鎌倉の初夏を歩く(1)
2010年6月


 ここはどこでしょう?

 人の足で磨り減った鎌倉石の階段をのぼると、中国風の門が見えた・・・鎌倉五山のひとつ。

 山門には「近在所寶」と掲額されていた。
 宝は貴方の近くにありますよ!

 ウム、わかったような、わからぬような禅問答・・・!


<陰 気>

のっけからこんなことを書くのは気が引けるが、あえて書きたい。

<鎌倉という町には陰気が漂っている。>

そんな気がしてならない。

南方に海が開けるほかは、三方が出口のない山で閉ざされている。今日に至る鎌倉史のなかで為政者はいくつかの切通しを開削し、交通の利便を図るのと同時にそこから陰気を逃がそうとしてきたが、怨霊たちの恨みつらみが地べたに渦巻いているこの地においてはそれらを逃すのに、「7つの切通し」だけでは少なすぎる・・・。

***

鎌倉にも京都ほどではないにしろ、殺戮の歴史が刻まれている。このことは都として繁栄を誇ったことの逆説的証明でもある。

頼朝が幕府を開闢して間もなくの建久7年(1196)、源家が実朝の死によってあっけなく終焉を迎えると主導権争いが激化した。

建久十年(1199)、頼家の吉書始めに列席した北条義時・大江広元・三浦義澄・八田知家・和田義盛・比企能員・梶原景時ら「源平盛衰記」の立役者たちは以後、合議して幕府の政務をつかさどることを決裁した。

しかしながらすぐに梶原が弾劾されたのをはじめとして、比企能員・仁田忠常、さらに畠山重忠など武蔵・相模・伊豆の有力御家人があいついで失脚、滅亡している。

***

その後は北条氏と三浦氏との抗争時代にはいるが、北条義時(政子の兄)の知略と陰謀がまさっていたため、1247年の宝治合戦で三浦一族は滅亡した。

頼朝の墓所・阿弥陀堂で自害した、一族の当主泰村の悲痛な最後のことばが残る。

「三浦家数代の功を思えば、累代は赦されるだろう。我らは義明公以来四代の家督なり。北条殿の外戚として長年補佐してきたものを、讒言によって誅滅の恥を与えられ、恨みと悲しみは深い。しかしすでに冥土に行く身で、もはや北条殿に恨みはない」 と涙で声を震わせたという。

このとき一緒に自刃したのはなんと500余名。

その86年後の元弘3年(1333)、今度はその北条氏が新田義貞に攻められる。

鎌倉14代執権北条高時は東勝寺で自害し、一族283人、郎党870余人はこれに殉じた。



源実朝が公暁に暗殺された場所は
ご存知鶴岡八幡宮大銀杏のわき

今年3月その大銀杏も
時ならぬ強風に倒れた

逆算してみると
樹齢千年ということだろうか


<無念の怨霊>

時代はさかのぼるが・・・。

頼朝は叡山の教えを武者にはそぐわないものとして遠ざけた。

<戦場でのやり取りをする武者に殺生はつきものである。ひたすら仏に許しを請うばかりでは武士の士気は萎える。命令を与えるだけで遠くから眺めている公卿とは別だ。

弘法大師の説いた真言宗こそ武者にはふさわしい。己を磨くことで仏に近づける。>

鎌倉に禅宗が栄えた源流もそこにある・・・。

しかし武士の職業は殺し合いだから死んでも仕方ないが、一般人の身にもなってもらいたい。

巻き添えを食って死んで行った市民の無念はどこに訴えたらいいのか?えっ、ヨリトモ君?



墓碑

さて恐ろしい話だが、数知れない亡者たちは、谷津といわれる谷間の奥の石を削り取った洞穴の中に1000年以上もうごめいている。

多くの禅宗の国師や高僧たちがその怨霊を慰めるべく祈りを捧げてきたが、それだけで亡者たちの怒りは収まっているだろうか・・・・否!

***

舞台は変わって、京都のおばんざい料理屋の女将の不可解な行動を思い出している。

鴨川をはさんで六波羅と対峙する一角にその店はあった。六波羅も亡者たちがさ迷う土地柄である。

彼女は夜な夜な亡霊と会話をする。

店の一角からその亡霊は現れて、なんのかのと話しかけてくる。

霊感の強いかただからこそ気軽に話しかけてくるのだろう。

「怖いことはちっともあらしません!」

現の人間はうそをついて人をだますが、亡霊はそんなことをしないという。

私事。幼時、爺さんに聞いた話では、狐や狸は人をだますと聞いたが、亡霊は悪いことをしないのだろうか?

夜中にそんなことを考えていたら寒気がしてきて鳥肌が立った・・・。

***

武士にしろ町民にしろ権力闘争に巻き込まれて、志に反して無念の中に死んでいった、そんな鎌倉の亡霊たちはひたすら地べたを這いずり回るしかないようだ。

(要領のいい奴は海側から泳いで江ノ島あたりに渡ったかもしれないが・・・)



<長谷のコロッケ>

さわやかな五月晴れの朝、急に思い立って鎌倉に向かった・・・。

江ノ電を極楽寺で下りるとその寺はすぐ目の前にあった。



極楽寺の参道

極楽寺は正元元年(1259)、北条重時(11981261)がここに念仏堂を移したのが始まりとされる。

当時は北条氏が隆盛を誇っていた時期だから、さぞかし堂宇伽藍もりっぱであったことだろう。今の小ぶりな極楽寺はそんな勢威を感じることはできないが、面影はある。

山門から方丈に続く敷石道の緑がさわやかである。

本堂の前に大きな百日紅が枝をひろげている。
 
「今年は花の咲き方がいつもと違って、変ですよ!」と説明するお寺さんが多いが、極楽寺の大木が色をつけるのもいま少し先になる。

極楽寺坂の切通しを通って長谷に抜ける。

森に住まう鶯の鳴き声がかまびすしい。初夏に近く、火照った身体に切り通しを通る風が冷たくて心地よい。

(「冬の極楽寺」は『旅』から見られます)

***

おかしな自転車に乗ったやる気のある爺さんが颯爽と坂道を登っていった。風を切って進む方向は稲村ヶ崎で、これから夏本番を迎えるが、若者の中に元気な爺さんが飛び込んでゆくのもいい。

わたしも自宅から江ノ島までクロスバイクでツーリングしようと、地図を眺めたりしながら、このところずっと考えている。往復約100kmの長い距離だ。ぜひやってみたい。

長谷のこのあたりにも由緒ある古風な民家が並んでいる。中をのぞいてみると、昔風の雨戸が閉まっているのが見えた。

***



「いろいろなコロッケ注文で揚げます」
商売の目の付けどころがいい



揚げたてだから美味しい

長谷から大仏までの数百メートルは若者たちで大混雑。まさしく一大観光地で、土産物購買欲を刺激される。

小腹が減っていた。

目に入ったのが、『いろいろなコロッケ』の文字。宮代(みやだい)商店はいろいろなタネのコロッケを、注文を受けてからその場で揚げてくれる。

ホッカホカのコロッケを老若男女がほおばる姿は微笑ましい。すこしPRとご紹介を!

“そのままカレーコロッケ”170円、“クリームコーン”170円、“肉クリーム”120円、 変わったところでは“ピリピリカラッケ”120円、“わさび婦人”120円、“プリプリシュリン”300円などなど・・・。

これをティッシュでくるんで歩きながら食す、一味違った『鎌倉歩き』になること請け合いです!


ハイキング>



民家を改造したレストラン(長谷)

この日の目的は“大仏ハイキングコース”にあった。久しぶりに大仏さんにもご挨拶をしたかった。

「大仏の体内に入って、山の上からハイキングコースに抜けられますか?」 と、切符売り場で問いかけたところ、
 
「いったん下にもどらないと上には行かれない!」 という返事。

それでは時間がかかってしまうからと、50年ぶりのご対面はかなわなかった。

まっすぐ車の烈しい道を進むとトンネルがある。

およそ90年前の大正12年、大仏次郎はこのトンネルはの向こうの山の中腹に住んでいて、関東大震災に遭遇している。

<家は大仏の裏、山際を通う細径を一町半も登った山腹にあるもので、タヌキが書斎から覗き込んだというくらい寂しかった。・・・>

と書かれた文章が残るが、この狭い道では逃げ道に難儀しただろうことは容易に想像できる。

***

トンネル手前の右側の急階段を上り始めようとすると、二人の年配の、昔はさぞかし美人であったろうと偲ばれるご婦人たちが降りてきた。

「いかがでしたか」 とたずねると、

「道がぬかるんでいて、それが急勾配の坂道だったので、ちょっと困りました。わたしたちには少し厳しかったわよね」 と、互いにうなずきあう。

たしかに二人の女性がコメントしたように日陰の坂道は湿っていて、ところどころに泥濘(ぬかるみ)があった。急坂もあり、そこは滑りやすく、たいへんだったというのは本音だろう。

しかしながら、ひっきりなしにハイカーたちとすれ違う。緑におおわれた山道のすぐ近くに人家の屋根が迫っており、山というより子供たちの遊び場といったほうがピンと来る。

***

鎌倉の人気スポットが基点となって、ちょっとした山歩きが楽しめるだけに人気が高い。本格的な日本アルプスは年寄りに席巻されているが、ここ“鎌倉アルプス”にはむしろ若者が集まってくる。もちろんリタイア組の年配のご夫婦連れというのも少なくはない。

それぞれの初夏の鎌倉を楽しんでいるという雰囲気がありありだった。


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