中国 江南を歩く
(2)杭州と紹興酒


** 杭州 その歴史 **

「壮麗無比」と称えられた杭州にやってきた。

杭州はかつての南宋の都、西は風光明媚を誇る西湖に接し、南に呉山・鳳凰山・玉皇山が連なる。北京に向かう江南大運河の起点でもある。

12世紀、日本で清盛や頼朝が覇を競っていた頃、杭州は南宋(11271279)の都で、当時は臨安といった。

その命名には「臨時の都で、安心・安定」ほどの意味があった。どうしてそうなったか?それは宋国が民族移動とも言うべき“お引越し”をしたからである。



高層ビルの建築が進む杭州市街
ブランドショップや
ヨーロッパの高級車の代理店が並ぶ町は
日本の六本木や赤坂を想起させた







杭州のかつての繁華街・河坊街(こうぼうがい)が再開発によって活性化した
そのマーケットを歩いた
左右の屋根の上のウダツが目立ちます

後で触れようと思うが
店頭に龍井(ろんじん)の新茶が並んでいる


          

左・南瓜売り
右・爬虫類の針金細工


      

左・餅つき
右・新茶のPR

―――中国史において黄河南の華南(世界の中心といわれている地域=中華思想)には常に北の脅威があった。これらを“北狄(ほくてき)”というが、これからすこし歴史のお話。

北狄とは古代中国において、北方の「中原(黄河の南の豊かな土地)的都市文化」を共有しない遊牧民族を呼んだ蔑称であり、時に南下して略奪や殺戮を繰り返した。

“万里の長城”はその北狄の侵略に備えて、秦始皇帝(BC259210)が造り始めたわけであるが、あれだけ壮大な城壁を造ったことが、北の脅威を証明している。

そもそも遊牧の民(騎馬民族)はバラバラ好き勝手に生活するのが常だが、たまたまツングース系女真族がひとつにまとまった。

個別の戦闘集団なら大して恐くもないが、それが集団になる、ましてや国家の体裁を整えて優秀なリーダーが引っ張り始めると恐い。

その極端な例がジンギスカン(チンギスハーン)やフビライがリーダーとなったモンゴルの民・元という国だ。

宋はもともとたいした軍事力を持たなかったから、“金”の来襲によってあっさりと南に逃げた。

杭州(臨安)が臨時の都となったために、それまでどちらかといえば蛮族が住むといわれていた南の地に、中元の文化や教養が移植された。



布袋(ほてい)さん
日本では七福神の一人として祀っているが
中国では“弥勒菩薩”の化身としての信仰がある

ともかくそんな経緯があって南宋ができて、杭州がその都となった。

南宋も150年の命を永らえるが、やはり強い国には勝てない。1279年、フビライの“元”によって滅ぼされる。

当時のモンゴル帝国は世界制覇をねらってその食指を四方に伸ばしていた。

南宋の滅亡も時間の問題であったが、その直前、日本にやってきた元寇・文永の役(1274)では、南宋の兵士たちも刈り出されていた。もちろん朝鮮半島の兵士たちも。というより“元”はあえて自分の兵士を出さず、征服した国の兵で日本を攻めさせたというわけである。

これが当時の日本(鎌倉幕府)には幸いした。やる気のない南宋や半島の兵たちは、大風が吹いたのを格好の言い訳として逃げ去った・・・。

話が大きくそれてしまったが、中原の文化がもたらされたために、杭州は大いに発展した。


** 紹興酒愛でたし! **



杭州から紹興へはくるまで1時間半ほど
紹興市内も活気にみちていた

忘れないうちに紹興酒のことにも触れておきたい!

紹興酒は老酒の一種で、厳密に言えば紹興産の三年もの以上の酒をいう。日本酒と同じ醸造酒(中国では黄酒=ホアンチュウと呼ぶ)である。

原料は米、日本酒も米だが紹興酒はもち米を使う。それに、小麦酵母にカラメルを加えて醸造する。一説によれば江南では7000年前から稲作がおこなわれていたというから、コメはお手の物。

また風土的に、仕込みの季節(冬)に雨が多い。ということは湿度が高く、酵母菌が繁殖するには絶好の条件が整っている。

たいせつな水は鑑湖の水を使う。

かれらは言う。
 
「紹興酒は肉(もち米)と骨(小麦酵母)と血(水)の三位一体の産物だ」 と。



「立てて寝かす」 とおっしゃったが
暗がりで厳重に管理される紹興酒




「正宗咸亭」と書かれている



甕(かめ)を蓮の葉と竹笹で覆い
その上に藁と土を捏(こ)ねて、塗り固める
酒に呼吸をさせ、味と香りを保ち、なおかつ蒸発を防ぐという工夫が
伝統の酒を醸成する!

この酒は健康と長寿の秘訣でもある


紹興酒をめぐる逸話や古い言い伝えは、巷に広く流布されている。

「昔、紹興の家々では女の子が生まれると祝米をつかって酒を甕に仕込んだものだ。満1か月の誕生日を迎えると、その甕を屋敷の中に埋めた。やがて女の子が成長すると、父親は婚約を調える。(今のような自由恋愛などは願うべくもなかった)

そしてその婚礼の日に、埋められた甕を掘り起こして参加してくれたすべての人々に振舞う。紹興の酒は祝いの酒であり紹幸の酒でもあった。」 と。

この酒は美しい花模様が彫られた甕に入っていたので、べつに「花彫酒」ともいう。

昔はよほど幼いころの、14歳とか15歳で嫁入りしたから、ほどよく熟成した。20歳くらいまでは酒も最も充実するのだが、これが30歳を超えるようになると、娘も姥ザクラとなって、残念ながらうま味成分もしおれてゆく。中国も日本と同じで晩婚化が流行のようである!

もとが水分であるからには、蒸発してしまい、量も減る。せっかくの美酒がもったいないことになる。おいしい紹興酒をいただくためにも、娘は20歳前に嫁に出さねばならない。



いまや紹興酒の輸出は国家プロジェクト
立派な”紹興酒咸亭酒業”


構内の一室で5年モノと10年モノを試飲させてもらった。

「ここからが商売です」 と言わんばかりに、マニュアルにのっとった滑らかな話を聞いて、さてお値段は・・・?

確かに美味しくはあったが、べらぼうに高い。

10年モノ500mlがなんと200元、これは円換算すると2,800円、2000mlのブランドの純米吟醸酒とほぼ同じ、1.8リットル日本酒に換算すると1万円を超える。

これは暴利をむさぼっている、足もとを見られている、と言わざるを得ない!

ちなみに上海の薄汚いコンビニらしき店で買った10元(140円)の酒も、西塘(せいとう=シータン)の狭くて暗い土産物屋で買った15元(210円)の酒も、それなりにいけた。いやそれで十分だった。

がここではその20倍の値段とは・・・!

それでも、祝いの酒だからと10年モノを1本だけ買いもとめた、そして飲んだ。

確かに美味しい、抵抗感なくスムーズにのどを通る、後味もいいし、妙な臭いも残らない。

上等であることは認めるが、はっきり言えるのは滅多に飲めないばかばかしく高い酒ということ。

こんなのを毎日飲んでいるのは、政府高官か、IT成金か、華僑の大金持ちであり、「一番おいしいのは北京に行きます」といみじくも指摘された。

中国は「贅沢は敵!」ではなかったのか?

酒の世界でも二極化は進んでいる・・・。

(つづく 「江南を行く 3西湖」へ


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