杭州随一の景勝地西湖の佇まいは訪れる人を魅了し続けてきた。数々の詩人たちが歌い、伝説の舞台にもなった湖。蘇州と共に称えられた都は、唐の詩人たちが嘆いたように“去りがたい魅力”に満ちていた。

ところがなんと、人、人、人、車、車、車、こちらは旧暦の55日、週末と重なった3連休のため、観光地にはどっと老若男女が繰り出していた。

そんな人ごみをかいくぐって二三の名所を歩いてみる。

822年の日本といえば京都に都が移って28年後、平安時代のほんの入り口、この年最澄が亡くなっているが、杭州に、詩人で政治家の白居易(白楽天)が杭州刺史として赴任してきた。

科挙の進士合格を経て官僚の世界で揉まれたかれは、このとき50歳。あるいは官僚の世界に限界を感じての“失意”があったのかもしれない。

当時の杭州は、他の大型河川の下流都市と同様に、河(長江)の氾濫に悩まされていた。
 
 白楽天は西湖の水を治めることに腐心した。

 白居易が盛り土した堤は「白堤」という。

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後年の宋代になって(1089年)、だいぶ遅れて杭州にやってきた、やはり詩人で政治家の蘇東坡(そとうば=このとき53歳)も西湖の水と戦っている。




水辺の夕涼みには最適〜白堤

蘇東坡は湖底に溜まる泥を浚渫して、西湖を南北に貫く細長い堤防を築いた。その堤防はいまも残って「蘇堤」と呼ばれている。

また、もうひとつ蘇東坡が造ったと伝えられているものがある。

西湖十景のひとつ「三潭卯月(さんたんうづき)」だ。

中秋の名月には石塔に火を灯し、月光と灯火が湖面に映る様を楽しんだという。



向こうに見えるのが白堤



観光用ボート

その白堤は休日を楽しむ家族連れや恋人たちが、そぞろに、中華の繁栄を噛みしめるように歩いていた。



白堤はご覧の通りの賑わい

話は横道にそれるが東京の小石川後楽園にも小さな「白堤」がある。

これは後楽園を造った水戸光圀(黄門様)が、明の遺臣・朱舜水の意見を用いて造ったようだ。

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さて白楽天には、受験に良く出てくる漢詩「長恨歌(ちょうごんか)」がある。

唐代の皇帝玄宗と愛人楊貴妃とのエピソードを綴った長編で、紫式部や清少納言ら平安の女性歌人たちに大きな影響を与えた。少しだけ抜粋してみたい!

楊家有女初長成、養在深閨人未識
    (楊家に娘ありて成人する 深窓の佳人未だ知られず)

春寒賜浴華清池、温泉水滑洗凝脂
    (春寒く華清池に浴するを賜る 
         温泉の水滑らかにして凝脂を洗う)

後宮佳麗三千人、三千寵愛在一身
    (三千の寵愛 一身にあり)

楊貴妃の出世によって、いっとき楊家の人々はたいへん繁栄する。それまでの男性中心社会のなかで、軽視されていた女性を育てる家庭が増えたという。

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 蘇軾(そしょく 1037〜1101)は眉州・眉山の人。別名を蘇東坡という。
 詩人・書家としても優れ”白楽天”と比べても劣るものではない。 

ここに「西湖」と題する詩がある。

  水光連艶(れんえん)として 晴方(ひとえ)に好く

  山色空濛(小雨の意)として 雨もまた奇なり

  もし西湖を把って 西子(西施のこと)に比せば

  淡粧 濃沫 総て相宜し

(晴れた光のなかにあるもよし、雨に煙るもまたよし。西湖を西施にたとえれば、薄化粧と厚化粧もすべてよし) というような意味だろうか。

この湖を西施にたとえたことから”西湖”の名がつけられたという説もある。

詩人は自己主張が強い。しかしながらその主張が時流に合わなければ、幾ら正しくても認められない。
 政治家としての蘇軾は不遇であった。
 常に地方を渡り歩き、左遷先の土地を「東坡」と名づけた。

もうひとり西湖の名を世に知らしめた西洋人がいる。

その人はヴェネチアの人・マルコポーロ、かれは杭州の居心地がよほど快適だったのだろう、滞在も長かった。『東方見聞録』における熱心な記述が目立つ。

「湖上にはまた、仲間たちがうちそろって遊覧する人々のために、大小さまざまな回遊船や小船が用意されている」。

マルコポーロも西湖遊覧を満喫したにちがいない。


** 芭蕉と西施 **

西湖の“花港観魚”を散歩していると、時々珍しい花が咲いているのに気づいた。

(たしか、この花は・・・合歓の花)

ネムの花・・・?

記憶中枢が高速ではたらいて、・・・芭蕉を引っ張り出した! 奥の細道だ!象潟だ!

***

松島は、わらふがごとく、象潟はうらむがごとし。

さびしさに、かなしみをくわえて、地勢、魂をなやますに似たり。

(寂しさの上に悲しさの感情が重なって、土地のたたずまいは美女が心を悩ますのに似ている)

象潟や雨に西施がねぶの花

よく人口に膾炙した句だ。

「雨に濡れた象潟に咲いた合歓の花は、かの美女の誉れ高い西施が、目を閉じて眠っているかのような趣がある」 という意味だろう。

「ねぶ」は「眠る」と「合歓」のかけことばだが、合歓の花は夜になると葉が閉じる。

そのことから、目を瞑って、もの思いに沈む西施の姿が容易に想像できる。

もちろん芭蕉は西湖を旅することはなかったが、蘇東坡の詩や、呉越の抗争の犠牲となった西施の悲しみのことをよく知っている。

芭蕉の他の句でも発揮されているが、歴史をふまえた技巧が光っている。

しかし芭蕉は、西湖の湖畔に合歓の木が繁茂していることまでは知らなかっただろう!

それを見つけてわたしはにんまり・・・。



秋田・象潟の古い絵
周辺は海の中に沈んでいる

秋田から仲の良い母娘がこの旅に参加されていたので、声をかけた。

もちろん芭蕉の句はご存知である。

「象潟も、昔のようにリアス式の海であれば観光客が集まったのに、残念ですね」

「ええ、でもパンフレットなんかで盛んに宣伝していて、お客さんも来ているようですよ」

芭蕉の目に映った象潟は隆起してしまって、今はない・・・。


茫洋とした西湖
有名な杜牧の歌を思い出した!



<江南春絶句 杜牧>

千里鶯啼きて 緑紅に映ず

水村 山郭 酒旗の風 (すいそんさんかく しゅきのかぜ)

南朝 四百八十寺 (なんちょう しひゃくはっしんじ)

多少の楼台 煙雨の中


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