秋田の夏2013
西馬音内
(にしもない)盆踊り幻想
その1



見てきました
重要無形文化財の夏!



かがり火に映える白いうなじ



姿勢がすごくいい



ファンタスティック !!

 

1)西馬音内入り

その結界を越えたのは2013816日夕刻、午後5時をすこし過ぎていた。

嵐の前の静けさというのか、両側の家々は軒を閉ざしたかのように、不思議な静寂がこの町を包んでいた。

まっすぐに車を進めて突き当たると、ようやくそこで祭の雰囲気を感じることができ、案内の方の誘導に従って、川を渡った臨時の駐車場に車を落ち着かせた。

***

この旅は以前友人から聞かされていたが、必ず行こうと決めていたものではなかった。

2ヶ月前にネットをさわっていて“西馬音内(にしもない)”のことばに出合ったので、さて旅館は取れるだろうかと、何となく気になった。

町の中の少ない旅館は1年前から埋まっているだろうから、周辺の施設に電話してみた。地図が頭のなかにあるわけではなく、勘のみのあてずっぽう・・・そうしたら一発で16日の宿泊が取れた。雄物川町という地名だった。

この時点ではまだ西馬音内探索は、旅欲求のなかで優先順位が低かった。

2週間前まで決行を迷っていた。

***

学生時代に非常に親しく交わった友人が秋田にいらっしゃる。

2週間前に久方ぶりに彼の自宅に連絡を取ってみた。

現役で仕事をしていることはわかっていたので、私のために時間を割いてもらえるとは思っていなかった。ところがかれから、「久しぶりに会って飲もうよ!」 のことばが飛び出したので、西馬音内がにわかに現実のものとなった。

結果として三泊四日の秋田探訪は、夢の中にいるようなすばらしいものとなった。



この新幹線に乗ったはずだが・・・・・

秋田新幹線“スーパーこまち”は盛岡を過ぎると、新幹線とは名ばかりのローカル列車に早変わりする。そして、この1週間前に豪雨のために死者を出したという田沢湖のあたりをゆっくりとすすむ。



田沢湖駅を過ぎて



秋田新幹線が大曲に到着

途中、倒木が放置されたり護岸のコンクリートがめくれて地肌を晒していたりと、豪雨の爪痕が生々しく残っていた。田沢湖駅を経て、次は角館。この武家屋敷の町は、山を抜けたところの平野のなかにあり、緑の稲穂が大きく広がっていた。
 およそ20分遅れで大曲駅に到着、ここで下車した。

西馬音内に入るには奥羽本線湯沢駅からが近い。

しかし大曲から在来線でいくつかの駅を戻る必要があったので、面倒だ。

したがって、コストはすこし高いが大曲駅でレンタカーを借りることにしてあった。

***

大曲は規模の大きな花火大会で全国に名を売っている。駅のプロムナードに翌週に開催されるという横断幕が掲げてあった。

そして、その隣にたいへんな美人を見つけた・・・。



秋田でたびたび目にしたキャンペーンポスター
”ユタカな国へ あきたびじょん”


2)幽玄を演出する衣装

この幽玄な盆踊りは午後7時半、西の空にまだすこし夏の残照のある時刻に幕が開く。

それまでしばらくのワクワクする時間、町の中を散策することにした。

素人の断定は間違いが多いと思うけれども結論から言ってしまえば、他の全く素晴らしい伝承を保つ町々と同じように、西馬音内の町は盆踊りの3日間のために他の362日を準備にあてがう、というような思いを確信した。



赤色の入った端縫い衣装



デザインは全く違うが
踊り手がきると絹がまさしく生きかえる!

何軒かの、普段は洋装小物を販売している店は、おしなべて呉服屋に早代わりして、衣装の品評会の場と化す。

もう先に説明してしまおう、まちがいなく盆踊りの核心のひとつである美しい衣装のことを!

西馬音内では主に二種類の衣装を使い分ける。 ともに甲乙つけ難しと思う、その二つとは、“藍染”と“端縫い”。

まず“藍染め衣裳”とは。

文字通り藍で染められた“浴衣(ゆかた)”で、多くは手絞りによる。

中でも絵羽に柄付け構成された浴衣は、盛んであった西馬音内盆踊りの為に特別に注文されたといわれる。

この藍染めを身につけた踊り手たちは、“ひこさ頭巾”とよばれる黒い頭巾を、顔を隠すように頭から前にたらす。もちろん両の目の部分は小さく開けてあるが、不気味なのは、その真中に別の黒い目が光っていることだ。

これは亡霊の目、あるいは現世の民たちの罪を逃すまいと凝視する、神・仏の眼。

ゆらりと揺れるかがり火に照らされて、この眼がきらりと光って威嚇すると、子どもたちは震え上がる。黒い頭巾姿は、あの世から現れた亡者を連想させ、見る人はそれだけで非現実的な幽玄の世界に引きずり込まれる・・・。

いっぽうの“端縫い衣装”は、45種類の絹生地をあわせて端縫った衣装で、まことにあでやかである。

想像できるのは、飢饉や凶作の多かった明治以前のころの着物のこと、着物を新着することなぞは“夢のまた夢”であったのではないだろうか。そういう時代に女性たちは、端切れで衣装を縫った・・・。

それが、いまやたいへん贅沢な盆踊りの衣装として定着した。

いつもの不躾で高校生ぐらいの女性に、「この衣装、高かったでしょう?」 と尋ねてみた。

彼女は「親からもらったものなのでわかりません!」 と即答してくれたが、新調するとすれば100万円はくだらないだろう。

老いも若きも、多くの人に見つめられながら踊る女性たちは、図柄と配色に工夫を重ね、少しでも人目を引くように苦心したことだろう。中には私が質問した若い女性のように、祖母から母へ、そして娘へと代々受け継がれて来たものも少なくないはずだ。

後述するつもりの、酒屋の女将はこう話してくれた。

「毎年8月の第一日曜日、今年は4日でしたが、町内の家々でその家に伝わる、先祖伝来の衣装をお客様にお見せするんです。そのときは家の中をまるまる開放して、土蔵の中なども見てもらったりして。是非来年はいらっしてください」。

これぞ“重要無形民俗文化財”、こうして伝統は継承されていく。



少女のうちは藍染衣装を着る
しかし女性としては
早く、美しく見栄えのする端縫いを着てみたい!



宵のうち
上の少女が
彦三(ひこさ)頭巾をかぶって躍りはじめた


3) 文化財”黒澤家”

さて、端縫い衣装の女性(男性も)はすべて、弓形に反った編み笠を深くかぶり、美しい御尊顔をあえて見せない。

夏の暑い盛り、人は農作業に疲れ、性に飢える。

男も女も、しなやかな踊りと美麗な衣装とは別に、編笠に隠された異性の見えない部分を想像し期待する。そこに昔から続いてきたこの踊りの本質があるような気がしてならない。

男として不謹慎を承知でいえば、腰を沈めてくるりと回ったときに見える、美しく白いうなじにセックスアピールを感じない男はいないのではないか。

御殿女中風に結んだ、“帯と帯締め”の風情がいい。端縫い衣装がカラフルだからこそ帯は単色で統一されている。赤と黄色や紫と黄色など、衣装とのコーディネイトにそれぞれが配慮して、個性豊かにまとめている。

こんな表現はないのだろうが、“色の香り”が踊りの場面に立ち、漂っている・・・。

まだ、盆踊りは始まっていないのだが・・・

***

衣装を商う店のなかでひろがった絹の端縫いを見せてもらった。

門外漢ゆえに詳しいことはわからないが、うーんと呻ってしまうようなデザインが何着も展示されている。

触ってみたい衝動に突き動かされたが、それはご法度だ。

展示品はおそらく、最近縫われたものだろう。

しかし家々には、江戸末期に作られたものが現存する。その洗練されたデザインや素材が今宵も人々の眼にさらされるのだろうか?

型染めの踊り浴衣はどれも意匠が面白く、柄も個性豊かで、数百枚を撮りきった写真を整理していても、同じものは二つとなかった。

だから踊りに個性が出る。町の人はきっと、その踊りで、何処の誰それかを見分けられるのだろうが、衣装のほうが手っ取り早く人物を特定できるにちがいない。

これらの美しきものを拝見するだけで、感動への予兆を抑えるのがたいへんだ。

自然に任せて時間を待つしかない・・・。



家の作りは
表からミセ、オエ(座敷)、ダイドコロと
つづいている
こぎれいでさっぱりとしたオエだが
何気なく置かれた調度類は
洗練されている




壺も扇も
名のあるものでしょう




昔風のダイドコロ

システムキッチンや
セントラルヒーティングなどは
とんでもない!
ということで、雪の多いこの国では
さぞかし暮らしにくいでしょう

県の文化財に指定されている“黒澤家”を拝見できるということなので、見せてもらった。



黒澤家で見せてもらった端縫い衣装

この地方の伝統的商家の佇まいを今に残していて、見物客は多い。

ここは文化財だが、お年寄りのご夫婦が現実に生活をしていて、丁寧な応対をしてくれた。こういう話では夢中になってしまうクセのあるわたしだが、年配の外人さんが質問しようとしていたので、ひかえた。

そうするとこの家の老主人は、ネイティブに近い非常に流暢な英語で話し始めた。

この時点ではただ驚きのイチゴで、(ただものではない!)と感心するのみ。のちほど、別のかたから「あの方は元大学教授、退任してから家を守っておられる」と教えてもらって納得した。

「文化財などに指定されたものですから、生活しにくいですね。自分の家なのに自分の思うように暮らせない。まことに不自由なものです・・・」 落ち着いた声で、老退任教授は心中を吐露してくれた。

もちろん、黒澤家でも代々引き継がれている踊り衣装が飾られていた。


4) 商家〜柴田酒店

踊りにたどり着くまでの前置きにやたらと時間がかかるけれども勘弁してもらって、もうひとつふたつ別の話を・・・。

***

柴田酒店の前で試飲をやっている。

(秋田には良い蔵元が多い、加えて酒飲みも多いけれども、どんな酒を飲ませてくれるのか?・・・爛漫、高清水、太平山、新政、飛良泉・・・)

ここでは”両関”の社員が応援にかけつけて声高々に客を誘っている。嫌いではないのでいそいそと小出しの銘酒を口に含む。臨場感も手伝ってどれも美味だ。

「この酒はまだ全国に出回っていない、お勧めです」 という純米酒を1升瓶で2本、自宅に送ってもらうことにした。


<美味しい純米酒を造るのは難しい。しかし家に帰って、冷やして飲んだ両関は、さすがに米と酒造りの本場秋田ならではと思わせるほど美味しかった。>

表面上普通の酒屋を装っているが、この柴田酒店の建物も古い。そのことを聞いていたから、ご主人に「中を見せてもらっていいですか!」と頼み込んだ。

これぞ120年の重み、先に拝見した黒澤家と同じ作りをしていて、突き当たりに大きな蔵が控えている。

図々しい一人の闖入者を奥様が丁寧に迎え入れてくれた。お茶と茶菓子が出てきて、「おビールのほうがよろしいですか」とまで言ってくれる。

「わたしどもは分家ですけれども、本家も分家も同じ造りをしています。この辺りの商家はみな同じのようです。お隣りも分家ですが、著名な刀剣家ですよ。本家の主人が西馬音内盆踊りの会長をやっております」 そしてさらに、

「主人の祖父は県会議員をやっておりました」

道理で、落ち着いて整理された家具調度であるはずだ。

端縫い衣装もたくさん持っていて、84日にはお披露目をして多くの客を喜ばせたようだ。

この奥様には他にも有用な話をたくさん聞かせてもらった・・・。

***

「西馬音内は蕎麦が名産だ」。 すこし尻の上がる秋田弁で、立寄った旅籠の80歳になる女主(おんなあるじ)から教えられていた。名の知れた店がいくつかあって、そのひとつで180年の歴史を誇る弥助の暖簾をあげたところ、押し合いへしあいの大にぎわい。


すぐに矛先を変えて、暗がりにぽつんと焼きそばの文字が目立つ、何の変哲もない食堂“飯塚”に入った。

人の出逢いというものは面白くて、弥助に入っていたらこの方にお会いできなかった・・・。

焼そばを頼んで腰を下ろした隣のテーブルに、上等なNICONの一眼が置かれていた。

カメラの持ち主はチャーハンと餃子を食べている。サラリーマンっぽい風貌は、わたしのような旅人ではないようだし、さりとて地元の方でもなさそうだ。それにしてもカメラが立派過ぎる。


5) カメラマン

(さてどんな方だろう?) 小さな興味と遠慮のない性格が、目を合わす暇もなく声をかけさせていた。

「西馬音内の盆にはよくいらっしゃるのですか?」

NICON氏は謙虚で誠実な人柄をあらわすように、ゆっくりと丁寧に、10年もの間毎年ここに通っている経緯を聞かせてくれた。

***

職業はプロのカメラマンで、10年前に初めて接した西馬音内盆踊りに魅了されて、その写真集を出そうと心に決めた。それから先が長かった、という。

田舎はどこでも閉鎖的だ。よそ者に対しては門戸を閉じて警戒する。23年はまったく“中”に入れてもらえなかった。

とはをあらわし、仲間として認めてもらえなかったという意味だ。

写真集を作りたいという要請に、「勝手にやってみたら!」 というような“つっけんどんな”対応しかなかったという。

「観光客のように外から撮っているだけでは、いい写真など撮れるはずもありません。この町の人々の仲間に入れてもらって生活の機微を知り、心のうちにまで入り込まないと、人に感動を与えるような写真は到底撮れません」。 しかり、さもありなん!

***

では、入り込むためにどんな方策があったのか?

「まず会長に何度もお目にかかって、熱意を認めてもらいました。それから少しずつ、保存会の皆さんを紹介してもらい、5年目くらいからやっと“中”に入れてもらえるようになりました」

「ここの踊りは本当に素晴らしい。おわら“風の盆”もよく知っていますが、あの踊りは弄られて、原点からだいぶ離れてしまった。それにくらべてこの踊りは、昔がそのまま残っています」。

いまはそれなりの便宜を図ってもらえて、いい写真を撮れるようになった。それでも、

「写真集が出来上がったとしても利益など見込めないし、ボランティアみたいなものですよ」と心中の嘆きを吐露してくれた。

***

二人の話は文化論に及ぶ。

時代を切り取るまじめなカメラマンだからこそ、常日頃から日本人の伝統的な文化への視線の衰えを感じている。

「伝統文化を撮るカメラマンは今、嘆きの時代を迎えています。結論から言ってしまえば、テレビ時代、インターネット時代の弊害をまともに受けています」。

タレントを載せた写真集は売上が見込めてそれなりの商売になっているけれども、他の写真集は売れない。時代だからと切り捨てられればそれなりの話だが、文化の衰えということになると、黙って放置しておくわけには行かないだろう。

「毎年重いカメラ機材を車に積んで東京からはるばるやってくる。むなしさもあるけれども、いい写真集を残したいという一念でやっています」。

「またお会いするでしょうから、その時はお互いに声をかけ合うことにしましょう」。

そういって彼は店を出て行った・・・。

その2へつづく


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