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三千院門跡(三千院)
  • ところ 京都府京都市左京区大原来迎院町540
  • 交 通 JR京都駅→京都バス大原行きで62分、終点下車、徒歩10分。または京阪電気鉄道三条駅・京都市営地下鉄京阪三条駅→京都バス大原行きで40分、終点下車、徒歩10分
  • 開 園 8時30分〜17時(12〜2月は〜16時30分)
  • 入場料 600円
  • 問合せ 075-744-2531
    【唐の太宗】唐王朝の第二代皇帝。
    在位・西暦626〜649年。598年、李淵(高祖)の次男として生まれ、幼時からすぐれた資質をあらわす。長ずるにつれて幕下に人材を集めて将来を期した。折しも隋末の大乱にさいし、617年、太原留守の父にすすめて挙兵させ、翌年、父の即位(唐の建国)とともに秦王に封じられた。その後も、若くして軍政の要職につき、各地に割拠する軍閥の討伐にあたり、創業間もない唐王朝の安定化に寄与した。626年、かれの声望に疑いの目を向ける兄の太子建成を倒し(玄武門の変)、その結果太子に立てられ、同年、父の譲位をうけて皇帝の位についた。即位後も、積極的に人材を登用し、また、かれらの諫言によく耳を傾け、内政、外交に意を用い、唐王朝の基礎を築いた。その治世は、年号をとって「貞観の治」と呼ばれ、まれに見る盛世であったとされる。649年、病にて死去。

    【王義之(オウ・ギシ)】
    (321〜379)中国・東晋時代の著名な書家。書聖といわれる。
    隷書、行書、草書、楷書、当時のすべての書風を修めた。書風は流麗であり、奈良・平安時代から始まる日本書道の源流ともいわれ、今日の伝統書道の典型。唐の太宗皇帝に評価され、皇帝の命により作品は全て皇帝とともに埋葬されたといわれる。現在残っているのは埋葬する前の写し。代表作:「蘭亭序」

わらべ地蔵二体
外国人が
欲しがるという

わらべ地蔵2
外人が欲しがるというわらべ地蔵

杉木立の下は一面スギゴケが覆う

杉の木立と杉苔

ひときわ目を引く石仏

際立つ石仏

客殿を介して初めに広がる聚碧園
江戸時代の茶人金森宗和の作

聚碧園
入場口

ここで600円也を払い院内に

<2部 三千院?>

<由 来>

 大原は千年の往古から天台声明(ショウミョウと読み仏教音楽のこと)の修行の地として信仰を集めてきた。開基は延暦寺と同じ伝教大師最澄(767〜822)で、叡山に根本中堂を建立の時、東塔南谷の山梨の大木の下に一宇を構えたのが始まりという。
 その後時代の流れに翻弄されながらも、京都市中を幾たびか移転、明治維新を経て当地に落ち着いた。

 大雑把に三千院を紹介するならば、客殿・宸殿・往生極楽院・金色不動堂・聚碧園・有清園で構成される。

 殿上を回遊していると客を連れた観光タクシーの運転手さんが解説を加えている。詳しい知識のないわたしたちは、二人してそちらに耳を傾ける。京都はどこに行ってもこういった光景に出合うが、(ん?これならわたしにもできる!?)。
 お客さん、そんなに簡単ではないですよ!

<玉座の間・王義之の書>

 宸殿の端にある不思議な空間である。
 ガ鳥の「鵞」の字を書いた大きな掛け軸が奥にかかっている。なぜ?と思ったが、これは天台宗とのかかわり。
 中国天台山国清寺
にある「書聖・王義之(オウギシ)」の拓本と説明されている。浙江省天台県の北、紹興市(紹興酒で有名)、寧波市にかけて60kmにおよぶ山塊を天台山と呼び、国清寺はかつて最澄、円載、円珍、栄西、道元など日本仏教の先駆者たちが巡歴した寺院だ。

 ついでに触れておくと「王義之(321〜379)」は書の神様といわれながら直筆がまったく残っていない。かれのファンであった唐の太宗(598〜649)の遺言ですべて太宗の墓にしまわれてしまったということだ。
 しかし、そうだとしても、あるいはそうであるなら余計に後世盗掘とかで出回るのが普通と思うのだが・・・。

 もう一つおまけの話。杜甫の詩に、「鵞児の黄は酒に似たり」とある。鵞黄の美酒ともいう。杜甫も王義之も鵞鳥と酒が好きだった。

 玉座の間の襖には明治時代の作だが、下村観山の虹の絵が描かれていた

<有清園・昔見た光景>

 「昔来たねえ!」期せずして同じことばが出た。20年も前のこと、仕事で京都の顧客回りをしたとき午後の遅い時間にあわただしく三千院に駆け込んだ。そのときの苔むした空間を「これだ!」と思い出すことができた。
 杉の木立と杉苔の草緑色が忘れられない。

 往生極楽院を取り巻く有清園庭園は「修行僧が紅葉を見、青苔に接して、一枚の散る紅葉と青苔とが一つになって同化し、心にとけ込んでいく、そんな心境づくりをする」場所のようである。
 三千院庭園には春の石楠花、初夏の紫陽花、秋の紅葉、冬の積雪がよく似合う。



<3部極楽往生の夢
   往生極楽院>


<国宝・往生極楽院


 中央に阿弥陀如来が鎮座し左に観世音菩薩、右に勢至菩薩が座る。

 ここが”極楽往生”といわないで”往生極楽”というにはわけがある。死んでから極楽に行くのではなく生きながらすでに極楽にいるという考え方。
 完成当時の往生極楽院の船底天井や壁画は極彩色の仏絵で包まれ、いながらの極楽浄土をそのまま現出していた。

<京都に来ると>

 究極は宇治平等院にある。過去の権力者が極楽往生にあこがれたということを盛んに訴えかけてくるのだが、これは何を意味するのだろうか。

 この世の栄耀栄華を極めた権力者や王侯貴族は、現世が幸せすぎて、死ぬのが恐かったのか、死にたくなかったのか?逆に権力闘争の無意味さから早く逃げ出したくて現世での極楽往生を考えたのか?
 とすれば、一方に貧困にあえぐ多くの民百姓がいたわけだから、その考えは為政者としてあまりにも無責任で自己中心的であった。


 この時代、皇族・皇位を継承できない次男以下の多くの子弟は早くから出家し、門跡寺院を継いだり仏道修行の道に入った。
 仏教は民衆よりも権力者たちに広がった。
 その信仰は私欲に発し、単純に極楽浄土を夢想するだけの帰依であったような気がする。もしそうであったなら、それは貴族たちのゲームに過ぎなかったのではないか。野に下り民衆とともに生きた空也上人のような方もいるが・・・・。

 そう思うと、いまごろありがたがってかれらの遊びの象徴である寺社めぐりをする(自分もふくめた)大衆、というのも道理に合わないのだが・・・

 鎌倉時代に日蓮が仏教の堕落を指摘し、北条執権に問答仕立ての立正安国論を突きつけたのは勇気のいることだったと思うが、正しかった。

説明を聞いて満足して

満足げなご一行

いまは極彩色の壁画も色が落ちて

極彩色の船底天井と壁画
<エピローグ>
 物見遊山の二人の会話最終章。

 「同ヤン(同志社)も立チャン(立命館)も学生時代に京都で過ごすと、京の雅の心が自然に身につくのだろうね」
 「うん、それはまちがいないこと。でも、浸りきって同化してしまって問題意識を持たなくなる」
 「ところで、最近は京都の企業もがんばっている。みんな働き者だ」
 「同族経営の中小企業が多いから、一流会社の社員みたいに定年がない。みんな死ぬまで働くのさ」
 「でも、それって年金のことなんか心配しなくて幸せなんじゃないの?」
 「それはいえてるかもしれないね」
 「こういうご時世だからまちがいなくそのほうがいいよ!みんなでがんばれるからね」
<完> 「寂光院」へ



比叡山

天台宗



玉座の間より有清園越しに眺める往生極楽院
三千院一の佳景
ほとばしる沢

参道脇を音を立てて下る沢

しば漬

大原の里は漬物用野菜が多く採れる
しば漬け本舗

かぶりつくとタレが頬にべったりついてしまい、食べ方が難しい。

みたらし団子

記念写真に納まる善男善女

三千院門蹟玄関
<1部 大原へ>

 京都駅から市内の大混雑をを抜けるのにだいぶ時間がかかってしまった。久方ぶりに京都の友人に出会い、喫茶店で旧交を温めるのも無粋だと、「大原にでも行ってみようか!」という彼の提案で急な「大原御幸」とあいなった。

 互いに「相手が着物の似合う妙齢の女性であったならば・・・」などと戯言を楽しみながら、バスは高野川沿いに北上するがどの停留所でも観光客の乗り降りが多い。ほぼ1時間後、《バス停大原》で下りるとそこには広くて青く澄んだ空と、収穫を終えた田舎の臭いが待っていた。

 帰りのバスの時間を確認し、おもむろに周囲を見渡すと、〔右手・三千院〕〔左手・寂光院〕のわかりやすい案内看板が出ていた。
 三千院への参道脇には山の水を集めた沢が音をたてて下り、木々の緑とそのせせらぎが織りなす爽快な感覚は信仰の地・大原ならではのもの。

 涼しげな霊気を感じながら参道を登り始めた。大原らしく「しば漬け」を商う店が目立つ。ご飯のお供として欠かせないが、我が家は西本願寺近くの「西利」の漬物を買い置きしているので、パスした。


<温泉とみたらし団子>

 甘いタレで焼く独特の芳しい香りが漂ってきた。「おいしそうだからちょっと寄っていこうか!」
 時刻はちょうど昼時にさしかかっていた。みたらし団子は「1本200円3本550円」とある。ご婦人方や老夫婦が列を作っていたが、ビールといっしょに二皿頼む。
 「さすがに三千院、客が多い!」
 「温泉の看板が出てるけどホンモノ?」
 「うん!最近TVで騒いでいたネエ!」
 「日本列島どこもかしこも温泉が出てるから・・・でもここで温泉にはいる人っているのかなあ?」
 他愛のない話が続く。

<梶井門跡>

 城のような立派な玄関には「三千院門跡(もんぜき)」の表札がかかっている。門跡寺院とは皇子・皇族が住職を継承する寺院のこと。(門跡へリンク)
 三千院は天台宗五箇室門跡の一つで梶井門跡とも呼ばれている。
 ちなみに他の天台4門跡とは青蓮院、妙法院、曼殊院、毘沙門堂のことで、いずれも在京都。

岩と杉を配した35菩薩石庭

岩と杉を配した35菩薩石庭

三井寺の開闢・智証大師御作と伝えられる金色不動明王を本尊に祀る金色不動堂

金色不動堂

京都大原・三千院 
2004.10