平家の家紋「揚羽蝶」
女性・にょしょう
北条政子
建礼門院
<4部 大原御幸そしてエピローグ>
平家物語は「岩間をつたふ水の音もしづけくして、行き来の人も跡絶え」と語るから、きわめて寂しい情景が目に浮かぶ。
庵の裏山から、摘んだ花を入れた籠を手に降りてきた建礼門院は、後白河院との思いがけない対面に驚きながらもその後の数時間を語り合う。わずか数年前までは皇后の位にいて何の苦労もなかった高貴な方の思いもしなかった辛い思いを・・・まさにこの世は無常なり。ひたすら寂光を求め、念仏往生をねがう建礼門院の姿に、後白河院も落涙を禁じ得なかったという。
最後に。歴史はたびたび奇遇を呼び寄せるが、建礼門院は北条政子と同い年であった。北条家も元をただせば桓武平氏の末裔。数世紀を経て誕生した二人の平家の女性はまったく異なる運命を歩くことになった。
建久2年(1191)2月15日建礼門院は、余生を仏道に帰依し、36歳にて静かな生涯を終えた。
奇しくもその翌年、源氏の頭領頼朝は鎌倉に幕府を開闢する。
伊豆韮山の北条家に生を受け頼朝の妻となった「尼将軍・政子」が日本史の表舞台に登場するのは、それから7年後のことであった。
萌え出づるも 枯るるも同じ 野辺の草
いづれか秋に あはで果つべき
(「平家物語 祇王」より)
<完> 「詩仙堂」へ 「三千院」へ
△ 正月の京都を行く|△ 京都・桜花爛漫
△ 秋の洛北・大原散歩
寂光院(じゃっこういん) |
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洛北大原の里
聖徳太子
寂光院
<3部 静寂の寂光院>
<コスモスの里>
この日、大原いったいにコスモスが咲き誇り、農夫は穏やかな日差しを浴びながら畑仕事に精を出していた。のどかでひなびた、日本のどこにでもある光景。背後には比叡の山並みが高々とそびえていた。
大原のバス停から三千院とは逆方向に折れ、流れも清い川のほとりを下り、里の細道を、汗をかきながら15分、山あいにひっそりとたたずむ門前にたどり着いた。
<放火の難>
入口で入場料を払おうとすると「ご本尊は放火にあってご覧いただけないのですが・・・」と丁寧な挨拶をいただいた。
「承知していますよ!ところで体内にあった小さな仏像も見せていただけないのですか?」とわたし。
寂光院は、残念ながら平成12年5月9日未明放火に遭い、その美しい本堂とご本尊は消失してしまっていた。ところが本尊の体内にあった3万個(実際は3,417体)といわれる地蔵菩薩は残り、これこそ不幸中の幸いであった。
「そちらも今は別のところに避難しておりまして・・・」と申し訳なさそうな気持ちが顔に表れた。
<聖徳太子創建>
寂光院の数十段ある石段はやや急になっているが、途中に案内板が立てられている。ほとんどの訪問者は足を止めて見入るが、そこには意外な事実が語られていた。
「寂光院は推古二年(594)に聖徳太子が、用明天皇の御菩提のためにお建てになった寺」であると。であるなら、平安遷都(794年)より200年も昔の話、建礼門院当時からは600年も遡る話で、大和・奈良・斑鳩などと地理的にずっと離れたこの地はそのころ何があったのだろうか?大原とはそんなに古い歴史をもった里なのか?この奥まった田舎の里が?
上り詰めた正面に木枠が組まれている。新しく葺かれた本堂の屋根が枠の中に見て取れ、修復が順調に進んでいることを知らされる。
でも、減ってしまったとはいうものの、なんの御開帳もないのに引きもきらず老若男女が訪れるのはなぜなのだろう。人の気持ちに理屈はいらないのだろうが・・・。
悲運の皇女の生涯がもののあわれを解する現代の日本人の心をゆすり、ひっそりとたたずむこの境内に身をおきたいと思うのか。こころなしか院の残り香が漂っているような洛北のそのまた北の山すそに・・・。
<ソフィストケィと>
案内係のお嬢さんに境内の見所と建礼門院について簡単な解説をしていただいた。
彼女は「再建に着工したのでほっとしています。」といいながら、心字の池のこと、豊臣家の雪見灯篭のこと、玉だれの泉のことなどを説明してくれた。もちろん建礼門院の生涯のことも・・・
そして確かに庭内のあちこちを切り取ってみると、それらの小さな世界はどれも美しく、洗練されていた。
右手の池には黄や緋、白色の鯉が悠々と水面を漂い、苔の生えた岩の上には赤い南天の実がひときわ鮮やかに自己主張をしている。
左の心字の池の中島には千年松といわれる「姫小松」が、痛々しく焼けただれながらも、老骨に鞭打ってどっしりと立っている。後白河の大原御幸では、この松に「藤が紫色の花をつけからまっていた」と描かれているが、その姿はけなげですらあった。
源氏の反攻
木曽義仲
清盛の死
信楽の亀の親子を買ってしまった
川沿いに下り橋を渡り・・・
温泉も出たのだ!
大原の里にコスモスが咲き誇っていた
古来歌にも詠まれた朧(おぼろ)の清水
<2部 建礼門院徳子>
建礼門院は、時の最大の権力者である氏の長者・清盛の娘「徳子」として誕生した。
<天皇家への入内> 徳川家康も同じだったが、武家の棟梁となったならば次の目標は天皇家と血縁関係を持つこと、清盛もこのことに執念を燃やした。歴史の中で、それまで藤原摂家以外に天皇(皇子)に稼入した姫はいなかった。 「74代天皇・鳥羽」退位後即位した「75代崇徳天皇」は22歳で退位後四国にて暗殺。「76代近衛天皇」も2歳で即位したが17歳で崩御。そして権謀術数巧みな「77代後白河」と続くこの時代は藤原摂関家の主導権争いを背景として、天皇の後継者争いもどろどろの様相を呈しかつ熾烈であった。 |
頭角を現した清盛はそれらを横目でにらみながら、まず妻・時子の妹、滋子を後白河に側妾として近づけ、その子を80代高倉天皇として即位させた。
この高倉帝に嫁入したのが建礼門院・徳子である。高倉帝20歳、徳子15歳。
このとき平家には、後白河法皇の反感と謀略、源氏の臥薪嘗胆による密かな台頭、という前門の虎・後門の狼が迫りつつあった。
<急転する時代>
まず、頼りにしていた平家の惣領・重盛の早すぎる病死。2年後の治承5年2月4日には一族の総師・相国清盛までもが逝ってしまった。
この後のストーリーはご存知・源九郎判官義経(2005年NHK大河ドラマ)の独壇場の活躍に終始する。
平家は「一の谷の合戦」で須磨明石から追い出され、四国屋島で破れ、西日本の平家勢力を集結した「壇の浦」には終焉の悲劇が待っていた。
有利であるべき海戦にも武運なく敗れ、もはやこれまでと女御更衣は次々に流れ渦巻く海に飛び込んだ。
8歳の幼子81代安徳天皇は祖母(清盛の妻・時子)に抱かれて入水し、海の藻屑と消えた。徳子も後を追ったが、これこそ天の悪戯といえようか、源氏武者に救出され一人だけ助かってしまった。
一族の滅亡によって、自分の母も子も、すべてを失った建礼門院徳子は大原の里寂光院に引き籠った。そして・・・
思ひきや み山の奥に 住居して
雲井の月を よそに見むとは
建礼門院
後白河
源氏
平家
祇王寺・清盛公の墓
京を流れる鴨川
京都洛北 大原の里
<1部 平家ものがたり>
平家物語は中世人のおおらかな愛と戦いとその栄枯盛衰を鮮やかに描いた作品で、琵琶法師が弾き語って伝承された物語である。
その中の数あるテーマのなかでもひときわ目立つのは、平清盛とそれを取り巻く一族の栄華の世界だ。
本題に入る前のおさらいとして確認したいのだが、日本史を紐解くと歴史の大きな転機は3つある。
1)封建時代から近代への転換期の明治維新 |
2)戦国の世の混乱を武力と政略で制圧し250年という長い平和への礎を作った徳川初期の時代 |
3)平家物語が語る貴族支配から武士が覇権を握るにいたる平安末期のこの時代 |
<武士の台頭>
地下人(じげにん)階級から勃興した武士階級は、頽廃し形骸化していく平安貴族に取って代わって新しい時代のシンボルになりつつあった。藤原摂関家が独占していた全国の広大な荘園を切り刻んで獲得し、新しい活力は大きな花を咲かせようとしていた。時代は流れる水のごとく、自然の摂理によって移り変わる。やがて旧勢力であった僧兵勢力を抑えつつ源平がしのぎを削り、その覇権争いはまず平家の勝利に終わる。平家一門は六波羅を拠点に京都を武力で支配し、栄耀栄華の時代を築くことになる。
そして時代は移る。おごれるものは久しからず、瀬戸内一円を舞台とした平家滅亡の壮大な叙事詩が展開されていく・・・・・。
《関連》
祇王寺へ
建礼門院と
京都大原・寂光院
2004.10