冬の腰越海岸 林立するマンション群
弁慶の
立ち往生
弁慶と都落ち
奥州平泉へ
静との別れ
腰越状をしたためる義経
寺に登る石段と屋根の笹竜胆
七里ガ浜には絶好の波が
昼休みする小舟
腰越の港から見た江ノ島
腰越では江ノ電が路面を走る
腰越界隈の名物に「しらす」がある。
しらすはカタクチイワシやマイワシの幼魚の総称で、「釜あげしらす丼」や「しらすかき揚げ丼」などのメニューで人気がある。
静岡県西部の田舎町で育ったわたしは幼時から「しらす」を食べなれている。取れたてのしらすを釜揚げにしてすぐにいただく「生しらす」は、酒肴として供されれば絶品。現地で取れたての食材を食べるという臨場感がプラスの付加価値を生んで満足度はさらに増す。
春先のシーズンに、海岸に朝漁のしらすが天日干しされる光景は壮観だろう。ところが、この地域では1月1日から3月10日まで禁漁期間になっているため、この光景もみられない。夕刻通りかかった繁華街・小町通の「しらす屋」さんは「うちは舞阪(静岡県最西端の漁港)のしらすを毎日届けてもらっている。」といっていたが、したがって昼の腰越の『しらす料理』は我慢して、なぜかイタリア料理を!ということにあいなった。
<続く> 「稲村ヶ崎」へ
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さて喜んで迎えてくれることを期待した(単純な)義経に対し、旧公卿育ちで嫉妬心の深い政治家頼朝は、考え方が違っていた。勲一等の手柄をたてて帰ってきた義経にとって、それは思いがけないことだから、なんとかして、この兄の怒りをとこうと考えた。しかし、頼朝の怒りは深まるばかりで無視され続ける。そこで義経は、満福寺に逗留し、一通の嘆願文を書いた。頼朝の信望がたいへん厚かった公文書別当の大江広元(広元の四男・季光が毛利家の始祖)に託し、頼朝との間を取りもってくれるよう頼んだ。(「大江広元と毛利氏」へ)
それがこの腰越状であり、その版木が寺の正面に据えられていた。
筆を執るにあたり弁慶が水を汲んだという硯の池、弁慶の腰掛岩、義経手洗いの井戸も残されていた。
しかしこの手紙を預かった大江広元は冷血漢(?)であったか、周囲の意思を慮ったのか、義経の主旨を頼朝に伝えなかったため怒りは解けなかった。傷心と無念の心を抱いて都に帰る義経に腰越の暖かい海は見えなかったに違いない。ほどなく頼朝の追っ手が京に迫る。手柄の横取りをされたわけだから普通の人間なら怒る。怒って怨念の兵を挙げて反抗する。しかしこの弟は兄に手をあげることをしないで、じっと耐えた。
結果、京を追われ、吉野や叡山をさまよい、奥州平泉の藤原氏を頼って流れ落ちていくことになる。そんな悲劇のヒーローを後世の日本人は英雄に仕立て上げた。
江ノ電「腰越駅」のすぐ近くに満福寺はあった。
この寺は源平盛衰を遡ること450年の天平16年(744)、行基菩薩が開山した。侠義と仁徳の高僧・行基さんは全国の村々をまわって道路や水道を開削しながら、この地に現れ、住民の懇願によって病気平癒祈願の一寺を建立した。したがって龍護山満福寺のご本尊は薬師如来である。
その本堂にあげてもらった。
正面に前述の「腰越状」の版木が飾られていて、縮小版の印刷物が売られていた。
右手奥に入るとまず各部屋の天上に48種の鎌倉彫の花々が乱れ咲く。しかしなんといっても目立つのは襖絵で、悲劇の義経を演出する漆画の名場面が次々と展開されている。
もののあわれを誘い、義経の無念を現代に伝える寺でもあった。外に出て本堂の破風を眺めると、瓦に源氏の紋章「笹竜胆」が刻まれていた。
⇒「私見・腰越状と兄弟の確執」 「宇治川の先陣・義経と梶原景時の讒言」
この日は江ノ島から腰越、極楽寺の切通しを経由して長谷まで歩いてみた。腰越という土地がどんなところか、以前から大きな興味があったからである。
なぜ?
・・・今年のNHKの大河ドラマは、古より日本人に大きな感動を与えてきた源九郎判官「義経」。
したがって鎌倉全体に脚光があてられるのは当然だろうが、その一つがここ腰越の「満福寺」になることも確かだろう。義経が切々と訴える「腰越状」なる書面はこの寺で書かれた。結果として腰越状は無視され、これをもって頼朝との兄弟の絆は完全に切れてしまった。その場所がどんなところか自分の目で確かめてみたかったのだ。
一の谷、屋島、壇の浦と平家の息の根を止め、元暦2年(1186)5月、鎌倉近くに戻ってきた九郎判官義経は頼朝との会見を求めたものの足止めされ、兄に会ってもらえない。
後白河法皇の覚えもめでたく、頼朝の許可を得ず恩賞を受けたりしたことから、その勘気に触れた。もっともこの後白河が(おそれながら)稀代の曲者で、兄弟喧嘩をさせて双方の力を削ぐために権謀術数の限りを尽くす。
平家が隆盛を極めたこの十数年でも、平家と比叡山を戦わせる策略を弄したり、鹿ケ谷会議で平家転覆の密議を主宰したりと、生き残りのためにあらゆる手を尽くしてきた。頼朝が揶揄して名づけた「日本一の大天狗」ということばはむしろ格好よすぎるが、このかたのために京都の貴族が「ずる賢いイメージ」に固まってしまったという思いは否めない。
満福寺本堂