小石川後楽園
春 秋−1

「小石川後楽園」と漢字で六文字の固有名詞は、1時間ほどの散歩で「ああきれいだね!」と終えることもできるが、ちょっと歴史などを聞きかじってお付き合いをしてみるとたいへんな奥深さをもっている。

江戸初期の寛永6年(1629)、水戸徳川家の祖・頼房(1603−61:家康の11男、母は側室お万の方)が、その中屋敷(のちに上屋敷)として作リはじめた庭園が、二代藩主・水戸光圀(徳川光圀=俗にいう水戸黄門:1628−1701)の手によって完成した。

<家光と光圀と朱舜水>

徳川光圀は18歳のとき司馬遷「史記」の伯夷列伝を読んで感銘を受けた。このことが、後に光圀が為政者となったとき、国を治める教訓として生かされることとなる。
 ただし伯夷列伝の美談は長幼の序が基本にあり、その自己矛盾に苦しめられたように思う。
というのは・・・

 光圀は家康の孫であり兄が二人いる。兄よりでしゃばって上に出ることはこの時代には許されない。したがって悶々とした自堕落な少年時代を過ごしたと歴史書は言っている。
 ではなんで彼が家督を継いだのか?
 その判断は三代将軍家光(1604−1651)によるもの。家光のほうが24歳も年長だが、二人とも家康の孫としての熱い誇りを持っていた。家光は気性が似ている光圀をかわいがり、その誇りの連鎖が、家光をして三男の光圀を水戸の後継者に指名させた。

  

左・水戸光圀 右・朱舜水

光圀は明の遺臣・朱舜水(しゅしゅんすい)らとの交流を通じて、天皇による普遍的な統治が続けられた日本こそが中華思想の説く正統な国家であるという意識を持つようになった。この話は後年歴史をくつがえす『水戸学思想』と『大日本史』の編纂につながっていくがここでは詳細を語らない。

光圀は庭園の造成に当たっても朱舜水の意見を用い、円月橋、西湖堤など中国の風物を取り入れた。

後楽園の名は、中国の范仲淹(はんちゅうえん)「岳陽楼記」の先憂後楽(為政者はまさに天下の憂いに先立って憂い、天下の楽しみは後れて楽しむ)から名づけられた。朱舜水の提案によるもの。
 「民衆に先立って天下のことを憂い、民衆がみな安楽な日を送るようになって後に楽しむ。」という光圀の政治信条によったものといわれている。

<大名庭園の先駆>



大泉水と桜

庭園の様式は池を中心にした回遊式築山泉水庭園。

封建時代初期は、それ以前の国家システムの流れから1割の武士階級が9割の富を独占していた。将軍家(徳川家)ともなると、現在の北朝鮮の将軍様に勝るとも劣らない日本国富が集中していた。
 将軍家以外でも禄高の高い大名は大きな富を集め、その権勢にかけ屋敷に広大な庭を築いた。それが大名庭園で後楽園はその先駆。

江戸時代、それは空前の造園ブームで、築山があり石組みがあり池泉があり、古今東西の名勝を園内に写し、園路に沿って変化する景観を楽しんだ。いやあ幸せなのは大名ばかりでしたネエ。

そのおかげで現代を生きる小市民もおこぼれに預かっているということでしょうか。大和郡山藩下屋敷の「六義園」、高遠藩下屋敷の「新宿御苑」、丹後宮津藩松平家下屋敷の「旧安田庭園」、小田原藩大久保家下屋敷の「旧芝離宮恩賜公園」などなど。

ここ「小石川後楽園」もいながらにして全国の名所旧跡を堪能できるように設計されている。さしずめ江戸時代風テーマパークといっても間違いではない。
 京都嵐山、京都東山清水寺、三保の松原、水戸梅林、木曾峡、琵琶湖八景・・・

さて、写真をまじえていくつかをご紹介しようと思います。



初秋 色づき始めた葉

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