京都の秋
(3)比叡山と琵琶湖坂本、そして大原

2013年10月



台風接近であいにくの曇り空
叡山ドライブウエイから京都盆地の眺め
この都が太古の時代には「水の底にあった」というのも頷ける。

長細い緑は御所
その向こうの小さな緑は二条城

(1)比叡山と坂本−1 根本中堂

祇園を楽しんだ翌日の朝、比叡山延暦寺の根本中堂にはじめて上がった。ここに籠って修業を積むなどという大それた考えは毛頭ない。観光目線で叡山を一度は見ておきたいという俗な発想である。

それでも粛然と思うことはあった・・・天台の空気に触れるということが、なにがしかの意味を持つのではないか、と。

比叡山は京都の東側に雄々しくそびえる聖の山である。開山は伝教大師・最澄、この聖人は12歳前後で出家し、15歳で得度を志願し、18歳のとき東大寺戒壇院で得度している。

本人の意思か、親の意思か、時代がそういう時代だったのか、あるいは早熟だったのだろうか。

***

この時代、国が認める官僧になることは難しい。なれば生活が安定する。今の国家公務員上級試験のようなものである。

近江国分寺の定員はわずかに20人、先達が一人亡くなったために「三津首 広野(みつのおびと ひろの=最澄の俗名)」は資格を申請し受理された。以来19歳の最澄は生家に近い比叡山にこもって12年、かれは天台大師だけを見つめて祈った。

後に小さな寺を興したのが、比叡山延暦寺の発祥となった。はじめは小さな草堂のようなものだったろう。


かれに明るい陽の目があたるのは、桓武天皇の遷都による。

桓武は、奈良とは別な山背(山城)の長岡に新都を造営したが、造営途上でそれを廃止し、京都の地を選んで新たな造営にとりかかった。

日枝(比叡)の山は新京の鬼門にあたる。桓武はここを新京に定めるにあたって藤原小黒麻呂(おぐろまろ)に調査をさせた。京都を仔細に渡渉した小黒麻呂は、「四神相応の地だけれども鬼門の東北に山があって、みんなが怖がること間違いなし」 と報告した。

さらに、「最澄という若い僧がいて、いま日枝(比叡)の山林に隠れているけれども、次世代の仏教を起こす人物になるでしょう」とつけ加えている。


これによって京都遷都が決まり、比叡山の将来も決まった。天台の聖地比叡山、幾多の名僧がその青年期に真摯な修業を積んだ聖なる山。



比叡山根本中堂
内部は撮影禁止

一日中僧侶による“法話”がおこなわれている

消えたことのない“法燈”が灯っていた

目についた書き物があった。

「一隅を照らす」 の標語が境内のあちこちに掲げてある。

伝教大師最澄は『山家学生式(さんかがくしょうしき)』のなかでこういっている。

「径寸十枚(財宝のこと) これ国宝にあらず 一隅を照らす これ国宝なり」と。

人にはそれぞれに生まれもったよい素質がある。精進してその能力をさらに磨き、一隅を照らす人間になって欲しい、このことが国家の発展につながる、ということでしょうか。

現代にも通じる教育論、と解すべきでしょう。

文部省の役人のみなさんに見て欲しい!

***

さて、聖徳太子が持ち込んだ仏教は飛鳥時代に波風をかぶりながらも奈良時代に入って大きな権威を持つにいたった。戒壇院の設立が奈良仏教の安定に一役買った。

平安の時代にはいると奈良の顕教に対して、当時唐で流行っていた密教が勃興する。

最澄と空海、この二人を基点として真に民衆のための仏教がはじまった。

2人の先達は日本の仏教の父と母ともいえる。

はじめ最澄の天台は空海に後れをとっていたものの、叡山の後輩たちによって深められ、数々の優秀な後継者を排出した。

まさしく比叡山は最澄が望む“教育機関”となった。

その俊英たち・・・臨済宗の栄西、曹洞宗の道元、浄土宗の法然、浄土真宗の親鸞、日蓮などなど。



根本中堂参詣を終えて
厳粛な面持ちの仲間たち

東京に帰って朝の散歩道、この季節には珍しく小さな白い花を見つけた。気をつけていないと見過ごしてしまう可憐な白さである。

シロヨメナという。

秋も深くなって枯葉とどんぐりの散歩道、ほとんど咲く花のないなかで白さを際立たせて、まさしく一隅を明るく照らしていた。

得した気分になって元気をもらった。


(2)比叡山と坂本−2 天台座主のこと

案内をしていただいた運転手のKさんに「横川(よかわ)はここから近いのか」と質問した。

「車ですから10分もあれば行けますよ」と言われた。しかし次のスケジュールが詰まっていてこれはあきらめざるをえない。


わたしの横川についての最初の興味は、源氏物語の宇治十帖に出てくる横川の僧正。横川の僧正とは第三代天台座主円仁のこと。

円仁はその人生に何度か、自身の修業と布教のために関東から東北にかけて渉猟している。浅草の浅草寺にもやってきたという記録があるし、宮城県松島の瑞巌寺や山形の立石寺山寺の開山として名前が残っている。

東北に天台宗が普及したのは円仁の功績による。



比叡の鐘を突く U氏

最澄亡きあと叡山は政治的な争いで混乱しており、それを嫌った円仁はそれまでの東塔・西塔から離れて人里離れた横川の谷に籠った。ちなみに後の叡山は、その横川も加えて「三塔十六谷」といわれ、全盛期には「一山大衆三千」までふくれあがり、暴力的示威活動をおこなうようになる。

初期の天台の後継者争いのこと。

最澄が亡くなって、最澄入唐の通訳であった義真が初代の天台座主に就いた。ところが義真には叡山をまとめるような器量や人格がなく衰退を始める。世は空海の真言密教の時代を迎えているから余計にみじめな立場に追い込まれていく。

そんなとき、最澄とは仲の悪かった奈良仏教から天台の根本教義である『法華経』を講義してほしいという声がかかった。尻ごみしてだれも行かないなかで、横川に隠棲している円仁に白羽の矢が立った。


法隆寺でおこなわれた円仁の講義は聴衆を揺るがすほどの見事さであったという。

これによって叡山が復活をしたのかどうかを知らないが、慈覚大師という称号を得た円仁は第三代天台座主についた。

天台宗中興の祖というべきかと思う。



比叡山から大津方面を望む

山を下りて右へ向かえば大津市内
そこには同じ天台宗寺門派の園城寺三井寺がある
三井寺は天台第五代座主”円珍”が中興した

円珍の死後
円珍門流と円仁門流の対立が激化し天台は二分される・・・

叡山から東に向かっての下りでは近江・琵琶湖の大津から、遠く瀬田方面を霞のなかに望むことができる。

車は七曲のドライブウエイを下り続けて坂本に出た。


(3)比叡山と坂本−3 坂本と浮御堂



紫野・大徳寺派の満月寺“浮御堂”
琵琶湖はかつて水運で栄えた
湖上水運の安全のために発願

創建は比叡山横川の源信(恵心)僧都

坂本に降りてくる途中、日吉大社の大きな鳥居を見た。

この神社の創立は平安遷都以前のようだが、都の鬼門の方角にあたるということから手厚く庇護されてきた様子がうかがえる。またその威容は琵琶湖を眺めるように、比叡の東山裾に東面して建っている。



日吉大社山門

中世以降坂本には叡山の僧侶が多く住みはじめ、一つの宗教都市を形成した。

それは当然のなりゆきかと思う。

比叡の山には冷たい西風がまともに当たる。

最澄は若い僧たちに、「12年間は山を降りず、止観(顕教)と遮那(密教)の両部門を就学せよ」といい残しているため、簡単には逃げられない。

厳しい修行やその凍りつくような寒行に耐えられた若い僧たち(なかには途中で倒れて朽ちた僧侶も多かったようにきいている)も、12年間を終えたら温かいところに住みたい。坂本の地は西風を避けられるし、温かい太陽が当たる。

やがて隠棲の地を坂本に求めたのも道理といえよう。山の上と下とでは天と地ほどの差があった。



「伝教大師御生誕地 生源寺」
と書かれている

最澄の誕生地である寺院の標識があった。

生源寺がそれで、辛うじて写真に収めた。

「坂本には有名な蕎麦屋がありましたね」 とどなたかがつぶやいた。

「そこで食事をしますか」 とガイドのKさん。

「“鶴喜”といいましたか・・・有名ですが、味が落ちたという噂を聞いています」 とどなたか。

「じゃあ、もう少し我慢して、大原でいただくことにしましょう!」



坂本 鶴喜そば

外観だけで格式を感じさせる

私たちの大型のワゴンは“西近江路”という街道を北上して、大原の里に向かっている。

「この辺りは穴太(あのう)といって、全国的に有名な技術を持った石垣職人たち“穴太衆”が住んでいました」。

坂本も含めて比叡の東側は坂になっている。土砂崩れの危険を避けるため石垣造りの技術が発達したのだろう。寺も多いので、石垣の需要も多かった。

その技術が飛躍したのは、戦国時代に各地に盤踞していた守護大名たちが競って築城を始めたことにある。

「大阪城の石垣も穴太築き(あのうづき)で造られたといわれています」。

それまでの城砦は自然の地形に補強をほどこした程度のもので、鉄砲時代に対応したものではなかった。

穴太衆は安土城以降、全国からたくさんのオファーをもらったことだろう。

***

雨がそぼそぼと振り出して街道を濡らしはじめた。東洋紡の大きな工場の横を通って、「湖族の郷」の案内を横目で眺めて、なおまっすぐに進むと浮御堂(うきみどう)に出た。一帯の地名を昔から堅田といって、堅田衆は琵琶湖水運を手掛ける湖族として歴史の裏舞台で活躍してきた。

私の記憶には、義経の奥州落ちに際して、湖族にかくまわれたという話が残っている。『新平家物語』であったか?

「“堅田の落雁”で有名です」。

そういえば近江八景のひとつにそんな名前があった・・・。

ガイド兼運転手のKさんがその由来について説明してくれた。

「寒い時に京の鴨川河原などで餌をあさっていた鴨が、温かさを求めて琵琶湖に戻ってきます。そうしてこの堅田の浜に、大挙して舞い降りてくる、そのさまを落雁と名付けたようです。わたしは見たことがありませんが、昔はよく見られたのでしょうね」 と。



凪ぎの琵琶湖
向こうに見えるのは琵琶湖大橋

近江八景の話。

明応9年(1500)といえば京都の土一揆や加賀の一向一揆などが頻発し政情は不安定を極め、そろそろ戦国の世が始まろうとしていた頃、その8月13日、近江守護職・六角高頼の招待で滞在した公卿の近衛政家が近江八景の和歌八首を詠んだことが始まりといわれている。

政家は中国湖南省にある名勝・洞庭湖の“瀟湘八景”をなぞって選定した。

八景とは・・・石山の秋月、勢多(瀬田)の夕照、粟津の晴嵐、矢橋の帰帆、唐崎の夜雨、堅田の落雁、比良の暮雪・・・そして三井の晩鐘。
 
名前自体にノスタルジアとロマンティシズムがあっていい!

峯あまた越えて越路にまづ近き

堅田になびき落つる雁がね

車は昔の鯖街道に出て、大きく回りこむような経路をとって大原の里に入ってゆく。雨脚が一段と繁くなってきた。


(4)大原



大原宝泉院
『額縁庭園』の本領

山道を上り下りして、大原の里に近くなってきた。

日本の何処にでもある山里と大きな違いはない。

♪ きょうとー おおはらさんぜんいん ♪ と歌に歌われただけで、静かな山間の地に観光客がおしよせてきた。

「そういえば、ここにイギリスのご婦人が住まわれてマスコミに盛んに出ていますね。なんてかたでしたか?」

「そう、家屋敷を手に入れて花木やハーブを庭に植栽されて、四季折々の大原の里を楽しんでおられる・・・なんていいました?」

「アリシア? いや“ベニシアさん”でしたか!」

「そうでした“猫のしっぽ カエルの手”というタイトルで、優雅なライフスタイルを紹介していました」

「ジャムやハーブティーを造ってお客様を招いたり、京都のさまざまな職人や文化人たちと交流したりして、外国人の目で京都のよさを引き出していらっしゃった」

***

三千院近くの茶店でそばの膳で腹ごしらえ。

三千院や寂光院にもお邪魔したけれども、以前に書いているので今回はパス、ご参照いただきたい。
 <「三千院」へ 「寂光院」へ



三千院の苔と
木立の向こうは往生極楽院



目立っている小僧地蔵

今回は三千院のすぐ近く、“宝泉院”の庭園をご紹介したい。

こじんまりとした寺は数分で全貌を眺めまわすことができる。しかし奥の深さがあって、数時間滞在しようと思えば、それもできる。

この庭を『盤桓園(ばんかんえん)』と称する。“盤桓”とは“ぐずぐずするさま”をいい、庭の美しさが客をして去りがたい感情を起こさせるという、まことに言いえて妙な名前をつけたものかと感心する。

別に『額縁庭園』の名もある。

客間の西にその庭があって、柱と鴨居で仕切られた長四角の空間から前庭を鑑賞すれば、その竹林はみごとな鮮やかさで目に映る。

刈り込みと植栽が前景、竹林はまんなかの景観、向こうに対峙する山が遠景という形、そして四季折々の色と風情を想像してみると、これはやはり京都だなあと感嘆せざるをえない。



五葉の松を背景に

身体を南側に動かすと、そこはまた別の景色。

かつて高浜虚子が歌に詠んだ樹齢700年という五葉の松が、太くたくましい枝を広げている。

<大原や 無住の寺の 五葉の松>

無住と詠んでいるのは、70年も昔には住職がいなかったのかもしれない。

それにしてもこの松の立派さは特筆に価する。京都三大松のひとつで天然記念物というのも納得できる。

この庭は園冶(えんや)の作と聞いた。



宝泉院ではお抹茶をいただきました

***

ついでに書いておきたい。

 “宝泉院”の親寺・勝林院はすぐ近くにあって、天台声明(しょうみょう)の根本道場として知られている。

大原は昔から天台声明の地として有名だ。

声明とは仏教の儀式や法要で僧侶が唱える声楽のこと。大原を流れる渓流を呂川、律川と称するのも音階からついた名前で、呂は十二律のうち偶数番目の音、律は奇数番目の音で、「呂律(ろれつ)が回らない」のことばはここから来ている。

その声明を聞いてみたいという願望があったが、それは今回もかなわなかった。

(2013年10月23日 比叡山と坂本、そして大原 「京都の秋(4)」へつづく


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