益子の「前・土祭」
〜「民芸」濱田庄司、そして朝崎郁恵との出会い〜
2011年9月



朝崎郁恵と、高橋全のピアノとヴァイオリンと

1)町おこし

日本は山の国といわれている。

往古から木の文化に奥深いものがあるが、この日誘われてたずねた栃木県には、木に加えて石の文化が広まった。そして益子には土の文化が・・・。

宇都宮近郊に大谷という土地がある。そこから採掘される大谷石のことは、今では知らない人がないほど有名である。首都圏に近い便利さもあって住宅街でも大谷石の造作をよく見かける。
 石は柔らかくて細工がしやすいので重宝がられる。

 この話は本論とはあまり関係ないが、バブルの頃だったろうか、暗くて巨大な採掘場に照明を持ち込んでファッションショーなどのイベントも盛んに行われていた。



大谷石採掘場の内部


大谷石のことを柳宗悦はこういっている。
<大谷石は柔らかくきめが粗い石であるから、細かい彫刻などには適しない。
だから装飾の過剰になる憂いがない。
単純な形を求める。これが建築の美しさには救いである。


大谷石は形において線において複雑を嫌う。
この性質こそ美の側から大いに活用したいではないか。
畢竟(ひっきょう)美は単純ともっとも厚く結合しやすい。>

この地には大谷石を屋根の材料として葺いた“石屋根”や石垣が多い。日本家屋の屋根は、昔は萱をつかい現在は瓦で葺くのが普通で、石屋根の話はあまり聞かない。

***

石屋根のことで思い出したことがある。

スイスに出張した折に南部ルガーノ近郊の山に遊んだことがある。どの家々にも薄いねずみ色の石が重ねて置いてある。

そして四角い窓辺には季節の花々をプランタに入れて並べ、彩を添えていた。

この石屋根は「雨や風に耐えて100年以上も、長持ちするすぐれもの」 という説明があった。

いかにも固そうな、そして鋭く尖った石のイメージを感じさせたが、大谷石にはまったく反対の柔らかさがある・・・。

固い文化と柔らかい文化、それがヨーロッパと日本の違い・・・。

***

911日、益子の「前・土祭」にやってきた。

土祭と書いてひじさいと読む。

土は環境や自然の象徴であり、人間が生きていく上で絶対的に欠かせないものだ。

益子は焼き物の里であり、良質の土の恩恵をこうむっているが、それのみならず農業、林業にも役立っている。

益子にとって土は“アート”でもある。



地元の太鼓グループによるイベント



手間をかけて創った囲炉裏や日よけの建物



夕暮れが迫ると松明に火が入った

イベントは土から連想する益子の良さを見直してもらうために、「町おこし事業」として2009年秋に初開催された(第1回)。

2回は、3年後にあたる来年(201291630日に予定されている。

「前・土祭」はそのプレイベントと位置付けられていたが、311日の大震災によって益子も想像を上回る被害を受け、また原発事故の影響から観光客が激減した。

イチゴ、ブドウ、梨など地産の農産物を販売する「JAの直売所」では、震災以降、客数が前年の半分以下の月が続いているという。

「被災地に少し近づいただけでこういうことなんだね・・・」

友人の細君はかぼちゃと梨と・・・・少しはお役に立ったのだろうか。

***

会場は広い駐車場の一角に“土舞台”をこしらえて、松明が四方に配された。

地元住民がボランティアとして会場設営したなかにも、益子らしさが見られる。地元の子どもたちが日干しれんがで製作したベンチや、震災で倒壊した民家の外壁から作った大谷石製の囲炉裏が置かれた。

祭のメーンイベントはNHKBS「新日本風土記」「もういちど、日本」でテーマ曲を歌っている朝崎郁恵さんのライブ。

午後7時までにはまだだいぶ時間がある。

それまで町歩きをしてみようか・・・。


2)濱田庄司とその館

柳宗悦(やなぎむねよし 18891961)、富本憲吉(18861963)、河井寛次郎(18901966)と続く『民芸』の系譜のなかに置いても、濱田庄司(18941978)の存在感はきわめて大きい。

濱田といえば柳宗悦とともに「民芸」運動をたちあげた巨人で、自分でも作淘する陶芸家、その経歴も優雅だ。

25歳でバーナード・リーチとともに渡英し、本格的に作陶に取り組んだ。現地で見聞した、制作と暮らしが一体となった芸術家たちの姿が「濱田スタイル」のベースにある。

バーナード・リーチは1887年(明治20)香港生まれ。日本で作淘を学び、大正9年濱田をともなって帰英、登り窯を築いていっしょに作淘に打ち込んだ。東洋の陶磁に英国の伝統技法を融合させて独自の作風を切り開いた。



バーナード・リーチ作
『鹿絵大皿』

そういえばイギリスにはウエッジウッドやロイヤル・ドルトンなどの名窯があったなあ!

***

濱田は自身の作陶活動の軌跡をこういっている。

「京都で道を見つけ、英国で始まり、沖縄で学び、益子で育った」 と。

『民芸』ということばの起こりについても、

「大正14年の春、柳宗悦と河井寛次郎の三人で伊勢を旅したとき、道中の汽車で侃々諤々(かんかんがくがく)をやって生まれた。民衆の工芸という意味だ」 と自身で語っている。

英国から帰ってから田舎での生活を望んで益子に居を構えた。

濱田は工芸品の蒐集にも熱心でその範囲は中国、朝鮮、台湾、太平洋諸島、中近東ヨーロッパ、南米とほぼ世界全体に広がり、時代的にも古代から近現代と、それこそ縦横の糸を紡ぐように集め、身辺においてこれを愛でた。



まずこの立派な長屋門で入場料を払って



濱田庄司館 この緑の環境がすばらしい

晩年を益子で過ごした濱田の旧住まい、益子参考館に立ち寄った。

広大な敷地に豪壮な屋敷が立ち、木々の緑が残暑を和らげてくれてさわやかである。

母屋は1942年に隣町から移築したというが、たいていの大百姓でもこれだけの住居を構えるのは容易ではない。しかり、庄屋の邸宅だったようで、とにかく豪壮な萱葺き家屋である。

向かって左側にある玄関には破風がついていて、ここは大名や身分の高い方が訪ねてきたときにのみ利用したのだろう。

持ち主は士農工商的身分社会のなかの郷士身分と思われ、おそらく苗字帯刀を許されていたのではないか。

この大きな母屋は、濱田庄司のもっともお気に入りの建物であったようで、英国での思い出に浸りながら作品のアイデアを練ったのだろう。

現在はイギリスや日本の家具、木喰仏など様々なコレクションを陳列している。



工房 益子市内から移築した



工房内部



濱田が実際に使用した轆轤(ろくろ)



登り窯

2号館3号館は件(くだん)の大谷石でできている。

先に「素材が柔らかい」と書いたが、それが災いした。

今回の東北大震災の影響は大きかった。屋根部分から下に向かって一直線に無残な亀裂が走り、瓦部分も崩れた痕跡がありありと見えた。

右奥に登り窯があった。

この窯は斜面地形を利用して作る。燃焼ガスの対流を利用して、炉内の各製品を焼成時に一定に高温に保てるよう工夫された窯だ。(連房式登窯)

その内部が、あるいは外側の一部が崩落してしまい、修理を待っていた。

濱田家だけが被災を受けたわけではなく、その意味で「前・土祭」の祈りの意味は大きい・・・。



4号館・母屋で上台(うえんだい)と呼ばれた



母屋の内部 囲炉裏が切ってあり、濱田のお気に入りの場所であった



破風つきの玄関 賓客のみがここから案内された
ここにも地震の影響か、葺いた萱に大きな乱れがあった


)民衆の工芸

いましばらく『民芸』について話をつづけたい!

イギリスに始まる産業革命は工業化を招き、近代の扉を押し開いた。

明治維新を迎えた我が国にもその恩恵がどっと入りこんできた。

はるかに高い生産力をもたらして、民衆を、封建時代から続く常態的な飢餓から多少は救い、生活の利便性を高めたのであるが・・・このことはスローライフを壊すという弊害をも同時に持ち込んだ。

鎖国時代にはできなかったが、日本人はそういった異質の文化をよく吟味せずに取り入れてしまうという特質をもつ。

自国の文化でよく洗浄し、取捨選択をするという行動パターンに慣れていない。

あの時代の“お抱え外国人”のなかには、「日本はすごい勢いで工業化の道を走っている。たちまち世界の一等国の仲間入りをするだろうが、伝統に培われた良き風俗習慣やすばらしい人間性を捨てつつある。それが心配だ」 と懸念を抱いた人たちが多かった。

こうして工業製品と名付けられた低価格で機能だけの便利品が社会に蔓延しはじめ、それが日本の風土に根付いていた伝統工芸、すなわち民芸品を駆逐していく。

戦前を生きた『民芸』の仲間たちすらそういう危機をひしひしと感じ、各地を歩きまわって民芸品を収集し「日本民芸館」の設立に奔走したという経緯があるのだから、現代はなおさらで、プラスチック成型品や電化製品は多くの民芸品の息の根を止めたに違いない。



目黒区駒場の『日本民藝館』
大原孫三郎の篤志によって柳邸の隣に建てられた

便利の裏には必ずその代償があるものだ。

***

民芸品とは毎日の生活を送るのに必要な日用品である。

それは地方の風土や気候、自然の中で歴史が育ててきた。特別仕様のぜいたく品ではなく、生活に追われる民衆が、不器用な手で、地元で採れる様々な材料を使って、農閑期の暇のなかで夜なべして、作った普通のものである。

何百年もの風雪に耐えて残っているモノは、名もなき人が作ったものでも美しい。

柳や濱田らが民芸と名づけ収集に走ったのも、伝統の中に美しさがあったからである。

焼き物、染織、漆器、木工、竹細工など無名の工人が作った日用雑器・・・。

***

白洲正子も、歯に衣を着せず明快にいい放っている。

「名前があるかないかは問題ではない。使ってみてしっくりして飽きないものがいい」と。

はいらない!

名もなく貧しく生きた工人の手によって生まれた美しい雑器がいい。


4)皆川マスさんのこと



酒造 増山本店



蔵の造り 上棟は住まいだろうか

益子の散策はつづく。

街路をつらつらと眺めて、焼き物の町としてのさわやかな風を感じる。それも普段着の焼き物。

思い出したことがある、何かで読んだ話・・・。

***

かつてこの地に、土瓶の絵付けをしていた皆川マスというお婆さんがいた。

お婆さんの描いた“山水絵”や“枝に梅”の土瓶は関東一円に出回った。

マスさんは幼いころに描くことを教わり、以来ずっと描きつづけ、70年が過ぎて80歳になってもまだ描いていた。

達者なときで、景気のよいころには1日に1000個も描いた。

もともと信楽に発した図柄を後発の益子が取り込んだということでしょうが、銘を入れるような高価なものではなく、普通の雑器、いわゆる“安(やす)土瓶”である。

彼女に学問はなく、文字も読めない。受ける賃金もわずかで富が蓄えられるということもなかった。ただ身体だけは剛健で性格は強く男勝りのところがあった。

明治の女性にはこういう方がよくいらっしゃる。

***



マスさんが描いた土瓶

『民芸』の視点から見たとき、マスさんの土瓶は、その絵付けはごく普通のものでありながら、並々ならぬ美しさを持っている。

なぜだろうか?

天才の筆ではない、個性も独創もない、その辺りにざらにある、美の本質を知った者の手に由っていない、もともと観賞物でもない、平凡な無学が描いている・・・・・にもかかわらず。

しかもマスさんは他の絵を描けない。その力がないのだ。

そこから悲痛な明治女の叫びを聞くことができないだろうか。

彼女は好きで描いているのではない。生活のために、喰うために描いてきた。嫌になったこともたびたびあっただろうが、繰り返さねば食べていけない。

単調でも無味でも我慢して描かなくては、生きてゆけないのだ。

彼女が一生で描いた土瓶の数は四百万個を越えるという。

反復して熟達した先に現れたものを、人は『馬鹿の一つ覚え』と蔑むかもしれないが、わたしは“執念の美”と形容したい・・・。

そしてそれこそが、日本の民衆が長い時間をかけて培ってきた『民芸』の本質であるのかと思う。

益子にはそういう歴史がある。



『陶庫』



『こうじんや』  軒先にあるポストに郵便物を入れても届く?



『虫や』 いいなあ !

***

マスさんがなにかの賞をもらったとき、(おそれおおくも)天皇にお声をかけられた。

「いつも絵を描いてもらってありがとう。描いているときは楽しいですか?」 との問いに、

「なにが楽しいことなんか、あるものですか!」 と即座に否定した。

周囲は恐縮し遺憾に思われたかもしれないが、この逸話は明治女の気骨を感じさせて愉快であった。

そんな経緯があったにもかかわらず昭和天皇は彼女のために歌を詠んだ。

 さえもなき 媼(おうな)のえがくすえものを

         
人のめ(愛)づるも おもしろきかな



『しのはら』は大店(おおだな)



腹が減っては戦はできぬ! 食べすぎだぁ!


5)朝崎郁恵さん

やがて日が暮れて、十四日月(小望月)が大谷石のステージの右手に現れた。

煌々と輝いて美しい。

月が歌い手の登場を待っているかのようである。



夕刻、土でできた衝立の向こうに十四日月がくっきりと現れた


 午後6時半、宇都宮を中心に活躍する邦楽ユニット『五人衆』が登場、太鼓と笛のパフォーマンスを披露してくれた。(ただしこの日はなぜか四人のみ)

澄んだ篠笛の音色が薄暮のしじまを切り裂くようである。

遠くからドドン、ドドン、ドドンと太鼓の響きが聞こえてきた。

多くの演出で彩を添える必要はない。太鼓は深い眠りにある神々に、「そろそろ起きだして地上にいらっしゃい。お待ちしていますよ。いっしょに楽しみましょう」 というメッセージだ。

さあ、神々が席に着いた。

太鼓の音はいよいよ轟きを増し、四人の叩き手たちの腕に力が入る。

わたしは遥けき縄文の時代に思いを馳せている。

弥生の米文化がもたらされる前は、北方アイヌたちだろうなあ、このあたりに盤距していたのは。

熊はいたのだろうか。イヨマンテの夜は・・・?

***

若い人たちが邦楽のグループを組むのは好ましい。

何しろはるか昔から継承されてきた日本文化の、音の原点がここにあるのだから。

かれらは岩手県の吉里吉里(大槻町)に伝わる伝統芸能『虎舞(とらまい)』を舞ってくれた。

かなりハードな動きを四人でこなしたのは、本当にご苦労さん!



虎舞(とらまい)

***

時計が7時を指して、いよいよ真打の登場です。

奄美上布に包まれた朝崎郁恵さんが土舞台に、天から舞い降りてきたかのようにすーっと現れた。


6)奄美の島歌

奄美列島とは鹿児島から沖縄に向かう途中の海上に連なる大小の島々のことである。

喜界島、沖永良部島、徳之島、与論島などよく知った名前が点々とする中で奄美大島が中心をなす。古くから鹿児島県の行政域に組み込まれている。

奄美には千年を越えて歌い継がれてきた伝統の島歌が数々ある。

歌い手を唄者(うたしゃ)という。

朝崎郁恵さんは若いときから天才唄者として注目を浴びてきた。

193511月、奄美・加計呂麻(カケロマ)島生まれというから、すでに無欲の高齢に達していらっしゃるが、艶のある歌声はいささかも衰えていない。能力におぼれず、基本的な訓練を怠らなかったゆえに今がある・・・そう信じる。


阿母(あんま)

♪ 夏は駆け足で無常に過ぎていく
時はつかまらず ここまで流れつき

雪の降る日の道なき夜も
この手を離さずに あなたは微笑んだ ♪

***

彼女には前向きな強い意思があり、島歌のすばらしさを島の人たちだけで楽しむことに満足していなかった。

誘われて、あるいは自身の自然の欲求から、ニューヨーク、ロサンゼルス、キューバなどの海外公演を始め、国内でも国立劇場10年連続公演等、数々の大舞台を踏んだ。

彼女が認識する故郷の奄美は、

アマミは在る、は姿格好、アマとは姿が生まれる意。すなわちと同義語で、宇宙生成の節理である。は実在する場、を表す。つまり、アマミとは宇宙が生まれた実在の雛型として言霊(ことだま)が生まれた場所」 ということのようである。

このあたりは柳田国男の『海上の道』に詳しいので、興味のある方はご覧いただきたい。

***

好きなBS番組「新日本風土記」のテーマ曲『あはがり』は吉俣良の作曲で朝崎さんが歌っている。

阿母(あんま=母親)』に続いての異色の組合せだが、朝崎さんにとってはごく自然の帰結であって、楽しみでしかない。

そもそもの出世作が、1997年に発表した、高橋全のピアノとのコラボレーションによるミニアルバム 「海美(あまみ)」。

友人は言う。
 
「高橋全さんとの出会いが大きなターニングポイントになった」。

島唄を三味線に寄り添うだけの音楽にしておくことに満足できなくて、これまで様々に挑戦してきた朝崎さんの一つの結晶だ。

すでにこのとき60歳を越えていた彼女だが、その後の活躍は特筆すべきだろう。

67才の時に「うたばうたゆん」(2002)でメジャーデビュー。

以降「うたあしぃび」、「おぼくり」、ピアニスト・ウォンウィンツァンとのコラボレーション「シマユムタ」、シタール奏者ヨシダダイキチとのコラボレートアルバム「はまさき」などを次々に発表。とても60歳を過ぎた女性の音楽活動とは思えない。

まさに彼女に「島の言霊」がとりついた。


7)奄美の島歌

土祭のステージで朝崎さんは、『阿母』 『あはがり』も含めて10曲ほどの島歌を歌ってくれた。

一曲ごとに祈りのポーズがはいる。

月も、益子の神々や市民も、こぞってその歌声に耳を澄ました。

***

朝崎さんは普段から小さなステージで島唄を歌われている。きっとそのほうが聞き手と心の交流ができるのだろう。心、すなわち魂である。

こう考えるとまた飛躍して、日本人はどこから来たのか、魂の原点はどこにあるのかということを考えてしまう。

固定的に考えるべきではないが、やはり日本人南方渡来説を捨てるべきではない。

奄美の島唄は、少なからず南海のDNAをもつ、多くの日本人の故郷の歌でもあるのだ。苦労して船を漕いで南方からやってきた先祖たちがやっとたどり着いて住みついた、沖縄や奄美の島々。

同じDNAの心の糸に島唄が響きを与える。深い感慨を覚えるのはそういう理由があるからだ。

***

ここまできて、やはり柳田国男の『海上の道』に少しふれておかなければと思った。

柳田が民俗学という荒野の学問に入っていったきっかけは、学生時代に伊良湖岬に滞在したとき、「流れ着いた椰子の実」に出合ったことにある、という。

椰子はどうやって日本に流れ着いたのだろう、という単純な疑問である。(この話は、島崎藤村による『椰子の実』という名作を、付録として生んだ=実話)

『海上の道』ではキーワードに“宝貝(子安貝)”をあげている。

古代中国や南方地域では七色に輝く宝貝を珍重していた。

沖縄周辺の海はその貴重な宝貝の宝庫であった。

舟を漕いでやってきた異邦人たちはいたるところで宝物を見つけたことに、喜び勇んだことだろう。

ここで重要なポイントは、かれらがお土産として稲穂をもってきたこと、と柳田は指摘する。すでに南の国々では稲作が始まっていた。

南の国の神々が稲穂をもって日本にやってきて、それがやがて弥生人となってわれわれの祖先となった・・・・、という仮説が生まれた。

ロマンがあっていいなあと思う。

しかし民俗学はロマンではなく実証が必要なのだ。

残念なことに、柳田はこの本を遺書として遺し、出版の翌年に亡くなった・・・。


8)民俗学と奄美の島歌

あとすこし、突っ込んでみたい。これで最後にしたい!!

柳田のよきライバル折口信夫は、
 
「海が楽しいとか海は幸福だという歌がめっぽう少ないのは、日本人は海を怖いものと考えてきたのではないか、またなんらかの理由によって海の噂をすることを避けていたのではないか」 と言った。

柳田は、
 
「では、それにしてはニライカナイ(海のかなたの理想郷)から来る神がいて、それが台湾や沖縄のマヤの神にもなっているのだろうから、そこは折口さんがうまくマレビト(稀人・客人)信仰で説明してくれるといいんだが」と、水を向けた。

日本人にはマレビトをあたたかく待遇するという良き習慣がある。この風習の根底には、異人を、異界からやってきた神と考える「マレビト信仰」が存在するといわれている。

 難しい話を抜きにして、単純に考えればいい。日本人はやさしい。そしてその習慣ははたして“海の民”のものであったのか?

民俗学は足を使って調べ尽くす学問である。その民俗学の、今はなき二人の泰斗がこういう会話を交わしたことが、非常に興味深い。

***

わたしたちは朝崎さんの島歌に聞き入っている。

「新日本風土記」のテーマ曲として唄われている「あはがり」だ。

神の国から流れてくる、言霊の響き・・・。

やさしくて、そのくせ、力がある。

打ちひしがれた魂を包み込んでくれる。そうだ、もう何十年も前になくなった祖母からのメッセージだ。

しみじみとした気持ちになったところでステージは幕を閉じた・・・。

***

余韻を楽しむように、「おぼくり」を自宅で一人、じっくり聴いてみた。

なぜか知らないが涙が溢れてくる。

おい、お前もやっぱり南の国から流れ着いたのか、と問いかけられているような妙な気持ちだ。

「よいすら節」を聴いた。

ピアノとのコラボが抜群だ。歌詞は理解できないが、悲しみの旋律が魂を揺さぶる。

高音部の裏返りに島歌の悲哀があるように感じる。

船ぬ高艫に 居ちゅる?白鳥(しるどぅり)ぐゎ

白鳥やあらぬ

姉妹神(うなりがみ) 加那志(がなし)

夢やちゅんば見らんてぃ

神ぬ引きゃ合わせに

神ぬ引きゃ合わせに

汝きゃばくま拝でぃ

***

いまや音楽界に多くの信奉者を作ってしまった、75歳とは思われぬ、凄い!



ラストは参加者がみな土舞台に上がって、手拍子でにぎやかに

(おわり 2011年9月23日)


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