南信州の旅
新野から天空の里へ


(1) 新野へ

三河の険阻な山道をようやく潜り抜けて峠を越えると、ぱっと明るく急に開けた盆地、今までの深い森の世界とはまったく異なった山間の集落に出た。

新野峠(にいのとうげ)を越えたのはちょうど正午ごろだったろうか。

下り道には緑多い林があって、辻堂と二・三の民家が見えてきた。木の橋、小さな田、軽トラック、寺の藪、その先に意外と大きな新野の町並みがひろがっている。

村人は普通に生活を営んでいるが、こちら側からすると閉鎖された異界を連想してしまう。

阿南町新野は信州の南端、愛知県に隣り合い、静岡県とは南アルプス・赤石山脈を境界線として接する山里だ。

日本の山間僻地を旅していると、こういう村里に時として出くわす。

古くより街道が縦横に通い、交易による人や物、文化の流入が盛んな場所、たとえば岩手県の遠野はいい例だろう。人馬が行き交い、周辺の村々に伝承された物語が集まってきて、柳田國男はそれを『遠野物語』にまとめた。

***

バブルの頃からずっと、“新野の盆踊り”を一度は見ておきたいと思っていた。

そして今年ひょんなことからその機会を見つけた・・・東海道から天竜川をさかのぼるという姪や甥の計画を耳にしたのがその発端だ。

「わたしを同乗させてくれ!とにかく新野におろしてくれたら、それでいいから!」

そして宿も確保した。

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山中の道の駅 豊根(とよね)

谷や峰々、急斜面の多い森といった山深い溪谷を眺めてたどり着くと、この地に何故多彩な芸能や祭りが花開いたのかと疑問が生じる。

その答えは三本の街道にある。

すなわち三河や遠州と接している立地条件が、いち早く奈良や京都、伊勢などの文化を吸収して、北部長野県とは別の文化圏にしたてあげたということ。
 
 豊橋・岡崎に通じる三州街道(国道153号)、阿南町を南北に貫く遠州街道(国道151号=通称「祭り街道」)、天竜川左岸をくだる秋葉街道で、この三本の街道が東海道方面から伊那谷への文化流入の役割を果たしてきた。

必需品の塩は「塩の道」を作り、やがて経済道路となり、修験者や山伏、僧侶、芸能集団などが行き交う宗教・文化の道となった・・・。

古い祭りや懐かしい風景・生活習慣は、阿南町を中心に南信州・奥三河・遠州周辺の町や村にも散見できる。そして特筆すべきが、「祭り街道」と呼ばれている遠州街道だろう!

この一帯は、柳田や折口信夫など多くの民俗学者から、「日本の原型としての文化や、ふるさとらしい風景が残る地域」として注目されてきた。


(2) お嬢さん

長野県最南端の阿南町は北から富草(とみくさ)、大下条(おおしもじょう)、和合(わごう)、新野(にいの)といった旧村が合併して成立した。なかで新野は、北からも南からも、狭くて険しいつづら折りの山道を越えないと入れない。昔の旅人は苦労しただろうが、この高原に入るとなんだかほっとする。

都会の雑踏からまったく解放されて、ほんものの“非日常”を実感するからだろう。



田舎道を流れる沢の水もきれいだ



夏の花も元気イッパイ

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新野の盆踊りは「盆踊りの原形」といわれ、@精霊迎えの行事、A盆踊り、B神送りの行事を含めた、庶民信仰の姿を大切に継承している。平成10年重要無形民俗文化財に指定された。

815日ここに宿を取れたのはまったくの幸運だった。

というより、こういう田舎に旅館があるのだろうかというところから旅は始まったのだから。

調べてみると数件の宿があった。すぐに電話を入れたのは数日前のこと、そうすると最後の一軒で、「一部屋だけ空いています。お盆で少し高いのですけど・・・」という返事をもらえたから、その電話で即予約をした。

***

旅館に到着したのは午後1時過ぎ。

姪と甥は、ここで解放してあげる。かれらにはかれらの計画がある。

チェックインは3時と聞いていたから荷物だけは預けさせてもらって・・・玄関から「ごめんください」と声をかけた。

しばらくして「はーい!」と返事があったが、ん!一瞬自分の目を疑ったが、そこに現れたのは、目鼻立ちの整った、とてもすてきなお嬢さん。話のやり取りから、純な、気立てのよさも感じられた。

(都会にはこういうお嬢さんがすっかりいなくなった。この宿の娘さんだろうか)

「もう、お部屋はきれいになっていますので、どうぞおあがりください」
 
「あのー、こちらのお嬢さんですか?」 呆然として、初対面のうら若き女性に不躾な質問をしてしまった。ダメオヤジ!

「あっ、ええ、はい」
 
(このお嬢さんも盆踊りに参加するのだろうか) 相変わらず他愛のないことを考えている。

***

事前の調べでは周囲に温泉がたくさんある。

“祭り街道”は“温泉街道”でもある。

盆踊りは夜の9時を過ぎないと始まらないと聞いているから、部屋で一人の時間つぶしではおもしろくない。

近くの温泉にでもつかって・・・と思ったが、「歩いたら2時間ぐらいはかかりますよ」。

昼間の暑さは東京とあまり変わらない・・・なかを、そんなに歩いたら温泉どころではなくなる。じゃあぶらりと街を歩いてみようか・・・。

   

新野では名のある老舗菓子屋「つるや」


(3) 千石平

すぐ近くに大きな『道の駅・信州新野千石平』があり、他県ナンバーの観光客で盛り上がりを見せていた。

興味津々、こういう場所には目がない。時間つぶしにはもってこいだ。

もちろん目に付いたのは食べ物ばかり。



“あまご焼”

無料で試食できる国産ほんものの“焼き栗”、街道筋でよく目にする“五平餅”、珍しい川魚で“あまご焼き”、酒の肴に“金山寺もろみ”、山芋などにできる球根のような小さくて丸いむかごで作る“むかご饅頭”、とうもろこしに薩摩芋、蕎麦はこの地方の定番、保存食としての漬物も種類が多くて豊富だ。

寒天や麩なども食材としていいが、自然のままの“とうもろこしから作ったらくがん”が珍しくて買った。らくがんはひもじかった子どもの頃を思い出す。

広い駐車場の入口に巨大なモニュメントが屹立している。

『幸法(さいほう)』と記述されている。

114日の『新野雪祭り』に登場する最も位の高い神様のようだ。盆踊りとの関連もとうぜんあるが、古くから伝わる一種の呪術信仰のあらわれでもあるのだろう。

五穀豊穣を祈願する民衆の代表というところだろうか。



雪祭りに登場する幸法(さいほう)

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風呂で汗を流し、夕食は大広間でいただいた。独り者は案の定、わたしだけ。

したがって周りの方に声をかけざるを得ない。

隣の初老の男女三人(奥方とその姉らしい)のペアは、名古屋から見えた。

「わたしはここの出身なんですよ。今日は同窓会があって、これから集まっていっぱいやるんです」 かれはビールだけあおって、あわただしく出て行った。

お目当ては9時過ぎから始まるというので、ここで一眠りするしかない・・・・・。



夕食は座敷で同宿のみなさんと



こちらは牛肉と野菜のバター焼・・・



そしてやはり桜肉の刺身

盆踊りといえば、太鼓や笛などの楽器、賑やかな唄に合わせた踊りをイメージするが、新野の盆踊りは少しちがう。三味線、笛、太鼓といった鳴り物を一切使わないのだ。

その雰囲気は独特で、静かである。

スローである。

音頭台(やぐら)の上にいる56人の音頭取りの中の皮切りが最初の一句を始める(これを『音頭だし』という)と、それに呼応するかたちで踊り手の『返し』があり、踊りは始まる。そして朝まで長い時間を唄い、踊るのである。

まさにダンス・ダンス・ダンスの世界で、7つある踊り(扇子を持つのが、『音頭』、『おさま甚句』、『すくいさ』、『おやま』。手踊りが、『高い山』、『十六』、『能登)を交互に交えながら、音頭取りと踊り子の歌の間合いやかけ合いで進行していく。

皮切りの声ひとつが、やがて2000人に及ぶ壮観な団円となって続き、「さあさ皆様おひらきぁ、いかが、明日の仕事の邪魔になる」と歌って終わるのである。



夕刻を迎えると家々の軒先で迎え火がたかれる
都会ではほとんど見られなくなった!

いよいよ盆踊りが始まる


(4) 盆踊り

ようやくお日様が落ち、家々では夕餉が終わり、ほろ酔い加減の踊り手たちがそれぞれのいでたちでやぐらの周りに集まってくる。

そろそろ新野の盆踊りが始まるようだ。

時刻は9時半、わたしも腰をあげていよいよホンモノにご対面だ。

音頭取りが“音頭だし”を始めた。曲目は『すくいさ』。繰り返すが、鳴り物は使わないから人の歌声だけが踊りをリードする。

「ひだるけりゃこそ すくいさ来たに
 
 たんとたもれや ひとすくい」

踊り子たちが“返し”を歌う。

「たもれやたんと たんとたもれや ひとすくい」



櫓の上で“音頭取り”が歌い始めた

***

ベテランらしき踊り手に声をかけてみた。

「あのやぐらの上の音頭出しはどなたがやっているんですか?」

「交代でやっています。わたしも自分の番がきたら登ります」

この盆踊りも継承が上手くいかないで、危機があったようだ。

「そのとき青年団がまとまって決め事をきちんとした。学校にもお願いして、いまでは年に数回学校の授業の中で練習してもらっている。だから今日も、そのなかからやる気のある子が選抜されて、やぐらの上に上がって“音頭出し”をやっている」

こうやって伝統は受け継がれている。

「浴衣を見てもらえばわかるが、指導者でしかこの浴衣は着られないのですよ」

***

坊さんのお経にも、上手・下手がある。

この盆踊りにも顕著で、自信を持って朗々と歌い上げる方がいらっしゃる。ふと気がつくと、その方を、テープレコーダーを持った熟年の男性がピタリとマークしている。

芸はその人がいなくなったら消えてしまう。

上手の芸は将来に残しておきたい。そういった意図があったかどうか知らないが、この方の謡いは山里の暗がりに響き渡った。

踊りはすごく簡単だ、と思った。しかし、

「簡単に思うかもしれないけど、一人前に踊れるまでに10年はかかるでしょう」 とおっしゃる。

その通りかもしれない。眺めているだけでも、上手・下手がはっきりしている。しかしこの踊りはそれを問わない。観光客も含めてみんなが輪に加わって欲しい。ゆっくり、じっくり踊って欲しい!

「この踊りがゆったりしているのは、朝まで踊らなきゃならないからですよ」

酒が入って、人は時間とともに踊りに没入していく。

神の世界に入っていく・・・。


(5) 能登

輪踊りと行列踊りの両方の形を備えるという点では『越中八尾 おわら風の盆』に似ている。

そこに仏教伝来以前の純神道の形もうかがえるというが、神仏混合の独自の盆踊りであり、神迎え、神送りが1年の区切りという考え方に基づいている。

「踊りの種類は7種類」と書いたが、大正年間まではその倍ほどもあったようだ。

柳田國男の指導によって、新野の特徴を残す踊りのみを残すことにしたという。



老若男女が踊る 櫓の上に中学生の女性徒も

***

盆踊りは毎年8141516日の3日間を踊り明かす。3日目の最後とは17日の朝のことだが、そこでこの祭りはクライマックスを迎える。

「神送りの神事」である。

この場面でしか歌わない踊りが「能登」。



扇子に『能登』の歌詞が

音頭取り 「能登へ能登へと 木草もなびく 能登は木草の本元だ」

踊り手 「本元だ 能登は木草の本元だ」

音頭取り 「能登の鯖売りゃ いつ京へ上る  あさっちゃ 祇園のあとやさき」

踊り手 「あとやさき あさっちゃ 祇園のあとやさき」

能登は、盆のあいだだけ迎えた先祖様に、「いつまでも家にいて欲しい」という村人の願いがこめられている。

東の空が白けはじめる頃から踊りの輪が広がり、熱気をはらむ。家々に飾られた切子燈籠が外され、いよいよお別れのときが近づくと、踊りが「能登」に変わる。

先祖の霊は白装束の行者によってふたたびあの世へと導かれる。

この行列が瑞光院に入ってしまうと盆は終わってしまうので、村人たちはそれを阻止しようと、小さな輪踊りをつくって行く手を阻む。行列の先回りをして『能登』を踊る。要するにここで押し競饅頭をするというわけである。

したがって、「この場面が一番盛り上がります。人も出てきます。ようするにクライマックスというわけです」。宿のお嬢さんはそう教えてくれた。

***

盆踊りといえば、昔から若い男女の出会いの場でもあった。地方に伝承される盆踊り歌や民謡には、そういう含みのある歌詞が多く含まれている。新野にもそれがあった。

♪♪娘島田に嫁勝山に 姑ババさはイボ曲げに

娘島田に蝶々が止まる 止まるはずだよ花じゃもの

娘可愛や十二や三で 一夜おいでと袖を引く

娘初だかした事ぁないか 合わせ羽織の洗濯を

娘したがるその親様は させてみたがる針仕事

サンサ鯖寿司押さえて開く 娘島田は寝て開く・・・・・♪♪

***

12時を過ぎて宿にもどったが、この一晩はほとんど眠れなかった。

床の中に夜を徹して盆歌が流れ聞こえてきた。

寝返りを打ったら別の耳に、かすかながらも、あのゆったりとした仏の歌が響いてくるのだ。むしろそれを心地よく聞いていたのかもしれない。

空が白く明けて時計を見たら5時。窓を開け放つと歌声は朝の静けさを引き裂いて、より強く響きわたっている。

タオルで顔を拭い、旅籠の下駄をつっかけて通りに出た。

輪の大きさが縮んでも相変わらず昨夜と同じ人たちが同じ姿で踊っている・・・。

「♪♪ さあさ皆様お開きゃいかが 明日の仕事の邪魔になる
 
あまり面白いにもひとつ返せ 明日の仕事の邪魔になる ♪♪」



夜が明けてまだ踊る人
「明日の仕事の邪魔になる」 といわれても・・・・・

***

盆の踊りが終わると秋がやってくる・・・。


(6) 温田から平岡へ

この旅の目的は新野の盆踊りと天空の里「下栗」にあった。

しかし新野からの足がない。宿のお嬢さんに聞いてみたら、「飯田線の温田(ぬくた)駅までバスが出ていますから、朝早いバスでしたら、平岡(これも飯田線)駅を経由してそちら方面に行けると思います」。

翌朝、新野を729分発の町営小型バスに乗った。

バスは午前中に3本のみ、午後も遅い時間にしかないからこれをキャッチしないとたいへんなことになる。車のありがたさをしみじみと感じるが、(徒歩の旅の)おかげで「のんびり行こう!」の気分は十二分に味わえる。時間だけはたっぷりあるのだから。

もうひとつ一人旅のありがたさがあった。
 
マイペース、すなわち自分ひとりで何でも決められる。二人いたら、たとえそれが古女房であっても意見の分かれるときがある。そういった気遣いの要らない旅は至極快適だ。

自分で“自分の旅”を作っているという実感がある!



穏やかな里山から山道に入る

***

バスは主街道を走れば最寄駅温田(ぬくた)に20分もあれば着いてしまうのだが、途中の集落でこまめに客(といってもほとんどいないが)を拾いながらゆっくりと走る。

街道から100m以上も下った谷底に、(こんなところに人が?) と思わせる集落があった。名前がいい。“和合”という。

平家の落人でもこのじめじめした底の土地は避けるのではないか、まさしく人々は和合しないと生きていけないのでは、と想像したくなるような土地だ。

この和合は昔から念仏踊りで有名だ。というより村人は、念仏踊りを生きがいにしてきた。
 
新野でも和合でも、日本中どの農村においても、日々厳しい労働に追われる生活の中で、この日だけは晴れて仕事を休むことができたから。厳しさの対価として踊りの楽しさを求めた。

和合の念仏踊りも新野と同じ8月のお盆13日〜16日に行われる。曲目は「すくいさ」「十六」「おんたけ」と、下伊那地方にのみ根付いた独特のもので、新野と違って太鼓と鉦(かね)・笛がはいる。

踊りの由来について、阿南町のホームページでは次のように紹介している。

<和合の開祖とされる宮下家15代、宮下金吾善衡(後の雷公五郎助)が、およそ270年前、江戸へ免訴に行った帰りに、川中島から伝えたとされています。踊りの形は遠州の大念仏とよく似ていることから、宮下家の出身地である遠州から伝えられたとも考えられます。>

***



温田(ぬくた)駅
眼前に広がる天竜川の光景

町営バスはあくまで安全運転である。後から車が迫れば止まって先に行かせる。そうやって、高低差のある曲がりくねった山道をのんびりと進む。1時間かけて温田駅に着いた。天竜川が駅のそばを流れている。大河の中流域の姿を大きく見せていた。

温田駅では待ち時間もなく、すぐに豊橋方面行きの電車が入ってきたので、飛び乗った。

(これは幸先がいい!きっと今日の旅はうまくいく)

温田から平岡までは一駅。トンネルの多い崖線を電車は恐々と走っているが、天竜川がきれい だ・・・・。


(7) 遠山郷

比較的立派な駅舎をもつ平岡で下車した。時刻は840分とまだ十分に早い。

ところが目的の遠山郷・和田に向かうバスは1050分までない。ここで2時間以上待たねばならない。さらに遠山郷に着いても、「天空の里・下栗」への公共交通機関もない。
 
ないない尽くしでさあどうする?

はじめから遠山郷・和田から下栗へはタクシーを拾って行こう、と考えていた。

(ならばここから!)、と躊躇せず平岡のタクシー会社に?交渉した。

1万円で何とかならないか!」 

返事は、「いやあ、協定していますので、あくまでメーターなんですよ」
 
「だったら、いくらかかるの?」

「うーーーん・・・」 「悩むことないから、すぐに来てちょうだい!」 即決した。

どうせタクシーを使うなら、一刻も早いほうがよい。

***

災いが転じて福、地元の女性タクシードライバーの方が丁寧なガイド役になってくれた。

そば処“信玄”は平岡から遠山川に沿って登る秋葉街道沿いにあった。

信玄の名前で思い起こすのは、武田軍がこの街道を伝ってなんども駿遠(現在の静岡県)を急襲したことだ。

「病に冒された信玄がこのあたりで休養した」
 
という地元の方の話が本当なら、元亀4(1573)三河野田城の攻撃のあと、退却を余儀なくされたときの話だろうか。

諸説あるが、信玄はその年の413日長野県下伊那郡のどこかで亡くなっている・・・。

 「20年ほど昔、竹下登がふるさと創生のお金をばら撒いたときがありましたが、そのときに南信濃村の村長さんが観光誘致のために信玄を持ち出したり温泉を掘ったりして、街道沿いのイメージ作りを始めました・・・」



そば処「信玄」
屋根を見てほしい
蕎麦屋にしては豪壮 ふるさと創生の恩恵か

***

川沿いの街道をいい加減走って、上村・和田の集落に入った。



秋葉街道の宿場町 遠山郷和田
表街道には『かぐらの湯』ができた

「このあたりは昔からの秋葉街道の宿場町で、江戸時代の旧家がそのまま残っていて、テレビの取材などもたくさん入っています」
 
この『秋葉街道・秋葉山』はポピュラーなところでは電気の町『秋葉原』にその名を残しているが、往時修験道のメッカとして繁栄した。山自体は赤石山脈の南端、現在は浜松市に編入された春野町にある・・・。



遠州・秋葉山 三尺坊

ベテランだけあって山道の運転が上手い。メリハリが利いていて安心して乗っていられる。カーブの角度や狭くなる場所をよく知っているからだろうが、対向車に対して急ブレーキをかけるようなことはひとつもなかった。

「上村は平成の大合併で飯田市になりましたが、そのために離村が進んでいるようです。固定資産税があがったり水道代があがったり、いいことを言う人は少ないですね」

合併の功罪は10年後を待つしかないと思うが。

***

「最近はよく、熊や鹿を見かけるようになった」 という。

人間が彼らの生きるテリトリーにまで侵入して、彼らの食べものを奪った。実のなる木を伐採して樹林を破壊した。

夜活動する熊は、登山者にとって大敵だ。ここは南アルプスへの入山口になっていて毎年著名なパーティも入山する。「車の中にいれば怖くないが、熊は早く走るし、木の上にも登るし、登山の皆さんは困ると思います」。

鹿による被害も大きいという。

高山植物が芽のうちに食べられてしまい深刻な問題になっているとか、鹿害は全国的な問題だ。鹿を生かすか殺すか・・・動物愛護団体とこれからも論争は続くだろう。

“鹿の道”という斜面があって、山の上から徒党を組んでドドっと下りてくる。その光景は壮観だそうだが、車を運転する側にとっては危険極まりない。

「出没する時期や時間、場所もわかっているので、注意して運転している」 そうだ。

頭のいい猿による落石のいたずらにも手を焼いているという。

「冬の雪はいつ降りだすかわからないし、雨や風による倒木が多い。車の中には季節を問わず ノコギリ・ナタ・スコップをつんでいます」。

(さすがに山の民だなあ!) 感心するとともに安心もした。

さあ、山が深くなってきた。



山が深くなってきた
同時に雲が


こういう光景を目にすると、カール・ブッセが頭に浮かぶ


(8) いよいよ下栗

昔から山奥の村は旅人にとって重要であった。
 
山中での野宿はいやだから、峠は必死になって越える。越えたところにある山村で一宿したからである。

しかし人の知恵は時代の推移の中で、切通しやトンネルを開削して山の姿を変えてしまい、挙句の果てに汽車や電車は山道を平地にしてしまった。そういう姿が全国にある。

そうなるとその村は不用になる。

下栗に電車は通らなかったが、そういう時代を潜り抜けてきた。それでもその姿を昔のままに残してくれた・・・。



下栗の里に入った ここから七曲りをグイグイと上っていく

***

車は最大傾斜度38度といわれる坂道、しかも七曲り八曲りのヘアピンカーブを慎重に上っていった。

『下栗の里』は標高1000mの天空にある。谷底に向かう斜面に耕地や民家が点在している。

700人の住民が家を立て、畑を耕し、急斜面にへばりつくように暮らしている。

「東南側斜面を向いて生活しているからよく日があたり、お芋やキャベツなどの野菜が、他よりもおいしい」

全体を俯瞰すると、ずり落ちそうな斜面でよく生活できるなあと思うのだが、家は平らに整地された場所に立てられているから、心配は杞憂に過ぎない。

それより何より、朝晩の光景がすばらしいだろうと想像する。

“天空の里”は、“天国のような里”と解釈したい。

***

景観の美しさ・自然と調和した暮らしが、オーストリア・チロル地方に似ていることから「日本のチロル」とも呼ばれている。

また『にほんの里百選』にも選ばれた。

難は、誰もが行ってみたいけれども、すぐにはいけない遠いところ。

それゆえに価値が増す。

人里離れた山の上だが、もちろん普通に文化の恩恵を受けている。「スクールバスが通っているんですよ」 と。

北海道の美瑛辺りを旅したときにも感じたことだが、旅人はその美しさに感動するだけだが、農業者の皆さんにとってはそこが仕事場である。旅人が車を止めて交通の邪魔になってはいけないし、車で運んできた生活ゴミで汚して帰ってはいけない。ここでも同じことが言える・・・。



標高1000mの駐車場
高原ロッジと蕎麦屋がある
ここに車を置いてビューポイントまで登る
そして・・・

***

“高原ロッジ下栗”の立つ最上部に車を置いてビューポイントへ向かった。

急な斜面に山道を整えてロープを張っている。歩きやすいから特別な装備は何も要らない。それでも、「この道がなかった時代には谷に落ちるという事故もあった」ようだ。

少しでもいい景色を撮ろうという欲求ゆえの事故というが、その気持ちはよく理解できる。

下界からここまであがってきたのだから・・・・・。

20分ほど登っただろうか、汗を一拭きしていると右側の斜面が急に開けた。

あっけないほど簡単に絶景が目の前に現れた。180度の展望が口を大きく開けている。

(ここかぁ!) 

里の美しさは個ではなく、全体としてのまとまりである。そしてもっとも大事なことは、見てくれではなく、村人の暮らし方や生き方という内面である。これだけ静かで落ち着いた光景は、それだけで人々の暮らしのありようがわかる。

まったく美しい!



言葉は何もいらない

うさぎ 追いし かの山
 小鮒 釣りし かの川
夢は今もめぐりて 
忘れがたき ふるさと


(9) 下栗の大鶴義丹

俳優の大鶴義丹が『田舎に泊まろう』で、この地の、トキ子婆(ばば)の家を訪ねたことがあった。



38度の斜面に耕作

山里に住んで十年一日のように暮らす人々は純朴だ。都会の、しかも芸能界に毒されてきた(失礼!)俳優とは感性が全く違う。普通に考えれば、二つの魂が純粋に触れ合うとはとても思えないが、そのギャップをどう埋めるかが番組制作者のいち押しの部分だろう。

非現実的な作為があって2人は和む。あたかも魂が触れ合ったがごとく。すくなくともトキ子婆のほうは裸になっている。素のままの姿で虚勢も演出もない。

俳優のほうが婆の純粋さに合わせねばならない。それは本業なのだから、あるいは仕事だから、問題はない。あとはどう合わせるかという巧拙にかかる。下手をすると俳優のイメージを下落させ、あるいは人格を否定させることになりかねない。テレビの前の視聴者に。

義丹さんは上手くやった、そう思う。

魂は触れ合ったのか?いや、このシチュエーションだったら触れ合うだろう。だからというわけではないが、義丹氏は再訪している・・・。たしかに、素のままの人間波長があったようである。

あるいはこの土地の空気と景色に惚れてしまったのかもしれない。
 (義丹さんの『田舎に止まろう』の様子)



義丹さんの『田舎に泊まろう』

『二度芋』命名の由来は
一度食べたらもう一度食べたくなるから!

***

「この畑を耕して、作物を収穫するのも、大変な苦労ですよね」。

それが日常だから、生まれたときからの生業だから苦にもならない。むしろ世の中には慣れ親しんだ場所を強引に奪われて生きがいをなくす人がたくさんいるのだから、ここでのんびりと一人暮らしをしたほうがよほど幸せだ。

俳優はお茶畑に肥料を蒔くお手伝いをした。慣れないので滑り落ちそうになった。

自分の畑にお茶が植えてあり、トキ子婆ン家で飲むお茶も婆の手作りで、美味しそうだった。




志を 果たして
いつの日にか 帰らん

山はあおきふるさと
水は清き ふるさと

***

歌手のさだまさしさんもここを訪れ、絶賛して「天空の村に月が降る」という曲を作ったようだ。わたしは知らないが。

芸術に心得のあるみなさんはだれも、天空の里で創作意欲を刺激されるのでしょうね。なにか作らずにいられないという創造心。

わたしは手短かにデジカメに収めただけでした。絵心、歌心のない証拠でしょうか。

ただ思い出すのはふるさとのこと・・・。

いかににいます 父母 つつが無しや 友垣(ともがき)

雨に風につけても 思い出ずる ふるさと ♪

と歌っても、すでに父母はないが・・・。


(10) 下栗の宮崎駿

宮崎駿(みやざきはやお)がお忍びでこの里の民宿『みやした』に泊まったことがあるそうな。

こういった話は「内緒にしておいてくれ!」イコール「みんなに宣伝しておきます」となる。人の口に戸締りすることはたいへんむずかしい。

実際、「民宿のお手伝いさんが、下の里に買い物に出たことからすぐに広まった」。だれもが我がことのように自慢げに語る。
 
それはそうでしょう。話題の少ない山里のことだもの。

それを聞いてこの山上の細道を車がぞろぞろとやってきたらにっちもさっちも行かなくなる。アニメ渋滞はこの山里の死活問題になるが、そういうことは起こらなかったようだ。

でも秋の紅葉のシーズンなどはそれに近い状況に陥るのではないかと心配だ。

ひとこと、週末は避けるべきですよ!!

雪の来る前の、怜悧に澄んだ秋の日、これは紅葉が映える、それもウイークデーが一番のお勧めです。

***



冬の下栗の里



夏の下栗の里

叶わぬことだが、この地にとどまって春夏秋冬を見届けたいという欲望がある。

春の木々草花の芽生え、夏の緑豊かな茂み、秋の彩り鮮やかな装い、冬の純白な清浄・・・自然の流転するさまを眺めていたら、何かわかることがあるかもしれない。

哲学的妄想とでもいえようか。

人間の営みは自然の営みには勝てない。

工業化社会の先端にいた原発が、その末路を迎えようとしている。人間が自ら導いた誤りを正すのは人間の責任だ。

元にもどす・・・自然の営みの源にもどす。そうすれば自然は人間に、やさしいお返しをしてくれる。

この地の人々はいつも自然と優しく接してきた。だからその恵みを、身体や心の全てに享受してきた。

***

ここでは宮崎と下栗をめぐる二つの話・・・。

宮崎駿に大ヒット作品『千と千尋の神隠し』があり、アカデミー賞をもらっている。

神々が湯治に訪れるというこのアイディアにはモデルとなった祭りがある。

それがこのあたりに伝わる“霜月祭”(上村遠山郷での呼び名)で、宮崎駿はテレビでこの祭りの存在を知って強い影響を受けたのだそうだ。

霜月祭りは「神様にお湯を差し上げる」祭りであるといわれる。あえて学問的に言うなら、「湯を浴びて穢れを祓い、清らかな魂を得て生まれ変わる」祭りだ。



煮たぎる湯を浴びて穢れを祓う霜月祭

これは冬の行事


(11) 霜月祭

もう少し詳しく霜月祭りのことに触れてみましょう。

遠山郷和田にある『かぐらの湯』では次のように解説していた。

<遠山の霜月祭りは、鎌倉・鶴岡八幡宮の荘園儀礼として鎌倉時代に伝わった湯立て神楽の祭。すなわち太陽の力が衰え、そしてふたたびよみがえる旧暦の霜月に、神々に聖なる湯を捧げて、万物の命の再生を祈る。

遠山郷の村内9つの神社では夕刻から夜半にかけて、神楽歌をうたいながら湯立てと舞を繰り返し、その後、村の神々が面(おもて)となって現れる。>

もともと、<伊勢神宮の内宮の湯立の系統をひく> ということなら、冒頭にあげた東海道筋から街道を通じてもたらされたひとつの古典的習慣であり文化だろう。

写真の、面をつけた像は『水の王』であり、『しずめ様』と呼ばれる。煮えたぎる湯を手ではねかけて、人々の命を清めてくれる。

そしてここ下栗でも湯立て神楽は行われる・・・。

***

さて、「千と千尋の神隠し」を観た方なら、あの大騒ぎの祭りの迫力を思い起こすことができるでしょう。

舞台となる不思議の町に建つ油屋という湯治場には、人間たちだけでなく、人間たちの信仰する八百万の神々が訪れる。

神も疲れて湯治にやって来るという人間くささが面白いが、神も元はといえば人間だ。

人間あっての神様だ。

この地にはいつも神と人間が密接に結びついている。

田舎の伝承話からヒントを得ることの多い宮崎氏は霜月祭りを見て、『千と千尋の神隠し』の湯屋の祭りシーンを再現した。



千と千尋の神隠し
舞台となった油屋

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その後宮崎氏はしばらくしてふたたび下栗の里を訪れた。そのときの短編作品「ちゅうずもう」が昨年(20101月、「三鷹の森ジブリ美術館」で上映されたそうである。

そのパンフレットのなかで宮崎さんが自ら語っている。

「長野の南の山の中に下栗という里があって、急な山肌に今も村があります。とても景色の良い所で、そこの宿で出る小さなジャガイモはとってもおいしいし、しいたけは空とぶ円盤のように肉が厚くて、これも見事です。昔話の『ねずみのすもう』を下栗のような山の里を舞台にしてアニメーションにしたら、きっとおもしろくなる!!」と、構想の一端を綴っている。

物語の中では下栗特有の急傾斜の畑や、サンマ入りのソバ団子、豆腐の味噌田楽など下栗独特の食べ物が登場する。山里に住むジイとバアが、我が家に住むねずみに、こうしたごちそうをふるまって、すもうに勝たせようとする、なんともほほえましいストーリーだ。


(12) 終章

この地には美味しい食べ物もたくさんある。



そばと五平餅のランチ

もう一度食べたくなる『二度芋』しかり。宮崎駿の言う『円盤のような椎茸』しかり。フライに揚げても味噌で焼いても美味しい『ていざなす』という大きな茄子もある。

忘れていけないのが『駒ヶ根の丸富』(2011112日)で紹介した下栗の蕎麦だ。

生活習慣病を鎮めるこれらの食物は、その美味しさと栄養によって健康を保ち、人々を長生きさせる秘訣なのだろう・・・。

たくさん購入して持ち帰りたかったのだが、輸送手段がなく断念、次の機会にゆずる・・・。



”ていざなす”
大人の手と比べて、大きさがわかる

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神様と人間との話。

田遊びとか田楽には男と女が、見物客の面前で派手に抱き合い、かさなりあうというような、かなりエロチックな演出が堂々と行われる。

そういう性行為を実演するのも、見物人に見せているのではなく本当の見物人は、天の上にいる精霊たちである。ご先祖様が神化した神々である。

新野の冬の雪祭りでも、「君の舞」という優美な名前のついた芸能があって、中身はじいさんとばあさんが、新しい菰(こも)を敷いてその上で重なり合うというものだ。

周りを取り囲む子どもたちが訳もわからず手を打って囃したてる・・・。

爺と婆の行為は、じつは神と巫女との神聖な結婚だそうで、登場人物はみな面をつけている。

素顔でやっては、「こっぱずかしい!」のだ。

遠山郷の霜月祭りも同じようなもの。

湯を煮えたぎらせた釜の周りを神や農民などを模した面(オモテ)と呼ばれる仮面をつけて舞い踊り、釜湯かけを行う。

800年の伝統は重い。

釜湯かけは「神様に湯を浴びていただきその穢れを祓い、清らかな魂を得て生まれ変わっていただく」という意図だ。

***



奥に鎮座する神は“天伯”という
大きな目で地上を凝視して昔から村人や社を守ってきた

こういう神を持たない都会人は
自分で自分の身を守るしかない・・・

都会人は、神を意識することがほとんどない。

しかし日のもとの国には昔から神・精霊が住んでいて、定期的な交流をおこなってきた。

旅に出ると、どの土地でもそういう因習とよく遭遇する。

自身の日ごろの無信心を反省する機会となり、気持ちがなんとなく落ち着く。

日本のご先祖様は“盆”と春秋の“彼岸”には家にもどってくる。

帰って来やすいように此岸(しがん=現世)に生きる人たちはお迎えの支度をする。

だって、やがては自分たちも向こう岸に旅立つわけだから、いい加減にはできないのだ。それにしても先祖たちは神となっても、いつも山里の天の上に漂っているように感ぜられる。往生際が悪いというのか、この故郷がそんなによかったのか。

それでも、かれらが現世を生きるわたしたちの幸せをひそかに見守ってくれていると思えば、ありがたいことではないか。

***

帰り道、和田の天然温泉『かぐらの湯』まで送ってもらった。
 
良質の温泉につかって、長旅の疲れをきれいサッパリと洗い流させてもらった。

長野県の最南端で神々と出会う旅、けっこうでした!

(完 2011年8月31日)


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