秋田の夏2013
西馬音内(にしもない)盆踊り幻想
その2
指先まで伸びて、きりっとした立ち姿
赤い”しごき”が男心を”刺激”します
いつもの年であればお盆を過ぎたら朝晩に涼味を覚えるのが自然だろう。それが今年はまだ、ねっとりした湿気がこの地方にも居座ったままである。
町に夏の宵闇が忍び寄ってきた。松明のかがり火がパチパチと音を立てて燃え盛っている。遠い道のりを経て待ちに待った時間がようやくやってきた。
そうだ、じっくりと盆踊りを観ることにしよう。
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午後7時、囃子方の音頭に誘われて若い踊り手たちが動き始めた。ざわめきの時間はかぶりモノのない小学生や中学生によって占められる。なかで母親に連れられた幼児がまねごとをしながら甘えている。
さて、わたしはどこで、どうやって観ればいいのか?
2000円也の有料の“仕切り台”を買うこともできたが、それより狙ったフォーカスを追いかけたほうがよほど真髄を味わえる、これを徹底的にやるべきかと感じていた。
できるならば一晩、一人を追いかける・・・混雑の中でそれは到底できないこと。でも上手を徹底して追いかけたい!
優美な衣装は目の保養になるが、わたしはあくまで欲深く、衣装でかくされた中身の心臓部を突き止めたい。仔細に観察してみたい。はじめての旅人は強欲である!
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なにげなく感じたこと、上手な踊り手は姿勢がいい。腰から上の背筋がしっかりと伸びているのは、多くの他の舞踊と同じ理屈だろう。
“すっくと立った”ときの姿は、ピンと張った弓を連想させてそれだけで惚れ惚れしてしまう。
踊りの種類は二つのみ。
毎度、踊り始めは『音頭』ではじまり、次に『がんけ』がきて、これをずっと繰り返して11時のお開きを『がんけ』で締める。これがルール。
前者はいわゆる『秋田音頭』とほぼ同じ、いや秋田音頭のルーツという説もあるという、『地口』を即興でやる。しかも皮切りは毎年決まっていて、こんな風だ。
<時勢はどうでも世間は何でも 踊りコ踊たんせ 日本開闢 天の岩戸も 踊りで夜が明けた>
あとは囃し方のアドリブで、艶のある歌詞が次々と披露される。
<今年の踊子揃いも揃うた ほんとによく揃うた
手つき足つき品よく踊れば 嫁こに世話するぞ>
<西馬音内(にしもね)女ごはどこさえたたて
目に立つはずだんせ
手つき見てたんせ 足つき見てたんせ
腰つき見てたんせ>
***
一方の『がんけ』は『音頭』にくらべて、すこしだけテンポが速い。こちらはクルリと回る場面や、終盤には緩急をつけるなど、スピードと切れを感じさせる。
暗闇の流れのなかで帯の上に巻いた赤や黄の“しごき”が揺れなびいて、幻想さはいや増す。七七七五調の歌詞は秋田のお盆らしい。
<お盆恋しやかがり火恋し まして踊子
ササ なお恋し
踊る姿にゃ一目で惚れた 彦三頭巾で
ササ 顔しらぬ
今宵ひと夜はまけずに踊れ オジャレかがり火
ササ 消ゆるまで>
笛・太鼓・摺鉦(すりがね)など勇ましく野性的なお囃子に対して、優雅で流れるような上方風の踊りがミスマッチという指摘もあるようだが、わたしはまったくそう感じなかった・・・。
子どもたちの時間は午後9時までで終わり、ここから11時までの2時間が、大向こうをうならせる上手たちの舞台となる。
***
着物を着るということは気持ちを落ち着けて、髪、化粧、立ち居振る舞いにいたるまで、細やかに心をくばることだ。ましてや、人に見せる踊りの場においては、なおさらといえる。
しかし付け焼刃の姿かたちでは、すぐに眼の肥えた観客に見破られてしまう。その意味では常日頃から、美に対して精進することが大切で、それをやらずして、自然の美しさなど身につくはずもない。
西馬音内は、何百年も優美な盆踊りを伝承している土地であるからこそ、人々の美に対する意識は高い。
美しい襟足は、丹精込めて剪定された木々のすがすがしさに通じるし、白い襟足は男心をぐさっと突き刺す。
着物のときの襟足(うなじ)は、すっきりしているほうが圧倒的に美しい。
江戸時代、常に着物を着用していた女性は、襟足をすっきり美しく見せるため、生え際の毛を抜いて形を整えたという。襟足は“女の命”というに近い・・・。
そして、やはり若い上手な踊り手に眼が行ってしまう。それはしかたのないことか。『音頭』のなかにこんなことばがあるのだから・・・。
踊るて跳ねるて若いうちだよ おらよに歳ゆけば
なんぼ上手に踊てみせだて 誰も見る人ねぇ (アーソレソレ!)
***
『がんけ』の甚句がゆっくりした調子を取るなか、しなやかな腕の動きとともに裾がたわんで流線の弧を描く。
次には手先が体全体をリードして、沈んだ腰がたちあがる。
実にスムーズで躍動感のあることか!
いま “手先”と書いた。“手先”というより、さらに細かく注視すれば“指の先”がこの踊りの生命であるように感じる。掌を開いているときは親指を内に折り、他の四本を弓なりに反らす。指先に緊張感があって、この踊りに独特の優雅さを生んでいる。
また両の掌を軽く握る場面にも出くわす。これは明らかに亡者の姿だろう。
ご先祖様が美しい踊り手に化身して再生する瞬間だ。黒い布をたらした“ひこさ頭巾”がこれをやると、臨場感はさらに増す。
真面目に考えると、この翌日に旅をした男鹿半島の“なまはげ”以上に怖いはずである。
好みの衣装、好みのスタイルの女性が、目の前50cmのところで掌を上に開いて前後するポーズを見て、(ああ、これはわたしを誘っているのだ)と、嬉しい錯覚をしてしまう。
今宵、一夜だけの幻想のアバンチュールも悪くない!
踊り手にとっても誘っている意識は高いはずだ。
そして彼女たちは、見られていると意識する快感にも酔っている・・・。
乙女らの黒の頭巾に霊宿り
藍染の三つ目にキラリ盆踊る
この日友人たちに送ったメールが残っている。
<夕刻西馬音内入りして23時まで6時間と短い滞在でしたが、何倍も中身の濃い出逢いがありました。
汗のにじむ女性の襟足に普通でない色気を感じ、男を誘うような白い指先にドキドキとしてしまいました。彼女たちは間違いなく恍惚の境地にいたはずです。
来てよかった!>
深夜に躍動する西馬音内
表情は見えないけれども“笠のうちの恍惚”を想像する。その恍惚の手がわたしを誘い、踊り手は手を延ばせば届いてしまう近さにいる。細身の肢体がしなやかに撚れ、長い指先がきわだって見える。
この人たちも踊っているあいだは感性が研ぎ澄まされて、普段の“わたし”ではない人間に、変わってしまっているのだろう。
あるいは“あの世からの亡霊”になりすましているのかもしれない。また鬼女となって心の中の猛烈な炎を燃やし尽くしているのかもしれない。
いずれにしても芸術性の高い“女の祭”を強く感じた。
去りがたい気持ちを抑えて車に乗った・・・。
この踊りを心のうちの『幻想』という扉の中にしまって、しっかりと鍵を掛けておこう。
いつの日か、またこの鍵を開ける日まで大事にしまっておこう。
***
人気のない深夜の田舎道を、興奮の余韻を楽しみながら、雄物川町の旅籠にむかって走らせる。
喉が渇いたが、コンビニも、自動販売機すら見つけられない。
静かに旅籠の玄関を開け、あらかじめ頼んで、温かくしてもらっていた風呂につかる。
廊下に冷蔵庫が置かれていて、中を開けたらビールがあった。喜んでプシュッとやって、一気呵成に喉の奥に流し込んだ・・・最高の瞬間のあと、眠り込んだ。
***
翌朝、三代続いているという話好きで80歳になる旅籠のお母さんから、「昔はこのあたりに7〜8軒の商人宿があったんだけれども、今はウチだけになってしまった。常連さんからは『止められと困るから止めないで』といわれているんですよ」 と、聞かされた。
そして、「夜中に飲まれたあのビールはほかのお客さんのだったのよ!」 と笑われた。その営業マンさんはすでに出払っていたので、精算のとき缶ビールの代金を添えさせてもらった。
「悪いけど、そのお客さんに払っておいてくださいね」。
気持ちのよい旅立ちだった・・・。
(その3へつづく)
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