秋田の夏2013−4
洗練された文化の残る角館


1)再訪、武士の町



稲庭うどんの本場




城下町の道はどこもクランクになっていて
追っ手の眼をくらます
今は雨が止んでいる・・・


 
前夜、友人宅で友の愛妻の料理をいただいた。 わたしはかれらが、中学校時代からの付き合いであることをよく知っている。もう50年以上の長きにわたって愛情をはぐくんできた。
 波風がたたなかったなどということは想像できないが、彼女は友人の両親を誠実に介護した。いろいろな問題を、二人で克服してきたのだろう。穏やかないい関係がずっと続いている、もって見習うべし!

 実はかつてこの友人に軽い調子で言われたことがある、きっと酒の席だったのだろう、冗談っぽく。かれにはふたりの美人の妹がいる。
 「おまえに下の妹をもらって欲しかった」。
 ホロリと、そんなことを思い出した。

 秋田からの帰り道、

(せっかくここまで来たわけだし、時間もあるのだから角館にでも寄って帰ろうか、東北の小京都と呼ばれるこの重厚な武家屋敷の町を訪れるチャンスなど、そう簡単にやってくるわけではない、桜などなくてもかまわない!)と、不埒な考えをめぐらせた。

(いい加減にせよ!) と天の声がささやいたのかもしれない。

朝、秋田を発つ特急が、このところしばしばこの地を襲っている雨の影響で2時間も遅れてしまい、完全に出鼻をくじかれてしまった。

良識の徒であれば、ここで考えをひるがえして東京までそのまま帰ってしまうのだろうが、旅先でのわたしはあくまで貪欲である。あとのことは考えず、とりあえず下車。雨模様の空は好転せず、ぽつりぽつりと嫌な雨粒が落ちている。駅売店で天気予報を尋ねたところ「きっと、また降りますよ」 と、つれないご宣告を享けた。

(間違いなく降るだろうな)と思いつつ駅前の観光案内所に立寄る。簡単な地図と“東北パスポート”なるカードを手に入れ、ゆっくりと角館を歩き出した。



秋田県の誇るローカル紙
秋田魁(さきがけ)新報
角館支局

・・・・・この町ははじめてではない。ずいぶん前の遅い春に、東京から長い距離を運転してきた。名物の“枝垂れ桜”はすでに緑の葉桜に変容し、観光客の去った、しっとりと落ち着いた屋敷町。

武家町と商人町とが明確に分かれているこの町の、明快な記憶を昨日のことのように頭に浮かべることができた。

三方を山に囲まれ、南の玉川筋によって仙北平野に対面している地形は、城下町を形成するに適していたのでしょう。いまの城跡を北端に、武家町(内町)、町人町(外町)と、他の城下町と同じような町造りに成功している。

その後の長い年月を、大きな戦禍や火事にも遭わなかったために、昔の町並みがそのまま現代に残った。これは奇跡と言うしかない!

旅人にとってコンパクトなこの町は至極歩きやすい。駅からほぼ10分、まっすぐに歩き、突き当りを右に曲がれば“武家町”の家並に出合う。

***

土地の名物に“もろこし”と呼ばれる和菓子がある。

というより、こう書くと他の和菓子屋さんからお叱りを受けるだろうが、角館には“もろこし”しかないとも思う。

ことばのルーツはもちろん中国。“もろこし”の漢字は一字で“唐”と書く。“日本書紀”にもそう記されている。

昔からこの地方を含む出羽の国では良質の小豆が栽培されており、普通はこれを煮込んで餡子(あんこ)として食するのだが、秋田では熱で炒って、粉にして食した。

そのあたりが和菓子“もろこし”の原点だろうか。



その名もズバリの店・『唐土庵(もろこしあん)』には以前も立寄って土産を買った。

以前とすこしも変わらないその店に入ると、店の後継者と思われる若者が声をかけてきた。

「わたしどもが角館で“唐土(もろこし)”を名物に仕立て上げたルーツかと自負しています。いまは競争する作り手も出てまいりまして、切磋琢磨しつつ、いいものを造るべく努力しています」。

優等生のセールストークには感心したが、品質を大事にしてくださいね!



お土産屋さんにて
ノリのいいかたでした

その競争相手の『くら吉』とこの『唐土庵』の、両方を土産として持ち帰り食べ比べてみたが、結果は「甲乙つけがたし!」。

口に含むと上品な香ばしさがひろがる。炒り小豆の風味であり、滅多に味わえない不思議な上品さがある。「この“上品さ”が角館のすべて!」というのは、ちょっと褒め過ぎだろうか。


2)勘定役 石黒家

この町でもうひとつ有名な民芸品が“桜皮細工”だ。

200年ほど前の藩政時代、江戸の後期にはこういうことがどこの藩でも普通にあったように聞いているが、この地の下級武士たちも手内職に精を出した。

そのひとつが、角館が内外に誇る“樺細工=桜皮細工”だ。

秋田の国では何処の家にも一つや二つ手仕事の樺細工製品が置かれている。

かつては煙草入れ、今は茶筒・茶入れがいちばんポピュラーだ。わたしもなにかひとつ求めようとした。個人的に老後の趣味としたい、“書道”のための“すずり箱”が欲しかったが、2万円もしたのでここは我慢した。

内への土産として手ごろな手鏡を購入、いいものはやはり高い。



柳宗悦は『手仕事の日本』のなかでこの樺細工について、

<その色や艶や強さは、天与の賜物で、この仕事のもつ大きな強みです。>と指摘しながらも、

<近ごろはこれに模様を加えることが流行って、かえって自然を人工でこわすようなものが多く、残念に思います> と苦言をも呈している。

「たくさん売りたい」と考えるならば、どうしても他人との差別化を考えて余計な模様を入れようとする。仕方ないとも思うけれども、やはりシンプルで使いやすいものがいい。そして使い込むほどに味の出るものがいい。



武家の町 角館

さて角館といえば、400年の歴史を語る“武家屋敷”に触れないわけにはいかない。

その石黒家に入ったのは二度目、前回と全く同じ説明をボランティアの女性にしてもらった。

寒い土地柄なのに木造の簡素な造りは冬を過ごすにはさぞかしご苦労が多かったろう。

武家屋敷の間取りというものは、大名から家臣にいたるまで大きさこそ違え、ほとんど似ているように思う。目上を迎える玄関が別にあって普段家族はここを使えない。玄関を上がると控えの間があって、奥に客間がある。

欄間に“亀”を掘り込んで影絵に映るさまを楽しんだのかどうか、そんな話は日本人らしく芸が細かい。



石黒家
来客用玄関



武家の屋敷にも
囲炉裏を囲んでの団欒があったのでしょう!

ボランティアさんに石黒家の出自について尋ねた。

そのまえに秋田・久保田藩(久保田は秋田の地名)と角館・佐竹家について知らねばならない。

角館は秋田佐竹藩のうち佐竹北家の城下町。

司馬遼太郎の『街道をゆく29 秋田県散歩』では次のような解説をしている。

<秋田県は、おっとりした大旦那のような風のまま、江戸期を過ごし、近代に入ったのである。

おっとりした大旦那といえば、佐竹家そのものがそうだった。

江戸期、二百七十余りの大名がいたが、ほとんどが戦国期の成りあがりで、源頼朝以来の大名といえば、薩摩の島津氏と佐竹氏しかいない。

佐竹氏は、長く常陸国にいた。

すでに平家政権のころに大きな勢力をもっていたから、頼朝以来という薩摩の島津氏より古い。まして徳川氏など物の数ではない。>


3)佐竹北家家臣、青柳家

秋田久保田藩の殿様佐竹氏を詳しく探ってみると、

新羅三郎義光に始まる清和源氏の流れを組む名門で、戦国期の佐竹義重は常陸太田(茨城県)を根拠に近隣を従えていた。

ところが、関ヶ原前夜の上杉征伐に曖昧な態度をとり、そのうえ当主佐竹義宣が石田三成と昵懇であったために、徳川は50万石以上と目される旧領を没収した。

その結果としての秋田移封である。


角館の石黒氏は、佐竹北家(きたけ)の勘定役(財政)を担当、芦名氏断絶の後を受けてこの地(角館)に入った佐竹義隣(よしちか 16191702)に召抱えられた。

この家は嘉永6年(1853)に手に入れたようだが、主屋の部分は当時とほぼ変わっていない・・・という説明だ。

***

江戸時代に入って佐竹家は、一門家臣を封地に屋敷を構えさせるという、厳密には一国一城令に反した政策を取った。

常陸太田時代以来のいわゆる佐竹四家は、佐竹東家が久保田(秋田市)城下に、佐竹西家(小場家)が大館(おおだて)に、現在も城下町の面影を残す角館には佐竹北家が配置され、それぞれが治めることになった。

以上が石黒家訪問の折に聞きだした、佐竹家統治のあらましである。


石黒家のあとそれより一回りは広い“青柳家”の門をくぐった。

この屋敷はすごい、おタカラの宝庫だ。

刀剣や鎧・かぶとのような武具、金箔を施した漆器、印籠、秋田蘭画、数千枚は保存されているという陶器の皿や茶碗、酒器の類(九谷の焼き物)、書画の数々など、往時の栄華の跡がしのばれる。






青柳家での展示
直径50cmの大皿

青柳家は展示品もさることながら、よりいっそう観光地化されていて、回遊経路にしたがってスーブニールショップに出くわす。ここで何人かの素敵な売り子さんに出会った。これも旅の楽しみの一つ。お粗末ながら、喜びすぎて話に熱中、写真を撮るのを忘れてしまった。

ひとつはしっとりと落ち着いた藍染生地の店“写楽”。上品でおっとりした年配の女性は、「藍染に接していると気持ちが落ち着きます。日本各地から吟味して、いいモノを仕入れて売らせてもらっています」と控えめのトーク。



藍染
写楽

時間があれば、夕食にでも誘ってみたいという誘惑に駆られた。

こちらには西馬音内盆踊りの藍染衣装の鮮烈な記憶がある。しごく短絡的に荷物を増やしてしまった。

もうひとり若いかたを。

さきに出てきた菓子“もろこし”の競合店『くら吉』で応対してくれたオナゴ。センスがあって丁寧、そして素朴。都会ではなかなか見つけることができない。おかげでこちらの気分も明るくなった。このかたに、「比内地鶏をいただく店でお奨めは?」 と聞き出した・・・。

高貴で洗練された女性のセンスは、この地のプライド高い歴史によるものであったのか!



着ているもののセンスもいい
”さとくガーデン”にて


4)比内地鶏「しちべえ」



デザインモノ土産が一堂に(『たてつ』にて)

町に客を呼ぶためには、町の大いなる自己主張や、それのベースとなるコンセプトが重要な役割を果たす。その辺りの仕事は裏で、訓練された玄人の広告屋さんが仕切るのが通常。これを素人がやったら、たぶん、結果はろくなことにならない。それにしてもこの町は良質な素材にあふれている。

角館は江戸時代とすこしも変わらない武家町の遺構と華やかな枝垂桜で売り出した。

町のカラーは黒、あるいは黒茶。この色が武士の威厳や町の重厚さを演出する。数ある武家屋敷はもちろんのこと八百屋や魚屋などの商家、みやげ物を売る店にいたるまで統一されているように感じた。

春の桜吹雪もいいけれども、雪が積もったときの白と黒の対比はきれいだろうなあ、などと思いをめぐらせる・・・。

***

“稲庭うどん”は角館のすこし南・湯沢の地名からとっているそうな。

腰の強い、それでいて滑らかな食感があり酒のあとの食事としては、茶漬けよりずっと好物だ。

角館にも著名な“佐藤養助”の店があって食欲を刺激する。

しかし今回はこの店に用はない。友人から土産にたっぷりと、稲庭のうどんもそうめんもいただいたから、家に帰ってからいろいろと楽しもうと思っている。



帰りの時間まであと1時間半、昼食は比内地鶏を食べようと決めていた。

広い青柳家のセンスのいい土産店で会話をした素敵なお嬢さんから、店を聞き出していた。

「東京の友人たちがこの街に来たときに紹介する店は“しちべえ”でしょうか!」

さっそく上質な料亭風の店を訪ねた。

シーズンオフでしかも昼の時間をだいぶ外していたため、いただけるかどうか心配だった。しかも客は誰もいない。店の看板には「豆腐料理、緑豆稲庭うどん、比内地鶏料理」とうたっている。

「比内鳥をいただきたいのですが、大丈夫ですか?」のやりとりのあと、女将は落ち着いた座敷に通してくれた。一角にカウンターが仕切ってある。ずいぶん斬新なデザインだ。

いちばんシンプルな比内地鶏の親子丼を頼んだ。

待つことしばし、目の前にコンロと鍋が置かれた。

鍋の中には地鶏肉とタマネギと椎茸が泳いでいる。火をつけて煮えたぎってから、これも地鶏の卵をかけまわす。甘い香りにつられて、ゴクリ、生唾を飲み込んでしまった、失礼! 朝食後2時を過ぎるまで何も口に入れていなかったので腹ペコだ。この食事が美味しくないはずはない。

ビールを我慢して、この親子丼だけに集中した。

肉は歯ごたえがあって味が深い。

他は自分でも作る親子丼と変わらず。しかし、雰囲気もあって美味感覚が増幅される。

けっこう、けっこう!一人の食事でも十分に楽しめた。



比内地鶏をいただいた
『しちべえ』の玄関




夜になれば
地元のかたは
ここでいっぱい飲るのでしょうね

駅まで5〜6分の帰り道、酷い雨に襲われた。

秋田の“やらずの雨”どころか、“やらずの土砂降り”。

楽しみも大きかったから、雨もそれだけ激しくなったのだろう、あるいは「どなたかがわたしを引きとめてくれている」 と勝手に解釈して帰りの新幹線に乗った。

(おわり 2013年9月20日 ) → (最初に戻る


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