<蘇州夜曲と李香蘭>

♪♪ 君がみ胸に 抱かれて聞くは

  
夢の船唄 鳥の唄

     水の蘇州の 花散る春を

     
惜しむか柳が すすり泣く ♪♪

子どもの頃、といっても戦後のこと、よく聞かされた『蘇州夜曲』という歌がある。

映画『支那の夜』の主題歌で、服部良一が李香蘭(り・こうらん=リー・シャンラン)のために作った。中国の古典を、アメリカのラブソング風にアレンジし、一世を風靡した。

映画の中ではチャイナドレスを着て髪を短くした李香蘭が歌っている。

ゆったりと、よく響く高音が伸びる。

当時の言葉で言えば、「この世のものとは思えない桃里境にあらわれた”歌う銀幕スタア、李香蘭”!」ということになる。
 写真からの印象では、あくまで外観であるが、京マチ子と沢口靖子のあいだにいらっしゃるように感じた。



銀幕のスターという言葉が似合う

李香蘭(山口淑子)

***

花をうかべて 流れる水の

明日のゆくえは 知らねども

  こよい映(うつ)した ふたりの姿

消えてくれるな いつまでも

この曲が発表されたのは昭和15年、前年満州軍閥の頭領・張作霖が関東軍によって爆死し、翌17年にその関東軍が満州事変を引き起こした。

帝国陸軍上層部が特権を持って、大陸を闊歩していたころの話である。

李香蘭も自身の意思とは関係なく、軍事的片棒を担いでいた。実際当時の彼女は中国人として認知され、拍手喝采の嵐の中にいた。

戦争に負けて、彼女の環境や身分は一変する。彼女は蒋介石の中華民国において、漢奸(敵国に協力した漢人)として軍事裁判にかけられている。

それまで中国人として化けとおしてきたからこそ漢奸呼ばわりをされたわけだが、周囲の証言によって日本人ということがわかり、日本に帰ることができた。

***

そして、戦後の李香蘭(山口淑子)の活躍も目覚しい。

時代背景がそうさせたのか、この方は何人分かの人生を、それぞれ特別の顔をもって、しかも最大限の能力を発揮して生きてこられた。

大陸では銀幕のスターとして、歌手として大人気を得、敗戦時は命の危険にさらされ、戦後は映画界に復帰、またテレビの司会も手がけ、1974年には参議院議員として政界に進出し18年間も辣腕を振るった。

そのうえ自身の恋愛も貫き通した。

これほど波乱万丈に人生を生き抜いている方を、わたしは知らない。

現在、92歳。詳細を存じ上げないが、ご健在でいらっしゃる様子。いつまでもお元気でと、祈ってしまいます!

***

話は“蘇州夜曲”がらみで横路にそれる。

アン・サリーという方の歌っている『蘇州夜曲』が秀逸で絶品だ。

透き通るような声は彼女のスリムなプロポーションから自然に流れ出すかのようだ。スローな曲を、感情をこめて紡ぎだす、その情感がすばらしい。

彼女は在日韓国人三世だが、今の日本でいちばんクリアーな歌い手ではないだろうか。

そして現役の心臓内科医師ということにも驚かされる。

いちど聴き比べて欲しい。

    
髪に飾ろか 接吻(くちづけ)しよか

     
君が手折(たお)りし 桃の花

     
涙ぐむよな おぼろの月に

     
鐘が鳴ります 寒山寺(かんざんじ)



<映画“華の愛”>

戦前、30年代の蘇州が背景にある、ということを知ってこの映画を観た。

非日常を通り越して、きわめて刺激的な世界がそこにあった。

すべては過去の物語。夢の中ではまだ彼女の阿片の香りがする・・・。
 
花々が咲き乱れる華麗な庭園。貴族に落籍された歌姫が舞う。
 
現実を忘れさせる幻想、陶酔、そして甘美な酩酊。

大人になったりえが、しっとりとした悲しみを湛える女性を好演している。

***

こういう映画は、気分が乗ったときに、身を入れて観ないとつまらないものになってしまう。
 
没入することによって気持ちが高ぶり、感覚が冴え、細かなところも見えるようになる・・・。

まだ貴族文化が残っている1930年代の蘇州が舞台。

没落貴族の第五夫人として嫁いだ歌姫ジェイド(宮沢りえ)は、夫の従妹である男装の麗人ラン(ジョイ・ウォン)と出会い、愛情を深める。

しかし欧米や日本の侵略とともに身代(しんだい)は傾き、アヘンに耽溺する夫から暇を出されたジェイドは、愛娘パールとともに小さな離れに移り住む。

一方、英語教師として働くランは自立した女性でありつつも、民衆を搾取する貴族であることにジレンマを感じていた。

そんな折、執事のイーが兵役に出て生活の頼りがなくなったジェイド母娘が、ランを訪ねてやってくる。

友情とも愛情ともつかない感情をジェイドに抱いていたランは、母娘との同居を申し出るが、その矢先に学校に役人シン(ダニエル・ウー)が派遣される。一目で惹かれあったランとシンは激しい恋に落ちる・・・。

***

ラン役のジョイ・ウォン(台湾出身の女優)が『男装の麗人』と『インテリ教師』という二つのイメージを好演している。この役回りは彼女にピタリとあっていて、いっぺんにファンになってしまった。

もう一つ気に入ったのが子役の女の子。しゃべりやアクションを台本どおりにこなすのは当たり前、感情の機微や子どもなりの不安心理を、真にせまった演技で上手に表現していた。拍手!

ランの愛するジェイドはすでに夫と同じくアヘンの毒に蝕まれていた。

戦場で死んだイーからの遺品として、自分への深い想いを綴った日記を受け取ったジェイドは、幸福だったころの華やかな宴を夢想する。ジェイドの傍らには、長い時間を共に過ごしてきたランがしっかりと寄り添う・・・。

***

当時の士大夫(貴族)の生活がどれだけ贅を尽くしていたか、『華の園』の言葉が表すように華やかであでやか、毎日舞妓さんを侍らせて桜の宴を開いているよう・・・、現代を生きる日本人からみれば驚きでしかない。

3年地方官を勤めれば賄賂で10万両を貯められる」 という時代。財にまかせて酒池肉林の贅を尽くす。今もあまり変わらないことが問題かと思うのだが、この大陸にはそういった歴然とした身分社会が染み付いているのだろう。



ジェイドの部屋
正面に鏡台があって宝石箱や化粧水のガラス瓶、香水の瓶
真中に大理石がはめ込まれた円卓と椅子
右手には掛け時計と飾り棚があって、花瓶には菊の花が生けてある

紫色のチャイナドレスを身につけて
アヘンを吸う、花札を指に挟む、刺しゅうの針を持つ

衰亡を迎えつつある蘇州の優雅な文化
退廃的な快楽のひとつひとつ

大人になった・・・
時おり見せる幼さが・・・

すべては夢の物語。

「あなたが望むものは?」 とたずねると彼女は言った。

「あなたが私を想うこと」・・・・・。 

(言われてみたい・・・) しばし耽美の世界に身をゆだねた・・・。



<蘇州留園>

あわただしい旅人は忙しく留園に入った。留園は蘇州四大庭園(拙政園・留園・獅子林・滄浪園)の一つに数えられ、蘇州庭園の最高傑作と言われている。

世界のどの国にもある贅を尽くした大きな庭園は、中世の王侯貴族の遺産あるいは封建時代の遺物ともいえる。

ヨーロッパでの場合は宮殿・古城がある。日本の場合城が典型であり、また、それとは別に江戸時代に、水戸光圀の小石川後楽園、柳沢吉保の六義園、大久保忠朝の芝離宮などの大名庭園が作られている。



単純すぎる入口



コの字に曲がる回廊

中国の場合もっと規模が大きいのかと思うが、そのほとんどは、明・清時代に絹織物で財を成した富豪たちによって作庭されている。

蘇州を代表する留園が造られたのは16世紀半ば、のち大々的な改築が行われた。

入口は小さい。

小さく入って大きく見せるのが礼儀とか、そこには中華の哲学がある。

邸宅に入ると、まず小部屋がある。そこを通って奥へと進む。

庭園の真ん中には池があって周囲は回廊でつながっている。回廊にはさまざまなデザインの格子窓が架けられ、窓を透かして見える光景に妙がある。

庭を小出しにして、その切り取った場面にそれぞれの特徴を持たせ、見る人に異なった庭を見ているかのような印象を与える。

楽しいのは窓のデザインの多彩さ、丸いのも四角いのも、みな中華テイストだが、じつに面白い。それぞれのデザインに哲学があるのかと思われた。



複雑な模様を描く格子窓
そこから覗く景は
千変万化する


もっと重要な話。

客をもてなす側の旦那さんは何に趣向を凝らしたか、シンプルにいうなら、「福と幸をお客様に持ち帰っていただきます」 ということだろう。

中国古来の土俗的宗教は、仏教でも儒教でもない。呪術的な道教である。

古くからの言い伝えのなかの、幸福の象徴を園内に配置する。そういう発想は何処の国でも同じで、これがとても意味のあることと考えたのでしょう。

ところが日本からの珍客はそんな教えのことをよく知らない。どうも中華の文化の奥深いところを勉強しておかないと楽しい旅はできないようだ。

たとえば、池の真中には白い巨大な“太湖石(タイフーシー)”が立っている。この奇妙な石を眺めながら瞑想するというが、そんな器用な真似はとてもできません。

また、回廊は黒い瓦屋根である。軒先に丸みを帯びた逆三角形の瓦が飾られていた。楼閣や家の屋根にもついている。蝙蝠(こうもり)の象徴だそうだ。こうもりを中国語で“ピェンフー”と呼ぶ。福(フー)の音が含まれるので縁起の良いものとされている。

近ごろ身の回りでとんと蝙蝠を見なくなったが、子どものころはよく夕刻の空を舞っていた。子どもたちはみな気味悪がっていた・・・。

***

建物の中に清代にアヘンを喫煙したアヘンベッドが置いてあった。

あの時代、身分や貧富の別なくアヘンは吸われていた。富める者や貴族たちは道具にも金を使った。たとえは悪いが、現代の富めるアマチュア・ゴルファーに似ている。

ベッドにも紫檀か黒檀の素材に虎や竜を彫りこみ、象牙のキセルに華美な装飾をほどこした。

この留園の邸内でも日常的に、アヘンを喫煙するお館様の光景を見ることができたのではないだろうか。

回廊の小高いところから池の全体を見渡す。いにしえの中華の要人たちがここで名月を観賞したという話は納得がいく。

時は秋、水面に映る満月の美しさはいかばかりか、日本の貴族たちもこれを真似たのではないかと陳腐な想像がはたらいた。



<快楽と罪悪と阿片戦争>

いまの感覚からすれば、阿片を吸う貴族や深窓の麗人たちは亡国の罪びとのように感じる。

しかし、当時の中国人たちは、タバコを吸うのと同じ感覚でアヘンを吸っていた。したがって特別な罪悪意識は持っていない。なにしろ皇帝や貴族たちすら吸引していたのだから、民衆に「止めろ!」とはいえないのである。

『留園』のところでも触れたが、上流階級の家にもアヘン吸引の道具はあった。

長い煙管(キセル)の吸い口は翡翠(ひすい)、象牙のヘラを使って阿片のかたまりを練って、煙管に詰める。

枕もとには紫檀の方形の盆、そこには精緻な彫刻がほどこされ、銀製の阿片壺にも龍か何かが刻まれている。

アヘンはまさしく魔のクスリ、一度侵されたら、抗いがたくなる!

昼寝の時には心地よい睡眠剤、夜の閨房においては媚薬となる・・・まじめに考えれば恐いし、不まじめに考えれば経験してみたい!

***

アヘン喫煙の習慣につけ込んだのがイギリスを中心とした阿片商人たちだ。

その筆頭はジャーディン・マセソン商会やデント商会。かれらは日本においても、明治維新で武器商人として暗躍し、開国後は横浜や神戸にも商館を置いて利益をむさぼった。

アングロサクソンには、当時から現代に至るまで、こういった負の系譜が連綿と続いている。

鎖国政策を敷いていた当時の清国の貿易地は広州、清朝政府は北京からできるかぎり遠いところを選んでいる。

イギリスは、ヨーロッパ人の好みの茶(おもに紅茶)や絹織物、陶器などを大量に輸入していたので、当然輸入超過に陥っていた。

その帳尻をあわすためにイギリスが用意したのが阿片だ。インドで阿片を栽培して、東インド会社を通じてじゃんじゃん中国に輸出した。やがて輸出入は逆転し、当時の国際通貨である銀が中国からイギリスに逆流するようになった。

おまけに阿片づけにされた中国人は無気力になり、労働意欲を失う。農業生産が減少すると飯が食えなくなる。

イギリスはお金(銀)だけでなく、中国人の働く意欲をも奪ってしまった。

そんな状態を憂慮した清国・道光帝によって指名されたのが清廉潔白な林則徐。かれは皇帝の強い意志のもとに「阿片禁輸令」を打ち出し、徹底的に取り締まった。しかし・・・。

「なにを小癪な!」 と阿片商人たちは怒り、本国での示威活動を開始し、遂に「軍隊派遣」という愚挙に出る。

良識のある民主主義者であれば、阿片輸出のために軍隊を派遣して押さえつけるなどということは考えないはずだ。ましてや紳士の国のやることではない。

実はイギリス議会でも野党を中心に大揉めに揉めた。投票の結果、わずかの9票という僅差で派遣は決まっている。

そしてアヘン戦争が勃発する。当初、林則徐のもとに結束した清国軍は善戦したが、彼が更迭されてからは徹底的に打ちのめされた。そして中国は裸にされ、列強によって分割統治の様相を呈するにいたる・・・。

植民地主義に侵されたアジアの典型がここにあった。

***

国を思う林則徐はけっきょく更迭されたが、いまも、あのとき彼をきちんと支援していたら、その後の中国の悲惨さは無かったという議論がある。

まじめな林則徐は中国内部の腐敗によって排除された。

どういうことかといえば非常に単純である。北京も含めた保守的な支配者や官僚たちは内外のアヘン商人たちから巨額の賄賂を受け取っていた。その賄賂がなくなる・・・何処の国でも政権の末期にはこういう腐敗がはびこるようになる。そして内部崩壊がはじまる。

「時代ゆえに・・・」という言い訳は、むなしく聞こえる。



<蘇州・山塘街〜明・清の町

1759年の乾隆帝の時代に蘇州の画人・徐揚というかたの描いた『盛世滋生図』という図巻がある。当時の蘇州の繁栄を描いた長編(巻物)であり、以下のような記述がある。



蘇州の繁栄

<この図巻は、蘇州城内を逍遥し、山塘橋から虎丘へと帰っていく、その間の蘇州城内外の繁華な様子や、田野村落の生活の姿を細かく描写している。

街路には人があふれ、商店は幟(のぼり)を上げ看板を掲げ、庭園では人が憩い、運河には舟が密集している。

その図巻に描かれている人の数は12,000人、舟やいかだは大小400隻、商店は230店あまりという。当時この町に存在したもので、描かれていないものは無いほど細かく描きこまれている。>

アヘン戦争(1840年)や太平天国の乱(1850年)以前の清国の繁栄の時代、きっと、想像を絶する賑わいを呈していたのではないだろうか。

***

水の都として知られる蘇州は、文化の都でもある。

明・清時代にこの町の文化をリードしたのは財を蓄えた商人たち。

商人の文化は、絢爛を好む皇帝の文化とは一線を画する。かれらの好んだ美は“シンプルな雅”。

もう一つ私が思ったのは、民族としての差異のこと。北京文化は満人(満州族)によって作られた。その満人政権や派手な文化を、冷ややかに見つめる豊かな漢人たちが、蘇州にいたという事実。

加えて蘇州には頭の良い文人・士大夫が多くいた。



若い中国人の旅行者も多い



こんな光景も

夕刻、山塘河(シャンタンホー)に沿った街を歩いた。

蘇州でも著名な町・山塘街(シャンタンジエ)だ。

明・清時代、蘇州城から斜塔のある虎丘へとつづくこのあたり(山塘街)は商業の中心地として大いに栄えた。運河を伝って全国から物資が流れ込み、周辺から人々が押し寄せてきた。

川の上には画舫(がぼう)という風雅な遊覧船が連なり、両側には店舗や旅館、料理屋がひしめき、美食もここに集まった。

今も多くの観光客はここを目指して来るが、昔の繁栄を感じ取ることはできない。

水辺に“相思閣茶房”という喫茶を見つけた。店の名が気に入った、対岸から眺めた雰囲気もなかなかのもの、休日にはきっと恋人たちで賑わうことだろう。

***

先に蘇州人の頭の良さに触れた。

調べたわけではないが、米を主食とする民は優秀な遺伝子を伝え続けるのかもしれない。日本人は世界の中で非常に優秀な民族であると常日頃から思っている。

そしてここ江南の蘇州も古くから米食文化が発達し、優れた頭脳を輩出しているという。

官吏登用の試験“科挙”の合格者が中国で最も多く、それのみにあらず、「科挙」でトップ合格者の「状元(じょうげん)」を輩出している。唐代から清にいたるおよそ1300年のあいだに「状元」は552名出ているが、蘇州の属する江蘇省の場合、とくに清代の合格者が目立つ。

日本で言えば東大法学部のトップ卒業ということだろうが、それだけこの地の人々は熱心に勉強をしたということだろう。

その状元合格者の家を知らせる案内板があった。

2mほどの細い道の両側に、白い漆喰の壁がびっしりと並ぶ。隣の家との境界が何処にあるのか、あるいは壁の内側に一族郎党がそれぞれに家を建てて済んでいるのか。

門構えの立派な家の前に立った。

「ここだろうか。ほかに見当たらない」 あるいは違うかもしれないが、あの時代、科挙に合格するだけで郷里の誇りとなり、しかもその人の生涯の贅沢が保証された。



立派な門、日本で言えば長屋門というところ
状元さんの住まいか

さて、そろそろ蘇州とも「おさらば!」しなくてはならない。

蘇州は巨艦型ホテルが増え続けている。

中国の躍進はとどまるところを知らない。しかし今も経済の停滞が心配されているように、何かの原因でつまずいたら、巨大なビル群が廃墟となる危険性をはらむ。

まあ、心配しても仕方がない。どこにもリスクは潜んでいるのだから、今後の蘇州の発展を祈るしかない・・・・・。

それにしても、小さな料簡で暴力行動や破壊活動をするのは止めてもらいたい!



<チャイナドレスと蘇州美人>

身体にぴったりフィットするチャイナドレス、脚の長い中国女性にこれほどふさわしい衣装はない。ところが、このドレスは昔から中華の女性が着用してきたものではない。

結論をいってしまえば、清王朝が誕生してからということ。

***

もともと旗袍(チーパオ)といったように、清朝の旗人(満州族の中でも中枢の八旗に属する有力貴族)の女性が着ていた袍(パオ)のこと。

したがって中国全体に広まったのは1920年代。

モンゴル族の衣装を想像してもらえば理解できるだろうか、袍(パオ)は綿入れの意で、寒冷地の満州だからこその上着である。

それが上海において新しい布地やデザインを工夫して、ファッショナブルな衣装として生まれ変わった。

衿が高くなり、スリットはあくまで深く、ボディラインを強調するタイトなものがデザインされるなど一気に広まっていく。流行を後押ししたのは、銀幕のヒロインたち。彼女たちが映画の中でみごとに着こなし、男どもはため息をつく・・・さて、あなたはどんなデザインがお気に入りですか?

上海の専門店では簡単に採寸して仕立ててくれるようです・・・。

***

ここで蘇州の女性のことに少し触れてみたい。

昔から“蘇州美人”ということばがあった。形容してみると次のようになる。すばらしい。

<その姿はすらりとしたなで肩で襟首が長く、骨ばらぬほどの優さづくりで、眉は三日月型に曲がり、目元すずしく、振り返り見る眸はいつも聡明に輝いていた。>

さらに、

<読書好きで、詩文の才能もあり、裁縫も刺しゅうも料理も上手で、不平不満を言わず、質素な生活を楽しもうとする。>

さらに、さらに、

<時には夫といっしょに舟遊びをして酩酊するまで酒を飲むこともいとわない・・・>

こんな人、いるわけ無いでしょう!!!

***

“容姿端麗にして明眸皓歯”ということばが頭に浮かんだ。

わたしのこの“江南の旅”では、残念ながら、そんな“蘇州美人”と知り合うことができなかった。

次の機会には、もう少し落ち着いてじっくりと女性観察をしてみたい。

なにしろ蘇州には女性だけでも500万人の方が住んでいらっしゃるのだから・・・。

(つづく 「江南を歩く 6魔都上海」へ


△ 旅TOP

△ ホームページTOP


Copyright c2003-13 Skipio all rights reserved

中国江南を歩く
(5)美女と歌と快楽と