2006.5.5

神々の降りたまう地

上高地  その1 

1.神の国(プロローグ) 2.大正池 3.田代池 4.河童橋へ 5.最終章


<神の国・・・はじめに>

尾瀬とならんで日本の代表的山岳景勝地であり、近代アルピニスト発展の主要な舞台として知られる上高地。

河童橋から眺めると、目の前に、標高日本第3位の奥穂高岳をはじめとする3,000m級の山々が迫り、ケショウヤナギに彩られる梓川の清流が、すがすがしい瀬音を立てて流れています。

山と水と緑が織りなす幻想の世界は今も昔も変わりません。

かつては仙境として杣人や猟師が入山するだけでしたが、いまや登山道や山小屋も整備され、美しい山と動植物たちとの出会いに魅せられたアルピニスト達が四季を通じて入山するようになりました。

“カミコウチ”の語源については多くの説がありますが、「神河内」「神降地」の文字が正しいのかもしれません。ここには「神」の字を素直に充てたくなるような純粋な自然の美しさが残っています。

田代橋手前の急流

北アルプスの雪解け水を集めて奔流する梓川
犀川、千曲川、信濃川と名前がかわって日本海に注ぐ

<わたしと上高地>

上高地との最初の出合いは学校の国語の教科書でした。

教科書の写真で、北アルプスを背景にした梓川の流れが清々しく、また大正池の景観が神々しくて、田園地帯にある自分の生活空間からあまりにもかけ離れていることから、峻烈な印象を受けたことを記憶しています。

(こんなにいいところが日本にもあるのだ、一度行ってみたいなあ!)と子供らしい単純な願望をもったものです。
 しかしそこに至るには、登山という、子供では経験することのない技術の習得と、大人の体力が必要であることをなんとなく感じて、その願望は非現実的な憧れにしかならなく、いつの間にか歳月の流れの中に埋没してしまいました。

<最初の上高地>

幾星霜が過ぎ、初めてかの地に足を踏み入れたのは昭和53年の秋、11月4日のことでした。
 すでに乗用車の乗入れ規制は行われていましたが、11月のある時期(1〜2週間)だけ許されていました。

仕事の関係で名古屋近郊・春日井市に住んでいましたが、情報を入手した時点で「これはチャンス!これからすぐに出よう。」とばかりにさっそく車をスタートさせました。2歳半の長女と3人で、中央道の伊北インター(この時代は伊北まで開通していた)を経由して、浅間温泉で一泊し上高地を目指したのです。

峡谷の村々を通り、狭い隋道を抜けてたどり着いた上高地は、地上とはかけ離れた“おとぎの国”のようでもありました。

さわやかな秋の日差しを受けてたたずむ大正池もたいへん感動的でしたが、“梓川”とのはじめての対面はより衝撃的で、「きれいだねえ!」と、親子で飽きもせず清らかな流れに魅入ったのでした。



大正池の静寂


<上高地の歴史>

記録の上では、上高地周辺の山に最初に登ったのは、槍ヶ岳に登った越中富山の念仏僧、播隆上人でした。文政11年(1828=シーボルト事件の年)の初登頂の際には、阿弥陀仏をはじめ三体の仏像を頂上に安置しました。当時は山岳信仰の登山であって、いわゆる近代登山とは性格を異にするものです。播隆は信者を引き連れ、何度も槍ヶ岳に登ったようです。

 明治維新後は外国人たちがエポックの楔を打ちます。
 維新政府は近代化を進めるために、多くの外国人技師を雇いました。その中で、英国冶金技師ウィリアム・ガウランドは明治10年(1877)7月に槍ヶ岳に登り、その記録を雑誌で紹介しました。その中ではじめて「Japan alps」という表現を用いたのが、今日の<日本アルプス>の語源になりました。

河童橋からの眺望

その後英国人宣教師ウォルター・ウェストンも槍ヶ岳に登り、その著書『日本アルプスの登山と探検』(明治29年)で詳しく上高地周辺の山々を紹介しています。ウェストンは上高地から山に登る時は、地元安曇村生まれの猟師・上條嘉門次を案内人として同行させ、その本の中で“ミスター・カモンジ”と紹介したので、嘉門次は有名な山案内人として、今日まで語られています。

ウェストン卿はこの本の最初のところで次のように書いていますが、このことは明治の初期に日本を訪れた外国人に共通する日本観であったように思います。当時の日本人には現代と違う(?)前向きな日本人魂が明らかに存在していました。

「今日の日本には、自らの国家的威信を損なうことなしに西洋文明を摂取し、同化する力を示すユニークな一個の民族が住んでいる。この注目すべき民族が、現在では予測することもできないほど豊かな将来を約束されていることは、ほとんど疑問の余地がない。」

卿は、明治の日本が近代化に邁進する、その凄まじいエネルギーに驚嘆すると同時に、日本各地に見られる山岳地帯を中心とする自然の豊富さに感嘆し、その大自然とひたむきに向き合い、共生している日本人の姿に驚きをもって注目したのでした。

<鵜殿正雄と嘉門次>

日本人登山家としては鵜殿正雄が初めて前穂高岳に嘉門次と一緒に登ったのが始まりでした。 その鵜殿氏の「穂高岳槍ヶ岳縦走記」の冒頭の文章をご紹介したいと思います。

 「信飛の国界に方(あた)りて、御嶽・乗鞍・穂高・槍の四喬岳のあることは、何人も首肯するところ、だが槍・穂高間には、なお一万尺以上の高峰がたくさん群立している、ということを知っている者は稀である。で折もあらばこの神秘の霊域を探検して世に紹介しようと思うていた。幸い明治42年8月12日正午、上高地(かみぐち)の仙境に入門するの栄を得た。

 15日午前の四時、まだ昧(くら)いうち、提灯を頼りての出発。梓川の右岸に沿い、数丁登って河童橋を渡り、胆道を一里ばかり行くと、徳合の小屋、左に折れ川を越えて、少々下れば、穂高仙人、嘉門次の住居、方二間余、屋根・四壁等皆板張り、この辺の山小屋としてはかなりの作り、檐端(ひさし)に近き小畠の大根は、立派にできている、東は宮川池に注ぐ一条の清流。
 嘉門次は炉辺で火を焚きながら縄を綯うている、どうも登山の支度をしてはいないらしい、何だか訝(いぶか)しく思うて聞いてみると、穂高の案内なら昨夜の中に伝えて下さればよかった、と快く承知し、支度もそこそこ、飯をかっこみ、四十分ばかりで出発した。時に5時40分。」(岩波文庫・山の旅・明治大正編より)

このとき嘉門次翁は63歳でした。
 なお直接関係はありませんが、尾瀬の紹介者として有名は武田久吉氏はこれより5年前の明治37年にはじめて尾瀬に入山しています。いずれも日本山岳会の草創期に活躍された大先輩の方々です。

<続く> 「その2」へ


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