上高地から西穂高・独標行
苦しい歩行の先になにが
2014年7月1日〜3日


1)序章



上高地 雪融け水の奔流

「自然のなかで心を豊かにして人生を楽しみ、充実した晩年の歓びを感じる」
中国紀元前3世紀、激動の戦国時代を生きた荀子が唱えた『美意延年』のことばは上のような意味だろうか。成年の時代は小国の宿命に翻弄され『性悪説』を主張せざるを得なかった老いた儒家がたどりついた、後世に対するメッセージのように受け取れる。
後世を生きるわたしは、単純にことばのいいとこ取りをして“延年”を楽しんでいる。
ところが今回の山登りは、非常なる苦痛を伴った・・・さてはて。

***

何故にわたしが山歩きをするようになったのかを、覚えていない。

周りに山らしきものがまったく見えない、太平洋側の台地の端に育ち、山と言えば林間学校でのキャンプ経験ぐらいしかなかったのに。

単純に赤い花を求めるという、無いものねだりの幼児性があったのかも知れない。

大学に入って初めてスキー部の友人に誘われて山に入り、何かを感じたのか、あるいは後年、川端の雪国を読んだりして駒子のイメージを追いかけるような軟弱な本質が露出したからだろうか。

北海道のころを思い起こせば、よく温泉浴を兼ねて低い山を訪ねた。それはかなりのなまくら発想で、ゆっくり、ゆったり、あくまでマイペース。苦しい息をこらえて急勾配を登ることなどは思いもよらなかった。

ただ心のなかで山を想像する楽しみは育った。高みにひっそりと佇む静かな湖や雪の残る熊笹の茂みの向こうから雷鳥の声を聞くなど、夢は広がっていった。


ここまで書いてはたと思いついたのは、山への明確なきっかけはあったのかもしれないということ。

仕事が一区切りした時の、充実感とは正反対の疎外感、ぽっかりと空いた心の穴、いたずらに時を待つのではなく、その穴を早く埋めたかった。そのための行動が山だったのだ。

人生には情緒が大切かと思っている。

乾いた大地やガサツな人やモノ・サービスを好まない。言い換えてみれば“瑞浪の国、緑豊かな大地”、 “しっとりした日本人の情感”、“すべすべしたひと肌”が近くにあることを願いつつ過ごしてきた。


しっとりした情感を求めるなら夜汽車がいい、いや、旅は夜汽車であらねばならないとまで思いこんでいる。

暗くて寒くて、なにも見えない夜汽車の外と、暖かいぬくもりのある車内という対比があって、情感は高まり想像力は膨らむ。わたしはいつも温かい側にいて、ビールを片手に釜めしをつついている。

しかし幻しい想像は想像でしかなく、現実ではない。

山の頂きは想像の頂きとはかなり違って、小雪交じりの寒い風が吹きすさび、岩がゴツゴツして座り心地はよくない。

想像と現実のギャップは常にあって、山登りはその繰り返し、安易な喜びと急激な落胆、軽薄なわたしの人生そのもののようである。


山行きは山に登らないのがいちばんだ。これが厳然たる結論である。

***

・・・・・降りてきた直後にはいつもそのことを思う。しかしながら日数が過ぎるとその気持ちは引っ込んでまたムラムラと挑戦意欲が湧いてくる、性懲りもなく。


2)上高地を歩く

7月初めのウイークデイ、新宿発上高地行高速バスは予定通り正午少し前に、この日宿泊の上高地帝国ホテル前に到着した。



予約が取れないといわれている上高地帝国ホテル

今回はS隊長のご努力で泊ることができました

降り立った旅人は5名、いずれも初老とはいえ若者には負けない気概と挑戦意欲に満ちていた。

これに、電車と乗り合いバスを乗り継いできたU氏が加わって、総勢6名は好天のバス道路を歩きはじめた。

新緑の上高地はさわやかそのもの、木漏れ日が目の端を横切る。半袖の上に薄手を羽織ってちょうどよい温度、2023℃くらいだろうか。

鶯のさえずりが聞こえてきて心地よい。1500mという高地にも鶯は住めるのだろうか。「ホーホケキョ・・・」を繰り返す発声は我が家の周りで聴く鳴き声とまったく同じ。

「もうすこし工夫して鳴いて、サービスしてくださいな」 と言いたくなる、「せっかく山の奥まで会いに来てあげたのだから」。


遊歩道のクマザサの茂み、広葉樹の木立の上に猿たちが散らばって賑やかだ。

「食べ物を与えないように!」 の看板はあって無きようなもの、猿の親分は人の手の届かない高みに登って人間様を睥睨している。

これがリスなら気にもかけないが、猿は賢い、いや悪賢い。

かれらが万一攻撃してきたら・・・想像したくないことが現実になったらと考えると、ぞっとする。

オランウータンと同居する人間を否定しないが、猿は動物園が似合っている。



その河童橋のうえで記念撮影



5月に撮った写真より

すぐに河童橋にたどりついて、「このあたりで昼食ですね!」と橋を右岸に渡る。

この橋に上がったらいつも、まず頭を上げて上流を眺める。梓川の清流のはるか向こうに、縦に割れた幾筋かの雪渓が見える。大きな割れ目は岳沢だろうか。雲に隠れて明確な頂上を現さないが、左から西穂高、ジャンダルム、奥穂高と崇高なアルプスの峰々が並んでいるはずである。

山の先達たちが技術を磨いて、気力と挑戦欲とを駆り立てて制覇した峰々。いまもごつごつとした岩稜は冷然としていて安易な人間の挑戦をこっぴどく退ける、とくに冬季においては。


身体を反転して下流を眺める。

逆光の中にどっしりとした三角形が見えた。近づいて凝視すれば痛々しく削られた山肌と、白い煙が見えるはずである。これが活火山の焼岳で、標高は2455m。実は当初この山に登るという計画もあったが西穂の独標(2701m)に変わった・・・。




河童橋から逆側の眺め
水色の梓川と焼岳

コバルトブルーの流れと明るい光の中に白い羽毛が舞っている。
綿毛のついた柳の種だ。そういえば札幌の中島公園のマンションでは初夏にポプラの綿毛が舞って、白い吹き溜まりを作っていた。
梓川の両岸には化粧柳が植えられていてその種子が舞っているのだろう。
柳絮(りゅうじょ)という難しいことばが頭に浮かんだ・・・柳絮といえば北京のイメージだろうが、強い印象があるのは小説のなかの綿毛の飛翔だ。
宮尾登美子の『朱夏』であったか、藤原てい(新田次郎夫人)の『流れる星は生きている』であったか、敗戦直後に苦労して満州から引き揚げるハルピンや新京(長春)の町の柳絮は、作者に同化してしまったわたしには忘れ難い記憶となった・・・。

***

ちょうど昼時を迎えたので、対岸の白樺荘でランチ。

この店の一押しメニューは揚げたてのコロッケだろうか。

もし愛する若い女性と梓川のほとりを歩くなら手にするのはソフトクリームだろう。しかし小腹が空いた小父さんたちにはコロッケを否定しない。

腹ごしらえを終えると元気が出てきた。さあここからどこまで歩くのだろうか?


3)上高地を歩く 氷壁の宿・徳沢園

 昼食を終えて梓川河畔を歩くことにした。翌日の登山の足慣らしのためだ。

 往復12kmの往きは左岸を選んだ。

 歩き始めは緑がまばゆいばかりの森のなか、やがて山が姿を現し、川音が聞こえて、いつの間にか荒荒とした水量豊かな流れの畔を歩いていた。水際に下りて流れに手を入れてみる。手を切られるように冷たいのは雪解け水のせいだ。顔を上げて眺めた対岸の山々はまだたっぷりと雪を抱いている。山の上は雨かもしれない・・・。

 信飛の自然豊かな国境の奥で、無粋を知りつつ世事のあれこれを語り合って歩くうちに徳沢に着いた。

 6kmの距離を感じなかった。



山の上はまだ冬の気配

真中右中腹の残雪に”熊さん”の顔

 徳沢園には『氷壁の宿』という副題がつく。

 名物は普通の“ソフトクリーム”、何故名物なのかといえば、このあたりで冷たいものを食したいといってもここしかない、そしてこれがス・コ・シ、柔らかい。

 柔らかさが禍いを招いた。最後に受け取ったわたしの手のなかのこいつが途中で折れて、べチャっと土間に散らばった。

 すこし柔らかいとは感じていたけれども、こんなことは初めてなので驚いた。すると、

 「すみませーん、すぐに取り換えますからぁ、折れるかもしれないと思ったのですけど!」とお手伝いのギャルから声がかかった。わたしは鷹揚で、そんなことで怒ったりしない。

 もう一度ねじ入れたクリームも、なんだか、ナヨとして崩れ落ちそうだ。

 「あのー、それをそのまま、カップ(コーヒーカップ)に入れてもらっても大丈夫ですよ」 とわたし。

 「すみませーん、ではそうさせてもらいます。ありがとうございます」



徳沢園にて

 縁は異なものとはよく言われる。これがきっかけで会話が始まった。

 「『氷壁の宿』の看板が出ていますけど、井上(靖)先生はお泊りになったの?」

 「ええ、そのように聞いています」。アルバイトのギャルさんは気さくで屈託がない。

 「小説のことは知っているの?」

 「ええ、このあいだ読みました」。

 「じゃあ、ちょっと難しい話で・・・あの“ザイル”は切れたと思う?それとも切ったと思いますか?」

 「それは知りませんけど、どうだったんですか?」

 「わたしは知っている!あれは切れたのですよ!」

 「へええ!」

 小説発表後にこの話題は尾ひれをつけて世間に流布された。

 ザイルの強靭性は躍進する日本企業の良質な製品の象徴であり、それを担保する意味でも切れてはいけなかった。あの時代はそんな風潮があった・・・。

 このあと彼女に集合写真を撮って欲しいと頼んで、そのついでに一緒になかに入ってもらった。明るくて好印象のこの方にプリントして送ってあげなければ、と思っている。(未達、夏休みの間になんとかしなくては・・・)

 ここから横尾まで1時間、そこから大展望の開ける枯沢(からさわ)まで3時間。木曽駒ケ岳の千畳敷きカールと並んで著名な枯沢カールは、今回は無理でもいつかぜひ見たいものだと願っている。

 今回、靴を新調した。

 前から履いていたのが、つま先に割れ目ができてそれが目立ってきたから、登山中にトラブルがあってはいけないと思い買い換えた。日本人の足にピッタリということで“SIRIO P.F46”を選んだが、すごいフィット感で大満足・・・しかし、靴がどんなによくてもスイスイと登れるものではありません!


(4)嘉門次小屋と明神池



明神橋のたもとに勢ぞろい


 下りは明神まで左岸をもどって、明神橋から右岸をたどることに。

 橋を渡ってしばらく行くと林の中に“嘉門次小屋”があらわれた。

 上高地といえば嘉門次、明治29年にイギリス人宣教師ウエストン卿によって、「北アルプスを知り尽くした山の案内人」として世界に紹介された。

 また、北アルプスの高嶺に“穂高岳”の名を冠した鵜殿正男は、はじめて槍ヶ岳から穂高岳に縦走したときの、嘉門次との出会いを次のように書き記している。

 <明治42812日正午、上高地の仙境に入門する栄を得た。当時、この連峰の消息を知っている案内者は嘉門次父子の他はあるまいと思って・・・15日を登山日と定める。>

 <嘉門次は今年63歳だが、三貫目余の荷物を負うて先登するさまは、壮者と少しもかわりはない。・・・クマザサの茂れる中を押し分けて登る。いかにも、人間の通った道らしくない。大雨の折に流下する水道か、熊やカモシカどもの通う道だろう。>

***

 1847年(弘化4年)、嘉門次は安曇村明ヶ平に生まれた。

 村は当時の山村の例にもれず決して豊かではなかった。村人は5月から10月まで杣小屋にはいって樵の仕事をする。

 世に名を売る方というのはみな子ども時代からその片鱗を見せる。

 嘉門次は頭がよく、漁労にも狩猟にも秀でた技を見せた。

 見よう見まねで始めた岩魚釣りがいつしか名人と称えられるほど上達した。

 まことかどうか、この話は疑ってかかるしかないが、当時の上高地周辺の河川には「岩魚7割、水3割」といわれるほど多くの魚が群がっていたという。“誇張”とひとことで片づけてしまうのではもったいない。昭和4546年ごろに旅をした八ヶ岳山麓でも同じような話を聞いたことがあるのだから。

 それにしても名人の称号がついて、岩魚を釣って、干物にして、下の村で売ったという逸話は容易に想像できる。

 明治13年かれは明神池の近くに、自身の小さな世界を守るための小屋を建てた・・・・・それが“嘉門次小屋”。

***

 さて現在ただいま、わたしたちは嘉門次小屋で一休み。

 昔は豊富に住んでいた岩魚もいまは養殖だろうか、その岩魚の炙りを、コツ酒といっしょに頼んだ。

 焼いてもらっているしばしの時間を利用して、となりの明神池を散策した。

 300円の入場料をとるのは、明神一帯が“穂高見命”という天皇家の祖先を祀った、神の領域だから。

 静寂の世界、ここで嘉門次が独り、岩魚漁に精を出したという話がうそのように思える。



明神池を背景にダンディ氏

 小屋に戻ると、思いもよらず、実に珍しい方にお会いすることができた。

 嘉門次の家系は嘉門次→嘉与吉→孫人とつづいて、現在の当主・輝夫さんは四代目、すなわち曾孫にあたる輝夫さんが、小屋の外に出てこられた。



嘉門次さんの曾孫の
輝夫氏

 わたしは耳を疑ったが、若いアルバイターが確かに「嘉門次の曾孫にあたります」と言った。

 会おうと思ってもなかなか会えるものではないので驚き、また偶然に感謝もした。

 これはなんとしても写真を撮らなければと思い、すぐに所望すると、快く応じてくれた。



コツ酒



焼きイワナ

 岩魚のコツ酒と塩焼きを前において記念撮影。同年代ともいえるわたしたちグループに親近感を感じてくれたのかもしれない。

 少し耳が不自由なように見えたが、清浄の空気を吸って、神域の自然を眺めて、ぜひ長生きをしてほしい。


(5)酸素不足で西穂山荘へ

 翌朝はよく晴れて、穂高橋の上で出発前のスナップを撮ったときは、このうえなく爽快だった。

 ここから西穂山荘(高度2500m)まではほぼ1000mを登る。どなたか若い方のブログでは「意外と簡単にスイスイ登ってしまった」 と書かれていたので、気持ちのなかは楽観が支配していた。



出発の朝
ボリュームたっぷりの朝食


 森の冷気はひんやりと、ほてり気味の図体に気分転換をうながしてくれる。

 登り始めは気分もよかったが、徐々に息が苦しくなる。これはいつもの話、心配はしていなかったが、はてな、どこか違う・・・。

思えばこのところ無節操な毎日、体調管理にルーズで登山に確たる自信はなかった。しかもずっと登りっぱなしのコース、徐々にせまってくる苦しさは年齢のせいか、それとも体調不良のせいか?

そんな理屈と関係なく、酸素吸入量が少なくなっていることを自覚して、ゼーゼーハーハー、登って、登って、また登り・・・。

***

 登山における事前準備というのは高山に耐えるだけの体質と持久力を作っておくことである。

 わたしの場合脚力は、平生から早朝散歩で鍛えているのでなんとかなる、問題は呼吸系統。

 2500mの高度では血中の酸素濃度が10%も低下するため身体内の細胞がいそがしく酸素を取り込もうとする。

 その際に体重の多さが阻害要因となる。

 だから苦しい。苦しくなる体質に出来上がっているのだから仕方ない。

 しかし、そんなこととは関係なく、年上のお三方は順調に登っていらっしゃる。

 胸の内で、(体重を落とさないといけない・・・)のことばが呪文のように繰り返される。


 そういえば山登りといえばいつも必要以上に水が恋しくなるのに、この日は水への欲求が少なかった。そのことがすでに変調の前触れだったのだろう。

 ふだんなら変化を喜ぶ途中の残雪にも気持ちは動かず、無感動にすぎる。

 午後1時、やっとのことで西穂山荘に行き着いた。

***

 我が登山隊長は「今日はこのまま独標(どっぴょう)まで登ってしまいたい!」 と恐ろしいことを言い放つ。他の隊員もそれに応じる構えでいた。

 わたしはもう無理、このまま山荘で寝て待つ、みなさん、行ってらっしゃい!


 山荘でコーヒーをご馳走になっていたら雨が降ってきた。

 「どうしますか?」 と迷っていらっしゃる。

 わたしには天啓の慈雨に思えたが、まだ登ろうとしている、わたしにはかまわず、どうぞ行ってらっしゃい!

 結果的にこの日の独標行きは中止となった・・・。



右が焼岳

雲の向こうに見えるのが乗鞍

 わたしの健康状態はあいかわらず優れず、とうとう悪寒までしてきた。

 脱水症状に高山病が重なったものか、2時間ほど、独り蒲団にくるまってブルブルと震えていた。

 夜の団らんにも参加せず早寝した。明日、回復したら、独標に登ろう!


(6)鋸歯の岩山へ


 朝は早くやって来たが、十分にとった睡眠のおかげで体調は回復した。そのように思えた。

 しかし前日の状態は普通ではなかった。2700mの高さにある独標まで高低差ほぼ300m、距離も短いというものの、こういう時が一番危険なのかもしれない。

 山登り愛好者の方にとって“独標”は初心者の山といわれ、知らない人はいないと聞いた。その理由は西穂山荘から距離が短く時間がかからないこと。

 また、南から険阻な西穂高の高嶺にたどり着くためにはここを経由するしかなく、その先は上級者用といわれているため、独標で折り返す方が多い。

 新穂高ロープウエイの終点からも尖った山はよく目立つ。

 “独標”の名は普通名詞のようでかわいそうだから、もっと凛とした名をつけるべきという意見もあるようだが、わたしはかえって、孤高を保っているような名で好ましく思う。

 おっと、そんな悠長を言っている場合ではない。

***

 歩き始めの足元は、整備された岩が広がる。濃霧対策だろうか、ずっと道標の矢印が大きく目立って、道を間違えることはない。

 短い灌木しか生えない尾根道はすっきりと先まで見通せる。

 孤高の監視人ともいえる登山隊長が、その行く手に鋭い視線を投げかける。


 切り立った大岩のあいだを、太った肉体を確保しながらよじ登り、三角点まで到達するにはかなり骨がおれた。途中で投げ出すわけにはいかない。

 苦しい息のなかで自身に活を入れる。

 そして登頂!



西穂高岳独標
2701m 登頂!

<道はますます険しくなる、鋸歯(きょし)状の小峰を超えること五つ六つ、最高峰奥穂高の絶巓(ぜってん)に攀じ登った。(鵜殿正雄)>

 明治の登山家の文章は正鵠を得ている。

 「鋸歯(きょし)状の」という形容詞は穂高全体を表すには的確だし、「絶巓(ぜってん)」は『独標』に呼応しているように思える。


 頂上は猫の額ほどのゴツゴツした岩場でゆっくり休める場所もない。足元が安定しないから、登頂記念の写真を撮るのに身体が揺れた。

 そのさらに先の、西穂高に向かう岩場は、霧に覆われて足元すら定かに見えない。霧の流れの中から西穂の頂が瞬時顔を出したが、あっという間に姿を消した。



切り立って立つ西穂高が顔を出した
さあ進む?
それとも引き返す?

 危険がイッパイの独標だったから、戻れたときには心底ホットした。

 西穂山荘を経由して新穂高ロープウエイまでの下山は鼻歌が出るほど快適だ。

 振り返ってみれば鋸歯(きょし)状の小峰は相変わらず霧の中、先ほど上った独標がかろうじて認められた。



真中やや右の尖ったところが独標
西穂高からさきはガスっている



岐阜県側の山々

左手に突き出た山が笠が岳

 さあ、温泉だ!



 かつて平湯には、木造の温泉旅館が軒を接してならぶ、セピア色の古臭い、しかしながら藁の匂いともいえるような懐かしいイメージがあった。

 冬は雪に閉ざされて他国者の侵入を阻む異界であったのに、いいのか悪いのか、安房トンネルが通じて関東の直近文化がいち早く到来するようになった。バスの直通路線も開通して、いまや完全に関東文化圏だ。

 すべての日程を終えてあとはバスに乗るだけ、バスターミナル隣の蕎麦屋で腹ごしらえ。

 メニューのなかで「飛騨牛」の文字が存在感を示していた。



美味、飛騨牛の陶板焼き

 これがこの旅一番というほど美味かった。

 ビールの酔いと、飛騨肉を消化しようとする胃の働きが快適な眠りを誘って、目が覚めたときには東京に着いていた・・・。


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