなった“獺祭”、そのスパークリング酒だ。しかも底のほうに白いものが沈殿した濁り酒。
この酒、二通りの飲み方ができる。ひとつは静かに天地をさかさまにして濁りが平均に行き渡ったところで飲む方法、もうひとつは、はじめドライな上澄みを味わい、その後スイートで甘酒のような沈殿物を楽しむという方法。細部にこだわる日本人らしい発想だ。
“Is it cool ?”
聞くところによればオバマの迎賓館パーティ以来、海外の賓客がこぞって獺祭ファンになった由、マーケティングのベテランなら、すぐにスパークリングを作れば必ず売れると考える。
しかしマーケティングで生きてきたわたしも、こと日本酒に関しては、そういった金儲け発想を好きにはなれない。あくまで個人的に、日本酒は日本酒としての美酒を追求すべきと考える。(勝手ですねぇ!)
口当たりの良い“獺祭スパークリング”は瞬く間に、五人の胃の中に沈んでいった。
(つづく 2014年9月16日)
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カップスープとサラダにパン

店内のスペースは広い

食後に樹木の品定め
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エントランスのチョークメニュー

壁の絵
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<1750> ブラッサリーAU COJU(オコジュ)
木曜の昼、内に誘われて、一度行ったことがあるというレストランでランチを楽しんだ。
京王線の南大沢と堀之内のあいだの奥まったところに立地するレストランで、はじめに結論を言ってしまえば5点満点で4点と、十分に満足できる内容だった。
***
広い敷地の前面に、木造平屋のレストランが癖のない姿でたたずんでいる。
平日の1時前に満席で、なんと待ち客が三組もいるとは、驚き。
もちろん97%は女性客。界隈の有閑マダム(いるのかな?)や、子供を学校に送り出したPTA仲間のみなさんで、何を話しているのでしょうかねぇ。そんな中に男が入り込むのは勇気がいる。
ウェイティングリストに名前を書き込んで外に出た。
壁面のとなりには植木用の植物が、高いのも低いのも、花の咲いたのや幹と枝だけのが、雑然と並んでいる。鉢巻きをして、ゲートルと地下足袋すがたの職人さんが、昼休みを終えて剪定をはじめている光景から、ここが植木屋さんであることがわかる。
裏側には野菜や果物、菓子類や洋食器など、やや高めの値段がついたMD(商品)がレストラン以上のスペースに広げられている。

内はそもそも、これらが別の店と思い込んでいたようだ。
それは違うだろうと感じて、レジで作業をしていた店の方に、そのかたがオーナー夫人の雰囲気があったのでたずねてみた。
「はい、三つとも経営は同じです。生鮮野菜などは、週に三度ほどトラックで、山梨県の農家に買い出しに行っています。レストランでつかっている野菜は鮮度も抜群ですから、おいしいですよ」 というご返事。こういう業態があってもいい、客が楽しめる。
植木屋さんが本業で、食と食材の提供はあとからつけたしたのではないかと想像しながら物色していると、順番が来たというCメールが届いた。
***
ランチメニューは日によってちがう。この日、わたしはアンチョビソースのかかったグリルドチキンを、内はチーズのきいたトマトクリーム・スパゲッティを択んだ。食後のデザートとコーヒーをつけておひとり様1600円。
まずごぼう味のスープが木目もあらわなテーブルに置かれた。うん、まずまず!
つづいて『鮮度抜群』と強調された野菜のサラダとパン。選択を問われなかったから、ご飯は用意していないようだ。
メインは少し遅れて出てきた。きちんと焼かれた鶏のモモ肉に塩味のアンチョビソース、このソースがケチられたせいか、肉の味が足りない。

気持ちに余裕があったのでそのことを、「味が薄いのはお客様の健康のため」 と善意に解釈した。頼めば塩コショウなど、なんだって用意してくれたのかもしれない。
すべてをいただいて、老夫婦のお腹はほどほどに充足された。
***
帰り際、内がいみじくも指摘した。
「隣の方も、その向こうも、こちらも、私たちが席に着く前からいらっしゃった方々!この時間の女性客はコーヒー一杯で粘るのよ!」
ご自分がいつも同じことをやっているからよくわかっている。
わたしだって、そのぐらいのことはわかる。
「こんどは夜に来ましょう!」 この日も極楽トンボが舞っていました。
さて、店の名前を“Brasserie Au Coju”と書く。フランス語くさく感じるが、「おこじゅ」はれっきとした日本語。
多摩地域の昔の方言で「仕事の合間、一服してお茶やおやつを取る時間」を意味するそうだ。一服だけするなら、1時間以上やるべきではない!?
(2014年9月15日)
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9月13日
朝日デジタルヘッドラインより
謝って済む??? |
<1749> 覆水盆に返らず〜朝日新聞の失態に思う
「賽(さい)は投げられて」、「朝日は日本を貶めた」。
すでに起こってしまった事実を元に戻すことはできない。朝日新聞はどう償うのか?
この1か月ばかりずっとくすぶりつづけていた朝日新聞の報道二件につき、やっと朝日が謝罪の会見を開いて、木村伊量(ただかず)社長が深々と頭を下げた。
朝日といえばマスコミ界の巨人で実績・実力ともにトップにあって他の追随を許さなかった。「ペンは剣より強し」の御旗のもとに権力の横暴を厳しく批判して、今日の地位を築きあげている。やや左傾向でリベラルな記事にインテリ知識層の読者は多い。
市民の味方であるはずの朝日にいまなにがおきたのか!
***
ひとつは「東電撤退」という原発関連の記事。
福島第一原発の吉田所長が事故調の聴取に応じた“吉田調書”をめぐって、「所員の9割が署長命令に違反して撤退した」 と報道した。
今年の5月20日朝刊一面でのこと。
この記事は早くから問題視されていたが、朝日は無言を通した。市井の民は、この間社内で侃侃諤諤があったと想像する。広範な影響力をもつこの手の報道がそのまま済まされるわけはなく、朝日たたきの輪は広がって、ようやく9月11日になって重い腰が上がった。
冒頭、「多くの東電社員が逃げ出したような印象を与える間違った記事を載せた。読者と東電の皆様におわびする」 と謝罪したが、「都合のよい部分だけを切り取った意図的な報道ではないか」 との質問には、そうではないと否定している。
しかし業界人ならその否定が嘘であることをよくわかっている。何と言われてもひたすら否定するのが鉄則なのだ。
かつて夏目漱石や二葉亭四迷を朝日に引っ張った、熊本出身で東京朝日の主筆・池辺三山は次のように言った。
「新聞は商品であり、記者はその商品を作る職人」
その日本一優秀な職人が、取材もしていない不正確な内容を、正々堂々と一面に書き殴るとは。朝日も落ちたものだと思わざるを得ない。
加えて、そのマイナスの波及効果が大きかった。
「困難に際して、命令を無視して逃げる日本人!」の情報は瞬く間に世界に広がっていった。
NYタイムスは「数百人の所員は、命令に反して被害を受けた職場を放棄した」と書き、英紙タイムズは「勇敢にメルトダウンに立ち向かった所員たちは『フクシマの50人』として有名になったが、全く異なる恥ずべき物語があらわとなった」 と報じた。
***
もうひとつは「従軍慰安婦に関する報道」だ。
30年も前の1983年に吉田清治氏が書いた手記が発端となり、朝日はこれを取り上げて特集記事を組んだ。
その手記には「済州島において、日本軍が若い女性たちを木剣で殴ったり蹴ったりしてトラックに詰め込んで連行した 云々」 といった扇情的な内容がつづられていた。ところが、これがまったくの大嘘。
1995年に自身が、「ウソでした」と暴露したのだが、そもそもこの方は現実と虚構がつねに判別できない方、自分を売り込むためには平気で虚言を弄する方、ではなかったのか。
加えて学者の調査によって、済州島における「強制連行はなかった」ことも証明された。
朝日は「親に売られた女性」のケースを、そうと知っていて、強制連行されたと手の込んだねつ造劇を仕組んだともいえる。
はやい時期に「嘘であった」と謝ってしまえば、その後の歴史的ともいえる日韓関係その他の瑕疵には至らなかったと思う。
一連の報道について、朝日がやっと記事の取り消しをしたのは2014年、今年の8月5日のこと。その30年間で何が起きたかといえば、国連で人権問題の標的とされ、日本の教科書にも「従軍慰安婦」の記載が義務付けられ、補償問題がぶり返され、韓国での日本たたきが決定的というまでに拡大した。
その責任は重い。
***
これほど大きな報道被害って、戦前のことはさておいて、過去にもあまりなかったのではないか。
対外的な、目に見えない損失は、きっといまの朝日新聞の総資産などとは比べものにならないくらい大きいだろう。
ただでさえPR下手で、イメージのほうが実態よりもはるかに悪い、唯一の先進国日本。二つの報道によってこうむった、さらなるダウンは否めない。
忠実な市井の民が必死になって汗を流している中で、朝日の犯した罪は許されるものではなく、ただ単に当事者に謝ってすむというものではないだろう。
”国賊”といわれても仕方ない。大昔であったならば即刻“獄門!”となっただろうが、現在はせいぜい頭を下げて給料を下げられるだけですむ。
大朝日が守るという”連帯責任”の悪弊というに思いがある。
重要な記事は署名して報道すべきではないか・・・。
(2014年9月12日)
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こんなにきれいなときもある |
<1748> 三味線語り、紫文の宴会船(4)
話芸の達人というのはすごい。たとえば落語。
落語のストーリーを文字にして紙の上で見たら、なんと下手くそな文章かと思う。
それが名人の口にかかったら、ビビッと生き返って、背筋が寒くなるような名調子となる。なんで違いがでるかといえば、その差は、話し手の”抑揚のつけかた”と”間”の妙にある。
上手と下手はそこがまるっきりちがう。はっきりいって、いまの若手の落語家の中には、これがきちっとできている方が少ない。
三味線の弾きがたりもおなじように思う。
***
師匠の芸には同情すべきこともあった。
小唄長唄・常磐津のたぐいは静かなお座敷で披露されるべきもの。
テケテン♪
・・・青柳の糸より胸のむすぼれて もつれてとけぬ恋のなぞ・・・
チリトテチン♪
・・・女心のつきつめた しあんのほかの無分別・・・
静かなところで情緒たっぷりの芸を味わうのが“たしなみ”というもの、ざわついた宴会席では歌い手の心情が届かない。そう、こんなシーンが理想だ。
しー、おしずかに!
聞こえてくるのは船端をたたく水の音、鈍い光の三日月夜、肩を抱いて寄り添って、低くはじまる新内(しんない)の謡・・・。
紫文師匠の得手とする芸”新内”ならなおさら、しっとりとした静寂がないと、いけません。
こまやかな息づかいまで聞こえて、三味線の爪引きに引きずられるように寄り添った男の手がのびて・・・。
***
そういえばこの師匠には幇間(ほうかん)の雰囲気がある。
連れの美人若女将に、「浅草にはまだ幇間さんがいらっしゃいました?」の質問をしてみた。
”幇間”とは別の呼び方で“太鼓持ち”、あるいは“男芸者”と蔑まれることもあった。その名が示すように、芸者(芸妓)さんたちの芸の間をとって、男にしかできないプロの芸を披露する。見方によれば、「粋人の到達点」ともいえる。
それが、平成不況この方、全国的にもずいぶん減ってしまった。
「いまも、いらっしゃいますよ。5・6人ぐらいですね。桜川米七さんとか若い方も増えて、女性の方も」 のご返事。
聞きえた情報では向島の幇間さんはすでに消えている。京都には一人か二人で、浅草も風前の灯(ともしび)かと思っていたのに、「実際は大事に育てている」ようで心強い。
伝統芸は大事にしないといけない!
***
船遊びも終盤にさしかかって、「いろは」などをやっている。
「いろはの”い”の字はどう書くの!」 と囃されて、それを尻で書くという不謹慎なお遊び。
浴衣の君が指名されて、舞台のまえで恥じらいを浮かべていた。
さて、どんな字を書いてくれるだろうか・・・。
(お終い 2014年9月4日)
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長唄語り
柳家紫文 |
<1747> 三味線語り、紫文の宴会船(3)
♪ 最初はねー
さほどよいとは思わねど たびたび重なる親切にー
引くに引かれぬ仲となり
今じゃこちらも 命がけー サノサ ♪
すこし浮気心を持った男(女)なら、この気持ちがわかるでしょう。そんな大人の、「好いた、好かれた」の機微を、情緒を込めて歌う”サノサ”。秋田音頭なども同じだけれども、かならず終いに落ちがある。その落ちを聞きもらすまいとして耳を澄ます。それがサノサのミソ。
♪ 何だなんだなんだよー
あんな男の一人やふたりー 欲しくばあげましょ のしつけて
アーラ とはいうものの ネー
あの人はー ♪
とじらせておいて、「・・・・・・・」 落ちを歌う。
歌い手の東京ガールズは、成熟した大人のウイットを歌って粋人たちを喜ばせ、その返ってくる拍手喝采を楽しんでいる。
***
大騒ぎが一つの幕を下ろして、いよいよ真打の紫文師匠の登場。武器は三味線!
♪ チントンシャン
火付盗賊改方・長谷川平蔵が いつものように 両国橋のたもとを歩いておりますと
一日の仕事を終わったであろう・・・・・
出た、出た、おなじみの鬼平が・・・。
そのうち、人物は鬼平から大岡越前にかわった、いつのまにか。
しかしネタは同じで、こちらにはバレている。
ネタバレがあっても、上手なかたは話し方で笑いを誘う、それが芸というもの。
***
連れの美人女将がいみじくも指摘してくれました。
「声が出ていないですね」
わたしも感じている。
「このところずっと、そのことを感じています。くぐもった声は何が原因なのでしょうかねえ。体調が悪いとかというのではなくて、この方の癖なのかもしれない。つまり、いつも喉を抑えるような発声をしているから、それが癖になって、しゃがれたような、押しつぶしたような、前に出ない声になってしまった・・・」
それに、「話をこねくり回している。こういった話芸は、理性で考えて笑ったり感動したりというものではないでしょう。瞬間芸ですよね。聞いた瞬間、わはっは、と笑う。それでいい。あるいは少しだけ考えて笑う。それがいい」
「いろいろネタを考えているのでしょうが、どうも考えすぎで、初心に帰ったほうがいい」
こんなことを言ったら師匠に怒られそうだが、正直な感想だ。
(つづく 2014年9月3日)
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2020年の日本を
「不機嫌の時代」と予測した
ピーター・アスカの
『不機嫌な時代』 |
<1746> 不機嫌の時代、不機嫌の女性
涼しくなった朝のパン屋で不機嫌に出会った。
つんと澄まして、視線を曲げないで、中年のおばちゃんを見下ろすかのような蔑みの態度。声をかけたら「ウザい!」 といわれそうだ。
わたしはすこし離れたところから、さりげなく彼女を追う。
よく見れば垢ぬけた美人顔。
年のころ30少し前、ダークグレーの落ち着いたスーツで細身の体を包んでいる。きっと独り身だろうが、身のこなしが「わたしはエリートなのよ!」 と言っているようである。
***
この態度が生まれつきだとしたら、損な性格だ。
あるいは昨日の夜のあれこれが原因なのか・・・好きな男性と思いを遂げられなかった、あるいは上司にこっぴどく叱られて「わたしは涙なんか見せない」と新たな決心を固めたのか、無表情の鉄面皮という言葉が浮かんだ。
(きれいな顔してもったいない!)
おっと、これは性差別の言葉、撤回する。
(笑顔はいらない、せめて微笑みを浮かべてくれたら、世の中もあなたの運命も、ずいぶん変わると思いますね。いかがですか)
そんな思いをもった。
***
最近よく、不機嫌な女性を見かける。
30年前にはついぞ見たことのない、露わな不満顔。
少しだけ体が触れただけでキッと睨む方もいれば、このあいだは、混雑する通勤電車のなかで女性の舌打ちを聞いた。
で、どうしてこんな時代になってしまったのと問いたくなる。
うーん?これは深く考えなくては・・・。
答えの一つは、「あなた方がそうしたのよ」 という“団塊の世代”責任論。それをいわれると頭が痛い。私たちの世代があまやかした、家庭教育を誤った!ならば文句を言う筋合いではないが。
次は教育責任論。伸び伸びと開放的に育った結果、縛りの難しい社会に適応できなくて考え込んだりふさぎこんだり、むやみに世間に反感を持ったり・・・。
さらには社会進出結果責任論。
仕事の場が増えて、責任も重くなる。仕事上の日々の悩みは男子同様に深い。どこまで耐えられるか。耐えられないで逃げ出したほうがよいのか、うーんと悩む。
社会進出そのものがすでに困難を内包していて、不機嫌を醸成しているという説。
***
安倍総理は最近「女性の社会進出、管理職歓迎」 を声高に謳っている。
公務員は当然右に倣え、さらに民間企業もそれに追従し、日本国全体が「イケイケ女性!シンドローム」の流れになっている。
悪いことではないが、リスクの計測はできているのかな?そしてその予測に対する対応まで計算しているのだろうか。
朝日新聞が指摘した森まさこ少子化担当大臣のように、「何もしない大臣」をたくさん作ったら、日本はまた危うくなる。
どんな組織でも同じ、きちんと能力を見極めて対応する必要がある。
そして、できることなら、「不機嫌から笑顔へ」、そんなムーブメントを起こしてもらいたい。
(2014年9月1日)
追記) 山崎正和氏が40年も前に書いた『不機嫌の時代』という本が書棚にあった。
社会や時代が変化すれば、人間の役割や存在感も変わる。明治以降、戦前の平民は紙切れ一枚で徴兵され、逆らうこともできなかった。人間は天皇の赤子(せきし)で個人の自由は限定的なものであった。
これに対し、押しつけと言われる戦後の憲法だがそれによって、主権が国民に戻されて、選挙できるようになり、また男女の権利も平等化された。
文明が高度に進歩するにつれ人々の生活は複雑になって、ストレスの多い時代を迎えた。今もこれからも、思考や感情がはたらく基礎になるトーンは、不機嫌なのだろう。
みなさまの感じ方はいかがですか?
(2014年9月2日)
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東京ガールズ

かつては三人でやっていた
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<1745> 三味線語り、紫文の宴会船(2)
船の揺れがおさまったあたりで、東京ガールズのお二人の漫談と”さのさ”。
彼女たちはNHKの昼の演芸で前座をやっているほか、最近はあちらこちらからお呼ばれがあって商売繁盛、けっこうです。
紫文師匠の三味線のお弟子さんがチームを組んで、「前向きにやろうよ」とスタートした結果、「今や師匠を凌ぐ人気と実力をもつようになった」。
などといえば師匠が怒るのは当たり前、いつまでも弟子は師匠に頭が上がりません。
素直にいえば、屋形船に50人も乗って酒が入れば、ワイワイ騒ぐのがいい。まさしく東京ガールズの出番なのだ。
***
刺身も出るし、てんぷらが次から次へと山のように並べられて、貧弱な料理を予想していたのが、みごとに、よいほうに外れた。
酒類もビールに日本酒、焼酎などなんでもござれの大盤振る舞い。
こりゃあ食べなきゃ損、飲まなきゃ損という気分になる。
お客様に楽しんでもらいたいという主催者の意向が垣間見える。きっとこれはプロデューサーのN子さんの思いが強く入っている!
「一瞬のもうけ主義より、末永くお付き合いをお願いします」 というお考えなのだろう。
結果、だいぶ残してしまって、あとから「あーら、お土産に包んでもらえばよかったのに!」と叱られてしまった。しかしてんぷらは、揚げたてこそが“てんぷら”だ。
紹介が後先になったが、柳家紫文という三味線語りの、年に一度の屋形宴席に、妙齢の着物美人とふたりで乗せてもらった。
***
精悍男子と浴衣の君と、その子どものことが気になっている。
なんといっても顔を突き合わせて酒を飲んでいる。そのころには日本酒のヒヤにかわって、“饒舌益々冴えて”といきたいところだが、ガールズの話芸の邪魔をしてはいけない。
浴衣の君が、
「以前高円寺に住んでいて、お店のほうにも通っていたのです・・・・・・、今は埼玉に引っ越してしまいましたので、少し縁遠くなっています。お会いする機会がありましたら、よろしくおねがいします」 みたいなことを話された。細かな素性は後日、N子さんに尋ねればわかるだろう。
そこで子どもにカメラを向けてみた。
肖像権? 子どもにもあるんだろうな、ま、いいだろう。
また精悍男子の目も怖い。それでも、浴衣の君がよろこんでアングルに入ってくれたところをパチリ。
拡大してみたら、みごとな目寄せ、やっぱり4年生だ。

船がお台場の沖に錨を下すころにはとっぷりと日も暮れて、お遊びにはいい雰囲気だ。
近くに見えるフジテレビは、永遠の繁栄を誇るかのようにきらびやかな光の衣装をほどこし、ホテル日航東京が巨大戦艦のような威容を見せている。
(つづく 2014年8月31日)
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酒肴

あれに見えるはホテルじゃないか!
お台場は常に新しく!
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男の子?
女の子?
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<1744> 三味線語り、紫文の宴会船(1)
夏の終わり、久方ぶりに浅草橋から“鈴木屋”の屋形舟を楽しんだ。
50人乗りと屋形のなかでは図体の大きな舟だから、“屋形船”の文字を使うべきだろう。
今回は三味線語りの、柳家紫文師匠の企画イベント。
座席は掘り炬燵式で、一つテーブルに8人がお見合い風に座る。そのグループが左右に三つずつ、合計48席。
貸し切ったわけではなく、個人的な参加である。
***
この日早朝は土砂降りの雨だったのが、10時過ぎに雨がやんで晴れ間が見え始めた。それと同時に涼しさがどこかへ行ってしまって、服装に悩んだ。結局長袖に、寒さ対策として夏のジャケットを手に持った。船遊びの天候としてはよしとしなければいけない。
4時半乗船予定が、30分ほど遅れて乗り込んだ。
わたしたちの前にはTシャツ姿の、ガシッと締まった精悍男子と、その妻らしき浴衣の君、かれらは40をすこし越したばかりという男盛り、女盛り。浴衣の君は竹下夢二の美人画のモデルのような、細おもてのゆかしき方で、精悍男子に寄り添っている。具体的にいえば、身体の一部を接触しているということ。
精悍男子が、「ああ、いいなあ。今日は思いっきり楽しもう」と、叫ぶように言い放った。
そんな男子を素直な笑顔で見上げる浴衣の君。
***
しかし世間の夫婦とはちょいと違った匂いがする。
なんだろう・・・・・?
こちらの連れの若女将は、「でも、ご夫婦でしょう!」とささやいた。
実は、この二人には小学4年生の子供がくっついていた。髪をおかっぱのように長くして、背中に「ITALIA」と染め抜いたセリエA(アー)のユニフォームを着ている。男の子なのか女の子なのかがよくわからず、今もって見解が分かれたままでいる。
この子供が可愛いのだが、なぜか不満げである。
浴衣の君は、「この日の船のことが説明不足であった」ことを理由に挙げたが、4年生は子供らしい笑顔を見せない。
船は神田川をくだって柳橋を過ぎると、すぐに隅田川に出る。雨上がりの隅田の本流は、水量が増えているのだろう、流れ方が違う。
右に左に揺れを感じる頃には酒が回ってきた。そのころには4年生も馴染んできたのか笑顔を見せるようになった。
さきほど「二人には、世間と違う匂いがする」と書いた。
10年以上も連れ添った仲なら他人行儀はないし、ラブラブ状態を脱しているはず、さらに、普通なら夫婦のあいだに座るはずの4年生が、精悍男子と離れて浴衣の君の隣で浮かぬ顔をしているのだ。
まるで、「わたしからママを取らないで」 と、訴えているようにも思える。
4年生が厳しい父親から離れるというのはどこでもあり得ること、しかしそれとも違う違和感がある。
***
刺身が目の前に並んだ。
普通の刺身が人数分だけきれいに切りそろえてある。
マグロの赤身、イカ、ハマチかブリ、ヒラメにサザエ。
前に座る大人は、お二人ともビール党、よほど喉が渇いていたのか、たてつづけに5杯、6杯・・・とどまるところを知らない。
そのうちてんぷらが供される・・・・・。
もうすでに前座の東京ガールズの芸が始まっていた。
(つづく 2014年8月30日)
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切り立って立つ西穂高が顔を出した
さあ進む?
それとも引き返す?

真中やや右の尖ったところが独標
西穂高からさきはガスっている

岐阜県側の山々
左手に突き出た山が笠が岳
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西穂高岳独標
2701m
登頂!

美味、飛騨牛の陶板焼き |
<1743> 上高地から西穂高・独標行 (6)鋸歯の岩山へ
朝は早くやって来たが、十分にとった睡眠のおかげで体調は回復した。そのように思えた。
しかし前日の状態は普通ではなかった。2700mの高さにある独標まで高低差ほぼ300m、距離も短いというものの、こういう時が一番危険なのかもしれない。
山登り愛好者の方にとって“独標”は初心者の山といわれ、知らない人はいないと聞いた。その理由は西穂山荘から距離が短く時間がかからないこと。
また、南から険阻な西穂高の高嶺にたどり着くためにはここを経由するしかなく、その先は上級者用といわれているため、独標で折り返す方が多い。
新穂高ロープウエイの終点からも尖った山はよく目立つ。
“独標”の名は普通名詞のようでかわいそうだから、もっと凛とした名をつけるべきという意見もあるようだが、わたしはかえって、孤高を保っているような名で好ましく思う。
おっと、そんな悠長を言っている場合ではない。
***
歩き始めの足元は、整備された岩が広がる。濃霧対策だろうか、ずっと道標の矢印が大きく目立って、道を間違えることはない。
短い灌木しか生えない尾根道はすっきりと先まで見通せる。
孤高の監視人ともいえる登山隊長が、その行く手に鋭い視線を投げかける。
切り立った大岩のあいだを、太った肉体を確保しながらよじ登り、三角点まで到達するにはかなり骨がおれた。途中で投げ出すわけにはいかない。
苦しい息のなかで自身に活を入れる。
そして登頂!
***
<道はますます険しくなる、鋸歯(きょし)状の小峰を超えること五つ六つ、最高峰奥穂高の絶巓(ぜってん)に攀じ登った。(鵜殿正雄)>
明治の登山家の文章は正鵠を得ている。
「鋸歯(きょし)状の」という形容詞は穂高全体を表すには的確だし、「絶巓(ぜってん)」は『独標』に呼応しているように思える。
頂上は猫の額ほどのゴツゴツした岩場でゆっくり休める場所もない。足元が安定しないから、登頂記念の写真を撮るのに身体が揺れた。
そのさらに先の、西穂高に向かう岩場は、霧に覆われて足元すら定かに見えない。霧の流れの中から西穂の頂が瞬時顔を出したが、あっという間に姿を消した。
***
危険がイッパイの独標だったから、戻れたときには心底ホットした。
西穂山荘を経由して新穂高ロープウエイまでの下山は鼻歌が出るほど快適だ。
振り返ってみれば鋸歯(きょし)状の小峰は相変わらず霧の中、先ほど上った独標がかろうじて認められた。
さあ、温泉だ!
かつて平湯には、木造の温泉旅館が軒を接してならぶ、セピア色の古臭い、しかしながら藁の匂いともいえるような懐かしいイメージがあった。
冬は雪に閉ざされて他国者の侵入を阻む異界であったのに、いいのか悪いのか、安房トンネルが通じて関東の直近文化がいち早く到来するようになった。バスの直通路線も開通して、いまや完全に関東文化圏だ。
すべての日程を終えてあとはバスに乗るだけ、バスターミナル隣の蕎麦屋で腹ごしらえ。
メニューのなかで「飛騨牛」の文字が存在感を示していた。
これがこの旅一番というほど美味かった。
ビールの酔いと、飛騨肉を消化しようとする胃の働きが快適な眠りを誘って、目が覚めたときには東京に着いていた・・・。
(完 2014年8月29日 実際の登頂は2014年7月3日でした)
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右が焼岳
雲の向こうに見えるのが乗鞍
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出発の朝
ボリュームたっぷりの朝食
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<1742> 上高地から西穂高・独標行・・・(5)酸素不足で西穂山荘へ
翌朝はよく晴れて、穂高橋の上で出発前のスナップを撮ったときは、このうえなく爽快だった。
ここから西穂山荘(高度2500m)まではほぼ1000mを登る。どなたか若い方のブログでは「意外と簡単にスイスイ登ってしまった」 と書かれていたので、気持ちのなかは楽観が支配していた。
森の冷気はひんやりと、ほてり気味の図体に気分転換をうながしてくれる。
登り始めは気分もよかったが、徐々に息が苦しくなる。これはいつもの話、心配はしていなかったが、はてな、どこか違う・・・。
思えばこのところ無節操な毎日、体調管理にルーズで登山に確たる自信はなかった。しかもずっと登りっぱなしのコース、徐々にせまってくる苦しさは年齢のせいか、それとも体調不良のせいか?
そんな理屈と関係なく、酸素吸入量が少なくなっていることを自覚して、ゼーゼーハーハー、登って、登って、また登り・・・。
***
登山における事前準備というのは高山に耐えるだけの体質と持久力を作っておくことである。
わたしの場合脚力は、平生から早朝散歩で鍛えているのでなんとかなる、問題は呼吸系統。
2500mの高度では血中の酸素濃度が10%も低下するため身体内の細胞がいそがしく酸素を取り込もうとする。
その際に体重の多さが阻害要因となる。
だから苦しい。苦しくなる体質に出来上がっているのだから仕方ない。
しかし、そんなこととは関係なく、年上のお三方は順調に登っていらっしゃる。
胸の内で、(体重を落とさないといけない・・・)のことばが呪文のように繰り返される。
そういえば山登りといえばいつも必要以上に水が恋しくなるのに、この日は水への欲求が少なかった。そのことがすでに変調の前触れだったのだろう。
ふだんなら変化を喜ぶ途中の残雪にも気持ちは動かず、無感動にすぎる。
午後1時、やっとのことで西穂山荘に行き着いた。
***
我が登山隊長は「今日はこのまま独標(どっぴょう)まで登ってしまいたい!」 と恐ろしいことを言い放つ。他の隊員もそれに応じる構えでいた。
わたしはもう無理、このまま山荘で寝て待つ、みなさん、行ってらっしゃい!
山荘でコーヒーをご馳走になっていたら雨が降ってきた。
「どうしますか?」 と迷っていらっしゃる。
わたしには天啓の慈雨に思えたが、まだ登ろうとしている、わたしにはかまわず、どうぞ行ってらっしゃい!
結果的にこの日の独標行きは中止となった・・・。
***
わたしの健康状態はあいかわらず優れず、とうとう悪寒までしてきた。
脱水症状に高山病が重なったものか、2時間ほど、独り蒲団にくるまってブルブルと震えていた。
夜の団らんにも参加せず早寝した。明日、回復したら、独標に登ろう!
(つづく 2014年8月27日)
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<1741> コナツとの別れ
半月ほど毎朝散歩に連れて行ったコナツが引き取られていった。
日曜の午後、子どもたち3人が、前触れもなく玄関からどやどやと入ってきた。
そのときのコナツの喜びようがたいへんだった。自身のHOMEである四角四面の箱の、柵を越えてしまうかのような、狂ったような飛び跳ね方!我が家でこんな喜び方を、ついぞ見せたことがなかった。
「やっぱり、わたしたちの付け焼刃の可愛がり方では勝てないわよね!」
「子どもたちも、普段邪険にしているように見えるけど、可愛がっているんだよ。それと、もう4年も育てているのだから、接触頻度がちがう。だからこういうことなんだろう」
***
“イヌトモ”というのか、「犬連れの方」と言葉を交わす機会が、最近はとみに増えた、とくにこの数日は。
今朝も年配のご婦人から声をかけられた。
「ミニチュア・ダックスフンドでしょう!この茶色、うちも同じ色のを飼っていたんですよ」
語尾の上がる高い声はつづけて、
「憶病なんですよね、この犬は。 うちのはね、半年ほど前、病気で亡くなったの、膵臓癌ですって。お医者さんから余命半年って宣告されたんですよ。そのとおりに、半年で亡くなりました。可愛がっていただけに哀しかったわ」
朝は気分がいいのか、饒舌が過ぎる。
「可愛くって、夜は抱いて寝ていましたわよ」
短い期間預かっているだけですよと説明すると、
「そう、でも、かわいいでしょう」 といってから、
「この犬は太らせたらダメ。食べ物はドッグフードを朝晩決められただけ、それしか食べさせてはいけない。欲しがるから、つい、もっと上げたくなるんですけど、それをやったらダメ。病気になってしまう」 と忠告してくれた。
***
娘からは、
「夜、寂しくなって鳴いても、一緒に抱いて寝るような、変な癖は絶対つけないでね」 ときつくたしなめられていた。
しかし預かりはじめて早い時期の数日、夜中に帰ってくる息子君に対してかならず吠えて、寝ている者を起こしてしまった。
それが寝入りばなで、これから熟睡に入るというころを見計らってのできごと。
一度などは午前2時、ただでさえ夏の寝苦しい夜に鳴かれたので、眠たい目をこすりながら起きて、鎮まるまで抱いていた。当然家族は寝不足に陥り、不機嫌になる。
すぐに対策を打った。
息子君に対して、「どうにかして、手なずけてくれ。とりあえず、食べ物をあたえること。それから散歩にも連れて行って」
かれは、犬のおやつを買ってきたり、休日夕方の散歩につれだしてコーヒーショップで一休みしたり、などと努力するうちに、夜中に鳴かなくなった。
そうやって家族みんなで手あつくケアして、環境に溶け込むようになった。
そうなると、コナツの存在感は日ごとに大きくなっていく。毎朝晩、顔を突き合わせて、キスをするまでに親愛になった。なにしろ手間がかからない。人間の赤ちゃんならお腹がすいたり、おしっこをしたら泣き出す。この季節は汗疹(あせも)の心配もしなければならないし、ほかにも手間のかかることばかり。
それにくらべたらコナツは楽だ。
それに目がかわいい・・・・・だから犬にメロメロになる。犬を飼い始めたらそんな人が増える、そのことがよくわかった。
「もう1週間、もどすのを遅らせようか!」 わたしがポツリ。
しかしそれはかなわず、コナツは去って行った。心のなかに穴がポッカリ!
さあ、酒でも飲んで忘れよう!
(2014年8月26日)
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ココ・シャネル
「女公爵はたくさんいるけど
ココ・シャネルはわたしだけ」 |
<1740> 『香水』と犬の散歩
かつて『香水』というフランスの小説が脚光を浴びたことがある。
それが文庫本になった機会に読んでみたのは、15年も前のことだろうか。したがって内容についてはうろ覚えながら、鼻の素晴らしく発達した男の、羨ましいような一代記であった。もっとも、『ある人殺しの物語』という物騒な副題がついていたので、鼻の良さが幸せであったかどうかを軽はずみに判断できない。
ただ、単純に次のような疑問をもった・・・・・。
日本人にはとても思いつかないような、突飛なテーマをどうして取り上げようと思ったのか、作者の狙いはどこにあったのか?
***
今思いついたのは、文化度の高いフランスというお国柄だから、“香水”をテーマに一冊の本が書けて、それが賞までもらってしまうのも当然といえば当然、ということ。
“VOGUE” “MARIE CLAIRE” “ELLE” “20ans”などの雑誌がもてはやされるように、ファッションに敏感で、ワインや料理を吟味して楽しみ、シャンソンを聴いて哀愁を感じる。ルーブルやオルセーの美術館に足を運べば、世界の名画や美術工芸品をいつでも鑑賞できる。
シャンゼリゼ通りの周辺には世界の逸品が集積していて、金はなくとも目の保養はできる。こんな環境にいたら誰だって文化度は上るというもんだ。
香水に関しても古くから、“シャネルNo.5”をはじめとする幾多の名品が調合されてきた。とくにご婦人の関心は高い。ゆえに、こういうテーマを取り上げる下地は出来ていたということだろう。
***
18世紀半ばすべての匂いをかぎ分ける男がパリにいた。
性格はおおいに偏っていて、かれには、鋭い嗅覚と、においへの異様なまでの執着以外に何もなかった。
その異才は、やがて香水調合師として花を咲かせ、金持ちたちからもてはやされる。
“香りの魔術師”はパリのすべての女性たちを陶然とさせる。
行き着くところはどこか・・・やがてかれは美少女の馥郁たる香りを求めるようになる。誘拐して殺して、その香りのエキスを集めて自分のものにする・・・・・フィクションゆえに現実に起こりえないことが起きる。
(閑話休題のないものねだり) 美少女の香りを嗅ぎわけることができたら、きっと素晴らしいだろうなあ。間違いなく人生が狂ってしまうことだろうなあ、とは爺さんのたわごと!
***
さて、これから書こうとすることはそんな高貴なフランス人の文化性を貶めるようで、気が引ける。
でも、毎朝感じてきたことなので、思い切って書くしかない。
10数日にわたって毎朝1時間ほど、“コナツ”(夏に生まれたのでこの名がついた雌犬)を散歩に連れて歩いた。
犬の五感は人間とはだいぶ違う。聴覚はだいたい4倍程度といわれており、嗅覚については100万倍といわれるほどの、おそるべき感度をもっている。だから愛情深い人の匂いを、遠くからでも嗅ぎ分けて咆えたりする。
難しく言うと、犬は優れた嗅覚を利用して相手の尿や皮膚からの分泌物を頼りに、テリトリーを把握し社会的地位を確立する、そこまでやってしまうということ。
朝の“コナツ”も周辺を嗅ぎまわって、時としてその場所を動こうとしない。
わたしは単純に、自身の屎尿のあとかと思っていたのが、そうではない。他の犬の尿や分泌物の痕なのだ。そこで姉妹、あるいは親分の匂いを感じたのかもしれない。
しかし100万倍の感度で臭いにおいを感じてしまったら、人間ならきっと気がくるってしまうだろう。
そこで思い出したのが『香水』の主人公グルヌイユのこと。
わたしだったらきっと、いろいろな臭みに襲われて生きていられない。普通の人間でよかった、と思わざるを得ない。
追)犬には匂いを階層化するという得意技がある。複数の匂いが混じり合っていても、そのなかから個々の匂いを嗅ぎわけることができるという能力だ。そして嫌いな匂いは自らシャットダウンする。
グルヌイユにも同じ能力があったという想定でしょう!
(2014年8月25日)
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こちら150kgの関取

こなた250kgオーバー
人のよさそうなお顔 |
<1739> お盆、浅草観音裏の飲み屋“鳥せん”
8席ほどあるカウンターはいつも地元の常連さんで埋まっている。
お盆の初めの13日夕刻、「江戸の下町もお盆の入りぐらいは、空いているでしょう」 という気楽な予想は見事に外れた。予約をしておいてよかった。
6時半にはもう満席、充分に混んでいた。
浅草おやじも故郷に帰ってきて、和気藹藹をやっている。
そう、自分のことを振り返ってみれば納得できるでしょう、子ども時代に悪遊びをした友が帰ってきて久しぶりに会ったとしたら・・・、照れくささもあるけれども、それを超えてしまえば童心がよみがえって、ストンと過去に戻ってしまうことを。
***
しばし、何十年も昔のことに思考が飛んでいった。
親父について帰った盆の里帰りのこと。
小さな車両を引っ張る機関車は、単線の、すこしだけきつい坂も登れない。号令がかかって、大人の男たちが下りて後ろから押して、やっと動き出した。いまどきこんな話は聞いたこともないが、当時はそれが当たり前のことと思っていた。
車窓から見えた光景が忘れられない。青い空と白い雲、黄色く色づいた夏の稲、気持ち良い緑の風が吹きわたっていた。
ああ、間違いなく、井上陽水の”少年時代”だ。
大広間に一族郎党や友人たちが集まって酒盛りが始まる。その酒宴のまわりを子どもたちが無邪気に飛び回っていた。
子どもの食べ物の主役は、カツオの刺身と真っ赤に色づいたスイカだ・・・。
この60年も昔の情景が、信じられないかもしれないがときどき夢の中にあらわれる。
***
現実に戻った。それにしても人生はいろいろ起きる。
A氏はこのところ少しおとなしくしていたように見えた。その理由はめでたくもあり、うれしくもあり、また幸せでもある(?)。
お嬢さんが第二子を出産するというので第一子の世話役を仰せつかった、いまもやっているという。慣れないことを頑張りすぎて、普段使わない筋肉に負荷をかけて、腰など痛めないようにご注意を!
いっぽうB氏は最近離婚した息子のことを心配している。
少なからず苦労はあったと思うが、これまで人生のエリート街道を悠々と歩いてきた。その間に築いてきた中流家庭が、これからも円満に過ぎるだろうと満足している今このときに、思いがけない不幸が舞い込んできた。
その躓(つまづ)きをどう感じているのか。
「夫婦でいろいろ話したけれども、母親のほうが悩みは深いですね。なぜこういう結果になったのかを考えてみるのだけれども、親として、自分で納得できる答えが見つけられない」。
「他人があれこれ言うべきはなしではないのでしょうが、こういうトラブルはいつも、誰にでも、普通にある。親があれこれ言うよりも、放置しておくべきでしょうね」。
息子氏は独立心が旺盛で芯がしっかりしている。大学を卒業後、海外を飛び回って身につけたアイデンティティはかれだけのもの。
すでに親の世界を飛び越えて走っている。
「本人は挫折だなどとは考えていないでしょう!過剰な愛情は禁物ですぞ!」
***
話がさらに燃え上がりそうになった時、となりに大きな人が二人、のそっと座った。
ふつうではない大きな人・・・・といえば、お相撲さんです。
そういえば前回こちらで飲んだ時には、落語家の金原亭馬生師匠(11代)が顔をお出しになった。
師匠はテレビに出てくるお笑いタレントと違って、崩れた様子はひとつもなく、ずいぶん控えめで礼儀正しい。その態度に好感をもった。
それに比べてお相撲さんはダラッとしている。体が大きいからそう見えてしまう。
体重を聞いてみたら、「私は150s、こいつは250kgを超えている」 という。
二人とも髷を結っていたので、関取だろうか。
この人たちの人生はどうなのだろうなどと、頭が回ってしまった。
きっと稽古で泣いているんだろうと思うと、「頑張ってね!」という言葉が自然に出た。
(2014年8月23日)
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<1738> 戦争と父
戦争のことを父は一度も話してくれなかった。
戦友たちとの間でそういう決めごとがあったのか、それとも自身で決意したのか、あるいはいつか話そうと考えているうちにその機会を失ってしまったのか。
母はよくいった。
「父ちゃんはよく夢のなかでね、『ほら、クジラが泳いでいる』と叫ぶように言っていたよ」と。
***
父は終戦をボルネオで迎えた。
大きなボルネオ島のどのあたりにいたのか、いつこの島に渡ったのか、口を閉ざしていたのだからわかりようがない。
太平洋戦争で日本軍がこの島に進出したのが昭和17年、そのはじめのころから渡ったのか、あるいは満州から南方への“死の転戦組”だったのか、だとすれば生きて帰ることができたのはごく少数で、そのことを懺悔していたのかもしれないし、そうでなかったとしても多くの戦友たちの死をその目で見たのは間違いのないことだろう。
調べてみたい欲求も強いが、恐ろしい悪魔の扉を開けるようでその気にはなれない。
***
昭和21年の復員で、すぐに遠い親戚であった母と結ばれた。
幼年時代はいつも厳格で恐ろしい父親だった。
今思えば、戦争の後遺症が父親を侵していたのかも知れない。現代のアラブ帰還兵のようにPTSD(心的外傷後ストレス障害)を診察する心療内科の医師などどこにもいなかった時代、またそれが当たり前であった戦後、夢でうなされ、ストレスで気が変になった帰還兵は多かったのではないかと想像できる。
“恐ろしかった父”は戦争被害者の、自身の悩みであったのかもしれない。
わたしはいま勝手なことを書いているが、あちらの世界から「おまえ、とんでもない思い違いをしているぞ。日本陸軍はそんな“へなちょこ”とは違う。俺は最初から最後までまともだった。まともに君たちを育てようとした」 と叱られそうだ。
そのほうが私には嬉しいのだが!
***
戦前、横浜に住んでいた父には恋人がいた。
やはり遠縁の方で、どちらかといえば活発な女性、昔の言葉でいえば“小またの切れあがった”女。ツーといえばカーと返る存在であったような・・・なぜそんなことまで知っているのかって?
父は死を覚悟して戦場に旅立った。発つに際して、その女性と別れた。
いつのことか覚えていないが、いけないことと知りながら、父の文箱を覗いたことがある。
なかから軍服のような色に変色した彼女からの手紙が出てきた。
なんと書いてあったのかおぼえているはずもないが、父は彼女を、徴兵を免れていた自分の兄に託した。
今のわたしにとっては亡き伯父さんと、90歳を過ぎても健在の伯母さんだから、わたしは知っている。
(2014年8月22日)
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夏の象徴
ひまわり |
<1737> 天罰というべきか、この暑さ
残暑なんてものじゃない、お盆を過ぎてもこの暑さ、朝のエレベーターのなかで女性から「せめて通勤の時間ぐらい、汗をかきたくないですね」 と声をかけられて、まったく同感!
「暑いの、飛んで行け」という気分だ。
しかしこの暑さが、自分たちがまいた種だとしたら、「ひらにお許しを!」と天に謝罪すべきで、文句を言うような話ではない!
***
『地球温暖化』などということばが、性懲りもなくあらわれる。
温暖化は密接に、人の数と人間活動のありかたに結びついている。そう考える。
人が多いだけでは地球への影響は少ない。
人がどう動くかで決まる。
すなわち、人が日常的に車で移動するようになり、工場で多量の電気を使って機械を動かし、山の緑をブルドーザーで削ってゴルフ場をつくったり、コンクリートの建物を建てたり、あるいは地下の奥深くまで掘って街まで作ってしまったり、高さを競うような建物をおっ建てて拍手喝采したりと、そういった荒っぽい人間活動が温暖化を招く。
簡単な言葉を使えば、人間が競った結果の、「文明の進展、文化の発達」が温暖化を招いた。
それも節度のない欲望が。
***
人間が増えて、その人間が住む場所を造成する。狭い日本、山の木を切り倒し、斜面をコンクリで固め、平らに整地して家を建てる。
三十代のころ坂の町“長崎”を訪れたときに、山の斜面を上へ、上へと住宅が造成されているのを見て驚いた。
「広い家を求めて、あんなに上のほうまで造成しているんだ。すごいな!」 と単純に感じた。
しかしあの時代の列島改造が、最近毎年引き起こされる土砂災害の原因を作ったような気がする。
いまも広島がその災害に見舞われ多くの死傷者を出している・・・。
残念ながらできることは、亡くなられた方への冥福を祈るのみだ。
***
文明を求めておこなった開発が温暖化を招き、”記録的な”という天候異変につながり、これまでとは異質な災害を惹起する。
しかし、どんな理屈があったとしても、温暖化を受け入れてそれに適応するしかない!
熱中症対策、豪雨対策、感染症対策・・・、それぞれが、それぞれの家庭や組織で綿密な対策を講じておかなくてはならない。
いかがですか?ちょっと大げさ?
いや、しかし!
***
いま、温室効果ガスの抑制に、自分なりにできることをやっている。
移動には、できるだけ車に乗らないで自転車を使うようにしている。
4階までの階段はエレベーターを使わない。
夏は窓を開放して自然の風を通して寝る・・・熱中症対策のためどうにもならないときだけエアコンを利用する。
節水も大事、台所は溜まり洗い、残り水をベランダの緑にあたえる。
早寝早起きも電気代の節約になるし、買い物はレジ袋をもらわずリュックに詰める。清涼飲料は粉末をマイボトルに詰める。
できることから始めればいい。チリも積もれば山となる!
(2014年8月21日)
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洛中洛外図屏風 左隻
左の緑のある邸宅が
足利公方の館か

右隻
御所の南か
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<1736> 小説の中の狩野永徳〜『洛中洛外画狂伝』
狩野派と言えば、江戸時代を通じて幕府専属ともいえる絵師集団。
現代から見れば、古典的というか、保守的というべきか、個性のない襖絵を描いてきたという印象が強い。
しかし当時は、この襖絵が時代のステイタスであったというのが事実。
室町末期の政情不安定な時代に、足利公方(くぼう)や戦国大名たちの要求に応じて、次代につながる傑作を生みだしたのが狩野永徳。その作風が後の300年を通じて襖絵のスタンダードになった。
***
28歳という、青梅出身の若き作家“谷津矢車”氏の『洛中洛外画狂伝』は、その狩野永徳が主人公だ。
永徳(1543〜90)は、狩野派の祖とも言うべき狩野元信に一番にかわいがられた孫で、じい様からその才能を嘱望されて育った。
しかし、じい様の作ったお手本にすがってお家を守ることに、強く反発した。
「自分の描きたいように描く!」
世の中にはこういう方が多くいらっしゃる。何をやっているのかよくわからないが、その時期になると頭角を現して世間をあっと驚かせる。
永徳も自己の内部から沸き起こる「魂の叫び」に逆らわず、主義を通した。周囲からは批判され、疎まれ、絶え間のないトラブルを引き起こした。
しかし、天才というのは常に、自己主張を激烈に貫くことによって生まれる。
時代は室町末期、応仁の乱で荒廃した京都の町がやっと落ち着きを取り戻したころの話。
本の帯には次のようなキャッチが貼られている。
<儂は、いままでの狩野を越える! 戦国末期の稀代の絵師・狩野永徳の一代記。時の将軍・足利義輝や、松永久秀、織田信長らとの関わりの中でどのように成長したか、そして、若き天才としてどのように苦悩したかを描き出す。>
***
次に来る戦国の世の英雄譚が面白すぎるからか、室町末期を描いた良書にめぐまれない。
思い当たるものがない。
だからこの本を読んでみた。
強権の足利公方義輝や戦国大名の松永弾正が、“自身が見ている世の中”を「このように描きなさい」 と永徳に命じる。
歴史の事実であるか否かは問題ではない。斯くあるべきというそれぞれの思いを、虚実を交えて描かせる。絵のストーリーには依頼者の強い意志が含まれているのだ。
話は少しずれるかもしれないが、「歴史書とは勝者が自分に都合のよいように書き残す」もの。
日本書紀が最も顕著な例で、あれは藤原氏の史書とも言われている。
『間違いだらけの日本史』などという本が出版される理由もそこにある。そして、後世は小さな資料からでも、権力者の意図や歴史の瑕疵を見出して、真相に迫ろうとする。
これがおもしろい。
***
話を本論にもどす。
国宝に指定されている上杉本“洛中洛外図屏風”が、この本の後半の主役を務めている。
室町幕府十三代将軍足利義輝(1536〜65)によって命ぜられ、永禄8年に描かれた。
しかし絵が完成したそのとき、義輝は松永弾正の反乱によって非業の死を遂げる。
さて行き場を失った屏風はどこへ行く?
答えは単純で簡単、当時の勢力争いの道具として利用される。
完成からずっと後、織田信長が上洛したあとの天正2年(1574)、永徳は信長に接近し、信長が当時同盟を結ぶ必要があった謙信に贈られた。
その裏には因縁ともいえる偶然があった・・・。
(2014年8月19日)
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あちらこちらで力水がまかれ
かつぎやさんは勢いが増す
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境内でお払いを受ける町内神輿

イキとイナセ

外人さんも目立っている

水がかけられる

富岡二丁目は地元
手古舞がやってきました |
<1735> 富岡八幡宮大祭(2) 水をかぶって元気
昔風に言えばここは大川下流の、江戸市中から見た“川向う”ということになる。
徳川初期にこの街はなかった。
寛永の時代になって、大川の東側を埋め立てて庶民の街を作った。当時は永代島と言われていたようで、堀・川といわれる水路がやたらと多く、歩いてみればそのことがよく理解できる。
地名にも、海を埋め立てて堀を通したという名残が多くみられる。
深川を手はじめに、新川、白河、清澄、深濱、豊洲、越中島・・・、これが美濃部都政の町名変更前なら、もっと多くの名残を見つけだせことだろう。
その堀川を利用した舟運が発達し、大川べりには米蔵がならんで、商業が栄えた。
堀の端には柳が植えられ、ちょうど今頃の季節は浴衣姿の夕涼みが多くみられたのでしょう。
花町の奥からは三味線の音が流れ、端唄小唄の江戸情緒・・・よかったろうなあ!
***
このあとの展開が読めなかったが、腹ごしらえに寿司屋に入った。
海鮮のどんぶりを頼んで、上に乗っているタネを肴に冷酒でやりはじめた。
隣に若気なおなごが独り、「過疎の山梨から学生時代の友だちのところに来ました」という。
「男ともだち?女ともだち?」の質問に「女です」、とためらいのないご返事。
「それはもったいない」 といいたいことばを飲み込んだ。
その隣では中年の酔っぱらい女性が何事か板さんにからんでいた。
めでたい祭りの日でも、不幸はある。それが現実、わたしは独りでも幸せな気分。
***
しばらくの後、神輿の群が続々と八幡宮の境内に上がってきた。
ヨイショ!ヨイショ! ヨイショ!ヨイショ!大きな掛け声とともに神輿を上に差し上げる!
苦しげに台を背負う若者たちの汗が飛び散る。対して、中を担ぐいなせなお姉さんたちの笑顔がはじける。これは何を意味しているのか、きっと担ぐよりぶら下がっているからでしょう。でも男たちが頑張るのは、あなた方がそこにいるから、ですよ!

ちょっとかわいそうに感じたのは、息の上がりそうなお父さん軍団。
えっ、何か言いました?
「ってやんでえ、こちとら江戸っ子でえ、死んでも弱音なんか吐くもんけえ!」 ですって!
永代通りの出口で一斉に、勢いのある力水がぶっかけられた。その飛沫がカメラのレンズを濡らす。神輿の意気がますます上がる。

さて永代通りに出ると、いずこかの町内神輿が通りかかった。
先頭に手古舞がいた。
手古舞は宮神輿・町内神輿とともに、富岡八幡宮本祭の華。
各町内の氏子の娘が伊勢袴・手甲・脚絆・旅で身づくろいする。花笠を背中に背負って、左手に握った金棒で地面をたたく。
中学生だろうか、緊張感漂うお嬢さんがたの先導に、山本一力を感じた。
明日の連合渡御では、富岡八幡宮前を54基の町内神輿が順に出発する。第壱番からどん尻の五拾四番が出るまでに要する時間は1時間半。各町にお披露目して戻ってくるのに5時間強を要する。
その最後の1時間がクライマックスとなる。
永代橋を渡ってから八幡宮前までの見晴らしのきく通りで、すべてが水浸しになるほどのシャワーが振る舞われ、参加者も見物者も最高潮に盛り上がる。
わたしは残念ながらその光景を写真でしか見られない・・・。
(おわり 2014年8月17日)
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富岡八幡宮の例大祭
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子どもの水掛はもう始まっていた
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<1734> 真夏のビッグシャワー、富岡八幡宮大祭(1)
富岡八幡宮が3年に一度の大祭というので、おっとり刀ででかけた。
これにはふたつの伏線がある。
ひとつは先般<1728>で書かせてもらった作家・山本一力の作品『菜種晴れ』。
千葉勝山の菜の花の里に生まれた賢い娘が、運命の糸に導かれて江戸深川に養女に出される。少女は成人して大火に見舞われながらも人間的な成長をしていくという江戸情緒にあふれた人情話なのだが、印象に残ったのが富岡八幡宮の大祭でこの女の子が名誉ある手古舞に選ばれたところ、祭りのにぎわいと地面を打つ金棒の音までも聴覚にはりついて離れない。

写真は今年の浅草三社祭
手古舞のお嬢さんと写真におさまる
外国人観光客
もうひとつ、昔の仕事仲間のOB会で、深川生まれの後輩と話をする機会があった。かれは大の祭り好き、「今年は3年に一度の大祭ですから盛り上がりますよ・・・神輿ですか、もちろんわたしも担ぎます」。江戸っ子らしい、いきのいい話を聞いて祭り好きの身体が騒ぎ出した。
***
江戸っ子に「深川の八幡様!」と親しまれた“江戸最大の八幡宮”の祭礼で、「水掛け祭」の別名通り、沿道の観衆から担ぎ手に清めの水が浴びせられ、担ぎ手と観衆が一体となって盛り上がるのが特徴だ。
幕府の天領であった田舎の町にも“八幡さま”があった。
もの心つく前から氏子として参加した子供時代のこと、テキヤの出店で活気づく参道、祭囃子と練り合いの熱気、祭り衣装を着せてもらった日々のことなどを懐かしく思い出した。
したがって家を出ての電車のなかでも多少興奮していた、年甲斐もなく。
その16日の土曜日、曇り空にパラついた小雨が、多少とも暑熱をしのいでくれた。町は嵐の前の静けさというべきか、写真で見た、狂ったような人の群れにホースで水が撒かれるシーンとはほど遠い。それでも界隈から参詣にやってくる人の数は時間とともに増えつつあった。
まずは八幡宮に参拝。
二礼、二拍したうえでお願いごとのような呪文を唱えて、最後に一礼。
これでうちに住まう悪霊が退散したのか、すっと身体の力が抜けた。
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この祭りはなにしろ、江戸を二分する神田天神の神田祭と赤坂日枝神社の山王祭に加えて、“江戸三大祭り”の栄誉を勝ち得ている。それだけ歴史も由緒もあるということ。
境内で祭り半纏を着た赤ら顔の親父さんに話しかけた。初めての祭り、知らないことは聞いてしまったほうが早い。こういう時ならどなたも丁寧に、また得意げに教えてくれる。
「すみません。初めて来たのですけど、この祭りの一番の見どころはどういうところですか?」
「今年は大祭ですから、永代橋を渡って、八幡宮に全部の神輿が集まってくる連合渡御でしょうね。一番の見どころはそこで水を掛け合うところです。これは凄いですね。明日のお昼前後ですか、この辺りが最高に盛り上がりますよ」 と、うれしそうに教えてくれたあと、
「今日はですね、あと1時間ぐらいで半分ぐらいの神輿がここに集まってきて、お祓いを受けることになっています。それも見応えがありますよ」。
ならばその前に、景気づけも兼ねて腹ごしらえ。
(つづく 2114年8月16日)
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明神橋のたもとに勢ぞろい
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嘉門次小屋への案内

岩魚が焼かれて

嘉門次さんの曾孫の
輝夫氏 |
<1733> 上高地から西穂高・独標行・・・(4)嘉門次小屋と明神池
下りは明神まで左岸をもどって、明神橋から右岸をたどることに。
橋を渡ってしばらく行くと林の中に“嘉門次小屋”があらわれた。
上高地といえば嘉門次、明治29年にイギリス人宣教師ウエストン卿によって、「北アルプスを知り尽くした山の案内人」として世界に紹介された。
また、北アルプスの高嶺に“穂高岳”の名を冠した鵜殿正男は、はじめて槍ヶ岳から穂高岳に縦走したときの、嘉門次との出会いを次のように書き記している。
<明治42年8月12日正午、上高地の仙境に入門する栄を得た。当時、この連峰の消息を知っている案内者は嘉門次父子の他はあるまいと思って・・・15日を登山日と定める。>
<嘉門次は今年63歳だが、三貫目余の荷物を負うて先登するさまは、壮者と少しもかわりはない。・・・クマザサの茂れる中を押し分けて登る。いかにも、人間の通った道らしくない。大雨の折に流下する水道か、熊やカモシカどもの通う道だろう。>
***
1847年(弘化4年)、嘉門次は安曇村明ヶ平に生まれた。
村は当時の山村の例にもれず決して豊かではなかった。村人は5月から10月まで杣小屋にはいって樵の仕事をする。
世に名を売る方というのはみな子ども時代からその片鱗を見せる。
嘉門次は頭がよく、漁労にも狩猟にも秀でた技を見せた。
見よう見まねで始めた岩魚釣りがいつしか名人と称えられるほど上達した。
まことかどうか、この話は疑ってかかるしかないが、当時の上高地周辺の河川には「岩魚7割、水3割」といわれるほど多くの魚が群がっていたという。“誇張”とひとことで片づけてしまうのではもったいない。昭和45〜46年ごろに旅をした八ヶ岳山麓でも同じような話を聞いたことがあるのだから。
それにしても名人の称号がついて、岩魚を釣って、干物にして、下の村で売ったという逸話は容易に想像できる。
明治13年かれは明神池の近くに、自身の小さな世界を守るための小屋を建てた・・・・・それが“嘉門次小屋”。
***
さて現在ただいま、わたしたちは嘉門次小屋で一休み。
昔は豊富に住んでいた岩魚もいまは養殖だろうか、その岩魚の炙りを、コツ酒といっしょに頼んだ。
焼いてもらっているしばしの時間を利用して、となりの明神池を散策した。
300円の入場料をとるのは、明神一帯が“穂高見命”という天皇家の祖先を祀った、神の領域だから。
静寂の世界、ここで嘉門次が独り、岩魚漁に精を出したという話がうそのように思える。

明神池を背景にダンディ氏
小屋に戻ると、思いもよらず、実に珍しい方にお会いすることができた。
嘉門次の家系は嘉門次→嘉与吉→孫人とつづいて、現在の当主・輝夫さんは四代目、すなわち曾孫にあたる輝夫さんが、小屋の外に出てこられた。
わたしは耳を疑ったが、若いアルバイターが確かに「嘉門次の曾孫にあたります」と言った。
会おうと思ってもなかなか会えるものではないので驚き、また偶然に感謝もした。
これはなんとしても写真を撮らなければと思い、すぐに所望すると、快く応じてくれた。

岩魚のコツ酒と塩焼きを前において記念撮影。同年代ともいえるわたしたちグループに親近感を感じてくれたのかもしれない。
少し耳が不自由なように見えたが、清浄の空気を吸って、神域の自然を眺めて、ぜひ長生きをしてほしい。
(つづく 2014年8月)
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夏に生まれたので”コナツ”
ミニチュアダックスフンド |
<1732> コナツ
東京の西のはずれの生活にも馴染んできた。
緑があって見晴らしが良い。空気が澄んでいて、環境音も静かだ。犬の散歩にも最適!
***
娘のところが旅に出るというので犬を預かった。足が短くて胴が長い、そのくせやっぱり犬だから足の速さは驚くほどで競走したらとてもかなわない、ミニチュアダックスフンド、江戸趣味の“コナツ”という名がつけられている。
「いつもの朝の散歩の相棒ができた!」とノーテンキじいさんは喜び勇んで家を出る。こんなことでも、日々を生きるモチベーションが上がる。
コナツの元気さに触発されたのでしょう、タブーを破り、走ってしまった。地球に迷惑!小鳥たちの合唱の邪魔もした!
***
コナツは散歩道でのコミュニケーションの役割も果たす。
いつもはむっつりと黙りこんで、キッと前をにらんで付け入るすきを見せない歩きをしているから、誰も声をかけてくれない。他の散歩人は和気あいあいでやっているというのに。たまに笑顔で挨拶をされる方に対してだけ、「おはようございます」の返事をする。
ところがコナツのせいで、多くの散歩人から笑顔でご挨拶を受ける。
こちらの表情も、自然に和やかになっているのでしょう・・・コナツさまさま。
***
途中でいきなり座りこんで動こうとしない。
すぐに理解したのはコナツの生理的欲求のこと、じいさんはこれが好きではないけれど、ころりと出た小さなやつをトイペに包んでレジ袋にさっと始末。
1時間の歩みのなかで1回だけめずらしく吠えた。
いつも片手を振って「やあ!やあ!」とご挨拶される散歩道のボス、髭のオジサンだ。
あちらから手を出して親愛の情を示したのに、コナツは何を勘違いしたのか、いつでも逃げられる態勢で、強がりの遠吠え。
件のボスオジサンは「おじさんが悪かった。許してね!」と謝ってくれた。なのにコナツはまだ吠えている。
きっとこれは親愛の情を示しているのだろう。
***
コナツは少食だ。
わずかばかりの食糧が朝と晩の二回だけ配給される。
「こんなもので大丈夫なの?」
「それでいいの!」 娘の返事は付け入る隙がない。
痩せているようにも思うが毛並みはつやつやしているので、健康なのでしょう。我が身を眺めて、「過食!」とつぶやいてしまう。
いつも目が何かを訴えかけている。きっと「もう少し食べさせてくれ!」といっているのだろうが、固く禁じられているのでじいさんは、涙をのんで我慢している。
内が小声でささやいた。
「いつも家では子供たちに虐待されているから、コナツにとってここは天国よ!」
もっとなつかれたら・・・・・、娘たちが帰ってきても返せなくなるかもしれない。
(2014年8月14日)
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ロシアからウクライナに
物資輸送というトラック

武装するisis

エボラはいつ終結するのか? |
<1731> くすぶりつづける世界の火種
このところ毎日のように世界の情勢が変化して、国際ニュースが騒がしい。
米ソ冷戦時代のことを思えば、中身は“小競合い(こぜりあい)”というに相応しいのかもしれない。
しかし世界史は小さなきっかけから大きな戦争に発展した例をたくさん経験している。くすぶっている不満がたまりにたまったとき、一発の銃声が世界戦争を引き起こす!
***
ウクライナ東部が衝突している最中に起きたマレーシア航空機撃墜事件は、どうにも、このまま済みそうにない。撃墜の検証も満足に行われないままロシアに対する厳しい経済制裁が発動され、それに対してプーチンが反発して、意外な負の拡大を見せるかもしれない。
当事者のマレーシアや、大勢の方が亡くなったオランダは当事者能力がないまま、見守っているしかないのだろうか。
中東の紛争もあいかわらずだ。
イスラエルとパレスチナの戦闘も停戦がすぐ反古にされて、終わる気配がないし、米国はイラク北部で、スンニーのイスラム過激組織「イスラム国」への空爆を始めてしまった。厭戦気分が国を覆っている時期だけにオバマはやりたくなかった。
オバマの後ろにいる誰か(anyone who)が背中を押したのだろう。すぐに終結を見たいのだろうが、一国の思惑通りに行かないのが最近の世界情勢、長引くかもしれない。
一方アジアでは、強国にのし上がった中国の“ゴリ押し”が目立つ。日本との摩擦もさることながら、アセアンとの関係も、敵対か友好かで予断を許さない。
現在の国家関係は政治だけをとらえて「イエス・ノー」が言えるほど単純ではない。複雑にからみあう糸のようで、損と得とが表と裏の関係にあって、どの国のリーダーも単純な断を下せない。
日本もアメリカべったりの舵取りでいいかといえば、そこはおおいに疑問だ。
あいかわらず世界の警察を標榜するアメリカと、躍進する産業経済力でジワリと侵略の触手を伸ばす中国、この先10年の国際動向はこの二国を中心に動くことは間違いないところだろう。
日本においても、海外との交渉力に長けた若いマンパワーがつとに求められている。
***
そんな暑い夏に、アフリカで“エボラ出血熱”罹災者がジワリと増え始めた。
8月8日に世界保健機関(WHO)は、西アフリカの4カ国から拡大する恐れがあるとして「国際的に懸念される緊急事態」を宣言した。
この時点でこれらの国(ギニア、リベリア、ナイジェリア、シェラレオネ)での死者は合計961人となり、なかには治療に携わった医師も多く含まれる。
世界の距離が短くつながった現代では、遠い国のことといって安心できない。
まさか中世の“ペスト”事件のようにはならないだろうが、この件についてのニュースから目が離せない。
“エボラ出血熱”のことばは非常に印象深く、抜群に上手なストーリーテラー、“フレデリック・フォーサイス”を久しぶりに思い出した。
『ジャッカルの日』や『オデッサ・ファイル』、『戦争の犬たち』などというスケールの大きな小説をわくわくしながら読んだのは30年も前のこと。
“エボラ菌”が大量殺人の道具として登場したのは『悪魔の選択』だったろうか、このときはフィクションとして安心して読んでいたのが、現実ともなれば安穏としていられない。
不安をあおる報道が多い中、昨日CNNから朗報が届いた。
<アメリカで開発中のZMapp(ジーマップ)と呼ばれる未承認薬(試験的な血清)が、週内にもリベリアに運ばれることが決まった。>
***
さて、居ながらにして世界の紛争についての虚実さまざまな情報がもたらされ、また画面にはリアルな場面が映し出される。
爆弾で倒れる子供や泣き叫ぶ女性は悲惨だ。反対の意思を表明できても、解決の術をもたない、わたしたちにはどうすることもできないということ。
恨みの連鎖・・・これは永遠に続く人間の宿命だろうか。
(2014年8月13日)
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真中右中腹の残雪に”熊さん”の顔

徳沢園にて
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水色に流れる
梓川

森の中を水が流れる |
<1730> 上高地から西穂高・独標行・・・(3)上高地を歩く 氷壁の宿・徳沢園
昼食を終えて梓川河畔を歩くことにした。翌日の登山の足慣らしのためだ。
往復12kmの往きは左岸を選んだ。
歩き始めは緑がまばゆいばかりの森のなか、やがて山が姿を現し、川音が聞こえて、いつの間にか荒荒とした水量豊かな流れの畔を歩いていた。水際に下りて流れに手を入れてみる。手を切られるように冷たいのは雪解け水のせいだ。顔を上げて眺めた対岸の山々はまだたっぷりと雪を抱いている。山の上は雨かもしれない・・・。
信飛の自然豊かな国境の奥で、無粋を知りつつ世事のあれこれを語り合って歩くうちに徳沢に着いた。
6kmの距離を感じなかった。
***
徳沢園には『氷壁の宿』という副題がつく。
名物は普通の“ソフトクリーム”、何故名物なのかといえば、このあたりで冷たいものを食したいといってもここしかない、そしてこれがス・コ・シ、柔らかい。
柔らかさが禍いを招いた。最後に受け取ったわたしの手のなかのこいつが途中で折れて、べチャっと土間に散らばった。
すこし柔らかいとは感じていたけれども、こんなことは初めてなので驚いた。すると、
「すみませーん、すぐに取り換えますからぁ、折れるかもしれないと思ったのですけど!」とお手伝いのギャルから声がかかった。わたしは鷹揚で、そんなことで怒ったりしない。
もう一度ねじ入れたクリームも、なんだか、ナヨとして崩れ落ちそうだ。
「あのー、それをそのまま、カップ(コーヒーカップ)に入れてもらっても大丈夫ですよ」 とわたし。
「すみませーん、ではそうさせてもらいます。ありがとうございます」
縁は異なものとはよく言われる。これがきっかけで会話が始まった。
「『氷壁の宿』の看板が出ていますけど、井上(靖)先生はお泊りになったの?」
「ええ、そのように聞いています」。アルバイトのギャルさんは気さくで屈託がない。
「小説のことは知っているの?」
「ええ、このあいだ読みました」。
「じゃあ、ちょっと難しい話で・・・あの“ザイル”は切れたと思う?それとも切ったと思いますか?」
「それは知りませんけど、どうだったんですか?」
「わたしは知っている!あれは切れたのですよ!」
「へええ!」
小説発表後にこの話題は尾ひれをつけて世間に流布された。
ザイルの強靭性は躍進する日本企業の良質な製品の象徴であり、それを担保する意味でも切れてはいけなかった。あの時代はそんな風潮があった・・・。
このあと彼女に集合写真を撮って欲しいと頼んで、そのついでに一緒になかに入ってもらった。明るくて好印象のこの方にプリントして送ってあげなければ、と思っている。(未達、夏休みの間になんとかしなくては・・・)
ここから横尾まで1時間、そこから大展望の開ける枯沢(からさわ)まで3時間。木曽駒ケ岳の千畳敷きカールと並んで著名な枯沢カールは、今回は無理でもいつかぜひ見たいものだと願っている。
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今回、靴を新調した。
前から履いていたのが、つま先に割れ目ができてそれが目立ってきたから、登山中にトラブルがあってはいけないと思い買い換えた。日本人の足にピッタリということで“SIRIO P.F46”を選んだが、すごいフィット感で大満足・・・しかし、靴がどんなによくてもスイスイと登れるものではありません!
(つづく 2014年8月11日)
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<1729> 猛暑、食べ物は大丈夫?
近年の夏は、冷夏という言葉がなくなってしまったのかと思えるほど、猛暑が続く。
暑い夏は農作物を豊かに実らせるから悪いことではない。
しかし日本の場合、だからといって食物の自給率が高まるという結果に結びつかないのだから、手放しで喜べない。
ちなみに諸外国の“カロリーベース”の食糧自給率を調べてみた。結果は確認するまでもなく、平成24年度日本の39%という“ていたらく”に対して、アメリカ123%、カナダ173%、フランス129%、オーストラリア245%と、羨ましいほどの高さだ。
早くから工業立国を宣言した日本のことだから、特別びっくりもしないが、それでも何とかしたいという気持ちが高ぶりますね。
***
戦後の自給自足の時代を知っているから、個人的になんら怖れはない。
万一、食糧危機がやってきたら、昔に戻ればなんとかなると高をくくっている。
米さえあれば、塩をふって生き延びることはできる。
野菜は畑で育てる。じゃがいも、たまねぎ、ながねぎ、さといも、ほうれんそう、なすにきゅうり、かぼちゃ、枝豆・・・フレンチやイタリアンを食べるわけではないのだから、新種の贅沢な野菜は不要だ。
卵は鶏を飼えばいい。元来肉食の習慣はないから、なくても済む。でも、鶏をつぶせるかなあ。
魚は、たまに海に行って釣ってくる。釣れなかったら海辺の魚屋で買い求める。
果物は、蜜柑でもイチジクでも枇杷でも柿でも、そこいらの木になっているものを、もいで食べればいい。
***
視点を変える。
毎日流れているBS1の国際経済ニュースで、アフリカが今後の有力な市場になると報道していた。
たとえば自動車産業において、すでに進出を果たしているドイツや日本のメーカーに対して、中国が地元に工場を造って安い車で市場を奪いにいっているという話。
その他の産業でも世界の企業のトップが熱い視線を送っているようだ。企業だけでなく政治も。
とくに中国は一生懸命のようですね。これに対してアフリカにオリジンを持つバラク・オバマも、「これから力を入れる」などと。
で、なぜアフリカなのといえば、アフリカはこれから人がずっと増え続けて、巨大な市場になるという予測がある。
国連の人口調査機関の予測によれば、2100年まで、他の大陸がほとんど増減なしで停滞するのに対してアフリカだけが45度の右肩上がり、現在の10億人が2040年に20億人、2100年には40億人と増え続ける。
ちなみに現在の世界人口はおおよそ70億人だから、2100年には100億人に膨らむということ。
凡愚はこの世からおさらばしているので、やがてやってくるその時代には何ら関係ないが、近頃盛んに叫ばれている「子孫に負の遺産を残さない」などという視点でとらえると、おおいにたいへんなことになりそうだ。
・ 原始の時代に人間が誕生した地・アフリカの時代が確実にやってくること
・ この人口を支える食料はだれがどこで生産するの?大丈夫なの?
・ 地球にこれ以上の負荷をかけると、今でも大変なのに、地球自体が耐えられなくなってしまうのではないですか?
といったことが頭をかすめたので、策を練ってみた。知恵不足の苦肉の策ですよ。
***
昔、世界は戦争の惨禍を繰り返さないために、戦艦建造の規制を批准した。
いま、アフリカ諸国には悪いけれども、国連がやらねばならないことは、人口増加への警鐘を鳴らして、増加への規制をすることではないだろうか!
ただそれを提案する前に、たいへん難しいけれども、人口減を是とする世界的な世論を作り出すことが先とは思う。(暴論真言)
(2014年8月8日)
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「節分かれ」は
「蒼龍」に含まれる短編 |
<1728> 現代の人情モノ “山本一力”『節分かれ』
山本一力といえば、49歳という年齢で文壇にデビューを飾った遅咲きの桜。『蒼龍』でオール読物新人賞を受賞したのが1997年、その4年後の2001年秋には『茜雲』で直木賞も取ってしまった。
晩年に花が咲いたというのが好ましい。年寄りへの勇気付けになる!
この方は苦労人、曲折の人生を送ってきた。バブルのころに、「億単位の借金を負った」という話は有名で、あの時代の世相とリンクして人口に膾炙している。
乱暴な言い方をすれば「借金も貯金も同じようなもの。大きな借金ができたというのはそれだけ器が大きかった」 ともいえる。
谷が1億と低かった分、山も高く、現在はその頂上を目指して尾根道を八分目ほど登ったところだろうか。
すでに作家としての成功を手に入れて、脂の乗りきった男の花道を進んでいる。
インタビューでは一つひとつのことばをじっくり選んで話す。その語り口は誠実な人柄をあらわすように丁寧で、奢り高ぶりは露ほどもない。物静かな挙措には好感がもてる。
***
人柄をそのまま主人公に反映したような作品が多く、安心して物語のなかにはいりこめる。
短編の『節分かれ』は、江戸寛政期の酒問屋を舞台にした人情モノ、いや、経済モノ。
稲取屋は灘酒(なだしゅ)問屋の大店(おおだな)、しかし4年続いての凶作によって入荷が激減した。跡取り息子の高之助は、不足する酒を会津酒で代替えしようと提案する。しかし当主の勝衛門は頑として受けつけず、「ならん!」の一言で却下する・・・。
「苦境に立っても、昔から築いてきた取引先の信用を失うようなことは、絶対にしては“ならん”」
この厳格な「ならん!」が物語の芯を貫いている。
現代の功利的社会を生きる読者は、(気難しい昔風の親父が、若い者の提案を邪険に退けている)と思いがちだが、父親には深謀遠慮がある。100年つづく身代(しんだい)を守るなかで蓄積した知恵とリスク感覚がある。
そうして、肝心要をきちんと押さえる。
「『ならん』と退けるなら、その代案を示してほしい」 と息子は食い下がるが、理屈で説明するより実践で示すのがこの時代の経営者・・・。
***
山本は『節分かれ』でもうひとつのテーマを追っている。
それは“家族愛”。肉親に対する深い愛情、優しい眼差しを物語の節々に垣間見ることができる。
わたくしに
こんな時代もありしやと
まごの仕種をしみじみと見る
秋くれば
庭の青紫蘇香にたてり
種を蒔きにし亡き妻思ほゆ
作中に引用された短歌は銀座の伊東屋の故伊藤義孝会長の作品。ストーリー展開に寸分の狂いもなく埋め込まれていました。これもお見事でした!
(2014年8月6日)
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小惑星探査機”はやぶさ”
その頑張りは感動ものでした
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オリオン星雲
地球からの距離1500光年 |
<1727> 宇宙博の寿司
小腹がすいた午後、たまに店の前まで行って覗いてみても、まず、席が空いているということはない。この店は30分待つのが常識という伝説を作りつつある。
庶民のささやかな“鮨”願望が、店の人気を支えているのでしょう。
渋谷井の頭線のうえに乗っかる“マークシティ”。
梅ヶ丘に本店を構える“美登利鮨”の渋谷店がその店。この店は開店してからずっと休みなく閉店するまで、席の空くことがあるのだろうか。
***
この日、小学生R君の宇宙熱に促され、幕張で開催されている“宇宙博”に付き添いすることに! というより宇宙熱を誘いだしたのはかくいう爺さまで、ホーキングの三部作をプレゼントして、宇宙への興味の扉を開けてしまった。その責任上、暑いなどという不平はぐっとこらえて、ボディガードをするしかない。
ホーキング博士は“宇宙人”のように見えるけれども、実は人間の達人、すこしだけその語録を披露しましょう。
「私は幸運だ。なぜなら脳は筋肉で出来ていないからだ。」
上のことば、わかりますよね、わからない方は勉強不足です!
「人は、人生が公平ではないことを悟れるくらいに成長しなくてはならない。そしてただ、自分の置かれた状況のなかで最善をつくすべきだ。」
運が悪い、などという方が多くいらっしゃいますが、このことばを噛みしめて明日からの人生に立ち向かってください。まるで禅の修行者のようなことばですね。
「私達はどこにでもある恒星の、マイナーな惑星に住む、血統の良い猿にすぎない。しかし私達は宇宙というものを理解できる。そのために、ちょっとは特別な存在なのだ。」
このことばは『宇宙博』のメイン・メッセージにしてもいい。すばらしいことば、参りました。
さて、もどります。NASAとJAXAが主催するこの宇宙博は、宇宙開発の始まりから、今日の最新宇宙衛星の活動まで、長い年月をかけて活動してきた“夢追い人”たちの苦難の軌跡をご披露するというもの。
夏休みの少年少女たちをたくさん誘引できれば成功ということ!
***
あれこれと観てきたことを箇条書きにしてもつまらないから、ここでは、ドラマチックでハラハラする冒険談をひとつだけ。名誉ある実績を記録した、日本の無人小惑星探査機“はやぶさ”のおはなし。
さて、地球は太陽の軌道を回る惑星の一つだが、太陽をめぐる小惑星は無数にある。
そのひとつが糸川英夫博士にちなんで命名された小惑星“イトカワ”で、大きさは540m×270m×210mと小さい。
探査機“はやぶさ”はこの小惑星“イトカワ”に着陸して、イトカワの表面にある物質(土というべきか、微粒子というべきか)を地球に持ち帰るというミッションを担った。
まず、地球の成層圏を抜け出して、イトカワの軌道に近づいて、速度を合わせて着陸して・・・と言葉では簡単だが、2003年5月に飛び立ってから生還するまで、実に7年と1カ月の歳月を要している。
着陸しようという当日、“はやぶさ”は世界最初のサンプルの採取に向けて“イトカワ”に降下!
しかし思惑通りにコトは進まず、イトカワの表面で横倒しになってしまう。予定通り地球にもどる出発の期日が迫るなか、二回目の降下を敢行、みごとに成功。
予定していたすべての仕事を終えて上昇した“はやぶさ”だが、順調ではない。
機体が異常回転し、それが治ったと思ったら今度は通信が途絶して行方不明になってしまう。
地球上の技術者たちは必死になってトラブル回避に挑む。そしてやっとの思いで地球に向けて出発。
“はやぶさ”は不死鳥となって地球に戻ってきた。
しかし大気圏を突き抜けるより以上のエネルギーが、“はやぶさ”には残っていなかった。壮絶な炎に包まれた機体は消滅、最後の力を振り絞ってカプセルを切り離し自身は燃え尽きた。
カプセルだけは日本に届けられたのだ。
きっと、苦難の生還は世界の宇宙開発史の奇跡として、末永く語られることだろう。
***
そのカプセルが持ち帰った“いとかわ”の微粒子を顕微鏡で見せてもらった。
見えるか見えないかという微細なかけらを見ただけのだが、このかけらの解明によって太陽系誕生の過程を知ることができるという。
すなわち大きな爆発が起きて、イトカワができ、イトカワの上に爆発破片が降り積もった。その岩石サンプルの構造を解明すれば、将来に役立つ(?)ということのようである。
***
4時間ほど引き回されてこちらはヘトヘト、「じゃあ早めのご飯を食べて帰ろうか、何がいい?」
当初は帰り道である“月島”の“もんじゃ”を予定していたのが、気乗りしない様子なので冒頭の“美登利鮨”に決めた。
小学生の食事としては上等だ。おまけにR君はまぐろが大好き。
“美登利鮨”のカウンターで、私は生き返った。
安くて美味、“酔鯨”の純米吟醸をお代わりした上に、隣に座った老女性から沼津の美味しい寿司屋の紹介までいただいて満足、疲れも飛んでしまいました。ごちそうさま!
おっと、R君も満足でした。
(2014年8月5日)
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過剰包装ともいえるMAC
QUARTER BOUNDER
の文字が読み取れる |
<1726> マックと平家物語
朝の通勤駅のマック(マクドナルド)、喉が乾いた夏の日に立寄ってアイスコーヒーをテイクアウトする。
「暑いですね、朝は何時から仕事をしているの?」
顔なじみになったアルバイトの女子大生(きっとそうだ)に、今朝も気軽にごあいさつ。
すると、彼女は質問の意味を取り違えたようで、
「24時間やっています。いつでもOKですから、たまにはジャンクフードも食べに来てください」 というご返事。
いつもコーヒーだけのオーダーに、「たまにはハンバーガーもどうぞ!」 と勧めているのだろうが、自ら“ジャンクフード”と認めていることが気になった。
あまり子どもたちに食べさせたくない、というのが正直な感想。しかし現代の子どもたちはマックファン、人気キャラクターのおまけをつけて子どもたちにマックのアジを浸透させる戦略は、悪徳商法のようにも思う。
***
7月17日のニュースで、どこかで見た顔が丁寧に頭を下げていた。
はて、誰だったかな・・・・・短髪のご老体は?
たしか、日本マクドナルドの会長であったはずの・・・原田泳幸氏。
この方は、それ以前の名物社長であった藤田田氏の安売り商法を見直す戦略によって、マックの下降気味の業績を劇的に改善させた。米国仕込の経営手法は、ときにオーバーランして「やり過ぎ!」という批判も浴びた。
そういえばわたしも、「一日限定、数量限定、単品、1000円」の“クォーターバウンダージュエリー”などという英語を駆使した、なんだかよくわからないハンバーグを買った記憶がある。いかなる美味を供してくれる?という好奇心が列に並ばせたのだが、あるいは単純に原田マジックに踊らされただけなのかもしれない。
***
この日の原田氏には、“ベネッセコーポレーションの会長”という画面クレジットが出ている。
えっ、この方、いつの間にベネッセに転出?
ベネッセといえば岡山が発祥の福武書店のこと。進研ゼミが成功して、いまや全国区の企業に成長して、更なる飛躍のために触手を多方面に伸ばしている。
そんな多角経営の、成功への担い手として原田氏が選ばれたということだろう。
後で知ったことだが、7月はじめにベネッセの代表権のある会長に就任していた。
そして、仕事を始めた途端に“顧客情報流出の事件”が起きた。
この事件は原田さんに原因があったとは思えない。しかしトップであるからには、まず謝罪と、速やかな問題解決の処方箋を示さなければならない。
当初かれは「金銭的な謝罪を考えていない」、「流出情報を利用した会社の倫理を問う」といった、自己責任には否定的な答弁をされたようだがこれは拙かった。
アメリカンマーケティングを体験したリスク管理のプロなら、してはいけない“初手”だ。
その後迅速な対応をして、すばやい事件の終結を画策しているようだが、はて、就学児童を持つ親たちがどこまで納得してくれるかどうか。
加えて、蛇のように咥えたら放さないマスコミのみなさんは・・・・・。
この方を再建屋として褒めていいのか貶すべきなのか、迷っている!
***
ときを同じくして、一方のマクドナルドも中国産チキンの使用で窮地に陥っている。
原田氏の後を受けたサラ・カサノバ社長(女性)も、マイクの前で「中国産の鶏肉は使わない。ブラジルから輸入する」 と決意を語っていたが、当面は業績の低迷を覚悟しないといけない。
「喉元を過ぎて熱さを忘れる」までは。
わたしも、100円のコーヒーは飲むが、肉類を食べようとは思わない。
***
マックとベネッセ、原田氏の関与している二つの企業が同時に困難に直面したという事実は何を意味しているのだろうか。単なる偶然であって、“神の意思”などというあいまいなものではない。しかし、何かを感じてしまう。
わたしは日本人。
人の世は、諸行無常、盛者必衰、奢れるものは久しからず、ただ春の日の夢の如し。
(2014年8月4日)
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<1725> July から August へ
英語で7月はJuly、8月はAugustと、それぞれ表記する。
ではここでクイズを一つ・・・この二つの英語に共通することってなーんだ?
少し高尚な質問だが、ヨーロッパ史に詳しい方ならハタと膝を打つかもしれない。
ヨーロッパ史のなかでも古代ローマ史!
もうお分かりになりましたか? 回答は後ほど・・・。
***
ローマ史が出た機会を利用して、(ここぞとばかりに)このHPのタイトルに使っている“スキピオ”(正確には“大スキピオ=スキピオ・アフリカヌス”)について追いかけてみよう。かの偉大なる“ハンニバル”との戦の足跡を紐解きながら。
古代ローマ帝国はそのころカルタゴ(現在のチュニジア)の英雄ハンニバルと戦っていた。
歴史の教科書では『第二次ポエニ戦役(BC219〜BC201)』という。なにしろ紀元前のこと、詳しい歴史の著述が残っていること自体がすばらしい。
象を率いてイベリア半島からピレネー山脈を越えてガリア(現在のフランス)にはいり、さらにアルプス越えでイタリア北部に現れたというハンニバル。
このハンニバルに対し、ローマの将軍たちは次々と攻撃を試みたがことごとくはね返されてその多くは討ち死にした。とくに“カンナエの戦い(BC216年8月2日)”では完膚なきまでの大敗を喫している。
本論とは少し外れるが、このときハンニバルが余勢をかって一気呵成にローマまで進軍していたら、後の世界史は違ったものになり、またイエス・キリスト(BC4〜AD28)が現れることもなかったかもしれない。しかしハンニバルは周辺の国々を「まず懐柔してから」という戦略をとった。
ローマはそのために最大の危地を脱出することができた・・・。
***
ハンニバルはローマ以外の、征服地の兵士たちを厚遇して味方につけた。現地懐柔の情報戦略(プロパガンダ)に長けており、ポエニ戦役のあいだ自在の戦略を駆使してローマ軍を苦しめている。また戦闘時の対陣や攻防のアイデアにも優れ、しばしばローマ軍に壊滅的な打撃を与えた。
その戦略と戦術は今日でもインターナショナルの戦略教科書にも引用されるほどで、驚くしかない。
個人的に思うのは、蜀の諸葛孔明に比べても劣るものではないということ。
しかし、しかし、そのハンニバルも破れるときがやってくる。
ハンニバルの戦略を研究して熟知したローマの将軍が、我が大スキピオ。ハンニバルの戦い方を我がものとして逆用した。
紀元前202年のこと、80頭の戦闘・象を正面に押し出して攻めるハンニバルに対して、スキピオは騎兵によって包囲する戦略を採用、カルタゴ軍を殲滅した。後世はこの戦争を“ザマの戦い”と命名したが、この戦いによって地中海世界のローマの覇権が約束される・・・。
***
さて話を戻しましょう。7月と8月の命名のこと。
Julyはジュリアス・シーザー(BC100〜44)がユリウス暦をさだめるのと同時に自身の名前「Julius Caesar」を7月に採用した。
そのあと、遅れてやってきた初代ローマ皇帝アウグストス(Augustus BC63〜AD14)は、シーザーに倣って8月を自身のAugustとした。
しかし日本の夏は暑い。このむしむしと蒸す気候はどうにかならないものですかねえ!
(2014年8月1日)
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練習前
左端にいるのが
マヤカ監督 |
<1724> 朝の散歩道ふたたび・・・
午前5時半、盛夏の朝にしては涼感を味わいながら尾根道を歩いていると、向こうのほうにたむろしている大人数が見えた。
昨日の今日のこと、(ひょっとすると夏合宿?)と想像したのがあたった。桜美林の長距離競走部のメンバーがこれから走るという準備運動を始めたところだった。
「おはようございます!」と、若者のなかから元気な挨拶が飛び出て来た。
こちらも「おはよう!」と返す。挨拶は連鎖するようにつながって耳に入ってきた。
気持ちがいい。
***
1kmほど先まで歩いて引き返して、ちょうど6時少し前、前の場所に全員がそろったようで、あらためて数えてみたら18人まで勘定できた。
真ん中にいて何か訓示を与えているような小柄な人物は、まさしく監督のステファン・マヤカだ。
日本の若者とは少し離れたところに、神妙な様子の二人がいた。細身の長身はバランスが取れていて、カモシカのイメージが当てはまるような黒人で、かれらはマヤカが母国からスカウトしてきた選手なのだろう。
(近々頭角を現すかもしれない)、などと楽しい想像を膨らませてしまう。
***
マイペ−スで通り過ぎたらすぐに追いかけてきた・・・ちょうど6時に朝練が始まったようだ。
5人、4人、5人とグループをつくって、30秒おきにスタートしているようで、風のように空気を揺らせて、次々とわたしを置き去りにして行った。
少し置いて黒人選手が二人、かれらの走りは見た目にもしなやかで、スピード感がまるで違う。この二人は、インカレや日本選手権という尺度でとらえたときにどのレベルにいるのか、素人が目視して判断できるものではないが個人的には非常に興味深い。
いずれその勇姿をテレビ画面で見る日が来るかもしれない。
最後にマヤカ監督の一人走。
早稲田の渡辺(現監督)と日本大学選手権や箱根の二区でつばぜり合いを演じて、この世界では一世を風靡した走りはそのまま残っている。40歳を過ぎて現役時代の力強さは衰えたが、腕を胸の前で交差させるフォームは変わっていない。
「マヤカ、頑張れ!」と声をかけたい気持ちを、ぐっと飲み込んだ・・・。
***
マネージャーとすれ違ったので、いつもの馴れ馴れしさで質問してみた。
「マヤカ監督が走っていましたね。今日の練習はどのくらい走るんですか?」
「今日はウッドチップコースを4往復、これで△△筋を鍛えます」の返事。
およそ15kmか・・・“何々筋”という言葉を聞き洩らしたが、マヤカは「日本の古典的な練習方法は間違いで、アフリカはどの国も、ヨーロッパの科学的練習方法を取り入れて強くなった」といっている。強くなるための理論を大事にして、練習方法やスケジュールを決めているのだろう。
目標達成のためにこの散歩道も一役買っている。
適当な上下の起伏とカーブ、コース周辺は緑におおわれ、ウッドチップの長いコースまで用意されている。“おあつらえむき”という言葉を想起したが、あつらえて造成してもこのようなランニングコースはできないだろう。
さて、かれらの登場によって、われら年寄りの散歩のモチベーションが確実にあがる!
(2014年7月30日)
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<1723> 朝の散歩道は箱根への道となるか?
突然、後方からドドドっという迫力のある足音が聞こえたと思ったら、あっという間にわたしを置き去りにしてもう10m先を走っていた。
一人二人ではなく、十数人はいるだろうか。
朝の散歩道でのできごと。
この土曜日の早朝、平日は年配者のウォーキングばかりが目立つ散歩道も、週末はエネルギッシュな若者たちのジョギング姿が多い。
しかしドドドっと走る若者たちは、ジョギングなどという生易しい走りとはまったく異質で、汗を滴らせ、その汗が飛んできて我が身体に降りかかるほどの激しさをともなっていた。
集団走だ。
高校生の夏休みのクラブ合宿とも違う。
この整備された尾根道でこういった集団走に出会ったのは初めてのこと。はて、何処の連中だろうか?
***
中間の辺りで給水を担当しているマネージャーらしき女子がたむろしていたので尋ねてみた。
「どこの学校ですか?」
「あのー、桜美林です」。
高校ではなくて、大学だろうなあ。
近くにこの大学のテニスコートがあるのを知っていたが、長距離をやっている連中がいたのだろうか?
「はじめて見ましたよ、この道を走っているのを・・・」
「はい、去年、あたらしく??監督がきて、競争部ができて、駅伝を目標にやっています」。
説明がたどたどしくて要領を得ないが、要するに、町田の桜美林大学が箱根駅伝を目指して新たなスタートを切った、ということのようだ。
「じゃあ、毎年秋になると立川で開催される“予選会”に出るわけですね!」
「いえ、あの予選会に出られるかどうか・・・タイムしだいなんですよ。持ちタイムがないと出られないんです」。
そうか、この夏のインカレの予選会で、チームとしてそれなりの合計タイムを出さないと予選会に出られないというわけか。
***
もう6〜7年も前になるだろうか、青山学院の連中が町田駅近くの境川の土手を走っているのと出会ったことがある。
当時の青山は箱根に出られるかどうかぎりぎりのところにいて、さしたる実績はなかった。それが、あれよあれよという間に頭角を現して、いまや箱根のシード常連校にまで昇格した。
あの川っ淵を走る練習が実った、などと単純には思わないが、「あっぱれ!」とわがことのようにうれしく感じた。
スポーツで名を上げて大学の格を上昇させるという方法は、大学過剰論のはびこる現代では有効な戦略のように思う。
東洋大学や駒澤大学、山梨学院大ガクなどがよい例だ。
実績を残すことで知名度が高まって、そのうえにおいしい条件を提示すれば、全国の俊足を集めることが容易になる。学校全体の偏差値を押し上げる効果を、誘発することもできるかもしれない。
桜美林の場合もまず名のあるコーチ、監督を招請し、それに見合った選手たちをスカウトしたのだろう。
***
ということから、家に帰ってちょっと調べてみた。
そうしたらなんと、山梨学院の絶対的なエースとして活躍したあのステファン・マヤカが、昨年この学校の監督に就任したという。これにはビックリ!
そこでハタと思い当たることがあった。
以前、この稿で触れたことのある「実業団の選手かと思われる“黒人選手”が凄いスピードで走っていた」というのは、このマヤカさんだったのかということ。
かれは1年間全国の高校を行脚して生徒たちを説得したという。
ゼロからのスタート、そうして集まって走り始めたのが、この朝出会った若者たちなのだ!
このことを奇縁と感じている。
かれらの目標は、「何年か先の箱根路での入賞」という。これからも出会う機会は確実に増えることだろう。こうなったらもう、応援するしかない。
(2014年7月19日)
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刺し盛り三人前 |
<1722> 数年ぶりの新宿“鼎”
新宿3丁目の古典的な飲み屋、これぞ飲み屋の中の飲み屋、新宿の飲み屋の歴史に欠かせない『鼎(かなえ)』は、相も変わらずにぎわっていた。
しかし名物マスター、ヒゲの“山ちゃん”は去り、格好いい兄ちゃん、若い女性たちをひきつけるかもしれないトレンディな髪型の兄ちゃんが運営する飲み屋へと変貌していた。
こういうところに悲哀を感じてしまうセンシティブな感性を、喜んでいいものやら、悲しむべきものやら・・・。
***
地下とはいえ広い店内は喧騒と人いきれでムンムン、年寄りには刺激が強すぎるけど新宿という町にはこれが似合う。
6時半に店に入った段階で7割の入りが、その後も客は続々と入ってくる。
30歳代、40歳代と思われるイイ年の男女がほとんど、たしかにお値段が少々張りますから、財布と相談しなければならない若い人たちは躊躇せざるを得ない。
いやしかし、全国チェーンの居酒屋だって油断して飲みすぎると手持ちのオアシでは足りなくなることもあるので、注意しなければならない。というより、『鼎』だって若者向けチェーンの居酒屋だって、飲みすぎたらお値段はいっしょ、要するに自制を効かせた飲み方が大切ということでしょう!
***
たまたま席に着く前に“えっちゃん”とバッタリ。
“えっちゃん”はこの店の、今は亡きオーナーの後継者で、女社長。
ずっと忙しく店の切り盛りをやってきて、本人が自身の年齢を忘れてしまったかのようだが、三十路を走っていることは間違いない。
もう忘れているだろうとあらためて自己紹介すると、「あら、メガネを外されているので一瞬気がつきませんでした。失礼しました」と。
「お久しぶりでしたね。お元気でしたか」とも。
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なにしろ光陰矢のごとしで、ここ数年間のご無沙汰ですが、あのころは1週間に1度は通っておりました。カウンターに居座って“山ちゃん”の推奨する全国の銘酒を片っぱしから飲み比べていました。
山ちゃんは日本酒マイスターのような存在で、オーダーした食べ物にあわせて、「じゃあちょっと甘めの新潟の・・・・をいかがでしょうか」と出してくれた。
ワインは、食事にあわせて飲むのが、日本でも常識のような時代になった。
しかし日本酒は、いや、日本の食文化はまだそこまで行っていない。
だから山ちゃんはその先鞭を切っていた。
全国の、名の出た(断っておくが“名のある”ではない)地酒を丁寧に集めて、「きょうは取って置きの、ウチでも二本しか仕入れできなかった福島の・・・」とやってくれた。
だいたい一度に4合から5合、要するに一号升で4杯から5杯をいただいた、すなわち4〜5種類の垂涎の銘酒をいただくことができたということで、これは酒飲みにとって天国極楽で、今日はどんな酒が飲めるのかとワクワクしながら通ったものである。
その山ちゃんが店にいなくなった・・・なんという寂しさだろう・・・。
***
こんど一人で来たらカウンターに座って、「昔そこに“山ちゃん”がいてね、俺がナニが飲みたいというとね、その蔵元で新しい銘柄が出ましたので、それをいかがですか、なあんて勧められたものだよ。酒も美味かったが、話も上手かった」とでも若い者に話してみようかしら。
「いや、きっと嫌われるだろうから止しといた方がいいっ」て?
うん、きっとそうだろうな・・・!
(2014年7月14日)
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7月1日
梅雨時のウイークデイからだろうか
河童橋のうえに人がいない!
山の上は雲がかかって青い空が見えない
しかし上高地は晴れ!
このグループの旅はいつも天候に恵まれている

その河童橋のうえで記念撮影

5月に撮った写真より

河童橋から逆側の眺め
水色の梓川と
焼岳
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予約が取れないといわれている
上高地帝国ホテル
今回はS隊長のご努力で
泊ることができました

遊歩道にたむろす
マンキー君
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<1721> 上高地から西穂高・独標行・・・(2)上高地を歩く
7月初めのウイークデイ、新宿発上高地行高速バスは予定通り正午少し前に、この日宿泊の上高地帝国ホテル前に到着した。
降り立った旅人は5名、いずれも初老とはいえ若者には負けない気概と挑戦意欲に満ちていた。
これに、電車と乗り合いバスを乗り継いできたU氏が加わって、総勢6名は好天のバス道路を歩きはじめた。
新緑の上高地はさわやかそのもの、木漏れ日が目の端を横切る。半袖の上に薄手を羽織ってちょうどよい温度、20〜23℃くらいだろうか。
鶯のさえずりが聞こえてきて心地よい。1500mという高地にも鶯は住めるのだろうか。「ホーホケキョ・・・」を繰り返す発声は我が家の周りで聴く鳴き声とまったく同じ。
「もうすこし工夫して鳴いて、サービスしてくださいな」 と言いたくなる、「せっかく山の奥まで会いに来てあげたのだから」。
遊歩道のクマザサの茂み、広葉樹の木立の上に猿たちが散らばって賑やかだ。
「食べ物を与えないように!」 の看板はあって無きようなもの、猿の親分は人の手の届かない高みに登って人間様を睥睨している。
これがリスなら気にもかけないが、猿は賢い、いや悪賢い。
かれらが万一攻撃してきたら・・・想像したくないことが現実になったらと考えると、ぞっとする。
オランウータンと同居する人間を否定しないが、猿は動物園が似合っている。
***
すぐに河童橋にたどりついて、「このあたりで昼食ですね!」と橋を右岸に渡る。
この橋に上がったらいつも、まず頭を上げて上流を眺める。梓川の清流のはるか向こうに、縦に割れた幾筋かの雪渓が見える。大きな割れ目は岳沢だろうか。雲に隠れて明確な頂上を現さないが、左から西穂高、ジャンダルム、奥穂高と崇高なアルプスの峰々が並んでいるはずである。
山の先達たちが技術を磨いて、気力と挑戦欲とを駆り立てて制覇した峰々。いまもごつごつとした岩稜は冷然としていて安易な人間の挑戦をこっぴどく退ける、とくに冬季においては。
身体を反転して下流を眺める。
逆光の中にどっしりとした三角形が見えた。近づいて凝視すれば痛々しく削られた山肌と、白い煙が見えるはずである。これが活火山の焼岳で、標高は2455m。実は当初この山に登るという計画もあったが西穂の独標(2701m)に変わった・・・。
***
コバルトブルーの流れと明るい光の中に白い羽毛が舞っている。
綿毛のついた柳の種だ。そういえば札幌の中島公園のマンションでは初夏にポプラの綿毛が舞って、白い吹き溜まりを作っていた。
梓川の両岸には化粧柳が植えられていてその種子が舞っているのだろう。
“柳絮(りゅうじょ)”という難しいことばが頭に浮かんだ・・・“柳絮”といえば北京のイメージだろうが、強い印象があるのは小説のなかの綿毛の飛翔だ。
宮尾登美子の『朱夏』であったか、藤原てい(新田次郎夫人)の『流れる星は生きている』であったか、敗戦直後に苦労して満州から引き揚げるハルピンや新京(長春)の町の“柳絮”は、作者に同化してしまったわたしには忘れ難い記憶となった・・・。
***
ちょうど昼時を迎えたので、対岸の白樺荘でランチ。
この店の一押しメニューは揚げたての“コロッケ”だろうか。
もし愛する若い女性と梓川のほとりを歩くなら手にするのは”ソフトクリーム”だろう。しかし小腹が空いた小父さんたちには“コロッケ”を否定しない。
腹ごしらえを終えると元気が出てきた。さあここからどこまで歩くのだろうか?
(つづく 2014年7月2日)
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上高地 雪融け水の奔流
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西穂高小屋のむこうに
焼岳
さらにむこうには
乗鞍(3026m)が望める |
<1720> 上高地から西穂高・独標行・・・(1)序章
「自然のなかで心を豊かにして人生を楽しみ、充実した晩年の歓びを感じる」
中国紀元前3世紀、激動の戦国時代を生きた荀子が唱えた『美意延年』のことばは上のような意味だろうか。成年の時代は小国の宿命に翻弄され『性悪説』を主張せざるを得なかった老いた儒家がたどりついた、後世に対するメッセージのように受け取れる。
後世を生きるわたしは、単純にことばのいいとこ取りをして“延年”を楽しんでいる。
ところが今回の山登りは、非常なる苦痛を伴った・・・さてはて。
***
何故にわたしが山歩きをするようになったのかを、覚えていない。
周りに山らしきものがまったく見えない、太平洋側の台地の端に育ち、山と言えば林間学校でのキャンプ経験ぐらいしかなかったのに。
単純に赤い花を求めるという、無いものねだりの幼児性があったのかも知れない。
大学に入って初めてスキー部の友人に誘われて山に入り、何かを感じたのか、あるいは後年、川端の雪国を読んだりして駒子のイメージを追いかけるような軟弱な本質が露出したからだろうか。
北海道のころを思い起こせば、よく温泉浴を兼ねて低い山を訪ねた。それはかなりのなまくら発想で、ゆっくり、ゆったり、あくまでマイペース。苦しい息をこらえて急勾配を登ることなどは思いもよらなかった。
ただ心のなかで山を想像する楽しみは育った。高みにひっそりと佇む静かな湖や雪の残る熊笹の茂みの向こうから雷鳥の声を聞くなど、夢は広がっていった。
ここまで書いてはたと思いついたのは、山への明確なきっかけはあったのかもしれないということ。
仕事が一区切りした時の、充実感とは正反対の疎外感、ぽっかりと空いた心の穴、いたずらに時を待つのではなく、その穴を早く埋めたかった。そのための行動が山だったのだ。
***
人生には情緒が大切かと思っている。
乾いた大地やガサツな人やモノ・サービスを好まない。言い換えてみれば“瑞浪の国、緑豊かな大地”、
“しっとりした日本人の情感”、“すべすべしたひと肌”が近くにあることを願いつつ過ごしてきた。
しっとりした情感を求めるなら夜汽車がいい、いや、旅は夜汽車であらねばならないとまで思いこんでいる。
暗くて寒くて、なにも見えない夜汽車の外と、暖かいぬくもりのある車内という対比があって、情感は高まり想像力は膨らむ。わたしはいつも温かい側にいて、ビールを片手に釜めしをつついている。
しかし幻しい想像は想像でしかなく、現実ではない。
山の頂きは想像の頂きとはかなり違って、小雪交じりの寒い風が吹きすさび、岩がゴツゴツして座り心地はよくない。
想像と現実のギャップは常にあって、山登りはその繰り返し、安易な喜びと急激な落胆、軽薄なわたしの人生そのもののようである。
山行きは山に登らないのがいちばんだ。これが厳然たる結論である。
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・・・・・降りてきた直後にはいつもそのことを思う。しかしながら日数が過ぎるとその気持ちは引っ込んでまたムラムラと挑戦意欲が湧いてくる、性懲りもなく。
(つづく 2014年7月1日)
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余命を楽しむには
体を鍛えるにしかず |
<1719> 年寄りの平均余命とライフプラン
現在66〜67歳の爺さんの平均余命は、統計学の数字で16〜7年という。
したがってわれわれの人生は、80歳から85歳まで、あるいは長寿の幸運に恵まれた方で90歳までというところが妥当だろうか。
50歳くらいのときに意識した生老病死の諦念、「生きとし生けるものはみな死ぬ」と説教された坊さんの言葉が、ジワリと重く迫ってきている。
あと15年しかないと思うのか、まだ15年もあると理解するのか人それぞれに思うところは違うのだろうけれども、どちらかといえば後者の発想にしたがいたい。
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孔子の言葉を借りれば「40歳で惑わず、50歳にして天命を知り、60歳で耳順い、70歳にして心の欲するところに従えども、矩を踰えず」ということになるのだが、さあこのことばをどう考えるべきだろうか。
還暦を過ぎてもいまだ惑いと煩悩のただなかにいて、もちろん天命などは降りてこないし、凡愚の自己主張が強くて、とても耳したがうなんてことはできない。
心の欲するところに素直に従っているけれども、“矩”がどんなものなのかがよくわからない。常日頃、口さがない友人たちより「あくどく矩を超えっぱなし!」と言われている。
さて、孔子は10年単位で賢人の人生を区切ったが、古稀以降のことには触れていない。
当時は長生きしても70歳までというのが常識だったのでしょう。
しかしいまは・・・。
***
唯我独尊の発想で、15年の余命を3分割してしまおうかと思う。
そうすると具体的な先の短い人生が見えてくるような気がして・・・。
まず初めの5年。
心を活性化させ、自身のキャパの範囲で、食や趣味を謳歌する。
もちろん経済と相談しなければいけないので、毎日が酒池肉林などは到底出来っこない。普段はつましく、銭の溜まったところでドーンといく。
次の5年、心を穏やかにして人生を振りかえり、やり残したことがないかをチェックする。
その1・・・まだ生き残っている友人を訪ねて旧交を温め、「互いに元気で生き抜こう」とエールを交換する。
その2・・・現在も暇な時間を見つけてやっていることだが、自身の80年の回顧録を10年ごとにいくつかのテーマを決めて書く。多少の脚色も加えて、虚実の世界を膨らませてみるのもなかなか楽しいものだ。
その3・・・笑って三途の川を渡るための川柳・狂歌の類を、100作品ほど詠む。あまりに風刺をきかせすぎると閻魔大王にこっぴどく叱られるかもしれない。そんなときに笑い飛ばしてしまうような歌も用意しておかないといけない。加えて、出色の辞世を詠んでおくべきだろう。
その4・・・買い貯めた絵具や絵筆、画用紙を心おきなく使って、1週間単位の絵画旅行を10回こなす。心情のこもった世紀の名画ができあがるかもしれない。題して『わが心のふるさと』。
その5・・・なかなかできないこと、次の世代を担う孫や曾孫へ残すべき価値観の塊を、きちんと自分の言葉で伝える。普段から良きコミュニケーションのベースを作っておかないといけない。
その6・・・写経100部を奉納する。書き写すだけで100時間はかかる。手が震えたりすればその倍の時間を覚悟しなければならない。寺社で受け付けてもらえなかったら、友人知人やその末裔たちに配布する。
最後にこんなのも付け加えておくべきか・・・若いおなごと接触するために六本木のキャバクラを訪ねる。
いずれも未達成でお迎えが来そうだが、達成するための必要条件はいつも言っているように健康。
***
そして最後の5年は座して静かに待つ。美しいフィナーレを迎えるための貴重な5年を大事に過ごしたい。
死の影をちらつかせながら描いている自分が不謹慎であることはわかっている。しかし現実の自分は、今を生かせてもらっている命に日々感謝して、力いっぱい生きてゆこうと思っている。
(2014年6月26日)
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紅葉平、山の緑
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登り道

あったかいなめこスープ
塩分の補給
美味しい
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<1718> 山登り、オットットっと!
山の本によれば、明治以降これまで何度か登山ブームが起こっているという。
第一次ブームは明治大正のころ、そののち1956年に日本隊がヒマラヤのマナスルに初登頂して第二次登山ブームが起きた。
次は20年ほど前の中高年のブームがあって、今の山ガールブームは第四次のようである。
年配者の登山はブームとは無関係のように思う。
それよりなにより、歳をとって都会の雑踏より山の緑が恋しくなったという自然の欲求がある。
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週末、梅雨の合間に青空がのぞいた。
家で「ワールドカップを眺めているのも芸がない」と思いながら迷った。昼日中の、強い日差しのなかを歩くことに抵抗があった。
しかし、軟弱さを切り捨てて決行。厚い靴下をはいて、ミレーのリュックに、着替え、タオル、手袋、水を詰め込んで電車に乗った。
11時半には高尾山ケーブルの前に立っていた。
ケーブルを右に見て6号路を登り始める。山歩きは年寄りの専売特許という時代は終わったようだ。土曜日のせいもあって若い女性のグループやカップルが目立つ。
山ガールがこのブームを牽引しているというが、最近では男性のファッションも負けていない。年配者でも山ボーイ、いや、山爺(じじい)ともいうべき派手な衣装が坂道を歩いている。
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今年は梅雨の雨量が多く、高尾山にもたくさん降ったようで沢の水かさが多い。
短い区間ではあるが登りのガレ場が小さな沢になってしまった。バランスを取りながら石をつたってのぼる。こちらは歳とともに三半規管が劣化して平衡感覚にズレが生じている。足元がグラっと動いて、オットットっと・・・、辛うじて転倒を免れた。
マイペースを保てる一人歩きが好きだ。
無理して速度を上げる必要もないし息が切れたら休めばよい。
適当な運動量で爽快感を感じることができるし下山後の飯が旨い。
安いコストで健康を保つことができる。
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晴れて暑くなるかと心配したけれども、山の稜線に吹く風は涼しくて気持ちがいい。覚悟をして登ってきたが、思いのほかの涼しさで汗の引いた身体には寒いほどだ。おかげで体力の消耗も最小限で済みそうだ。
午後1時、紅葉平(もみぢだいら)の茶店で昼、いつもいただいている“ナメコ汁”がとくべつ美味しい。
帰り道は吊り橋を経由する4号路を取った。
下山したロープウエイの時計は2時半を指していた。昼食を含めて3時間の山歩き、けっこうでした。
(2014年6月14日)
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<1717> テニスコートと男女模様三態
さわやかなテニス日和の土曜日、久しぶりに朝からコートへ。
今年は全面張替えたコートでの市民戦ダブルスの運営当番に当たった。
この日はエントリーの受付日、受け付けは翌日も行われて、その後ドロー会議というスケジュール。公式戦なので出場者、とくに上位者は真剣で、ドローも目を皿のようにして眺める。それだけに公平を期したドローを作らなければならない。
翌日曜日はドロー会議。
その後例によって食事会。
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帰りの電車はほろ酔い加減。
感性がほどよく鋭敏になっていたのだろう、ピピピとアンテナが面白い光景を受信した。しかも関連する三つのペアを。それぞれの男女に、失礼にならないようにチラリ、またチラリとしか目を向けていないが、フフフ・・・。
まずはひと組目のご登場。
シルバーシートにお行儀よく座っている若い二人。
しぐさが初々しくて気になって仕方ない。セーラー服の少女は高感度の高校生。
足の白さが目立つ女生徒は膝をきちんと合わせて座って、姿勢に崩れを感じさせない。男子もまじめが顔に出ている。今風の、風に揺れるようなカットではなく、きちんと分けている。
女生徒は眉の上で前髪を切りそろえ、後ろは肩まで垂らしている。
イメージは太宰の『女性徒』。
ピンと来たのは、(今日何かがあったのでは!)という邪推。まっすぐ向いてきちんと座っていたのがしばらくして、二言三言言葉を交わしたのち女生徒の頭が右に崩れて、男生徒の肩によりかかった。目は閉じられている。この動作で、邪推は確信に変わった・・・。
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ふた組目。
女性は夏用のシックなグレーの服でスリムな体を包んでいる。一方、笑顔を絶やさない隣の男性はカジュアルな服装で、やや禿頭(とくとう)がすすんでいる。
早く決めなくては、というあせりの姿勢がみてとれる。
流行りといっては叱られそうだが、たがいにその筋の相談所で紹介を受けて、本日が初デートという様子。女性のほうにはにかみがあってぎこちない。男性はそれをほぐそうと脂汗をかいて、一生懸命愛敬を振りまいている。
年齢は互いに40代前半だろうか。
結婚願望があるのなら多少の不満は押さえて、いっしょになったらいい。
立川駅で男性が立ち、女性はそれに従うようにいそいそと下りて行った。
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み組目。
初めて会って、付き合いが始まって、華燭の典を挙げて一緒に生活する。これが夫婦。
このペアは夫婦になったばかりだろう。
さきほど新婚旅行から帰ってきたという態度が見え見えのお二人は、最近ではあまり見ることのなくなったでっかいトラベルケースを引きずって乗ってきた。もちろん男性がもちあげて、女性は手ぶら。
新婚旅行はうまくいったみたいだ。あるいは一緒になる前の付き合いが長かったのかもしれない。
30歳前後、初々しさも、興奮状態からも解放されてなんとなく落ち着いた雰囲気でした。
子どもを作ることはどうしましょうか・・・・野暮なことを考えるのは止めましょう。
三態、三様の男女模様・・・電車の中で楽しんでしまいました!
(2014年6月11日)
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ブルグコーヒーの殿堂

内装インテリアも格調高く

デザート
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ランチのビーフシチュー

マイセンでいただく
本物のコーヒー

入口の案内 |
<1716> 鑓水の高尚なランチ、“パペルブルグ”
中世ヨーロッパの城郭、イメージ的にはレマン湖畔にたたずむ小さなお城、その一郭をレストラン仕立てに改造したような格調の高さがあった。
経営者がどんな方なのか想像するしかないが、レベルの高い方にちがいないと確信できる。
ここは八王子でもはずれというべき“鑓水(やりみず)にある瀟洒な建物。
「成金趣味?」 と質問する内。
いや、違う。
お金がかかっていることは事実だが、単なる田舎の土地持ち、金持ちとは違った文化性がある。
「かなり高尚だ。この辺りの住人でもこのテイストがわかるのだろうか?」 と失礼なコメントをするわたし。
江戸から明治にかけての時代に、絹の商売で大儲けをした“鑓水商人”なら、この位のことは「平気でやっただろうに!」とは思うが、それは的外れの想像でしかない。
周辺にさまざまな単科大学が多く、そういった混交の中から誕生した店なのかもしれない。
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ウイークデーの昼前、人に聞いたレストランがあるのでランチをどうかと内にせがまれた。
「小さな美術館かと思っていたら、食事も出してくれるんですって。」
道路に面した窓際の席は明るいけれども、そこは満席で右手の席に通された。
昼でも薄暗いテーブルの端に、表紙に“なめし皮”を使ったメニューが置かれている。
開いてみて驚いた・・・いきなり「アイリッシュコーヒー 2000円」の表示、つづいて「ロイヤル・・・コーヒー3000円」と書かれている。
ズイズイとページをめくって前に進むと、多様なスイーツが次々と連なって出てくる。
そうか、この店は喫茶店なのだ。いや喫茶店にしては立派過ぎる。他では見られない、異常な珍しさがある!
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よその席では、いつものようにご婦人がたが楽しそうに談笑していらっしゃる。
何も知らない我が家は二人とも、「ビーフシチューのランチをお願いします!それにコーヒーセットも!」 と、単純な選択をした。
聞くところによると「ランチメニューは多くはなく、なかでビーフシチューはすぐに売切れてしまう」ようで、11時45分の入店で何とか間に合った。
料理が出るまでのしばしの時間、入口に置いてあった“八木重吉”の詩集(販売用)をパラパラとめくってみた。
記憶では、たしかこのあたり、相原町の北のほうの出身で、キリスト教徒、早世の詩人であったか。
店の方は、「近くにお住まいだったようなので・・・」 とあいまいなお話だった。
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さて期待の料理のお出ましです。
最初に“ボリューム十分のサラダ”というのがありがたい。ご存知だろうか、最近しきりに言われているのは、肉や炭水化物を食べる前に野菜をたくさん食べるのが肥満対策になるということを。
数種類の野菜のなかに胡桃まで入っていて、癖のないドレッシングもよかった。
そして話に聞いていたビーフシチュー。
数日をかけて煮込んだものだろう。肉はすっかり小さくなってしまい見る影もないが、炒めたたまねぎの甘さとブイヨンのハーモニーがよい。
自分で作っているところを想像してしまったが、たいへんだよ、時間がなければできないよ、と思うのみ。
サイドについているパン(ご飯は無し)が焼き立てでパリッとしっかりしていて美味しい。
「このお皿、ジノリでしょう!」 と内が気づいた。
「本当だ、こっちはアシュフォードだ!」
さりげなくヨーロッパの陶磁器を使うところが憎い演出だ。
王城の食堂に座るという高雅な雰囲気にきちんとした料理、使用する食器にも意を尽くしてくれる店、まさかこの土地にこういう店があるとは思いもよらなかった。
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食後のコーヒーこそが、店のもっとも世に知らしめたい訴求ポイントだろう。
ドイツ式自家焙煎(二度焙煎)のブルグ・コーヒー、これが店の売り。
苦味も酸味も感じるには感じるが、コクがあって全体としてのバランスがよいように感じた。
ストレートで香りを楽しんだあとミルクを入れたら、まろやかさが出て飲みやすくなった。
「同じ飲むなら、毎日こういうコーヒーをいただきたいね」。
こちらのカップ&ソーサーはなんとマイセン、その剣のマークがソーサーから確かに読み取れた。
そういえばヨーロッパで最初に白磁を作り出したのはマイセンだったかなあ・・・マイセンといえば花柄の手書き陶器のイメージがあって、しかも世界一値段が張る。マイセンのカップアンドソーサーでコーヒーを飲むことなんぞ滅多にない。
「“波の戯れ”という商品ラインのようです」。
「このデザインはおもしろいですね。飲み口が緩やかなラインになっているけれども、右からでも左からでも同じように飲める」。
もうひとつおまけ、「このスプーンは、クリストフル?」 正真正銘の銀のスプーンだ。
都心なればブランド洋食器にも驚かないけれど、同じ東京でも、山また山を越えた西のはずれ、新鮮な発見があった。
「来週はナニをいただこうかしら・・・」 車の中で内がつぶやいた。
***
おっと、忘れてはいけない食事代のこと。お一人様1600円でした。コスパはいかがでしょうか?
店のホームページ(http://www.burg-kaffee.com/pappelburg/index.html)
(2014年6月9日)
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骨付きラム肉と赤ワイン
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こんなのも
お腹の足しに |
<1715> 入梅の高円寺イタリアン
6月はJUNE、語源はローマ神話の結婚と出産をつかさどる女神ユノー(JUNO)に由来する。
したがってジューン・ブライドは、ユノーの加護を受けて幸せになれる、らしい。現実はそんなに甘いものではないはずだ。まあしかし鬱陶しい梅雨の時期、純白のドレスをまとった花嫁は爽やかな喜びをもたらしてくれる。幸せになれよと祈るしかない!
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梅雨入りの夕方、店を決めかねていた。
「すこし変わった店にしよう。高円寺の駅近くに“ブラッスリー・ボジョレー”という小さなイタリアンがある。そこに予約を入れた。6時半集合。」
以心伝心の友人から明快なメールが届いて、1時間後にその店にたどりついた。
カウンター数席とテーブルが三つほどの、ミニレストラン。
女性二人でやっている様子。
聞くところによればなんとかという女性のワイン教室が関係しているようだ。
その学校の実験店なのか、二人の女性が独立して作った新しい店なのかを知らないが、会話のやり取りの中でそれとなく、プライドの高さを感じとることができた。
客に迎合することなく、プロフェッショナルとしての(シェフとソムリエの)腕を磨いて欲しい。
***
店に入ったときにはすでに白ワインの封が切られていた。最近は南半球のワインが目立つようになった。オーストラリア、チリ、アルゼンチンなどなどで、このワインはどこかというと、先日誇り高き大統領がお亡くなりになった南ア連邦産。
きちんと冷やされていて、白ワインの味がした・・・ということはそこそこにいただけたということ!
肥満を維持(そんな馬鹿な!)するためにフライドポテトで腹を膨らませて、ビールじゃなくてワインをがぶり、根菜のラタトィユかなにかと骨付きラムのソテーも頼んだ。
いつの間にか若い男女のカップルがとなりに座っていた。それとなく観察していると、当世男女気質なのでしょう、男は不慣れなせいか“おどおど”、女は何度も来ているという風で毅然として立派。男性が食べられてしまいそう。
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あとで携帯の写真を見てみたら、赤も開けていた・・・”Primitivo Salento(プリミティーボ サレント)”なるイタリアワイン、道理でよい気持ちになっていたはずだ。
青春回帰も兼ねて、新進のワインバーを訪ねてみるのも意外と楽しいかもしれない。
次の店はいつもの“チントンシャン”。
お勧めの酒が出てきたが、甘みが強くて、舌の上では砂糖水の感じ、わるいけどこれは遠慮。土佐の“酔鯨”で呑みなおし。
まさしく「今宵は酔うて候」。
(2014年6月5日)
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<1714> 金曜休暇のアウトレット
すこし前の金曜日。休暇を取っていたため朝の散歩もゆっくり。すこし遠くまで足を延ばした。1時間半。
今年は去年と同じ風景や花ではつまらないから、細部まで、いや細部をこだわって撮ってみようかと思っている。
同じ桜でも枝の延び方や、くぼみに枝や葉をつけるありさま、なかでも面白い造形があればそれを見つけ出したい。
自然の力はすごいと感じるのは、ここ数日で新緑が一気に色を増していること。冬枯れのイメージが頭に張り付いているから、そこからの変化に頭が正直になれない。
目立つのはカヤツリグサやハルジオンの雑草。
茂みの中には食材となる野の草もあるのだろう。いまはその採集時期のはず、どなたかが誘ってくれたら喜んで参加するのだが・・・もちろん目的はそれを食すること。
数日後、山形から送ってもらったという蕨のおひたしをいただいた。噛んでみると粘り気のある柔らかい茎に初夏を感じた。
***
昼食を兼ねて自転車で南大沢に向かった。
登山靴を新調したい。今の靴が長年の乱暴な扱いに耐えかねて、先のほうが剥がれかけている。近くの山歩きなら問題はないが、名のある山に登るとなると心もとない。
「人生最後の山の靴」をここで調達しておきたい。
その気になってサイズを測ってもらい試し履きをしてみたが、どうもフィット感で満足を得られない。別の店を探すことにする。
アディダスでテニスウエアを見つくろい、ニューヨーカーでビジネスウエアをさがし、若者向けのセレクトショップ・ビームスでカジュアルウエアをあさった。
いつものスーパーでお握りとコロッケとを1個ずつ買って日蔭のベンチで一人昼食。ウイークデイだけにゆったりとした時間が流れている。ここでも読書、あっというまに時間が経つ。
駐輪場は2時間無料。あと10分というところで立ち上がった!
***
南多摩西部の丘陵地に三井不動産によって開かれたアウトレットのある町。
周辺を振興の住宅に囲まれ、レベルの高い学園があって、映画もファッションも食も図書館まであって、週末ともなれば若い人たちがおめかしして集まってくる。
その光景を眺めているだけで気分が楽しくなる。
移住してきた当初は、外国にいるような違和感があったが、今ではすっかり馴染んで居心地がよい。
さてこれから図書館で本をあさって帰ることにしましょう!
(2014年6月4日)
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自然エネルギー

海底も重要

太陽光を集めて |
<1713> エネルギー問題・・・石油、風力、原子力・・・? (2)
さて振り返って、日々を泰平に生活している日本の一般大衆は、エネルギー確保などといってもピンとくる人は少なく、概して鈍感だ。
しかし日本のエネルギー自給率は、世界で最低の、たったの4%。
ここでエネルギー先進国といわれる国を眺めてみたい。
日本と規模の変わらないデンマークでは70年代の5%という自給率から驚異的な改善が行われて、現在では124%という供給国にまで変貌した。かれらは何をして大変身したか?
デンマークや北欧の国々は、風力発電など自然エネルギーの確保に早くから対策を打ってきた。このことから見習うべきは多い。
***
個人的な話。
弟氏の家庭では自宅に投資をしてソーラーの設備を導入した。
かれは、「短期的に回収するのは難しいが、2年くらいで元を取れる。これは絶対に各家庭で導入すべき、エネルギー問題にも貢献できるし家計にもプラスだ!」と鼻息が荒い。
実際に現在、高い電気代を払うことなく、逆に余った電気を電力会社に売っているという。
いっぽう我が家の老(義)母はそういうことにはまったく無関心で問題意識ゼロ。
育った生活環境がそうさせるのだろうが、「ティファールの湯沸かしは便利だ」と高い電気代を無視して常用するし、台所では水道水を出しっぱなしで食器類を洗う、おまけに食器洗浄機にまでかけて清潔感を追及する。昼寝の時間もテレビはつけっぱなし。・・・エネルギーを過剰使用する習慣が身についていて、忠告しても聞き入れてもらえない。
二例をあげたが、我が家の周辺は日本のエネルギー使用の縮図のように思う。
努力する人とまったく無関心の人。
何とか改善しなければいけないのだが・・・。
***
対中を意識して日米は安全保障面では固いきずなを結んでいるが、エネルギー問題でもこのきずなは通用するのか?
現在、アメリカは71%、イギリスは83%と高いエネルギー自給率を確保しているのに対して日本は前述のように、たったの4%。
米英の、連携するファイブアイズ(five eyes)の仲間にはオーストラリアという巨大なエネルギー供給基地があるから、米英加豪+ニュージーランドほぼ安泰だ。
日本はこの仲間に入れてもらえるのか?
***
思い出してほしいのは日本が真珠湾を攻撃して太平洋戦争に突入せざるを得なかった、その原因のこと。
当時の世界の勢力図のことは解説するまでもなく、日本は米英からエネルギー(石油)封鎖を受けた。その打開方法として油を調達できる南方に進出せざるを得なかった。
結果、米英との軋轢はますます激しくなって(日本の)堪忍袋の緒が切れた。
エネルギー問題が敗戦国への間接的な原因となった。そのことを忘れてはならない。
(2014年6月3日)
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習近平とエリツィン |
<1712> エネルギー問題・・・石油、風力、原子力・・・? (1)
「歴史的」と日経が謳う超大型の天然ガス供給契約が、ロシアと中国との間で締結された。
これまで、中国は「ほとんどのエネルギーを自給自足している国」という認識があったが、人口過剰と濫費によるエネルギー不足の兆候が出ているのだろう。
ロシアのプーチン大統領が5月下旬に上海を訪問した際、ようやく決着にこぎ着けたという。
この大口の契約によってロシアは、やがて世界一のGDP国となる中国と太いパイプを結び、大量の資金を確保して、遅れていたインフラの整備が可能となる。一方の中国はエネルギー問題の懸念から解放される。
ロシアは最大で年380億立方メートルの天然ガスをパイプラインで中国に供給する。
中ソの急激な接近には不気味さを感じる。
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エネルギーだけで国家の安泰は図れないが、現代社会において、エネルギーが国家経営の基幹課題のひとつであることは間違いない。
原子力発電を廃棄すべきか否かという問題も、事故というマイナーな側面だけでとらえると対応を誤る。
日の本の国でも昔から、(エネルギーと同質の意味を持つ)水資源の確保のための争いが頻発し戦争にまで発展した例は数えきれないほどある。
膨大な人口を抱えた中国がいま、自身の大陸だけではなく海底にまでエネルギー資源を求めて行動する思惑は、その良し悪しは別としてよく理解できる。周辺国と摩擦を起こしてまで勝ち取らねばならないほど重要な課題なのだ。
***
石油資源は、「埋蔵量の少ない国ではあと20年で枯渇する」といわれている。
たとえばこんな事が起こることは容易に予想できる。
いまから10数年後、中米のある国の掘削量が大幅に減ったという情報が流れた。そのとき、これまで世界の石油供給国であったOPEC産油国はどう動くか? すでにシナリオは描かれているだろうが、サバイバルと危機意識とをもって供給削減に走ることは自明の理だ。
いっぽう、石油エネルギーに経済の多くを依存している国々はどうなるか。とくにニッポンは!
電気、自動車、生産設備、食糧輸送など経済、生活のすべてを石油資源に頼っているこの国は大打撃を受ける。間違いなく。また農業も、化学肥料、農薬、機械化に頼っているので石油の削減は致命的なダメージになる。
***
かつて“オイルショック”という事件があった。
昭和48年11月、OPECの7か国が70%もの値上げと将来における供給削減を発表すると、日本経済は大きな打撃を受け、たちまち不況に陥った。
一般大衆がトイレットペーパーの買い占めに走ったために店頭からなくなった、という有名なエピソードがあった。
一流企業は採用の門戸を閉ざし、給与のベースアップも抑えた。
悪しき記憶だけが残る。
オイルショックの時でさえこの体たらくだ。本物の大波が襲ってきたら防ぐ手段はない。
(つづく 2014年6月2日)
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<1711> 期待の松山、メモリアル・トーナメントでPGA初勝利
日本ゴルフ界の期待の星・松山選手がやってくれました。
最近調子が上がってきたことは新聞の小さなスポーツ記事で確認していましたが、いきなり優勝してしまうとは、おそれいりました。
シーズン初めは昨年から痛めていた左手首が回復せずに不調をかこっていたようで、正直言って今年の松山はだめなのではないかというあきらめ感もただよっていた。昨年の活躍がフロックではないようにと、祈るような気持ちも抱いた。
***
しかしこの朝の松山は一味違っていた。適度な緊張感と、何物にも負けないという気迫、堂々としていてとても新人とは思えなかった。
ターゲットとなった相手にも不足はなかった。
最終組には、今年のマスターズを制して(2勝目)好調を維持しているレフティのババ・ワトソン、もうひとりは現在世界ランキング1位の座にいて安定感抜群、長尺パターがトレードマークのアダム・スコット。
この二人の間に割り込むようなポジションで18ホールがスタートした。
たいていの新人選手なら気後れして自滅の道をたどるのがパターンだが、松山は終始臆することなく落ち着いたプレイをして、プレッシャーを感じている風には思えなかった。
かつて日本人選手としてPGAツアーに初めて優勝(ハワイアンオープン)した青木功は、松山を評してこういった。
「世界の頂点で戦えば普通は物おじするものだが、競う相手が誰であれ優勝しか見えていない。あの鈍感さは魅力だよ」。
キャディとのやり取りの中でも時々笑顔が見えて、むしろこの緊迫感を楽しんでいるようでもあった。これも青木の言う鈍感さだろうか。
***
難易度の高い16番のショートホール、この時点で一打リードの単独首位。右からの弱い風が吹いていた。
NHKBSの解説者は、「右側のバンカーに入れてもパーは取りやすい。危険なのは左の池、だから右を狙って撃つのがよい!」と警告を発していた。
しかし右へ打つのは逃げ腰の気持ち、「ここで逃げたら優勝も逃げてしまう。あくまで攻めて行ったほうが怪我は小さいはず」 わたしはそう思った。その瞬間、アイアンで打ったボールは大きな弧を描いて、ああ無残、左の池の端に吸い込まれていった。
やはり逃げるべきだったのか・・・?
普通ならこれで万事休す。
ところが首位争いを演じていたババがその前のホールでダブルボギーをたたいていて、松山は先に上がったケビン・ナ(米国)とまだ首位に並んでいた。
最大の見せ場は最終18番(パー4)。すでにナは通算13アンダーでホールアウトしている。松山は17番でもスコアを落として12アンダー。このままでは、あと一つ届かない。確実に1打目でフェアウエーをとらえ(このあとドライバーヘッドがシャフトから転がり落ちた)、迎えた2打目。残りは165ヤードだ。ミドルアイアンを手にした松山はピンまで約1.5メートルにつけ、しびれるようなパットを決めて、バーディを奪った。はらはらしながらもようやく最後に追いついた。
***
ナとのプレーオフは、史上初めて4日間バーディを決めたという、得意な18番。
松山はコースに自信があって、追う者の強みもある。
ドライバーを壊していてもスプーンで右のラフ、ナは無念、左のクリークに入れて勝負は決した。
18番グリーン、上からフックするウイニングパットを決めてガッツポーズの松山、わたしも久しぶりにゴルフで溜飲を下げさせてもらった。
(2014年6月1日)
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