中国 江南を歩く
(1)紹興の歴史と魯迅



安価なツアーに友人と参加
歩き方によっては十分に楽しめる
いうまでもないが事前情報が大切
2012年6月

はじめに・・・・・

中国江南を旅してきました。

上海においてその近現代の凄まじい発展を眺め、長江の南に広がる歴史ある町や村で古代史の深淵をのぞかせてもらった。おこがましくて、深淵などとは言い切れないが、そんな気分だ。。

あまりにも厖大な情報と多様な文化に接して、旅行記もどこから手をつけていいものやら、この何日間を悩んだ。

そういうことは、間々ある。で、いつも、前後の脈絡はあとでつければいいと思いきることにしている。

まずスタートすることが肝心だ。さあ開始!まずは紹興の歴史と魯迅博物館から始めましょう。



** 紹興の歴史と魯迅博物館 **

杭州からバスで1時間半は走っただろうか、紹興にやってきました。

本場の美味なる年代モノの紹興酒を飲みながら、魯迅(18811936)が少年時代をすごした風景と同化する、それも滅多にできることではない。頭の中でやってみようではないか。

紹興酒で知られる町は意外と開発されていて、大きい。中国を代表する作家の故郷は、観光客の多い、運河の町でもあった。ここには他の土地では見られない小舟が水路に浮かび、宗教的な故事や伝統を継承するよき風習がある。

梅雨の一日だから雨に降られた。雨は風情を添えてくれるから嫌いではないが、傘の花が開いてその雫が身体にかかるのには閉口した。油断をすると風邪を引いて、せっかくの旅が台無しになる。

紹興生まれの女性ガイドさんは日本語も上手、話に切れがあって聞きやすい。キャリアウーマンというイメージで、頭の良さを感じさせる。

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まずは魯迅博物館。立派な建物に入って、ホッと一息!

ここでは古代からの紹興近郊の歴史を、展示物で紹介している。はるか紀元前に遡る歴史には興味津々だ。

宮城谷文学(中国古代を巡る多くの作品を著作)の世界がここにはある。

中国王朝史は夏(か)に始まって、その後、殷(中国では商が一般的)、周、春秋戦国時代へとつづく。

夏(か)は存在が確認されていない伝説の王朝。4000年前の話で、その始祖は禹(う)といわれている。

その禹さんの陵墓が近くの会稽山(かいけいさんの麓にあるらしい。



てもホンモノとは思えないが、国が指定しているようでもある。

さて、会稽山(かいけいさん)といえば、故事“臥薪嘗胆”の言葉が思い浮かぶ・・・。

** 呉越の争い、臥薪嘗胆と西施 **

江南の歴史といえば、春秋時代(紀元前500400)の呉越の争いに触れないわけにはいかない。

当時、長江(揚子江)流域にはという2つの新興勢力が興った。

“呉”には闔閭(こうりょ)夫差(ふさ)という二人の君主(二人は親子)に、孫武(そんぶ)伍子胥(ごししょ)という名臣が侍り、超大国“楚”の都を落として、滅亡寸前まで追い詰めていた。

その呉の後方を襲ったのが“越”である。

 おっと最初に書いておかないとわかりにくい。呉は現在の蘇州(江蘇省)、越は現在の杭州(浙江省)。“呉越同舟”という言葉があるが、今でもいざこざが続いているのだろうか。人は歴史の恩讐を簡単に忘れることができないのだが。
 わたしたちは汗を流しながら、その近辺を歩き回ろうとしている。

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“越”は君主勾践(こうせん)と名臣范蠡(はんれい)の力により急速に勢力を拡大していた。

越王勾践は呉を攻め闔閭(こうりょ)に重症を負わせ、その後闔閭は亡くなる。

 こんどは怒り狂った呉王夫差の逆襲だ。夫差は伍子胥の補佐を受け、会稽山(紹興市南部の山)で勾践を滅亡寸前まで追い詰める。しかし勾践が謝罪してきたのでこれを許してしまう。

 参謀の伍子胥は「あとに災いを残すことになるから殺してしまいなさい!」 と忠告したが、夫差は聞き入れない。そればかりか、讒言によって伍子胥を誅殺(ちゅうさつ)してしまう。

 勾践は会稽山の麓で静かに復讐の日を待っている・・・。

***

それから何年かが過ぎて紀元前473年、奢れる呉(夫差)は、満を持して挙兵した越(勾践)に破れ、滅亡する。

この時、夫差は勾践に対し助命を願った。

勾践は夫差に一度助けられていることを思い出し願いを受け入れようとしたが、宰相の范蠡(はんれい)に、

「あの時、天により呉に越が授けられたのに夫差は受け取らなかった。ゆえに呉は滅亡しようとしている。今、天により越に呉が授けられようとしている。何をつまらない情を起こしているのですか」と言われ、和議を蹴った。

そして呉王夫差は死ぬ。

***

この呉越の争いには、裏に一人の美しい女性がいた!!

西施(せいし)・・・・紀元前5世紀の女性で、楊貴妃や具美人とならんで中国史を代表する美女である。

越王勾践(こうせん)が復讐のために採った戦略は多彩だったが、なかに女性による懐柔戦略があった。
 女性のガイドさんは、いみじくも“美人局(つつもたせ)戦略”と言った。
 呉王夫差(ふさ)に献上した美女たちの中に、西施がいた。

貧しい薪売りの娘として産まれた西施は谷川で洗濯をしている姿を見出されたといわれている。勾践の策略は見事にはまり、夫差は彼女に夢中になって国政はそっちのけ、呉国は弱体化し、ついに越に滅ぼされることになる。まさに女性の力はあなどれない!
 「教科書で教えない歴史」などで、こういう話は喜ばれるが。

 わたしも現代の越(杭州)で美女探しをしてみたものの、なにせ言葉が通じない・・・トホホ

***

さて故事のこと。

呉王夫差は越に闔閭(こうりょ)を殺された後、薪の上に寝て復讐心を忘れなかった。

越王勾践は夫差に破れた後、胆を嘗めて復讐の心を呼び起こし、部屋に入るたびに部下に「汝、会稽の恥を忘れたか」と言わせて記憶を薄れさせないようにした。

“臥薪嘗胆”のことばはこうして生まれた。・・・わたしにとってこのことばは、今川や織田に翻弄され続けた若い時代の家康を想起させるが。

***

おまけの話。

呉が滅びた後の西施の行方について諸説があるが、いずれも悲観的だ。

第一の説。勾践夫人は彼女の美貌を恐れ、夫も二の舞にならぬよう、彼女を処分した。当然の行為だろう。それも勾践の気がつかないところで。

第二の説。滅びたほうの呉国の人民も、彼女のことを、国を滅亡に追い込んだ妖怪として、生きたまま皮袋に入れられ長江に投げたという。

その後、長江で蛤(はまぐり)がよく獲れるようになり、人々は西施の舌だと噂しあった。中国では蛤のことを“西施の舌”とも呼ぶようになった。

第三の説。そんな悪説が多いなかでいい話もある。

美女献上の提案者であり世話役でもあった范蠡(はんれい=越の政治家)にしたがって越を出奔し、平和な余生を暮らしたという説である。

後世から見ればこっちのほうがずっといいですね!

** 紹興の魯迅 (1)留学生周樹人 **

明治37年の秋、1人の中国人留学生が医学の道を志し、東北大学の前身である「仙台医学専門学校」に入学した。

アジアの近代にとってもっとも重要な作家の一人、その名を周樹人(チャオ シューレン)といった。

のちに『狂人日記』や『阿Q正伝』等の作品によって中国文学に新しい息吹を吹き込み、近代中国を代表する思想家として活躍した作家「魯迅(ろじん/ルーシュン)」その人だ。

留学生・周の仙台での生活は、たった1年半にすぎなかったが、この仙台で、彼は自身の将来の道を決めた。

のちに執筆した短編小説「藤野先生」には、異郷の地仙台での学生生活、文学への転向を決意する彼の心の動きが、ひとりの教師との交流を通して綴られている。

紹興市街の南に魯迅の生家は保存されていた。

「魯迅故居」と書かれた入口は質素で小さい。

だが、奥行きはかなり深く、部屋がいくつも続く。ややくすんだ白壁に、薄い瓦が56枚重ねられた屋根。色彩は白と黒ばかりである。水を溜めた石の桶、ここで魯迅が生まれたという産屋、旧家だけあって落ち着いた風情がある。

古い建物に沿って歩いてゆくと庭園に出た。壁に囲まれやや狭苦しく思われた。

魯迅少年は少年時代をここで遊んだ。

『百草園から三昧書屋へ』という文章の中で、魯迅はこの庭で遊んだ体験を生き生きと描写している。もっと広い庭を想像していたのはそのせいかもしれない。

いや、「昔の庭は、確実にこの数倍はありました」、とガイドの尹(いん)さんが言った。



魯迅の少年時代に遊び戯れたという、生家の広い裏庭
当時はこの何倍もの広さであったという
とうもろこしが雨に濡れていた

***

魯迅は役人を輩出した名家の14代目として、明治14年(1881)に誕生した。西太后の時代、日本は鹿鳴館時代を迎えようとしていた。

少年時代の魯迅は何不自由なく過ごし、10歳を迎えると「三昧書屋」という私塾に通った。

「三昧書屋」は今も生家の近くに残っている。

「三昧書屋」の入口をくぐると、すぐに教室があった。内部の様子は当時のまま、小ぢんまりとした室内には机と椅子が並んでいた。魯迅の席は窓際だった。

12歳のとき、魯迅の家族の運命を帰る事件が起きた。中央高官も務めた祖父が投獄されたのである。

一方魯迅の父は科挙に合格せず、病弱で家にこもっていた。祖父はこの息子を合格させたい一心で試験官に賄賂を送った。このことが発覚してしまったのだ。

魯迅の家は一瞬にして名声を失った。

** 紹興の魯迅 (2)藤野先生 **

15歳で父を失った魯迅は、2年後に南京の学校に入学、やがて日本へ留学する。

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それ以前の明治35年春、周樹人は、浙江省の官費留学生として日本へ渡り、東京の「弘文学院(こうぶんがくいん)」に入学した。

当時日本には、こうした留学生が大挙して押し寄せていた。日本側も度量の広い受け入れ態勢を整えていた。周もそのなかの一員として、浙江省の同郷会誌である『浙江潮(せっこうちょう)』に小説や論文を投稿したり、学校の教育方針に抗議するストライキに参加したりしている。

しかし、彼は一方でこうした留学生社会に対し、冷めた視点をも持っていた。やがて医学を志した周樹人は、弘文学院卒業後の進学先に、仙台の医学専門学校を選ぶ。あえて留学生が誰もいない場所を選んだのである。

同級生だった学生が後日語るところでは、周は真面目な学生で、教室では2、3列目の中ほどに座ることが多かった、という。

***

「藤野(ふじの)先生」こと藤野厳九郎は、福井県出身の解剖学者で周が入学した当時は30歳。ちょうど教授になったばかり。解剖学は一年生の必修科目で、藤野先生の授業は週4時間受講することとなっていた。

「私の講義は、筆記できますか」と彼は尋ねた。

「少しできます」

「持ってきて見せなさい」

私は筆記したノートを差出した。彼は、受け取って、一、二日してから返してくれた。そして、今後毎週持ってきてみせるように、と言った。持ち帰って開いてみたとき、私はびっくりした。そして同時に、ある種の不安と感激とに襲われた。私のノートは、はじめから終わりまで、全部朱筆で添削してあった。(「藤野先生」より)

藤野先生にはさわやかな感動を覚える。若く情熱的な教師と、真摯に学問に相対して必死に学ぼうとする留学生。日本人の学生が不真面目であったとは思わないが、真剣な眼と眼とが火花を散らした瞬間が思い浮かぶ。魯迅の真剣さを見て藤野は(よし、この男には、自分の持っているものをすべて教えてあげよう)と決心したに違いない。

** 紹興の魯迅 (3)医学から文学へ **

魯迅の小説集『吶喊(とっかん)』(1921年)の自序によれば、医学生・周樹人が文学の道を志すきっかけとなったのは、・・・・・二年生のとき授業で見た日露戦争に関する幻灯(げんとう)写真のなかの、中国民衆の姿であったという。

それは、講義の余った時間で、日露戦争の幻燈を見たときのこと。

この幻燈は、文学の上での若干の脚色はあるものの、実際に上映された。

ロシア軍のスパイ容疑で捕まえられた中国人が首吊りの処刑にかけられるところを見物していた同国人が、なにも抗議せず、ただ意思のない目で眺めているだけ・・・。

その映像を見た魯迅は、心の底から苦渋の声を発する・・・「どんなに体が強壮でも人々の精神を改造しなければ、この国は救えない」、と。

隣にいた関西弁のおっさんが、「感動した。帰ったら、魯迅の作品をもういっぺん読みかえしてみなくちゃアカンネ・・・」 とささやいた。

東京に戻った魯迅は文学の勉強に専念し、これが本当の魯迅を作った。

藤野先生は、周樹人が仙台を去る数日前、彼を家に呼んで一枚の写真を渡した・・・。

その後の魯迅は、東京で「精神の改造」を実践するための文芸運動に取り組むが、1912年に帰国し、北京で文部官僚として教育改革に携わる。

そして1918年(大正7)、「魯迅」の名前で口語による小説「狂人日記」を発表。以後鋭い筆致で次々と作品を世に送り出し、中国、そして日本でも、広くその名を知られていく。藤野先生から送られた一枚の写真は、いつも「魯迅」の書斎に飾られ、彼の心を絶えず励ましつづけたという。



藤野先生のことを書いた原稿

1919年、38歳になった魯迅は一度帰郷した。生家を明け渡すためだった。

<ああ、これが20年来、片時も忘れることのなかった故郷であろうか。私の覚えている故郷は、まるでこんなふうではなかった。私の故郷は、もっとずっと良かった。その美しさを思いうかべ、その長所を言葉にあらわしてみようとすると、しかし、その影はかき消され、言葉は失われてしまう。>

以後魯迅が紹興に住むことはなかった。



魯迅生家近くの運河

魯迅の作品は疾風怒濤の中華革命を後押しする。長い時間と大きな犠牲を払って、その革命は成就した。

199811月、江沢民(こうたくみん)国家主席が仙台を訪れ、魯迅記念碑や階段教室を訪れた。そのとき江沢民は、直筆の漢詩を残している。

丹楓(たんふう)火に似て秋山を照らす

碧水(へきすい)長(とこし)えに流れる廣瀬川

且つは看ん空に乗り萬里を行くを

東瀛(とうえい=日本)と禹域(ういき=中国)とその誼(よしみ)は相伝えるべし

 (つづく 「江南wパル句 2杭州西湖」へ )


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