詩 仙 堂
丈山寺
女性に人気の回遊式庭園
2004.10
詩仙の間より白砂と
さつきの築山を見下ろす
清められた庭は
それだけで絵になる
そして門を入ったときに左に見えたのが、待童の間(7)躍淵軒(やくえきけん)。
ここから用意されたスリッパに履き替えて、いよいよ庭園に出る。
すぐ左に音がして、低いところから水が滝のように落ちている。その水が勢いよく飛び跳ねてズボンの裾を濡らした。これが、蒙昧を洗い去る滝という意味の(8)洗蒙瀑(せんもうばく)。その滝の水が流れ込む浅い池(9)流葉ハク(サンズイ+コザトヘン+百という難しい字)。
そこからまた一段下がったところにある庭に、百花を配したという(10)百花塢(ひゃっかのう)。
以上が十境である。漢字の素養があればもう少しことばの意味を咀嚼して紹介できるのだが、そこが残念。江戸を生きた漢詩の大家の文字使いは現代人にはちと難しい。
<3部 凹凸カ「十境」>
その風雅の粋は「凹凸カ(おうとつか)十境」という十箇所の見所を仕立てたことに集約される。
一乗寺下り松から坂道を登って5分。入り口に立つと(1)小有洞(しょうゆうどう)の門が待ち受ける。それをくぐりぬけ、石段を登りつめ、左右の竹林にため息をつきながら石畳を踏みしめて進む。突き当りを左に曲がると(2)老梅関(ろうばいかん)の門があり、中にはいって玄関で入場料を払う。室内は撮影禁止になっているが建物は粋人の生活空間であるだけにさっぱりとこぎれいだ。
まず前述した中心となる部屋(3)詩仙の間。続いて読書室の(4)至楽巣(しらくそう=猟芸巣)。そしてみなさんが端座して庭園を眺め瞑想にふけっている(5)嘯月楼(しょうげつろう)。南側に座して庭園を眺められるのは以上の3部屋。
至楽巣の脇(建物の最奥)には「病膏肓に至る」の(6)膏肓泉(こうこうせん)がある。⇒
みごとなススキと百花を配した百花塢
詩仙の間より右・嘯月楼 左さつきの築山
庭園から嘯月楼を眺める
春にはさつきが紅色にそめる
茅葺の老梅関は枯れています
すべての虚飾を捨て去って
小有洞から入る二人連れ
やがて紅葉から雪、そして春へ
この孤独な島は人の心
老隠のなぐさめとした僧都
<4部 座すも歩くも絵> さて、十境もさることながら白砂を敷き詰めた回遊式庭園がすばらしい。粋を尽くし、どこから眺めても、ディテールまでが絵になる庭。 <僧 都> <座 す> 紅葉には少し早かったが、白い砂とサツキの葉の緑、柿の実の黄色、やや黄色く色づいた外周の木々の葉がしっとりと調和し、そこに斜めから秋の日が差し込む。表現しがたい至福の時間。 瞑目し、なんとなく「地球が自ら回転していることを実感できるのではないかという」哲学的妄想にとらえられた。一瞬風のそよぎにそれを感じて目を覚ました。 あいかわらず西日は穏やかに庭を照らしていたが、そのときわたしは、わたしの心にまでその太陽が差し込んでくるかのような錯覚を覚えた。 |
庭に咲く南天の赤 あざやかに
京都には巨大な山門が多くある
三大門の一つ仁和寺仁王門
京都では目につく、天に向かう孟宗竹
<1部 凹凸カ >
<凸凹の土地> この詩仙堂は文人「石川丈山」が、江戸初期の寛永18年(1641)に造営した。 若い時代に戦国の世を経験した丈山が、人生をかえりみて、ゆったりとした余生をおくりたいと思いながらこの地に腰を落ち着けたというのはよくわかる。 <真の風雅> 京都には巨大な三門、目を見張るような伽藍・堂宇が数え切れないほど立ち並ぶ。それらは大向こうをうならせる効果はあるが、しょせんは昔の権力者の示威表現に他ならない。それでは人の真の心を動かすことはできない。 詩仙堂や寂光院、祇王寺などは規模からしても庶民の手の届くところにあって、その心の大きさとも見合っていると思うのだ。 |
庭に出た 百花塢(ひゃっかのう)から山を
嘯月楼の嘯は「うそぶく」だが、さぞかし
満月の夜は血が騒いだことだろう!
正座して沈思黙考する青年もいるが
世間話に興ずるご夫人たちはいただけない
<2部 詩仙堂の由来> <36詩仙> もとになった発想は日本の36歌仙だ。この「36歌仙」は平安中期に藤原公任によっては選ばれている。柿本人麿に始まり凡河内躬恒、大伴家持、在原業平、僧正遍照、壬生忠見、紀貫之、小野小町など皇族・貴族・名僧などそうそうたる歌人が名を連ねている。 かたや丈山「36詩仙」は、その選定に当代一流の学者・林羅山の意見も取り入れ厳密を期した。そうしてできあがった18対は蘇武と陶潜(淵明)、韓愈と柳宗元などで、わたしが理解できるのは欧陽脩、杜甫、杜牧、猛浩、李賀、王昌齢、王維、李白、白居易(楽天)ぐらいまで。 現代日本人には半分も理解できれば「教養人」のスタンプをはってもらえそうなジャンルであり、実際この部屋にきて、欄間の上に目をとどめてメモをとったのはわたしぐらい。少し寂しく感じたのだが、ほとんどの訪問者の興味は庭の景色や草花にしかないようであった。 <富士山>
調べてみたところ、この詩は詩吟の入門詩であり、詩吟を志す方はみなさんご存知のようだ。ここにも丈山先生の風雅は生き残っていた。 |
|
詩仙堂(しせんどう) 曹洞宗永平寺の末寺 |
|