2013年10月
祇園松八重にて
この旅は話題にあふれていて、わたしは溺れてしまった。
なにから書き出してよいものやら・・・
まず、華やかなお遊びから入ってみましょうか。
かにかくに 祇園は恋し
寝るときも
枕の下を 水が流れる
祇園で遊びほうけた高尚な文学者・吉井勇の歌である。白川にかかる祇園新橋のほとりでこの句碑を見かけました。
***
祇園“松八重”のお座敷に上がった。
そこで美しい芸妓に出会った。
その話は後にゆずるとして、松八重さんは、90歳を過ぎた“おかあさん”のいらっしゃる上品なお茶屋さんである。
現代人には、尋常ならざる日本人“白州次郎”氏が通った祇園のお座敷と言ったほうがわかりやすいかもしれない。
玄関をあがって二階の座敷に通された。
客の座る席には当然定石がある。
接待ならば相手を床の間を背負う上席におくのは当然、友人知人や仲間同士でのお座敷でも長幼の序にしたがうのが作法だろう。
わたしたちはともかくとして芸舞妓さんの配置は、長い間の積み重ねによってこれこそ定石といえるものか出来上がっているようだ。
言ってみれば座のすべてが丸く収まる位置、これは客の数、呼んでおいた芸舞妓の数によって決まるわけだが、芸妓のリーダーは下座の客にも飽きさせないような気配りをしつつ席につく。
席について、堅苦しい雰囲気を柔らかくほぐし、食事をして踊りを見せて、座敷芸で楽しませる。その何時間かの間を和やかに笑いと機知でもって客に楽しんでもらう・・・なかなか簡単にできる芸当ではない。
舞妓の彰子さん
この日は芸舞妓さんを一人ずつ、それに地方(じかた)さんが加わった。
この座敷を仕切るのは芸妓の“まめ弥”さん、舞妓さんは“彰子(しょうこ)”さん、地方さんとして小桃さんが席についてくれた。
いま、まめ弥さんとお話をしている。
カメラをもっていたのでアップで何枚かを撮らせてもらった。
「まあ、わたしまだアップでもいけるやないの。十分たえられるわぁ」 と自分でもビックリしている様子で、満足げだ。
こうやってくだけた仕草を見せるのもこの街のおもてなしの技術。
しかし美しい。口元から鼻梁にかけて、頬から首筋へのライン、眉、目元といずれのパーツをとっても完ぺきである。完ぺきに化けている!
実はこの方の若いころの素顔に近い写真を手に入れた。その素顔とお座敷での顔はまるで別人。それだけ彼女たちは念入りな化粧をほどこす。
まめ弥さんは話術も巧み、この世界で10年も飯を食っていれば自然に身につくもの。
旦那衆に媚びるでもなく、もたれかかることもなく、さりとて冷たくあしらう態度もない。俗っぽくいえば客あしらいがうまい。座持ちがいい、ということになる。
まさしく日本一の接客作法を身につけている。
芸妓のまめ弥さん
「なぜ豆という漢字を使わないの?」と質問したところ
「観てもらって決めています」という返事。
縁起をかつぐ、というより
もういこれはこの街で暮らすみなさんの常識のようだ
日常生活についてもあけすけ、“あっけらかん”としている。
わたしも裃を脱いで“ざっくばらん”を決めた。
「今でも十分若いけど、これまでどれだけたくさんの男性を泣かせたの?」
この街で遊ぶ旦那衆は皆さん大人。どちらが泣いたのか、問うのは野暮というものだ。
この方は若い頃、ずいぶん破天荒で放埓な遊びをされたようである。たとえば浴びるように酒を飲んで“オオトラのへべれけ”になる、深夜まで踊りまくる(もちろんディスコ)。きっと、その青春に悔いなし、は間違いのないところ。
話して楽しいし、若いころは今よりずっと可愛かったろうから、旦那衆からよく誘われた。そんな旦那衆と飲み比べをして飲み負かす、そんなこともあった。(自白による)
“やんちゃで憎めない”妓だったのでしょう!
いまや京都生まれの舞妓さんはほとんどいなくなってしまった。
まめ弥さんは京都に生まれ、花街を近くに眺めて育った。
こういう方が自ら水商売を始めたら上客がついてきっと繁盛することでしょう。
まめ弥さんの凛々しさ
仲間たちとの会話のなかでも時々つかわれることばがある。
「彼女は座持ちがいいから誘ったら楽しいよ!」
この座持ちこそ、祇園の芸舞妓の訓練と経験のたまものだ。
緊張している客の気持ちをほぐし、わたしのような粗忽者の客でも、恥をかかさないようなフォローをして、全体としての座を盛り上げる。しかもあらかじめ与えられた時間を滞りなく進行させねばならない。要するにトータルのコーディネーターとして役割を完遂する。それが優れた「座持ち」のテクニックなのだ。
この街には座持ちのええ子が売れるという常識がある。
もてなしと座持ちの技術は一朝一夕で身につくものではなく、日ごろの精進がたいせつ。
芸舞妓を目指す少女たちは、昼間の学校(祇園の場合“女紅場”という)で毎日のように鍛えられる。また夜のお座敷では旦那衆に披露され、置屋に戻ればお母さんや名前を分けた姉さん(芸妓)に報告して、ご教示をいただく。
お手本となる先輩の芸妓から実戦で学び、お茶屋のお母さんやからは「頑張ってナ」と励ましを受ける。
***
要するに踊って歌えて、きちんと礼儀をわきまえ客を大事にし、会話が楽しく、常にお座敷を盛り上げることができる、そういう芸妓にならんがための日々の精進が大切ということ!
これじゃあ自分の時間がほとんど持てない?それほど厳しいのですね!
ただし、これは心の持ちかた次第。毎日好きな酒を飲んで極楽のような楽しいところにいると考えれば、苦が楽に変わる。心ある人たちは言っています、「苦楽は表裏の関係ですよ!」
わたしはこう考える。
もてなしの技術を学ぶのも大切だが、正直さと純粋さがもっと大切だと。
素朴な素質は間違いなく客から愛される。純粋さは自身を苦しめるかもしれないが、正直さは成長を促す。
“まめ弥”には放蕩や快楽のあとの微笑がある。客を見定める洞察も確かなものだろう。
それでも、この街の無頼や欲望、放胆などを濾過した清い泉のようなものが見えた・・・。
芸舞妓の踊りを見せてもらった。
まめ弥の踊りにはメリハリがあって上手い。足腰がしっかりしているのは鍛練の賜物だろう。
衿替えの小芳さん
この日の松八重さんのお座敷に突然、幸運が舞い込んできた。
というのは・・・
話題が盛り上がったところで珍客の来襲にあった。
トントントンと階段を上ってくる足音が軽やかだ。
「こよし(小芳)はんや!」 と“まめ弥”が小声で叫んだ。
お座敷に、黒紋付に白襟の小芳さんがはいってきた。
「なんや、あんた、シラフやないか」 これもまめ弥。
「もっと酔いくずれてはるのや思ったら、普通やわー」 とからむ。
***
祇園には“衿替え”という儀式がある。舞妓がほぼ5年の年季があけて芸妓に脱皮するときに行われる儀式で、娘から女になる日。
それまでの赤い襟から白襟に替えることからその名がついた。
この晴れ姿の儀式は1週間にわたる。お歯黒にして黒い紋付の衣装を身につけて、髪形も“先笄(さっこう)”という豪華な髪を結う。また襟足はV字状に白塗りする。そして一人前になったことをお茶屋さんや贔屓筋を回って「これからもよろしゅう、おたのん申します」とご挨拶する。
屋形(やかた)住まいから自立することから「一本になる」ともいう。まさしく一本立ち、いままでの庇護はなくなってすべて自身の裁量で物事が行われるようになる。自立心の強い舞妓にとっては大きなチャンスともなる。
小芳さんの衿替えの儀式は今日が最終日、だからもっと酔い崩れるべきだと言うのがまめ弥の理屈だ。
一曲舞ってもらった。艶っぽい『黒髪』堪能させてもらった。おおきに!
小芳さんの踊り
”黒髪”は女の命
まばゆいばかりの衣装だ
次郎さんがこの席に座っていたという事実があって、そこに今わたしが座らせてもらっているということだけで、嬉しさがこみあげてきた。
次郎さんとは白州次郎氏(1902〜85)のこと。もちろん気安く次郎さんなどと呼べる間柄ではないが、全くの他人ということでもなく、多少の縁がある。
もう40年以上も昔の話になるが、新入社員として入社した会社に、次郎さんがいらっしゃった。前社長の友人、新社長の後見ということから会長職を引き受けておられたようだ。
当時、70歳を少し前の年齢だったように思うが、会社のロビーで時々お見かけした次郎さんは長身の白髪姿で、依然として“ダンディズム”の誇りに輝いていた。
颯爽と、ご自慢のポルシェに乗っていらっしていたのだろう。
「あの方はどんな方なの?」 と新人同士でその素性を詮索したことを、昨日のことのように思い出す。
したがって20年以上も昔、それは『風の男』(1997年青柳恵介著)が書かれ、「尋常ならざる日本人!」などとマスコミが騒ぎだすずっと前から、「メトロのライオン」(小林秀雄がつけたあだ名)の情報をたくさん持っていた。
蛇足になるが、会社のロンドン支店長をされて、親しくさせていただいた方が正子さんの旧姓(樺山)と同名で、あるいはかれは正子さんのお兄さん(丑二氏)の息子であったのかもしれない。大磯のほうに住んでいたからこれは間違いないだろう。
***
閑話休題・・・話をすこし横道にそらせて、白洲夫妻に触れさせていただく。
以下は恐妻正子さんの著述から引用する。
<そのハッタリ屋(次郎氏)を、私は、たった一度だけハッ倒したことがある。今でも申しわけなく思っているし、羞しくもあるが、生れつき私は手が早いのである。
ことの起りは些細なことであった。私の祖父(樺山資紀)の悪口を次郎が口走ったのである。
当時はまだ明治時代の記憶が濃厚に残っていた頃で、「薩長の奴らがさんざん悪いことをしたんだろう」とか何とか、その程度のことだったが、私の祖父はそういう人柄ではなく、むしろ「薩長の奴ら」を抑えつけるのに苦労したことを私は知っていた。
「自分で見たこともないくせに、何をいうか」と、思うより先に手が出て、次郎の横っ面をいやという程ひっぱたいてしまった。だいたい自分の眼で確かめもしないことをいう人が嫌いだったのと、何しろこちらは示現流の申し子である。そこで相手が手を出せば負けるにきまっていたものを、気迫に押されて次郎は呆然としていた。
しばらくの間はお互いに鳩が豆鉄砲を喰らったように顔を見合わせていたが、次郎は、とんでもない奥さんを貰ったと思ったに違いない。それから二十年あまり経って、小林秀雄さんに何かのついでにその話をすると、「やったか!アハハハ……」と大笑いをされた。>
次郎さんが松八重に通い始めることになるのはそれからずっと後になるけれども、とにかくわたしはこの場所で酒を美味しくいただいている。
90歳を過ぎてなお矍鑠
“松八重”のおかあさん
鶴川の武相荘にかかわる
”頼みごと”をされてしまった!
話を元に戻したい。
芸妓は独立した経営者。その方のやる気と才覚がすべて。周りの人たちに助けられ、後輩を育て、客に育てられ、自身の人格を磨く。
その先になにがあるのだろう。
結婚してこの街を出て行くかた、とどまってご商売に励むかた、出たり入ったり、近くを流れる鴨川の水の泡のようにかつ消えかつ戻りてその行方を知らず・・・。
もういちど“まめ弥”さんに登場を願った
(2013年10月22日 祇園に遊ぶ 「京都の秋(3)」へつづく)
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