江ノ電極楽寺駅
すぐ裏に真言律宗の極楽寺が立つ
北条一族は頼朝の死後、政子の父・時政(1138〜1235)を中心に結束を固め、加えて家系に優秀な男子が多かったこともあり、同じ頼朝の御家人でありながら敵対する勢力(和田氏、三浦氏など)を排除しながら150年の繁栄を勝ち取る。ちなみに北条氏は桓武平家。
極楽寺は正元元年(1259)、北条重時(1198〜1261)がここに念仏堂を移したのが始まりとされる。
重時は北条家二代執権・義時の三男で五代・時頼の外祖父に当たる。重時も六波羅探題北方(当時、南北に分かれていた)の長官についたり執権の補佐役である(時頼の)「連署」を勤めたりとそれなりの足跡を残した。
桧皮葺の三門はしっとりと落ち着いた
たたずまいを見せる 寒椿の赤が印象的
寺の開山は生き仏とあがめられた「忍性(にんしょう)」で、このかたは天平年間に村里を回った慈悲深い行基に似ている。お二人とも菩薩の称号をいただいている。
忍性は病人に薬を施したり孤児たちを世話したり、道を開き、橋をかけ、井戸を掘りと、現実的な方法で民衆を救済した。その遺物となる石でできた薬鉢と茶臼が本堂前に鎮座していた。
今はその面影を失ってしまったが、最盛期は七堂伽藍ならびに49の塔頭を備えた大寺院であったようだ。さすが当時の北条氏の威力はすごいと驚くが、こういった歴史を紐解いてみると、鎌倉という都市は頼朝というよりむしろ後の政治を任された北条氏が作りあげた、といった方が正解ではなかろうか。頼朝は武家統治の骨格だけを組み立てそのあとは北条氏が・・・。
桧皮葺の三門脇の戸口をくぐると100mほどの参道がまっすぐに本堂まで伸びている。
さて、極楽寺の境内でやたらと目立つのは「禁止」の文字で、これには幻滅を感じた。
「あれは駄目、これは駄目」のオンパレード。過去によほどひどい悪戯を受けたのか、それとももっと決定的な被害があったのか、「関係のない観光客は入ってくるな!」というメッセージに受け取れた。もちろん境内は「一切撮影禁止」であった。残念でならない。
鎌倉は三方を山に囲まれた要害の地で、一方は海に向かって開いている。その渚に立つと巨大な竃(かま:へっつい)のような地形をしており、ここから鎌倉の地名が生まれた。
山際には谷(やつ)と呼ばれる峡谷が多く、その数は50を越える。
鎌倉幕府はその谷を利用しながら鎌倉へ往来する街道を切り開いた。
ただし軍事的見地から攻防に有利な場所と方角を選ぶ。
亀ケ谷坂、化粧坂、巨福呂坂、大仏坂、極楽寺坂、朝比奈、名越の切通しは鎌倉の切通しのなかでもっとも重要なものであり、後に「七切通し」、「七口」と呼ばれるようになった。
極楽寺を辞したあと、その「極楽寺切通し」を通って長谷に抜けた。
ここは京都や西国に通じるという意味ではもっとも戦略的に重要な切通しだろう。極楽寺駅に解説の銘板が立っていた。
元寇で疲れきり、衰退を早めていた北条・鎌倉幕府にとって元弘3年(1333)といえば、崩壊の年。満を持して挙兵した北関東・新田義貞(新田も足利も八幡太郎義家を祖先とする源氏の末裔)の鎌倉攻めで、大館次郎宗氏を大将とする新田勢の攻撃に対して、鎌倉の将・大仏陸奥守貞直は強固な木戸で切通しを閉ざし、数万(実際には1万か)の兵力によってここからの侵入を防いだ。時代の流れには逆らえなかったが、切通しはそれだけの防御力を備えていた。
そのずっと昔の元暦2年(1186)5月、腰越の満福寺で「腰越状」をしたためた義経は、無念にもこの切通しを通ることができなかった。
昼なお暗い切通しも、いまやその崖の上に立派な家が建ち、交通量も多い。長谷に抜けるとすぐに「星(または星月)の井」の石柱が立っている。鎌倉十井の一つで「昼でも水面に星が映る」ほど澄んでいたといういわれが残る。水は清らかでおいしかったため、昭和初期までこの地を通行する旅人に販売されていた。
さーて、ここから長谷寺は目と鼻の先だ。
<続く> 「長谷寺」へ
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