天城越え
梅雨の伊豆は“水の国”だった!
2013年6月21日



ほっと一息の蛇滝(へびだる)

1) それぞれの旅

伊豆といえば東京人にとって手ごろな行楽地。

夏、若者たちは明るい太陽と白い砂浜と、あたらしい出会いを求めて伊豆の海をめざす。冬、壮年たちはホットな温泉と海山の食の恵みを求めてのんびり旅に出る。現代人の「伊豆の旅」は概して明るい。がしかしそうではない伊豆もたくさんあった。とくに天城越えは・・・。

***

かつては徒歩で丸一日がかりだった天城越え。時には決死の覚悟で、そして時には憧れを抱いて。

――― 天城隧道はふるさとに帰る道。

終戦のとき、勤労動員された下田の中学生たちは沼津の工場で働いていた。

昭和天皇の詔勅が下りたあと、食料も金も持たず故郷下田を目指し、徒歩で天城を越えた。その一人は修善寺から南へ坂を登り、「トンネルの入口に来たときの興奮を忘れられない」といった。

やっとふるさとに帰ってきたという安心感。

(トンネルを抜けるのに自然に校歌が口から出てきた。)

(腹がとにかく空いた。)

(天城の湧き水がとくべつに美味かった。)

南に抜けたときの夕焼けに平和な故郷を見た。

「戦争の滓(カス)を天城の向こう側においてきたという感慨があった。」 天城峠は結界の役割を果たした。

かれらにとってふたたび生きはじめる出発点となった。



天城名産のわさび栽培

それぞれの時代、人々は峠越えに自らの境遇を重ね合わせ、その先に人生の転機を見いだし続けてきた。峠の北に住む人は明るい海の下田を目指した。白い砂浜は美しく、あたたかい。

天城を越えた人、これから越えようとする人、さまざまな人生がある・・・。

わたしも雨の天城を越える!


2) 大楠と少女

早朝に家を出て熱海で喜多さんと待ち合わせ、梅雨の伊豆行きは“黄門さま”ぬき、喜多さん企画の“野次・喜多珍道中”だ。大水に遭ったり土砂崩れに遭遇したりという危険はなるべくなら避けたい。しかしこの季節ゆえ、あるていどの冒険は承知の天城越えだ。

梅雨の“伊豆の国”はまさしく“水の国”だった。

***

熱海からは客席が海側にむいた伊東線の観光列車。

灰色にくすんだ相模湾のすぐ近くに、つかず離れず伊豆大島が寄り添っている。「こんなに近いのか」 とあらためて驚く。しばらくすると雲の陰に“利島”が姿を現した。天気がよければ伊豆七島がくまなく望めそうだ。

そういえばかなりの昔、神津島とか式根島とか、白い砂浜を求めて二回ほど行ったっけ!

この電車、海に向けた座席の配慮はうれしいけれども、90%はトンネルと木々の植え込みが視界を邪魔している。状況を想像してもらえばすぐにわかると思うが、目が疲れる。

「邪魔な木はみんな伐採して欲しい!」 と叫びたい。



大島の島影



利島の姿がうっすらと

河津駅に到着すると幸いなことに雨は止んでいた。

そこから『踊り子温泉会館』に向かって歩き始める。これは予定通りの行動。こうやって自分の足で歩いていると予想外の情報が入ってきて、時にはラッキーな出会いをもたらす。人によっては面倒がるのだが・・・。

三方を緑深い山に囲まれていて、そのくぼんだところに田畑と町があって人々が生活を営んでいる。町の西側に河津川が流れ、川沿いに植えられた早咲きの“河津桜”が、季節になると観光客を呼び込む。いまは桜のシーズンも終わって川沿いには人影もまばらだ。

その手前に、「来宮神社、大楠(おおくす)」の案内板を発見、立ち寄ることにした。



天然記念物
千年の大楠木



祖母と神社参り

この楠木(くすのき)はでかい、周囲14m高さ24mもあって樹齢は千年を越すと書かれている。国の天然記念物に登録されている。写真を撮ったりしていると、その境内に突然“美しきもの”が出現した。

すっくと背の伸びた美少女があでやかなお召し物を身に纏っていて、羽衣の天女かと見間違えるほど!

しかしその横には、“ガードウーマン”のおばあちゃんがきちんと護衛していた。

「季節はずれかと思いますが、どうしていまの季節にふりそでなどを?」 と質問すると、「このあたりでは成人式の写真撮りだけを早めにする習慣がありますので」 と護衛官が答えた。

幸せのおすそ分けをいただこうと「写真を撮らせてもらってよろしいですか」と所望して、記念の一枚をゲットする・・・。



鴨なんばん蕎麦



河津川
両側は河津の葉桜並木

昼食は河津川沿いの蕎麦処『時盛』で“鴨せいろ”をいただく。・・・これから坂の多い、長い距離を歩くというのに、ビールを頼んだのは間違いだったか!


3) 寒天橋

<道がつづら折りになって、いよいよ天城峠に近づいたと思う頃、雨脚が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さで麓から私を追ってきた。

私は20歳、高等学校の制帽をかぶり、紺飛白(こんがすり)の着物に袴をはき、学生カバンを肩にかけていた。一人伊豆の旅に出てから四日目のことだった。修善寺温泉に一夜泊り、湯ヶ島温泉に二夜泊り、そして朴歯の高下駄で天城を登って来たのだった。>

とくべつに“伊豆の踊子”を意識したわけではないが、今回の旅は“学生“と“踊子”のたどった天城の旧街道を、逆に南の河津・湯ヶ野温泉に一泊して、北の湯ヶ島を目指すことになった。その途中に“天城越え”がある。

***

一日目は天城隧道近くの“寒天橋”から“河津七滝(かわづ ななだる)”を歩く。

その最初だけは、時間を節約するためにタクシーを頼んだ。

やってきたタクシーの運転手さんはおしゃべりだった。ふだん観光タクシーでもやっているのだろう、口に籠もる聞き取りにくいことばで、親切にあれこれを説明してくれる。

伊豆の下田といえば黒船の話題を避けて通れない。

「下田に入っていた米国初代公使ハリスは早期の江戸出府を望んだけれども、なかなか許可が下りません。幕府からやっと許可は下りましたが、船での江戸入港は認められず陸路をたどることになります・・・で、天城越えを馬で行くことになったわけです。」

185710月に下田を出た一行が最初に宿泊したのがこのお寺さんで・・・」 とこんな調子である。

「伊豆の踊り子の川端康成さんが泊った旅館が、この道を入ったところにあります。大正の建物で老朽化しています」 その“福田家”とは夕刻お目にかかることになる。



紅葉のあいだ 寒天橋の上流



寒天橋の近く
二階滝(にかいだる)
八丁池に源を発し
河津川一番目の滝

その運転手さんによれば、滝を“タル”と呼ぶことに決めたのは、河津町の役所と観光協会らしい。

「“タル”と呼んだほうが観光地っぽい」。

「これからは“タル”、“河津七滝(ナナダル)”と呼んで売り出そう」。

そういう経緯で名前が誕生しているから、市民の中ではタキとタルの呼び名がいまでも混在している。

もともと“滝(タキ=タル)”は“垂水(たるみ)”の“垂れる”から来ていることばかと思う。あまりにも有名な昔の歌があったではないか。

石走る垂水のうえの早蕨の萌えいずる春になりにけるかも 万葉集 志貴皇子

さて、わたしたちは小雨の降りかかる“寒天橋”から歩き始めた。



平滑ノ滝・・・七滝ではない!


4) いよいよ河津七滝

急峻の天城山塊は伊豆半島の真中を東西に貫く。

その中心に天城峠があり、ここが分水嶺になっている。北側へは“狩野川”が流れ出、沼津から駿河湾にそそぐ。いっぽう南には河津川が短く下って太平洋に落ちる。川が短いだけに急流にならざるを得ず、また多くの滝が現れて価値のある渓谷美をつくる。モミジが多いため秋の紅葉のシーズンはとくに美しい。

梅雨の季節は雨量が多く、滝は男性的で豪快な姿を見せる。

それが見たかった!

***

10分ほどだろうか、車の激しい国道を歩いた後、森のなかの旧道に入った。“踊子歩道”と記されている。この道は上り下りを繰り返しながら湯ヶ野温泉まで続く。

小さな沢にかかる橋を二度ほど渡る。以前の台風の爪痕だろうか、大きな杉の木が倒れている。次第に川音が近づいて、やがてワサビ田にぶつかる。そこから河原に下りて、幅20m高さ4mの“平滑の滝”をすぐ近くに見た。

ここから先は本格的な山歩き。

昨年9月の台風の惨禍から立ち上がって、修復された橋や階段の上り下りをこなしていよいよ、『河津七滝(ななだる)』というわけだ。

宗太郎杉と名づけられた林道は、よく手入れされて、林立がさわやかで小気味よい。

***

七滝最初の“釜滝(かまだる)”の手前、 最近下りられるようになった“猿田淵”に立ち寄る。

最初から度肝を抜かれるような迫力で、水の力に驚かされる。この水の前に立ちふさがるのが100トンはあろうかという大岩。10mほどの杉の丸太が爪楊枝のように見える。

この興奮は次の釜滝でさらに増す。

岩肌は玄武岩の柱状節理をあらわにしていて、その高みからものすごい水量が落ちてくる。カメラを構えるとたちまちレンズに霧状の水滴が降りかかる。「高さ22m幅2m」というのだが、それは普段のおとなしい滝のことで、水量が増したいまは、幅5mほどに思える。

水煙を避け、すこし離れたところで見とれてしまう。



柱状節理の岩肌



レンズに水滴が

この流れは暗い森の中を通って次の“エビ滝”、“蛇滝”へと流れ込む。いずれも数メートルの小滝といえるが、それぞれ趣があってよい。

わたしは“蛇滝”の陰影のある静謐さが気に入った。

そして、踊子が風景の邪魔をしているのではないかと思える、“初景滝”に出た。ここまでくると舗装道路になって足もとが安定する。一安心だ。滝はそれでも流れる。

***

ひっそりと佇む“カニ滝”をながめて、二つの流れが合流して水量の多い“出合滝”までやってきた。

“河津七滝”に入ってからここまで、ほぼ小一時間が経っていた。

ところが最後で最大の“大滝(おおだる)”が、20129月の台風で痛めつけられてしまい、いまだ近づけないという。町が2億円も出して突貫作業をしたようだが、修復が完成していない。しかしながら唯一、天城荘にはいれば観ることができると聞いた。

このまま観ずに帰るのでは、河津七滝巡りの画竜点睛を欠くことになってしまう。

「せっかくのチャンスをなんとしても生かしたい」 ということで天城荘の玄関で案内を乞うた。

若いご主人が説明をしてくれたが、「外来入浴料の1500円を払ってもらうなら、どうぞご覧ください」という。

「温泉にも入っていただけます」というが、夕刻も迫っているし、温泉は今宵の宿ではいれば十分だ。素早い決断をして、1500円也を支払った。これまで六滝は自身の足で訪ねて無料で観た。最後にお金を取られたのは心外だがこれは金額の問題ではない。

湿って滑りがちの館内の道を200mも下ってやっと、“大滝(おおだる)”とのご対面を果たした。

ご満悦であった!



猿田淵・・・爪楊枝のように見えるのは10mはあろうかという杉の材木
左の岩の大きさを想像できるでしょう



22mを水しぶきを上げながら落ちる釜滝(かまだる)



初景滝(はつかげだる)



混浴の温泉につかりながら眺められる大滝(おおだる)


5) 湯ヶ野の宿

その日は湯ヶ野に温泉宿をとった。

あの“伊豆の踊子”の福田家とは至近の距離にあった。

いずれも源泉かけ流しで清潔感にあふれる。身も心も、清く美しくなどと・・・なった気持ち!

福田家”の話題は格別に多い。何度も映画が制作され、新聞雑誌やテレビなどマスコミの取材も数えられないほど受けてきた。

でも最初のころは、「川端さんって学生時代にウチに泊ったみたいだね」 と、家族のあいだでも、このていどの話でしかなかったようだ。それがいつの間にか大ブレーク、福田家の女将(先代)もあわてたのでしょうが、この小さな、数えるほどしか旅籠のない宿場町はもっと盛り上がったことでしょう。

で、現在はというと、当主の老女主人はお一人でこちらに住まいしていらっしゃるようですが、大学の「文学部・川端康成ゼミ」などが大挙して投宿するときには、東京に“SOS”を発信して娘さんにヘルプを乞う、というようなことをお聞きしました。



河津川のほとりに佇む湯ヶ野温泉
雨の夕刻その一軒にはいった



19歳の一高の学生 川端康成が泊ったのがこの福田家だった

<私達は街道から石ころの路や石段を一町ばかり下りて、小川のほとりにある共同湯の横の橋を渡った。橋の向こうは温泉宿の庭だった。・・・・・湯から上がると私はすぐに昼飯を食べた。湯ヶ島を朝の八時に出たのだったが、その時はまだ三時前だった。・・・・・夕暮れからひどい雨になった。前の小川が見る見る黄色く濁って音を高めた。

ととんとんとん、激しい雨の音の遠くに太鼓の響きが微かに生まれた。私は掻き破るように雨戸を開けて体を乗り出した。>

福田家正面の二階の部屋は見通しがきく。目の前を流れるのはまちがいなく“河津川”で、濁っていたとは思えないが、小説の設定上こうしたのだろう。混浴の共同浴場は、今はない。小説の背景は11月。

それにしても湯ヶ島から湯ヶ野までの九十九折を7時間で、しかも朴歯の高下駄で歩ききったというのはよほどの健脚である。昔の人は歩くしかなかったから、そのことは十分納得がいく。

<「ああ、踊子はまだ宴席に座っていたのだ。座って太鼓を打っているのだ。」 太鼓が止むとたまらなかった。雨の音の底に私は沈みこんでしまった。やがて乱れた足音が暫く続いた。そして、ぴたと静まり返ってしまった。私は目を光らせた。この静けさが何であるかを闇を通して見ようとした。踊子の今夜が汚れるのであろうかと悩ましかった。>

***

そして翌朝の踊子。

<私は川向こうの共同浴場のほうを見た。湯気の中に七八人の裸体がぼんやり浮かんでいた。

仄暗い湯殿の奥から、突然裸の女が走り出してきたかと思うと、脱衣場の突鼻に河岸へ飛び下りそうな恰好で立ち、両手を一ぱいに伸ばして何か叫んでいる。手拭もない真裸だ。それが踊子だった。若桐のように足のよく伸びた白い裸身を眺めて、私は心に清水を感じ、ほうっと深い息を吐いてから、ことこと笑った。>

その夜の私達はとくべつに舟盛りをお願いして、豪勢な夕食をいただくことになった。あの“福田家”を近くに感じながら・・・。



夕食の舟盛
あわびにさざえ
水槽で泳いでいたアジの刺身
おこぜの唐揚も出てきました

現実にもどる。宿の後に河津川が音を立てて走っている。

濁流といえば水に濁りが混じっている。しかしこの水は澄んでいるので“奔流”と呼ぶべきだろう。河津川は清く澄んだ水量が圧倒的に多く、轟音を上げて目の前をほとばしり過ぎる。

朝の野天風呂から素っ裸で岩の上に立ち、放心したように水面を眺めていると、何処からか尾の白い小鳥が現れて岩の上を気ぜわしく動き回っている。餌を探している姿が、踊子の化身のように思えた。

幼げゆえに、どこか危なげで流れをかぶったら一気にさらわれてしまいそうにも見える。

小鳥はそんな心配は無用といわんばかりに、上手に水を避けながら岩から岩へ軽々と飛び回り、目を離した隙にいなくなった。

大小の岩をよく観察してみると大岩のうえには苔が生えていて風格を感じさせる。小さな岩、といっても人間の力ではとても動かせないような岩であるが、そこに苔はなく濡れてスベスベしている。

“ローリングストーンにノーモス”のことわざが思い浮かんだ。「いつまでも踊子にくよくよするんじゃないよ。」といっているようでもある。

いつの間にか雲の割れ目から青い空が顔を出して、陽光まで射してきた。どうやら今日はいい天気になりそうだ・・・。


6) 天城隧道と作家康成



天城山隧道がみえた

昨日南下をはじめた寒天橋まで行ってから、二日目がスタートする。

そこから旧天城隧道(トンネル)を通って浄蓮の滝まで歩くという計画だ。これをもって踊子歩道行が一気通貫して完了する。

予期せぬ晴れ間に勇気百倍の2人だが、「昨日の上り下りで足が悲鳴を上げている」 と弱気な発言も飛び出す。

数少ない路線バスをつかまえてとりあえずバス旅行だ。緑豊かな天城の山々が窓外を流れすぎてゆく。そのままバスに乗って修善寺まで行けば午前中には家に着いてしまう、などと不埒を思いつつもバスを降りて歩きはじめた。汗が出はじめればこちらのもの。



河津湯ヶ野側から入って

隧道の南側から向こう側に出口が見えている。

500mくらいだね」 喜多さんの推定はあたっていた。

ポタポタと、水滴が落ちる音が響く隧道のなかは湿っていて、話し声もよく共鳴する。しかし道は車がすれ違えるほど広いし、雨の割には水たまりもない。

「明治38年に開通ということだけど、むしろ、よく整備されている」

「これなら今でも十分に使える。他所にある崩落の心配な隧道よりよほどいい」

トンネルを抜けた。



湯ヶ島に抜ける

この間7分

あのころ、この近くに茶屋があった・・・

「この辺りに峠の茶屋があって、学生は踊子たちに追いついた。一生懸命追いかけてきたはずだよ、若さでね。」

朝はやく、さっぱりと温泉で流したはずの“踊子の幻影”が、まだ離れない。

<私は一つの期待に胸をときめかして道を急いでいるのだった。そのうちに大粒の雨が私を打ち始めた。折れ曲がった急な坂道を駆け登った。ようやく峠の北口の茶屋に辿りついてほっとすると同時に、私はその入口に立ちすくんでしまった。余りに期待がみごとに的中したからである。>

そこに旅芸人の一行が休んでいた。

踊り子は自分の座布団を裏返しにしてそばに置く。

学生は息切れと驚きで「ありがとう」のことばが出なかった。

踊り子と真近に向き合って学生はあわてて袂から煙草を取り出す。踊り子はすぐに煙草盆を学生の近くに引き寄せた・・・。

***

文学論を少々・・・・・川端の幼・少年時代は不幸で塗りつくされている。2、3歳で父と母を、そして15歳までにたった一人の姉と、祖父とをことごとく失っている。寂しかっただろう。よくその不幸を乗り越えた、と称えたい。自力ではどうしようもない運命との戦いは、格闘と言い換えてもいい。

その戦いを乗り越えて珠玉の名作を紡ぎだした。

こんな評価がある。

<川端は女性に対して憧れや思慕を抱く物語をたくさん書いているが、「陶酔を許さない」。人にどんなに親切にされても「美しい空虚な気持ち」を実感するのみである。>

これを単純に川端の生い立ちによるものと決めつけてしまっていいのか・・・。

雪国でも、「駒子の愛情は彼に向けられたものであるにもかかわらず、それを美しい徒労であるかのように思う彼自身の虚しさがある・・・」 のである。

陶酔の拒否の思想は、鎌倉を舞台にした『山の音』の底流にも流れている。

京都の西陣を書いた『古都』でもおなじ、血にたいする非情さを感じる・・・幼くして別れた双生児の姉妹がせっかく再会できたというのに、自身の意思で離れていくという虚しさ、それは愛への渇望の裏の、厳しい川端の意思なのだろう・・・。


7) 清張の事件

『天城越え』とタイトルを名づけたわけは、当然松本清張の短編にある。

天城隧道を抜けて少し下ると、あたりには「たくさんの氷室があった」 という説明看板が目に入った。

小説では、「氷室にはしごを横にして、その上に板をおいて寝た跡があった・・・と警察の調べでわかっていた」が、この事件は迷宮に入って時効となった。



映画天城越え
田中裕子の演技評価が高かった

少年は16歳で家業の鍛冶屋の仕事が嫌になって、静岡にいる兄を頼って家出する。季節はいまとだいたい同じ6月の後半、わずかばかりの路銀で食費を賄い、夜は野宿をしようと考えていた。

天城の隧道を抜けると宵闇が迫り一気にさびしくなる。

少年は怖くなって後悔する、そして引き返そうと思った。

夕暮れの寂しさが増すそんなとき、街道で出逢ったのが年上で艶のある水商売らしき女、

<修善寺の方角からひとりの女が歩いてくるのが目についた。その女が、近在の百姓でないことは服装ですぐわかった。着物は派手な縞の銘仙で、それを端折って、下から赤い蹴出しを出していた。妙なことに裸足であった。女の顔は白く、あざやかな赤い口紅を塗っていた。白粉のよい匂いが、やわらかい風といっしょに私の鼻にただよった・・・・・着物は艶やかに光ってきれいだった。>

一目ぼれをしたかどうかは知らない。女が「どこに行くのかい?」と尋ねると、「下田まで帰る」 と答えてしまう。

「じゃあ、いっしょに行きましょう」 と言われれば嬉しくなるに決まっている。

夜道をしばらく行くと、他所者の工夫らしき、背の高い男が前を歩いている。

女は、「あの男に少し用事があるから、先に行ってくれないか。すぐに追いつくから」 と告げる。

少年は言葉通りに先に行くが、女のことが気になって仕方がない。様子を見に引き返し、男女のむつみ合いの現場を目撃してしまう。

その夜は大雨が降った・・・。



氷室への分け道

氷室とは冷蔵庫のなかった時代に
地下に穴を掘って氷を貯蔵した場所をいう
全国の山間地にあった



この近くで事件は起きた

松本清張の短編『天城越え』は清張らしいドロドロした作品だ。

川端の『伊豆の踊子』と違うのは、

<私が高等学校の学生ではなく、十六歳の鍛冶屋の倅であり、この小説とは逆に下田街道から天城峠を歩いて、湯ヶ島を通り、修善寺に向かったことであった。>

吉岡治作曲で石川さゆりが歌った『天城越え』がカラオケブームにのって、あまりにも有名になりすぎた。この歌は情念の世界を描いているが、小説はもっと怖い。興味のあるかたは読まれたらよいと思うが、余韻を残して幕を閉じる。

<私は、なぜ、土工を殺す気になったのか。十六歳の私にも、土工が女となにをしていたかおぼろに察しがついていた。実は私がもっと小さいころ、母親が父でない他の男と、同じような行為をしていたのを見たことがある。私は、そのとき、それを思いだし、自分の女が土工に奪われたような気になったのだ。

田島老刑事は、あのときの“少年”が私であることを知っている。三十数年前の私の行為は時効にかかっているが、私のいまの衝撃は死ぬまで時効にかかることはあるまい。>



滑沢渓谷の流れ

野次・喜多は、ワサビ田の広がるわき道を“浄蓮の滝”に向かっている。


8) ワサビ田と“浄蓮の滝”

♪ 寝乱れて 隠れ宿 九十九折り 浄蓮の滝

♪ わさび沢 隠れ道 小夜時雨 寒天橋

切なく歌われた天城の九十九折りを下って、“情念の滝”に向かっている。

一帯には、天城山の斜面を利用しての山葵(わさび)沢が目立つ。

「わさび農家はどこも豊か」で、「わたしが今から始めようと思っても、すでに空いた土地はどこにもない!」 と、昨日乗ったタクシーのウンちゃんが、うらやましそうに嘆いていた。

山葵の生育に適した排水の良い土質と、豊富な湧き水が山葵農家を支えている。

農家が豊かな理由は、他にもある。年に何回も収穫できることだ。年間を通じて水温が一定であるため、収穫が終わったあと、すぐに次の苗を植えることができる。「おかげで年中、暇はない」ということでもある。

急な斜面に段々に仕切られた山葵田の高みから、きれいな水が絶えず音を立てて流れている。

通りかかった田の脇で農家のおじさんがなにやらを散布しているので声をかけたら、気さくに応じてくれた。「虫がついてしまったので、防虫剤を薄めてまいているんだ」 という。

隣に妙齢の娘さんがお手伝いをしていたが、こちらのほうの虫は大丈夫?

***

伊豆の山葵のルーツは同じ県内の静岡市の北部・有東木(うとうぎ=日本で最初に山葵栽培を始めたところ)にある。

なんでもこちらのかたがあちらへ、「椎茸栽培の技術を伝授しに行ったときに、持ち帰った」という。結果的に持ち帰った技術が金の卵だったというわけだ。

この小さな、とても美味しいとは思えない“ピリピリ”が世の中でもてはやされるようになったのは、江戸前寿司が大流行したから。いまや“寿司にわさび”は欠かせないもの。ピリッと舌にくる感覚が、寿司の醍醐味で、ネタが脂濃かったり甘かったりしたら余計に山葵のありがたさを感じる。



よくある“抹茶ソフト”ではありません
載っているのはホンモノのワサビ

子どもだましとお思いでしょうが、けっこうイケル!

休憩所で、変わりネタの『わさびソフトクリーム』をいただいた。

これは普通のソフトクリームの上に、(すぐ隣の見えるところですった)ホンモノの山葵を載せたもの。ピリッとくる感じがなんともいい難い。

甘いものに、この“ピリピリ”はマッチする。



浄蓮の滝

ついに終着点の“浄蓮の滝”にたどり着いた。ほぼ3時間の歩行。

つりそうな足を引きずりながら整備された階段を下りて、目の前に秀逸な滝を見た。

昨日来、たくさん見た滝はそれぞれ特徴があってよかったが、バランスのよさでは“浄蓮の滝”がいちばんだろう。

怒涛の水量と轟音、滝のオーラを感じながらしばしうっとり、見とれてしまった・・・。


9) 最終章 運慶におどろき!

浄蓮の滝からバスで修善寺までやってきた。

野次さんは元気なことにその晩、長岡温泉でもう一泊して大騒ぎをするという。ついでの駄賃とかで、「もう一か所お寺さんでいいモノを拝んでから、別れましょう」 ということになった。

伊豆の長岡や韮山には、時空を越えて鎌倉前夜の歴史が残っている。

***

 伊豆の歴史というテーマで思考を巡らせると、下田のペリー艦隊ぐらいしか思い浮かばないが、そのずっと昔は四国や佐渡などとならぶ流人の地であった。

そう考えると歴史上の大人物がこの地に流された事実に気づく。その地とは韮山(にらやま)の蛭ヶ小島、流された人物は源頼朝である。(余談だが、現在の韮山高校は源家の遺伝子を受け継いだのか、県下有数の進学校となっている。)

あの時代、武士の台頭のなかで地方の有力豪族たちも源氏と平家に分かれて、土地の利権を守ることに執心していた。かれらの願いは、自身が耕した領地を安定的に支配したいというもの・・・すなわち所領の安堵を求めて、源平という親分にすがりついたという裏話がある。

伊豆の地には伊東祐親(すけちか=在・伊東)と北条時政(在・田方郡=韮山や大仁、長岡、修善寺など一帯)とが、いずれも平家方に与(くみ)して領地の棲み分けをしていた。

***

歴史は筋書きのないドラマとして動く。その梃子(テコ)になったのが女性だ。

流罪の頼朝は、伊東祐親の監視下にあったが、父が仕事で京都に行っているあいだに娘・八重姫に手を出して男子を孕ませる。生まれた子供を千鶴という。

そんな失態を都の清盛に知られたら家系を取りつぶされると、危険を感じた祐親は千鶴を殺して八重姫を幽閉する。隙を見て逃げ出した八重姫は頼朝のもとに走るが、すでに政子という次の愛人を手にしていた頼朝は受け入れない。

この土地では、その八重姫が悲観して入水したという話が伝えられている・・・。

900年の歴史を越えて、ゆかりの寺や墓が語りかけてくる。

***

野次喜多両人がともに興味を持って、重たい足で訪ねたのは『願成就院(がんじょうじゅいん)』という高野山真言宗の寺だ。

ここにはたいへん貴重なものが隠されている・・・・・なにがあるかって?

それを野次さんが説明してくれる。

「ここには関東では数えるほどしかない、運慶作の五体の仏像が鎮座している。いずれも運慶初期(35才)の造仏で、昨年国宝に指定された。時の権力者で政子の父・北条時政が若い運慶に造らせたようだ」。

(こんな田舎に運慶が?) と誰もがいぶかりたくなる。

毘沙門天像

重いかぶとを身につけ、右足を一歩踏み出し、
暴れまわる二匹の邪鬼を
しっかりと踏みつけて立つ。



厳しい顔をした制託迦童子

しかも、案内を乞えば誰にでも見せてくれる。

400円也を払ってなかにはいると、中央に阿弥陀如来座像が穏やかなお顔で座り、右に脇侍の毘沙門天像が怖い顔をして立ち、左には不動明王が制託迦童子(せいたかどうじ)と矜羯羅童子(こんがらどうじ)をしたがえている。


不動明王

上半身裸形。両肩が張って胸厚く、腰がたくましい。
邪悪に立ち向かう激しい怒りの表情が凄まじい。

その迫力は息が詰まるほど・・・良いものを、じっくりと見せてもらった。こうやってブラッと訪ねて、すぐに見せてもらえるというのはありがたい。感謝。

今回の旅、かたやノーベル賞作家川端康成と、こなた運慶の国宝、比べるべきものではないけれども、どちらが重いかと比較したら後者のほうが重いようにも感じる。良い旅になった。



これこそが日本の川・・・狩野川

旅の終りに、天城から北に流れる狩野川の土手に立った。

水の青さが際立つなかで、子どもたちが楽しそうに、川遊びに興じていた。その穏やかな流れを眺めていると、南北の方向がわからなくなった。さあ、迷子にならないうちに帰らねば・・・!

(おわり 2013年7月4日)


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