はんなり京都
食と文化と・・・・・
2013年3月

1)京女

京都に旅をしてみようかと思っている。

ワクワクするような素晴らし出会いが待っているような気がして・・・。

これから少し、前後の脈絡を考えずに感じたことを書き記していきたいと思う。

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京女”ということばから、ツンと澄ました色白の美女を想像する。もちろんしとやかな着物姿であり、はんなりとした仕草とたたずまいがある。

怖いもの見たさでさわってみたいという欲求があるけれども、やはりどこか怖い。千二百年を経た都女のプライドの高さに、触れると感電してしまいそうで。

これには芸妓や舞妓にわけもなく臆するという深層心理が加味されているのかと思う。

しかし、そうであっても、いやそうであるから余計に、東男は京女に憧れるものである。

加茂さくら、大空まゆみ、野川由美子、由美かおる、池上季実子、壇れいと、京都出身の女優さんの系譜をたどってみて、何を感じますか?

美しさ?それとも・・・・・?

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一般に京の女性はしっかり者で、どちらかといえば冷たいといわれている。冷たいのではなくて歴史が造った生活の知恵なのでしょう。あれほど戦乱が続いた歴史のなかをかい潜って今に生きてきたのだから。

何人かの京都の女性を存じ上げているけれども、概して“しっかりもの”であることに間違いはない! さてわたしの旅はいかになりますことやら・・・。

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京都では啓蟄(今年は35日)と春分(320日)のあいだ、313日から「十三参り」が行われる。

数え年13歳になった少年や少女が、嵐山の法輪寺・虚空蔵菩薩にお参りして知恵を授かるという“知恵もらい”の風習。参詣のあと渡月橋を渡りきるまで、後を振り返ってはならないとされる。振り返るとせっかく授かった知恵を返さなければならないというのである。

この風習のもとは空海にあるようだ。
 
空海の頭の良さはつとに有名だが、虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)によって空海は記憶力を飛躍的に増大させた。
 
嵐山の中腹にある法輪寺は、もちろん真言を学ぶ寺である。

さて、女の子は美しい振袖を着て嵐山に向かうのが習いだった。

はじめて大人の寸法の晴れ着を着るわけだが、肩上げを必ずする。この時期にそろえた着物を折りあるごとに着せて、着物になじませ、立ち居振る舞いを身につけさせるということのようだ。

京都の女性の着物に対する憧れはこの時期に醸成されるのかもしれない。

数え年13歳といえば
小学校6年生か
着物を手にする喜びがわかる年齢

親の財力が気になる!

こんな娘がいたら
父親も頑張れる!




女優 壇れい
美しさのなかに芯の強さが

かつて名古屋時代の団地で、長女を介して仲のよかったご夫婦がいた。

ご主人は西陣の呉服問屋の社員(昔は丁稚とか番頭さんと言われていたのだろうが)で、家内の着物をあつらえたことがあった。

あれから30年の歳月が流れたが、いまでも年賀状に「いちどお会いしたいですね」の文言が必ず付してある。奥方は着物の似合う、京女らしからぬ穏やかな方だった・・・。


2) 昼食の“ねぎ焼き”

東京を早い時間に発ったので、京都には10時過ぎに着いた。

二泊三日の京都を楽しもうという計画だ。

荷物をホテルにおいて、さて最初の食をなににしようか、できれば最初だけに記念すべきものにしたいという想いがある。

正餐も含めて何軒か、食事どころの候補をおおむね選んであった。予約が取れなければ、別のところにすればよい、寺社や町を歩くといってもブラッと好きなところを歩いて・・・団体旅行のような堅苦しい旅をしたくない!

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今回の旅の相棒は食通で京都通の具留満氏、選択を100%まかせておいて間違いはない。

この日の昼食は建仁寺の南・轆轤(ろくろ=昔はどくろ町といった)町にある洋食の『コリス』でいただこうと考えていた。

地元情報によれば、一流のフレンチやリストランテをのぞいて、京都でいちばんの洋食という裏評判がある。

何を注文してもはずれがない、量が多くて美味、おまけに値段が安い。わたしは未だはいったことはないが、庶民的な店のようだ。

ところが最近はご主人が病気がちで、開けたり閉めたりが続いているという。

京都駅から電話をしたところ、「申し訳ないですがこのところお休みしています」という返事、残念この上ないが仕方ない。

で、方針を大きく変えた。「“お好み焼き”っていうのはどうだろうか」 で、即決。

八坂神社を少し下ったところにある、普通の店『かな』(075-561-4529)。

相棒は“すじ肉入りお好み焼き”を、わたしは“ミックスのねぎ焼き”をお願いした。



緑と赤の色彩が美しい



ソースと醤油、半々の
焼き上がり
美味しそう

広島のお好み焼きは、薄く敷いた生地の上にキャベツを多量に置く。京都の“ねぎ焼き”は、キャベツの変わりに九条ネギを、惜しげなく使う。

東京ではなかなか手に入らない“九条ネギ”の魅力に、わたしは負けている。

鉄板の上で京都人のお姉さんが手際よく焼いてくれている。ネギの上に具が載った。

「味付けはどうされますか?」 の問い。

「ソースと醤油があって、みなさんお好みで召し上がります!」

醤油もいいのかな、と考えていたら「半分ずつでもよろしいですよ」 という声。すぐに諾の返事。



ネギをたっぷりと



ジャパニーズ クール & ヘルシー!

粉食文化の発達した関西(とくに大阪かと思うが)では、ソース文化も発達していて、多種多様のソースがあるようだ。それゆえ、ソースを外す手はない!

食いしん坊のわたしたちは、焼きそばも頼んでおいた。二人旅は食事のときに効力を発揮する。それぞれを取り分けて、二人分の味を楽しむことができる。

この日の京都はおそろしく寒かった。春のいでたちの上に薄いコートをまとっても、ふるえが止まらないくらい。

そんな天候だから、フーフー言いながらほお張った熱々のねぎ焼きは、たいそう美味しいものになった。


3) 泉湧寺と虚無僧

京都はバス路線網がしっかりと張られている。

500円也の一日券を買っておけば、中心部の行き来に不便はない。

1回の乗車賃が220円だから、3回乗ったら元が取れる。これを利用しない手はない。

わたしたちは昼食のために南にくだったから、そのまま「南行きのバスに乗ってしまえ」で、これもなりゆきだ!

バスは東山に沿って南へ走り始めた・・・。

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東山三十六峰、静かに眠る丑三つ時・・・といえば、“アラカン(嵐寛寿郎)”の鞍馬天狗

話はわき道にそれるが、わが幼年時代にアラカンは、子供たちの(イヤ、大人にとっても?)ヒーローだった。

そういえば、この町は時代劇のメッカで、数々のヒーローを誕生させている。今の若者たちにはその名前すら知らないだろうが、「目玉の松ちゃん」こと尾上松之助、「バンツマ」こと坂東妻三郎(田村兄弟の父)、大阪は南河内出身の大河内伝次郎、片岡知恵蔵や林長次郎(後年の長谷川一夫)などなど、今も時代劇の系譜は脈々と引き継がれている。

もっとも幼いころのわたしは、戦後を生きる忙しそうな大人たちと、鞍馬天狗のような、ちょん髷を結って両脇ざしを腰につけた侍たちとを、同じ日本人とは思えなかった。

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バスは伏見に向かっている。

東福寺の一つ手前「泉湧寺道」で下車、緩やかな山道を東山に向かって登り始めた。

その寺は東山三十六峰の一角、月輪山のふもとに静かに佇んでいた。開山は、弘法大師・空海がこの地に庵を編んだことによるが、もとは法輪寺といった。

京都の地下が巨大な水がめになっていることは、多くの方が指摘する。ここでも清泉が湧いて寺号がかわった。

泉湧寺(せんにゅうじ)には「御寺(みてら)」という冠がつく。その由来は四条天皇(1242)以降、歴代天皇の山陵(墓)がここに営まれるようになったことによる。菊の紋がいたるところにはめられていて、荘厳ですらある。

大門をくぐると、広い伽藍全体を眼下に眺めることができる。



泉湧寺仏殿を望む



月輪陵

正面に重文の仏殿、並んで舎利殿、いずれも徳川将軍の手によって改装あるいは再建されている。建物の豪壮さもさることながら全体としての調和がよい、周囲を森に囲まれて背景は東山の月輪山、静寂が泉湧寺全体を包み込んでいた。

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獣道のような裏道をたどって東福寺に向かおうとしているが、その道すがら珍しい御仁を見かけた。寺の名を「明暗寺」という。人間本来の悩みをかかえたような微妙な名前である。

見かけたのは“虚無僧”である。

尺八を吹き喜捨を乞いながら全国を歩く、昔はたくさんいたのだろうが、今では映画の中でしか見られないほど極めて珍しい。

明暗寺の表札に「尺八根本道場」と書かれていた。



木々の梢が風に揺れるなかを
尺八修行する明暗寺の虚無僧
臨済宗門で、剃髪をせず!


4) ディスカバー京都!東福寺



東福寺 巨大な方丈

経済や産業のことなどまったく無頓着な少年時代、京都には凋落、衰退の町というイメージしかなかった。

その当時、アメリカ資本主義が、放映を始めたばかりのテレビメディアを通じて、地響きを立てて押しよせてきていた。それは大企業による大量生産の大合唱によるもので、アメリカから持ち込まれた文化やモノは、なんでも巨大で魅力的だった。

名犬ラッシーサンセット77が持ち込んだ米国文化は、格好良いスポーツカーや豪壮というしかない、芝生やブールのある邸宅、そして幸せそうな子どもたちの笑顔、豊満な胸を持った金髪の若い女性たちの魅力あるポーズ、家のなかだって日本の木造家屋とは全く違う華やかさに満ちていた。

そんなイメージを押しつけられて京都を思うと、表面しか見ていないわたしは、古臭く貧弱な町、時代に逆行する町という印象を否定することができなかった。

さらに中小企業の町という評価を聞いた時も、いずれそういった組織は、大きな資本の前に淘汰され、跡形もなく消えてしまうのではないかと確信をもつにいたる。

実際に京都はそのころ、東京の大躍進の陰で逼塞し、産業も精彩を欠いていた。

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川端康成の「古都」はそんな時代の京都を背景に、古都の幽玄さを描いた秀作で、昭和36年の秋から朝日新聞に連載された。生き別れになった双子の姉妹の数奇な運命を描いている。

少しずつ傾いてゆく西陣の帯屋の身代(しんだい)、そこで育つ捨て子の女性、姉妹のひとりは北山杉の青い山里に育つ。

川端は京都の不振を、物語の裏で淡々と綴っている。

鞍馬の火祭が中止になったことなどを。

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京都にふたたび陽があたりはじめたのは、日本の経済成長と軌を一にしているのかと思う。モノの豊かさを経験し、衣食足りる時期を迎えると、人々は心の豊かさを求め始めた。

電通の藤岡和賀夫さんが企画した「ディスカバージャパン」「いい日旅立ち」のキャンペーンは、昭和45年(1970)大阪万博終了後にスタートした。

従来の団体旅行に飽きてきた大衆は、「美しい日本とわたし」のコンセプトに完全に洗脳され、心の癒しを求めて京都に向かった・・・。

***

わたしたちは細い坂道を伝って、京都五山の一つ臨済宗『東福寺』にやってきた。



石組みと苔の枯山水



南面の庭



趣の違う庭 三景
すべて重森三玲による

東大寺は聖武天皇によって建立された、天皇家を祀る寺。それに対する興福寺は、中臣鎌足に発する藤原氏を祀る氏寺。良くも悪しくも、両者は日本史の真中を歩んできた。

東福寺は、二つの奈良の権威ある寺の寺号から一文字ずつをいただいた、1236年、当時の摂政・九条道家(藤原氏)の発願による。

方丈の四方に展開される庭はすべて重森三玲(みれい)の作。石組みと苔を組み合わせた枯山水はオリジナリティにあふれる。



この日、方丈では明兆(みんちょう1352−1431)
の描いた大涅槃図のご開帳があった
高さ10メートルほどの巨大な涅槃図は圧巻である。



たびたびの災厄にめげず今に残った東福寺国宝の三門


5) 伏見稲荷とケツネ



朱塗りが目立つ伏見稲荷へ

かつて正月に宇治に一泊したことがあった。途中駅の伏見は、家内安全や商売繁盛を祈願する平成人で、満員の山の手線状態だった。その記憶はあるものの、伏見稲荷に参詣したのは今回がはじめて。

朱色の千本鳥居が延々と奥に続く光景を、映像画面で何度か見たことがある。

子供心で、奥の院(陰・婬)に入り込んでみるのも一興だ。

境内は、春休みを楽しむ若い元気な男女で熱気ムンムン。

背景に稲荷山をかかえて全体が神域となっている伏見稲荷。少年少女たちは畏れを抱く気持ちなどもちろん持ち合わせていない。ゲーム感覚、競争感覚でドンドン山の上に登ってゆく。

***

歴史をたどれば、伏見稲荷は渡来系の秦氏(はたうじ)ゆかりの神社である。

というよりも、秦氏がその神殿をつくり、神社としての体裁を整えた。秦氏は平安遷都以前から太秦などに住み着いていて、酒の製造を持ち込み、その酒の神として知られる松尾大社を建てたほか、土木工事にもその技術を遺憾なく発揮している。

たとえば葛野大堰。

嵐山渡月橋あたりの川を大堰川(おおいがわ=桂川)と呼ぶが、嵐が来るたびに氾濫していた。秦氏はそこで、日本人にまねのできない技術でみごとに葛野大堰を築いた。

かれらの仕事が京都の歴史と文化に大きな貢献したことは間違いない。

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稲荷さんには狐が欠かせない。

伏見稲荷でもあちこちに狐の姿を見つけられる。

ここでちょっと寄り道・・・関西では狐のことを「ケツネ」という。

新入社員のころ、蕎麦屋で京都出身の上司は「ケツネ」ということばを口にした。不潔な物言いで、嫌だなあと感じたのは関東出身の若者たちだが、その後文献を読んでこのことばの古典的な意味を解釈すると、何の不思議もなく、すんなりと胸のうちにおさまってしまった。

万葉集にこんな句があったのを思い出す。有馬皇子の悲嘆の歌である。

家にあれば (け)に盛る飯(いい)を草枕

   旅にしあれば 椎の葉に盛る

この笥(け)が、ケツネのケで、器を意味し、ネは根に通じて米を意味する。

ツは「の」の意味の接続語、すなわちケツネを平易に理解すると、「米の器」で「食の中心の穀物神」ということになる。

これで、ケツネは十二分に意味のあることばと理解できるでしょう!



稲荷の象徴 キツネ

伏見稲荷には、上社・中社・下社の三社がある。

上社には山の神を、中社キツネを、下社には水の神を祭神として祀っている。

時刻はすでに午後3時半、上社は4時には閉めてしまうという。

「じゃあ、行けるところまで行きましょうか!」 として、若者たちに交じって登り始める。

「観方によって、鳥居の連なりが幾何学的アートに見える・・・なかなかのものだ!」



アートだ !

けっきょくは中社でキツネ様のご朱印をいただいて下山、夕食の時間に間に合わせるため電車とバスを乗り継いで祇園にもどった。

「その2」へつづく



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