<鎌倉 長谷>
十数人の女性たちが立ち止まって山の中をのぞいている。耳をそばだてて聞いてみると、「このあたりから大仏さんの背中が見える!」
しかしながらそれは冬の景観だろう。いま新緑が全山を覆う状態ではその大きな背中も見えない。
わたしも何とか見つけようと、緑の向こうに目を凝らして歩いたが徒労に終わった。社殿の甍らしきものは見えたが、大仏の背中はとうとう目にすることはできなかった。
***
(そういえば、康成の晩年の住処はこの辺りだった・・・)
(山の音・・・このあたりの山の音をかれは聴いた・・・)
川端康成は戦後の昭和21年から鎌倉長谷に転居して以降ここを終生の住まいとした。
傑作「山の音」は「千羽鶴」とほぼ同時に、戦後の昭和24年から書き始められたが、完結を見たのは29年。
老境にいたった主人公尾形信吾の目を通して、敗戦とそれに続く戦後が日本の家庭になにをもたらしたかを描いている。
***
ふと信吾に山の音が聞こえた。
風はない。月は満月に近く明るいが、しめっぽい夜気で、小山の上を描く木々の輪郭はぼやけている。しかし風に動いていない。
信吾のいる廊下の下のしだの葉も動いていない。
鎌倉のいわゆる谷(やと)の奥で、波が聞こえる夜もあるから、信吾は海の音かと疑ったが、やはり山の音だった。
遠い風の音に似ているが、地鳴りとでもいう深い底力があった。自分の頭の中に聞こえるようでもあるので、信吾は耳鳴りかと思って、頭を振ってみた。
音はやんだ。
音がやんだあとで、信吾は始めて恐怖に襲われた。死期を告知されたのではないかと寒気がした。
鎌倉の谷津の奥で月の夜、信吾が「山の音」を聴いたというのはおそらく川端自身の体験だろう。
「山の音」には信吾の(息子の)嫁・菊子に対する心の揺らぎがつづられている。谷崎ほどではないにしても川端の耽美主義を想像せずにはいられない。
昭和29年に山村聡と原節子で映画化されている・・・。
戦後銀幕を飾るヒロインとして圧倒的な存在感があった
原節子
彼女も鎌倉のどこかに住んでいる(た?)はずだ!
<古典的な嫁>
15分ほど歩くと右側の木立の間をぬって海が見えた。
由比ガ浜だろうか。
この季節、山道をにぎわせているのは白い“こでまり”の花。美しい。
30歳前後の外人の女性二人連れとすれ違いご挨拶。急坂を降りてゆく、スタイルのよい二人を後ろからじっと眺めてしまった。あぶない、あぶない。
***
「山の音」のことが頭から去らない・・・。
山の音は鎌倉に住む、人生の黄昏を迎えた男の老いらくの物語である。
かれにとって唯一の救いは息子修一に迎えた理想の嫁 菊子の存在だ。
戦後という時代を回顧してみると、嫁のありかたとして、あるいは菊子が当たり前であったのかもしれない。今とは全く価値観の違う時代である。
ことば使いは丁寧で、細かな気くばりができ、家事を粗相なくこなして嫁入り先の家に誠心誠意を尽くす。いまどきこんな嫁さんはどこをさがしても見つからない。
***
物語の展開のなかに、川端の追及する美と幽玄の世界がある。
古都鎌倉を背景に物語はしずかに進行する。
<自宅にて>
信吾は車海老の色を見て、
「これはいい海老だね。」 と言った。生きのいいやつがよかった。
菊子は出刃包丁の背で銀杏を叩き割りながら、
「せっかくですけれど、この銀杏は食べられませんわ。」
「そうか。季節はずれだと思った。」
「八百屋に電話をかけて、そういってやりましょう。」
「いいよ。しかし海老にサザエは似たもので、蛇足だったね。」
「江ノ島の茶店。」 と、菊子はちらっと舌の先を出しかかった。
「さざえはつぼ焼きですから、伊勢海老は焼いて、車海老はてんぷらにいたしましょう。椎茸を買ってまいりますから。お父様、そのあいだにお庭のお茄子(なす)を取っていただけません?」
「へえ。」
「小さめのを。それから、しその葉のやわらかいのを少し。そうか、車海老だけでよろしゅうございますか。」
夕食の食卓に、菊子はつぼ焼きを二つ出した。
ここには海に近い鎌倉の、幸せな戦後の家庭がある。しかし・・・
<梶原という土地>
やがて竹やぶの中に閑静な家が見えてきて、生活道に出た。このあたりを「梶原」という。
ん?かじわら?あの「かじわら」だろうか?
「平家物語」や「吾妻鏡」に登場する毀誉褒貶の多い一族のこと・・・。
梶原源太景季は佐々木高綱と有名な宇治川の先陣争いをして武名をあげている。
父親の梶原景時は、石橋山の戦いで敵将頼朝を「情をもって助けた」として頼朝の側近となり重用される。ところが以後、義経の活躍をねたみ讒言を繰り返したことから、今にいたるまで嫌われ者として国民に悪いイメージが浸透してしまった。その梶原氏の住まいがこの辺りにあったのだろうか。(事実はいかに?)
宇治川での木曾義仲軍との戦いで先陣争いを競った梶原源太景季
さて海が見えてきた。明確にとらえられたのは逗子マリーナのマンション群、その向こうにうっすらと低く糸を引いたような稜線が見えるのは三浦半島だろう。
材木座の海岸の向こうは逗子
***
いまいちど「山の音」。
・・・清楚な菊子を嫁に迎えた長男修一は、早々に女を作る。
相手は戦争で夫を亡くした、若くて美しい未亡人のひとりである。彼女たちは自由に生きる・・・生きたいと願っている。ここには貞淑と奔放という、女としての生き方の歴然とした対比がある。
信吾は起きた。台所からもどってくる菊子に、廊下で出会った。
「あっ、お父さま」
菊子は突きあたりそうに立ち止まって、ぽっとほほを染めた。右手のコップから、何かこぼれた。修一の二日酔いのむかえ酒に、菊子が台所から冷酒をもって行ったのだろう。
その菊子は化粧していなくて、少し青ざめた顔を赤らめ、眠いような目ではにかみ、紅のない素直な唇から、きれいな歯を見せて、決まり悪げにほほえんだのを、信吾は愛らしいと思った。
こんなに幼げなところが、まだ菊子に残っているのか。信吾は昨夜の夢を思い出した。
春めいた朝日が差し込んだ。
菊子は日光の量に驚いたらしく、また後ろから信吾に見られているので、両手を頭に上げると、寝乱れた髪をきゅっとひっつめた。
「酔っ払いにはむかえ酒、老いぼれには玉露で、菊子も忙しいな」
信吾は軽口を叩いた。
「前々から考えていたことだが、菊子たちは別居してみる気はないかね」
「いいえ。私でしたら、お父さまに優しくしていただいて、一緒にいたいんですの。お父さまのそばを離れるのは、どんなに心細いか知れませんわ」
「やさしいことをいってくれるね」
「あら。わたしがおとうさまにあまえているんですもの。私は末っ子の甘ったれで、実家でも父に可愛がられていたせいですか、お父さまといるのが好きなんですわ」
「お父さまが何もおっしゃらないでも、私のことを案じて、いたわってくださるのが、よくわかりますわ。私はそれにすがって、こうしていられるんですもの」
菊子は大きい目に、涙をためた。
「別居させられるのは、恐ろしい気がしますわ。一人でとてもじっとうちに待っていられませんわ。さびしくて、かなしくて、こわくて」
菊子はほんとうに恐ろしいのか、肩をふるわせそうにしていた。
***
別の場面。穏やかな話題ではない。
「かりに修一と心中するとして、菊子はじぶんの遺書は要らないか」
うっかり言ってから、信吾はしまったと思った。
「わかりませんわ。そのときになってみたら、どうでしょうか」 と菊子は右手の親指を帯のあいだに入れて、緩めるようにしながら、信吾を見た。
「お父さまには、何か言い遺したい気がしますわ」
菊子の目は幼げにうるんで、そして涙がたまった。
保子(妻)は死を考えていないが、菊子は死を考えないでもないのだと、信吾は感じた。
菊子は前にかがんで、泣き伏すのかと思うと、立って行った。
信吾は菊子があぶない淵に立っていると思い知った。
「浄智寺は左へ銭洗弁天は右へ」の案内があった。
(お金がたまるように、願をかけて・・・あまり本気にはなれないが・・・ブツブツ)
かつて京都の六波羅蜜寺の弁財天で1万円札を洗ったことがあるが、霊験は少しもなかった。やはりこれは神頼みでは駄目ということなのだろう。
自身の努力が必要だ。そんなことをいってもいまさら・・・と思いながらも、宝くじに当たるとか、秘密の資産がどこかから出てくるとか、それを願うしかないわたし。
岩をくりぬいたホコラをくぐると、わずか100円のザル代を払って金持ちになろうという亡者どもがうじゃうじゃいた。働かずして一攫千金を狙う若い女性たちが多いのは、いただけないが、本気で願いがかなうなどと思う人はひとりもいない・・・ゲーム感覚なのだろう。
隣で1万円札を洗っていたお姉さんが「二倍にはしたいわね」とささやいているのを聞いて、二倍では追いつかないぞ、友人の一人は、こいつは本当の金持ちになったが、ここで洗ってから1万倍の大金を掴んだ。事実である。今の彼は1億以上の資産が確実にある・・・、そういうケースも稀にある。願いは簡単にあきらめないことだ。
***
友人が信吾のところに能面を買ってくれと頼みに来た。
面箱は二つあった。
「これが慈童、こちらが喝食(かつしき)という。両方とも子供だ」
「これが子供?」
「前髪が描いてあるだろう。銀杏型の。元服前の少年のわけだよ。えくぼもある」
信吾は自然と両腕をいっぱいに伸ばした。
「いや、君、それがいいんだ。能面は、そうやって、やや高めに手を延ばして見るんだそうだ。そうして、面は少し伏目に、曇らせて・・・」
「誰かに似ているようだな。写実的だね」
面を伏目にうつむかせるのを曇らすといって、表情が憂愁を帯び、上目に仰向かせるのを照らすといって、表情が明朗に見えるなどと、鈴木は説明した。左右に動かすのは、使うとか切るとかいうそうだ。
***
「時代は同じだ。作者は違うが、秀吉のころだ」 というと、慈童の面の真上に顔をもって行った。
慈童はいくらか中性じみ、眼と眉のあいだは広くて、やさしい三日月なりの眉も少女に近い。
真上から眼を近づけていくと、少女のように滑らかな肌が、信吾の老眼にほうっとやわらぐにつれて、人肌の温かみを持ち、面は生きてほほえんだ。
「ああっ」 と信吾は息を呑んだ。三四寸の近くに顔を寄せて、生きた女がほほえんでいる。美しく清らかなほほえみだ。
目と口が實に生きた。茜色の唇が可憐に濡れて見えた。信吾は息をつめて、鼻が触れそうになると、黒目勝ちの瞳がしたから浮き上がって、下唇の肉が膨らんだ。信吾はあやうく接吻しかかった。深い息を吐いて顔を離した。
夢で娘を抱擁したり、面をつけた英子が可憐だったり、慈童に接吻しかかったり、あやしいことが続くのは、うちに揺らめくものがあるのかと、信吾は考えていた。
あぶない、あぶない。
能に用いる面「慈童」
中国古代周王につかえていた少年慈童は
王からいただいた経文を菊の葉に写して、そこにたまる露を飲んで仙人となった
そして700年も生きながらえる
優雅で妖精的な神秘を感じる。
「山の音」は戦後の川端作品のなかでも傑作といわれている。そこここに、老いへの悲しみとせつなさ、悔悟、切々たる思いがうたわれている。
見方によっては女々しいと捕らえられるかもしれないが・・・。
鎌倉大仏の寺 高徳院
大仏の境内の場面。
与謝野晶子の歌碑が建ったと聞いているので、裏のほうへ行ってみると、晶子自身の字を拡大して、石に刻んだものらしかった。
「やはり、(釈迦牟尼は・・・)となってるね」 と信吾は言った。
鎌倉や御仏なれど釈迦牟尼は美男におはす・・・と晶子は歌ったが、
「大仏は釈迦じゃないんだよ。実は阿弥陀さんなんだ。まちがいだから、歌も直したが、釈迦牟尼は、で通ってる歌で、いまさら阿弥陀はとか、大仏はとか言うのでは、調子が悪いし、仏という字が重なる。しかし、こうして歌碑になると、やはりまちがいだな」
孫の里子が「お水、お母さま、お水」と、踊りの少女たちのほうを睨みながら行った。
「お水はありませんよ。おうちへ帰ってね」 と房子はなだめた。
信吾もふと水が飲みたくなった。
三月のいつであったか、品川駅の乗り場の水道で、里子くらいの女の子が水を飲んでいるのを、信吾は横須賀線の電車から見た。はじめ、水道の栓をひねると、水が飛び上がったので、女の子はびっくりして笑った。いい笑顔だった。
母親が栓の加減をしてやった。いかにもうまそうに水を飲む女の子に、信吾は今年の春が来たのを感じたものだった。それを思い出した。
子供は公園の水道の蛇口が好きだ。水遊びが好物だ。キャッキャとさわぐ子らの姿が目に浮かぶ。
***
「生まれぬ前の身を知れば、生まれぬ前の身を知れば、あわれむべき親もなし。親のなければ我がために心をとむる子もなし・・・」
なにかの謡の節が、信吾の心に浮かんできても、浮かんできたというだけのことで、墨の衣の悟りのあろうはずはない。
「それ、前仏はすでに去り、後仏はいまだ世に出でず、夢の中間(ちゅうげん)に生まれ来て、なにを現と思うべき。たまたま受け難き人身(にんじん)をうけ・・・・・」
意味深いことばだ。自分は草木に生まれていたとしても不思議はない、あるいは禽獣に生まれていたとしてもおかしくはない。それがたまたま人間としての生を受けた。結婚して、子供が生れ、孫にも恵まれた。そしてそのためにあれこれと苦しんでいる。人間とはなんと因果な生きものだろうか
***
さて現実のわたしは、銭洗い弁天から、もう一度坂を上り返して浄智寺に向かった。
考えたのは煩悩の多さが、お金が近寄らない理由だろうということ。欲しがらなければ、自然に相手からよってくる。男女の仲と同じじゃないか・・・。
***
“日野俊基”の墓を道路脇に見つけたのでちょっとご挨拶。
「太平記」では、同時期に日野姓が何人か出てくるが、有名なのは以下の二人。
日野俊基 (1332年6月26日没 正五位下)
日野資朝 (同年6月25日没 従三位)。
日野家の家紋は鶴丸
鎌倉末期のこの時代は、二度の元寇(1274&1281)で幕府は疲弊しており、公卿たちが着々と幕府転覆の計画を練っていた。。
俊基は、1323年(元享3年)に後醍醐天皇に抜擢され蔵人になる。資朝とともに天皇の側近として討幕計画を先導し、山伏姿で諸国を回り、反乱軍の武士を組織したといわれている。
1324年(正中元年)の正中の変で倒幕計画が漏れ、両人とも召し捕らえられ鎌倉に連行された。俊基は証拠不十分で罪を赦され、資朝は死罪一等を免ぜられ、佐渡国に配流になる。
二人は、1331年の元弘の変で再び六波羅に捕らえられて、俊基は鎌倉に護送され、翌1332年の6月3日(新暦6月25日)にここ鎌倉の葛原岡で処刑された。したがって、後醍醐による建武の新しい政治は見ていない。
明治維新の後、薩長の意図で南朝が正統とされる(明治天皇は北朝系統)と評価が改められ、葛原岡神社が創建され、また位も「二階級特進」で従三位下が追贈された。
結婚した息子が外で女性を作ったとき、父親はどう考えるだろうか?
「ばれないようにしろよ!」 というかもしれない。あるいは、
「女とは早く別れろ。お互いにいいことないから」 と忠告するか、世間によくある話だが、あなただったらどうする?
映画では修一役は上原謙が演じた(左)
***
「流産ですよ」
(息子の) 修一は吐き出すように言った。
「その日のうちに帰ってきたんだね?お前が、そうさせたのか」
「自分でそうすると言って、きかないんですよ」
「どうしてだ。どうして、菊子にこういう考えをおこさせるんだ、お前が悪いんじゃないか」
「お父さんもごぞんじのように、つまり、僕が今のままでは、子供を産まないというんです」
「つまり、お前に女があるうちは?」
「お前は菊子の魂を殺した。取り返しがつかないぞ」
「菊子の魂は、なかなかあれで、強情ですよ」
「女じゃないか。お前の女房じゃないか。お前の出方ひとつで、優しいいたわりで、菊子は喜んで産むに違いないんだ。女の問題は別にしてね」
「しかし、これで菊子も子供ができるとわかったんですから、お母さんも安心でしょう」
「なんだって?お前は後が生まれると、保証できるのか」
「保証してもいいです」
「そういうことが、天を恐れぬ証拠だ。人を愛さぬ証拠だ」
「僕だって、子供はほしくないことはないんですが、今は二人の状態が悪いですから、こんなときには、ろくな子供はできないと思います」
愛人の事務員や愛人の友人らの台詞から、修一がサディスティックな嗜好を持つ人間であることが仄見えてくる。小説のなかで、直接的にそういうシーンを設けないところが心憎いが、戦争の後遺症であると考えれば筋が通る。耳の端をビュンビュンと弾丸が通る死地から帰還した兵隊の思いこそ、川端は何も書かないが、この時代のもっとも特徴的な男の嗜虐的な思考と生態ではなかったろうか。
わたしの父親も戦争帰りだった・・・。
***
日野俊基の葛原岡神社を下ってきた。
深山幽谷の気配が漂う奥まったところに閑静な家がたたずんでいた。
気配がいい。
「いい雰囲気ですねえ」
すれ違った年配の紳士が、期せずして感動の声を漏らした。
幽玄の風情
雨戸は白く煤けているし、それはぴたりと締められていて、人の気配を感じさせない。しかしながら、苔むした柴庇の様子は手がきちんと入っていて、枯淡の風がある。どう見ても無人の家とは思えない。
想像するに都心に住まいを持つ方の、別号だろうか。しかもここには侘び寂びの世界がある。鎌倉の喧騒を離れた山の奥に竹林に囲まれてひっそりと目立たず静かなたたずまいを見せる。
芭蕉ではあまりにも哀れすぎるが、利休や紹鴎が求めた住まいはこんなではなかったろうか。
***
信吾は居間へ行った。菊子が炭火をもってきた。
菊子は立って出て、水注(みずさし)を盆にのせて来た。横になにか花がのせてあった。
「何の花?桔梗のようだね」
「黒百合ですって・・・」
「黒百合?」
「これが黒百合?」と信吾はめずらしがった。
「お友だちのお話では、今年の利休忌に、博物館の六窓庵で、遠州流の家元のお席に、黒百合と白い花のむしかりとが生けてあって、よかったそうですわ。古胴の細口の花入れに・・・」
古胴の花入
シンメトリーと決まっているが、
その意味は・・・
六窓庵は東京国立博物館内にある三畳台目の茶室。もと興福寺慈眼院にあったのを明治初期に移建したもので、慶安年間に金森宗和の好みで造られたと伝えられる。名は六つの窓があることにちなむ。宗和も利休の弟子といってまちがいはない。
***
信吾は黒百合を眺めていた。二本で、一茎に二輪ずつ花がついていた。
「春先の利休忌にも、雪が三四寸つもっていたそうですわ。黒百合もそれで、なおめずらしいっていうことでしたの」
「今年の利休忌には、利休の辞世の書や、利休が切腹した短刀も出たそうですわ」
菊子は黒百合を床においた。
「その押入れの、花立があったところにね、面がはいってるんだが、だしてみてくれないか」
謡の一節が浮かんだりしたので、信吾は能面を思い出したのだった。
“慈童”の面を手にとって、
「これは妖精でね、永遠の少年なんだそうだ」
読者は能面と菊子の出会いに感情を高ぶらせる。川端の耽美主義を躍如とさせるシーン・・・
菊子は慈童の面を顔にあてた。
「この紐をうしろで結ぶんですの?」
面の奥から、菊子の瞳が信吾をみつめているにちがいない。
「動かせなくちゃ、表情が出ないよ」
これを買って帰った日、信吾は茜色の可憐な唇に、あやうく接吻しかかって、天の邪恋というようなときめきを感じたものだ。
「埋もれ木なれども、心の花のまだあれば・・・・・」
艶かしい少年の面をつけた顔を、菊子がいろいろに動かすのを、信吾は見ていられなかった。菊子は顔が小さいので、あごの先もほとんど面に隠れていたが、その見えるか見えないかのあごから喉へ、涙が流れて伝わった。涙は二筋になり、三筋になり、流れ続けた。
「菊子」と信吾は呼んだ。
「菊子は修一に別れたら、お茶の師匠にでもなろうかなんて、今日、友だちに会って考えたんだろう?」
慈童の菊子はうなずいた。
「別れても、お父様のところにいて、お茶でもしてゆきたいと思いますわ」 と面の陰ではっきり言った。
山に近い小路にはこんな雰囲気が多い
竹垣を編んだ草庵の家
<浄智寺>
宗教を流行り廃りで論ずるべきではないが、時代の変遷とともに民衆に浸透する宗教は姿を変えて今日に継承されている。
奈良以前は、聖徳太子からの法華経の全盛期であり、南都六宗が正統派の仏教として隆盛を極めた。
そこに風穴を開けたのが最澄であり、つづいて空海であった。かれらは当時の中国の先端仏教である密教を持ち込んで民衆に訴えた。
その後貴族の没落と武士の勃興の時代を迎え、鎌倉に都が置かれる。
あらたな宗派が陸続と誕生した。
そのひとつに禅宗がある。
***
とくに、栄西の臨済宗の禅は源氏の幕府政権、とくに北条氏に支えられて裾野を広げた。
鎌倉仏教はその禅宗の全盛と切っても切れない関係にある。
“五山”ということばがある。京都にも鎌倉にもある、臨済禅の本山に順位をつけたものである。
順位に変遷はあるものの、足利義満は京都五山同様に鎌倉五山を決めた。
一に建長寺、二に円覚寺、三に寿福寺、四に浄智寺、そして五位に浄妙寺と、位次を決めたのである。
その金宝山浄智寺にやってきた。
大樹に囲まれた浄智寺の山門
鎌倉幕府第5代執権・北条時頼の三男である北条宗政(1253〜1281)の菩提を弔うために、弘安6年(1283年)に創建された。ほぼ730年の歴史をもつ。
鎌倉石の石段 凝灰質の砂岩であるため柔らかい
鎌倉では写真のように角の丸くなった石段が多い
<老い>
「このごろ少し耳が変になったのかもしれんね。このあいだ、夜中にそこの雨戸をあけて涼んでいると、その山の鳴るような音が聞こえてね。ばあさんはぐうぐう寝てるんだ。」
保子も菊子も裏の小山を見た。
「山の鳴ることってあるんでしょうか。」 と菊子が言った。
「いつかお母様にうかがったことがありますわね。お母様のお姉さまがお亡くなりになる前に、山の鳴るのをお聞きになったって、お母様おっしゃったでしょう。」
信吾はギクッとした。そのことを忘れていたのは、まったく救いがたいと思った。山の音を聞いて、なぜそのことを思い出さなかったのだろう。
菊子もいってしまってから気にかかるらしく、美しい肩をじっとさせていた。
人間はみな老いる。釈尊とて生老病死には勝てない。かれは笑顔をもって寂滅したが、煩悩からはなれられない常人は苦しみと葛藤せざるを得ない。
***
10月の朝、信吾はネクタイをしめようとして、ふっと戸惑う手つきで、
「ええと?ええっと・・・?」そして手を休めると、困った顔をした。
「はてな?」
結びかけたのをいったん解いて、また結ぼうとしたが結べなかった。
ネクタイの両端を引っ張って、腕の前へ持ち上がると、それを眺めながら小首をかしげた。
「どうなさいましたの?」
上着を着せかける用意をして、信吾のななめうしろに立っていた菊子は、前にまわった。
「ネクタイが結べない。結び方を忘れちゃった。おかしいね」」
信吾の目の色は暗い恐怖と絶望にかげっていると、菊子を驚かせたらしく、
「お父様」 と呼んだ。
ボケ(認知症)が始まった・・・現代人なら、これは捨てておくわけには行かない、すぐに病院に連れて行かなくては、と思うところだが、終戦後のこの時代、認知症の恐怖はそれほど認知されていなかった。
***
廊下に干してあった座布団を一列に並べて、肘枕で横たわりながら、信吾は秋の日に温まっていた。
菊子は裏山に残っていたからす瓜を生けていた。
からす瓜を眺めていると、菊子も目に入った。
あごから首の線がいいようもなく洗練された美しさだった。一代でこんな線はできそうになく、幾代か経た血統の生んだ美しさだろうかと、信吾はかなしくなった。
髪の形で首が目だったせいか、菊子はいくらか面痩せして見えた。
菊子の細く長めな首の線がきれいなのは、信吾もよく知っていたが、ほどよく離れて寝そべった目の角度が、ひとしお美しく見せるのだろうか。
秋の光線もいいのかもしれない。
Copyright©2003-11 Skipio all rights reserved