往路の新幹線は修学旅行に旅立つ中学生の心境、年甲斐もなくわくわく気分で溢れかえっている。すこし落ち着かないといけない。そのことはわかっていても、誰言うともなく、めいめいが500mlの缶ビールを小脇に抱えての乗車になった。
わたしは新横浜から自身の思いでロング缶を用意したのだが、席に着いたら東京駅から先乗りの二人はもうその長いやつをプシュッとやっていた。
時間はちょうどお昼の12時、お弁当の菜をつまみに気持ちの良い昼酒だ。
はて、1本では不足していたのだろう、もう1本を車内販売で調達した・・・定かな記憶がない。
この日のスケジュールは、ホテルに荷物をほどいたら祇園のいつもの店”やすかわ”さんで、頼んでおいたチケットをピックアップして“都をどり”を鑑賞、それがはねたら“阪川”さんで豪勢な夕食というものだ。
新幹線のなかからウキウキ気分になるのも道理、学校の修学旅行ではなくて、別の表現をしてみましょう、“人生の修学旅行”、少しばかりの贅沢は許されていいのかと自身で納得していた。
歌舞練場の裏手の庭園
花見小路の奥、建仁寺の手前の祇園甲部歌舞練場には着飾った男女が引きも切らず集まりつつあった。
4時50分から始まるこの日の最終公演に、仕事を早仕舞いしてやってきた人たちのことだから、歓びと期待に満ちた興奮顔をしている。
外人観光客が目立つ
元は建仁寺の寺領であったという歌舞練場は、芸舞妓たちが孵化したあとの揺籃の場所。一部の羨ましい男どもを除いて扉を開いてくれない男子禁制の女の園、それでも一歩はいれば建物の裏手に池山回遊式の庭園が広がる。
開演までのわずかな時間にあわただしく抹茶をいただいた。
ここでは芸舞妓が茶を立てサービスをしてくれ、この時間のみありがたいことにカメラ撮影が許されている。
たまたま、いい写真が撮れた。
芸妓の名を“その恵”さんという。このかたの所作振舞が非常にきれいで、周囲に気品をただよわせている。
けっして客と目をあわすことはない。おおように全体を見回して舞妓に采配を振るう。美貌とセンスの両方を兼ね備えた、間違いなく祇園で売れっ子の一人、その落ち着いた佇まいから経験豊かな三十路を越えているのかと・・・。
思い過ごしかもしれないが、この方の容貌に奈良興福寺の国宝・阿修羅像の面影を見つけた。
***
さあ、はじまります。
舞台に向かって右手の地方(じかた)さんが「みやこをどりは」と一声を揚げると、「ヨーイ ヤァサア!」と舞妓たちの華やいだ声が響きわたって幕が開く。
子規の一番弟子で京都をこよなく愛した高浜虚子に、ズバリの句があった。
春の夜や都踊りはよういやさ 虚子
得も言われぬ煌びやかさに、幕開けから驚かされる。舞台装置も祇園らしい落ち着きと華やかさが工夫されている。それよりなにより続々と登場する踊り手たちがいずれも“アヤメかカキツバタ”、お座敷では一人の芸妓を補足するのもたいへんなのに、何十人ものきれいどころが勢ぞろいしているのだ。
それはそれは、優雅なもんですえ、ごっつうええもんどすえ!
芸舞妓による踊りは、嶋原をのぞく京都の五つの花街(かがい)で、それぞれおこなわれる。
祇園甲部の『都をどり』、宮川町の『京おどり』、先斗町は『鴨川をどり』、上七間の『北野をどり』、祇園東の『祇園をどり』(唯一、秋に開催)と、それぞれ規模や開催日程は違うが、趣向を変え、独自の個性を持って旦那衆を集める。
なかで、なんといっても祇園甲部の『都をどり』がその規模や完成度、集客力や人気において抜きんでている。
舞台衣裳の華やかさはいうまでもない。毎年”青”の染め色を変えるけれども肩にかかる垂(しだれ)桜のデザインは変わらない。これは八坂神社氏子の証しとか、円山公園のしだれ桜をイメージしたものだろうか。
着物は手書きの友禅、帯は西陣と、京都の歴史が育てた手仕事の逸品をまとう。友禅は優雅で艶麗な模様と色調をもつゆえに、芸舞妓にもっともふさわしい着物といえるでしょう。
どこの花街でも、春の踊りは1年の鍛錬の集大成、贔屓筋に「こんなに上達しました」というお披露目の儀式かと思う。
“都をどり”は全八景の構成で、約1時間の舞台。
春夏秋冬をめぐってまた春に戻るという、四季の移ろいを華やかに表現する。
「都踊りは よぉいやさあ」 にはじまって“伊勢神宮 梅初春” “三保の松原春の羽衣” “祇園会” “下鴨神社扇草紙” “建仁寺紅葉” “京の街の雪遊び”とつづいて、“平等院の桜尽くし”の八景、この第八景は総勢60名の芸舞妓が勢ぞろいしての大団円、最大の見所で盛り上がったところで幕が下りる。
ほーっと一息がはいる。皆さん、満足そうな顔、顔、顔。
すこし横路にそれる。
舞妓は中学を卒業した15歳でこの道に入る。
その後ほぼ5年間、一人前になるまで芸全般の稽古に励む。毎日が真剣勝負。この間は先輩の芸妓について芸舞妓としての作法を習い、置屋のお母さんに一切合切の経済の面倒をみてもらう。
毎日のお稽古は厳しい。日本舞踊に三味線、茶道に華道、習字や京ことばの学習など、朝起きてから夕方までのスケジュールはぎっしり詰まっていて、それらをきちんとこなしてから夜のお座敷に上がる。
学ぶことは山のようにある。
茶道ひとつとっても、単純に作法を一とおり学べばよいというものではない。茶道の歴史から、道具一式の目利き、茶や菓子の種類やらそれを供する店の名前、禅とのかかわりや利休の精神性まで学ぶということになると並大抵ではない。
しかし一とおりの知識を持っていないと、座敷に通ってくる粋人たちと話もできない。
どの花街も舞妓の数が少ないから引っ張りだこで、お座敷をこなすのに忙しい。時間がないから彼女たちはいつも小走りに走っている。
そうして概ね二十歳を迎えて、独り立ちの芸妓となる。
“襟がえ”という儀式は一般にいう成人式のこと、晴れて独り立ちしたということで、社会的には独立した自分カンパニーの社長、すべての稼ぎは自身の双肩にかかる・・・。
この時点で廃業してもかまわない。
よいスポンサーを見つけて店を持つのも自由、好きあった男性と結婚するのも良し・・・未来はバラ色だ。
鏑木清方が描いた舞妓
角度の違った、また興味深い情報を目にしたので最後に書き記したい。
佐伯順子さんの「遊女の文化史」という一文。あらかじめいっておくが現代祇園の芸舞妓と遊女とはまったく異質なものだ。
<性は聖なる行為であり、その伝統は姿を変えながら巫女から遊女へと受け継がれ、日本の文化に重要な「あそび」の世界を形づくっていった。もちろんこの「あそび」には単なる快楽の意味はない。キリスト教のような一枚岩の宗教とは違って、快楽も遊興も含めて、別言すれば、善も悪も包含しつつ人間を極楽浄土へと導いていく。
「あそび」を離れて和歌も茶道も能も歌舞伎も、その他もろもろの美術工芸品も存在しない。「何々遊ばせ」という私たちの日常用語にも、「神遊び」の伝統は無意識のうちに生きているのである。>
こういう感覚は京都にいると実感として理解できる。性を包含した文化というものが極めて身近にあるような気がしてならない。
花見小路
去年はじめてお邪魔してからはやくも三度目。
今回はちょっと辛口の批評、もちろん甘口もある、上げたり下げたり、どうなることやら!
さて、それなりのお代金を支払って席について、それも三度も来たのだから、そろそろ“常連”の名がついてもいい。などと思うのはこちらのわがままで、忙しいご主人の心の中にまで分け入るのには今しばらくの授業料が必要のようだ。
「分け入る」といえば、お店は祇園花見小路から奥の細道を分け入ったところにある、『阪川』。
***
この店の、顧客からの評価が非常に高いのはなぜだろうか。
そもそも割烹の評価は何で決まるのか。
まずは素材や調理手法を含む料理の味。次に店主や女将の気配りや客を退屈にさせないホスピタリティ。さらにいえば、落ち着いて食事のできる部屋とか、素朴な坪庭とか掛け軸や生け花やBGMなどの食事の環境があげられる。
“阪川”は祇園の奥の隠れ家の雰囲気があって、はじめはそこに魅力を感じるのだが、慣れてしまえば環境面での評価は下がる。もっとも、割烹は割烹であって料亭ではないのだから、料亭の環境を求めるのは公平ではない。
不満を感じるのはご主人が忙しすぎること。いつも忙しく立ち働いていて、カウンターに座ってもゆっくり話もできない。素材のことをうかがっても短い返答しかもらえないし、それゆえこちらの気持ちまで忙しくなってくる。
全体の評価が高い理由は料理の美味しさにあるのだろう。
春夏秋冬、いつ足を運んでみても期待を裏切らない料理が出てくる。
めったに口に入らない珍味素材、高級素材をいただける。たとえば海鼠(なまこ)の卵巣を何枚も重ねて干した“クチコ”(阪川ではコノコといっている)、明石の天然の鯛、夏の鱧(はも)や秋の松茸、冬場の河豚の白子、北海道のウニその他もろもろ、季節により、日によって市場で厳選された良質な素材が供せられる。
加えて、まちがいなく旬のものをいただけること。
もうひとつ阪川の名物と感じているものがある。目の前の七輪で焼いてくれる焼き物・・・。
***
6時過ぎ、“都をどり”の余韻を体にしみこませて暖簾をくぐった。
私たちの席だけ三つ、カウンターの真中を空けてくれていたが、そのほかはすでに満席。奥の座敷も二階の部屋もすべて予約で塞がっていた。
「大入満員!」、祇園の名のある店は、“都をどり”と連動して今が稼ぎ時、小判がザックザク、一万円札がヒラヒラと暖簾を押し上げて入ってくる。
そう、この季節にこそガンガン稼がなくてはいけません!
いつものお刺身はマグロの中トロ、明石の鯛、イカにウニ、海苔が載っていて、これに巻いて食する。
***
話は急展開して昨日まで読んでいた山本一力の『菜種晴れ』。
房総で生まれた女性主人公が養女にもらわれて江戸に出て、数々の災禍にもめげず力強く生きていくという、ほろりと涙ぐむ物語だ。
なかにこんな文章があって、猛烈に天麩羅が食べたくなった。
<ザルには魚介が乗っている。イカ、エビ、アジ、セイゴがきれいに下ごしらえされていた。
セイゴはスズキの当歳魚で、今の季節の房総では豊漁が続く、いわば旬の魚である。べつに野菜がザルに盛られていた。村の畑で、この朝に摘んだ春菊、根の部分には甘味すら感じるネギ、山の杣人が小屋で育てている肉厚の椎茸。魚介も野菜も、江戸では見ることができないほどに色味が鮮やかでしかも真新しかった。>
<天麩羅のころもは卵と水で小麦粉をざっくりと混ぜただけ、「混ぜるときにダマにならないように、小麦粉をしっかりとふるいにかけておくのがコツ、この手間を惜しんでは美味しい天麩羅はできない」
「コロモが混ざりすぎて粘りが出ると、まずくなる。揚げるちょっと前に手早く拵えるのが一番美味い」>
旬の天麩羅
魚は稚鮎
その、食したいと願っていた春野菜のてんぷらが目の前に並んだ。
タラの芽、ふきのとう、ぜんまい、こごみ、こしあぶら、タケノコ、多少の苦みが春を感じさせる具材が薄い衣をまとってからりと揚げられている。
しゃきっとした食感のよさよ!もっとたくさん食したいのに!
***
皿の上に大ぶりの貝が三枚ならんだ。はて、ナニ? とり貝だ。
天然ものだけあってその脚力や生命力がすごい。こういう表現はないだろうが、まずは脚力というか様子を眺めれば舌力といったほうが理解しやすいその力のこと。大きな貝の二倍ほどの長さの長い舌をいっぱいに伸ばすと、皿の上からはみ出して、貝もろともにごろりと転ぶ。こんなナチュラルなパフォーマンスは見たことがない。
貝の中から小指の爪ほどもない小さなカニが出てきて、とり貝に喰われたはずのこのカニがまだ生きている。
料理人というのは残酷だ。暴れるとり貝を苦もなく解体してしまい、息の根を止める。
食べる客はもっと残酷かもしれない。炙ってくれた生身をぺろりと平らげて、「美味しいね!」 と発するだけ。万物の霊長・人間さまのこの驕り高ぶりよ、業の深さよ!
ほら、
とり貝が舌を出し始めたぞ!
今回の焼き物は丹波の筍、今が旬というより「そろそろ終わりです」とご亭主がいう、最終盤の筍にかろうじて間に合った。
掘り立て、大振りの筍の上部の円にそって等間隔に細かく切れ目を入れる。そこにつけ焼きの要領でしょうゆをたらし、火加減を細かく調えながらの仕事だ。手先は別の調理仕事をしているが、目だけは筍から離さない。焦がしてしまわないようにという目配り、やがてしょうゆ焼きの香りがプーンとただよって、皿の上のタケノコが現れた。
サクサクという食感と、醤油が邪魔しない淡白な味、自分ではこういうわけにはいかない。さすがにプロの仕事。
時計を見たら8時半、次の客の邪魔をしてはいけないので席を立った。
美味礼賛!
午前10時、三条大橋のたもとから鴨川の河原に降りた。振り返って、
「かつての夏、京都人はあの橋の橋脚に床をはってビールや料理を楽しんでいたのですね。すぐ下を流れる川のせせらぎを聞きながらのビヤ・ガーデン、涼しくもあり楽しくもあり、良かったでしょうねえ。ビールが美味しいに決まっている。いい時代だった。そんな光景を虚子などが歌に詠んでいましたね」。
この日は朝から細かい雨が古都を濡らして、わたしたちも迷っていた。
当初の計画では“吉野詣で”、日本一の桜を、その終りの光景を見定めようというものだった。しかし、この雨では・・・天気予報も雨。
雨が止んだ。
「よし、すこし遅くなったけど今から行きましょう、吉野へ!」
***
すぐに四条から京阪電車に乗って丹波橋で近鉄に乗り換え、大和西大寺からは特急を乗り継いで終点の吉野にたどり着いた。
近鉄さんはずいぶんと山深くまで登ってきてくれてありがたい。というのは、途中(スイッチバックが必要なのでは)と思われる斜面もあって、そんな危険を顧みず登ってくるのですから、ほんにご苦労さんです!
吉野の地の神様も大勢の花見客がやってきて、喜んでいいのやら悪いのやら?
時刻はすでに12時をまわっていて、普段なら何か美味しいものをということになるのだが前日の飽食の残滓がまだ胃に残っている。誰も「食事を!」と言い出さない。
そんな隙間にたまたま一台のタクシーが、山に囲まれた狭い吉野駅に滑り込んできた。
すぐに「奥千本まで、いくらぐらいで(how much)行ってもらえますか」と尋ねて、答えの返る前に乗り込んでしまっていた。ほんとうは歩いて登りたいのだが、時間がもったいないというのが正直な気持ち。修験道の聖地で、山伏たちが鍛錬のために急峻を渡渉していることを思うと、自然に頭を垂れてしまうのだが、ここはただ、堪忍、カンニンしてや!
運転手さんは、吉野の土地の方。質問にも、丁寧に答えてくれる。
まず、「上のほうの桜はまだ残っていますか?」
その返事。「いやあ、新聞やテレビでは奥は最盛期と謳っていますが、じつはもう、ほとんど終わっています」と正直である。
すこしがっかりしたものの、それも想定内。
運転手さんはつづけて、
「それと、奥千本には桜の木が多くないんですよ!杉の木が多くて、最近、その杉の木が見物の邪魔になるというんで山道近くの杉は伐採してしまいました。桜が、よお見えるように!」
営業車としては古典的な車で、窓を開けるのも手動、クッションも悪い。でもそんなことを感じさせないように丁寧に七曲りの細道をあがってゆく。
京都では一切降られなかったのに、高度をあげるほどに霧が立ち込めて、その霧が深くなってきた。
それでもタクシーは“中千本”、“上千本”と登ってゆく。そして遂に終点・・・霧が立ち込めてなんにも見えない!
そのまま帰りたくなったが、とりあえず下車するしかない。「運転手さん、ご苦労様!」
さて、ここからさらに道は上につづいている。獣道だ。
道標は『西行庵20分』と案内している。ええい、もう最後まで行くしかない!
歩き始めて、最初は石畳だったのが、すぐに未舗装道路となって、水たまりを避け泥濘を歩く。
(これじゃあまるで登山だ!)と思いつつ、とにかく杉林の中を登ってゆく。
息切れが激しくなるころ、『西行庵』に到着。前が開けて素晴らしい眺め。と思いきや、霧が視界を遮って、やっと見えるのは目の先3メートル。
こんなところに!と思うほどの山奥
平家物語にも登場する西行 元の名を佐藤義清
内裏を守る北面の武士だった
かれはなぜ遁世したのか 興味深い
めげないで、西行さんに心を込めてごあいさつ。「西行さん、修行とはいえ、ようこんな山ん中で凄しはったなぁ」
西行さんも「よう、ここまで来やはったなぁ」と返事をしてくれたのでホッと一息。
なんやかやとあったけれども、吉野の奥千本の、さらに奥の院まで行き着いたという満足感があった。
吉野についての話題を二つ三つあげてみたい。
帰りの下りの参道には土産物屋が軒を接して声をかけている。名産の葛(くず)の作り方を店先で実演、人だかりのできる店があった。なかなかのパフォーマンスでしばしの休息になった。そんな店の一つで黄粉のかかった葛切りをいただいた。これは我慢我慢の昼飯代わり。
葛の製法を実演する若旦那
熱を加えることによって凝固する
葛の10mもある根が地表に露出しているのを見たことがある
吉野の葛・・・谷崎潤一郎に『吉野葛』という小説があった。
<「私」は既に20数年前、高等学校時代の友人津村に誘われて吉野へと出かけた。南朝最後の天皇である後亀山天皇の玄孫である自天王のゆかりの地や静御前がたたいたという鼓を見に行こうとしたのである。
吉野に出かけたとき、「私」は友人の津村からはじめて津村の生い立ちのことを含めた身の上話を聞いた。津村は「私」と一高時代の友人で、「私」は高等学校を卒業するとそのまま大学へ進学したが、津村は一旦大阪の実家に戻るといったきりそのまま学業をよしてしまった。津村は幼い頃両親を亡くしている。父はもとより、母の顔すら記憶になかった。幼いときから大人になるまで津村は母のことを思い続け、その面影を追い求めた。狐が化けた母でも一目母に会いたいと思った。
津村は家にある母の形見をすべて調べ、母のことを必死で探った。その結果わかったのは母が遊女であったことである。母の実家は由緒ある家であったが、明治維新になり商売がうまくいかず、三女であった母は大阪の遊女屋に売られた。遊女になったばかりの十代半ばの母を父となる男が見初め、身請けしたのである。津村は母の実家が大和吉野にあることを突き止め、すぐさま吉野へと向かった。津村は吉野の村を虱つぶしに探し、母の実家を見つけた。その実家には母の実の姉が健在であった。
今回津村が「私」を誘って吉野に来た一番の目的は、母の実家に出入りする農作業の手伝いをする親戚の女の子に求婚するためであった。その女の子は美人ではないけれど、津村には母を偲ばせてくれたのである。
その女の子が現在の津村夫人であった。>
耽美の作家谷崎は、吉野という土地の神秘さ・美しさを醸しながら、母と子の情愛を美しく描いた。名作であり、自然・歴史・人間の情が渾然一体に織り成された芸術作品である。
土産のひとつ 「胃腸はらいた良薬 ダラスケ丸」と
右から書かれた由緒ある看板
神域であることを感じさせる 「薬事法は大丈夫?」
文学の後は文化!
ユネスコに認定された世界遺産は自然遺産ではない。
「紀伊山地の霊場と参詣道」という文化遺産なのだ。ピンと来るのは『大峰山』の、ロープで体を縛って支え、岩の上に乗り出して大声で叫ぶシーン。しかしこれなどはビジュアルとして人口に膾炙しているだけで、山岳修験道からすれば序の口の儀式なのだろう。
役の行者(役小角=えんのおづの)がそのはじめかと思う。この山に登って修行すれば即身成仏(仏になる)を得られる。精神を鍛え思想を体得する。特異な儀礼、宗教的儀式、背景には難解な密教哲学があった。
修験道の総本山
吉野 金峯山寺(きんぷせんじ)の大伽藍
役行者(えんのぎょうじゃ)の名は全国で聞かれるが、そのはじめはここ金峯山にある
実在の人物か否かを知らないが
自然を大事にして、神仏を敬う”農耕民族”日本人の精神文化の原点がここにある
その象徴、または権化としての多くの仏像たちにご挨拶をしてきました
金剛蔵王権現
金峯山寺蔵王堂のご本尊
本来はやさしいお顔なのだが、悪魔を降伏させんがためにこのような憤怒の形相をしていらっしゃる
役行者の創造仏
紀伊山地は、吉野大峰山、高野山、熊野三山と南北に連なる全体をいう。奈良・京都という都に近いこともあって歴史のなかでイポックメイクを刻んできた。
古いところでは“大海人皇子”。
のちに天武天皇となったこの皇子は、兄の天智天皇(中大兄皇子)の、疑惑の矛先をかわすために吉野に逃げた。壬申の乱(672年)前夜の話。
西暦671年10月17日、病に臥していた天智大王が、弟の大海人皇子を病床に招いた。
天智の腹は決まっている。その決意は微動だにせず、後継者はわが子・大友皇子(648〜72)である。
呼び出した天智の側に「大海人皇子の態度いかんでは殺害する計画があった」。
大海人皇子に好意を寄せる蘇我安麻呂の忠告で、大海人はすべてを悟ったうえで天智天皇のそばに侍っている。
大海人は「君に譲位したいが・・」という兄の誘いに乗らない。
「わたしは病気がちです。ここはいったん天智皇后である倭姫王にゆずって、大友王に執政をまかせたらいかがでしょうか」
皇后(大皇)がいったん即位するという発想は時代の常識でもあった。子供の氏族を巻き込んだ、無益な後継戦争を防ぐという意味がある。
「わたしは、本日出家して陛下のために病気の治癒を祈ります」といって、その場(窮地)を脱出する。
10月19日、大海人は直ちに剃髪し、妻の鵜野とともに吉野へ逼塞した。
「虎に翼をつけて放てり!」 と天智の群臣の一人が言った。
***
平安末期、仏教への帰依の心が強かった平清盛も、この道を何度か通って熊野大社に参詣している。
いちどなどは、その隙を狙って反乱の策略を企てられたこともある、“平治の乱”のときであったか?
その後平家の世は去って、源氏が台頭する。
頼朝に追われる義経の悲話にも、吉野は登場する。『都落ち』のはなし。
<従うもの、弁慶法師、伊勢三郎、佐藤忠信、伊豆有綱、堀弥太郎、鈴木重家、亀井六郎、片岡為春のほか草の実党以来の股肱の臣など2百騎に近かった。また御簾のうちに正室の河越殿(百合野)、平大納言の娘(夕花)、そして静御前など白拍子もいたのはいうまでもない。>
さらに琵琶法師は静御前の悲話を語る・・・。
吉野で義経と別れたあと静御前は囚われの身となって鎌倉へ送られた。そして文治2年(1187)4月8日灌仏会の花祭りの日、鶴岡八幡宮の拝殿にて頼朝夫妻ほか得意絶頂の源氏の武者を前に恥を忍んで舞う。
<鼓の名手・工藤祐経が鼓を打ち、畠山重忠が銅拍子をとった。義経へのこみあげる思慕をうちに舞う姿は凄愴であり、かつ気高くもあった。
「よしの山 峰の白雪 踏みわけて 入りし人の あとぞ恋しき」
と謳ったあと
「しづやしづ 賤のをだまき くり返し むかしを今に なすよしもがな」 と歌い舞った。>
幽玄 南朝妙法殿
吉野を語るときもうひとつはずせない歴史上の大事件といえば、武士政権が鎌倉から室町に移行する短い刹那に後醍醐天皇が行った“建武の新政”があり、ここ吉野でも“南朝”の文字が石碑に刻まれていた。そのことは機会があれば、別のときに触れてみようかと思っている。
わたしたちは奥千本から、上・中・下と下ってきて感じた。
「満開の時期は、おそらく“下千本の桜”が一番壮観なのだろうね」。
「これでわかったから、次回は妻と来てみよう!」 友人がポツリとつぶやいた・・・。
(「その2」へつづく)
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