フグを訪ねて九州へ (その2)
博多・阿蘇・熊本  2012年2月


(3) 万葉の大宰府

 

    

    奈良平安の匂い 大宰府政庁跡                礎石の跡が見える 寒さのせいか日陰に霜が

 満腹の翌日早朝、往古の匂いがぷんぷんとただよう広大な大宰府政庁跡にやってきた。

すぐ近くに国分寺跡があるが、大宰府は、7世紀の後半から九州を治めた大和朝廷の西の守りとしての役目を果たしてきた。九州は常に大陸から侵略される危険があった・・・。

立派な土台石が当時の建物や回廊の重厚さを思い起こさせるが、周囲の緩やかな山々は、ここが温暖な気候に恵まれた豊穣な里であることを気づかせてくれる。

頭の中はすでに、この地が華やかだった頃のことでいっぱいである。

***

大宰府といえば菅公・菅原道真(845903)なくして語れないほど有名だが、わたしは清澄な朝の太陽を浴びながら、それよりさらに250年も昔の万葉の時代のことを思い浮かべていた。日本史が文字として書き始められたころのことだ。

西暦661年、大和朝廷は朝鮮半島の百済から救援の要請を受けて出兵した。百済は北から攻められていた。

時の帝は、女帝の斉明帝(594661)である。舒明帝の皇后で、天智(中大兄皇子)・天武両天皇の実母でもあり、歴史にいろいろと話題を残された方である。

彼女は舒明帝の死後皇極天皇を名乗ったが、政治の実権は蘇我蝦夷(えみし)と入鹿(いるか)が握っていた。乙巳の変(いっしのへん645年=一般的には大化の改新)で中大兄皇子が蘇我父子を倒すと、皇極は軽皇子(後の孝徳天皇)に皇位を譲った。

その孝徳帝が早くに崩御すると後継が決まらず、ふたたび帝位について斉明帝を名乗った。(日本ではじめての “重祚(ちょうそ)”)

女性ながら胆力があった。自ら出陣して九州・朝倉宮(邪馬台国説がある)までやってきた。

しかしすでに67歳と高齢に達していた女帝は体調を崩してここで崩御した。

歴史の教科書にも載っている「白村江の戦い」で唐・新羅の軍勢に大惨敗を喫したことを知らずに・・・。

その後帝位についた中大兄皇子(天智)は生涯、唐・新羅の脅威に怯えたという。

そんなはるか昔の歴史がこの地にあった・・・。

***



「西の戒壇院」  内部は清掃が行き届き清められていた



観世音寺

すぐ近くの戒壇院に立ち寄る。かつては隣の観世音寺に属して「西の戒壇院」を誇っていた。

“戒壇院”のことばで思い出すことがある。

唐招提寺の鑑真和上のことだ。

奈良時代、日本の仏教は始まったばかりのよちよち歩き。

受戒制度が確立していないので、だれもがたやすく出家できた。重税にあえぐ農民や生活に困窮する大衆は出家することで現実から逃げた。いわゆる税金逃れだ。

朝廷は「戒を授ける高僧を中国から招かないといけない」として、鑑真に白羽の矢を立てた。

鑑真は当時の唐でもすでに高僧の地位にあったが、仏教者に戒律を授ける「導師」「伝戒の師」という要請を受けてこれを受諾した。

鑑真一行は12年にわたる苦難の旅の末にようやく日本に到着したが、当時、新たな政治システム作りの途中であった日本ではクーデターが相次ぎ、不安定な政情に鑑真も翻弄された。

東大寺の戒壇院はそのころできたものだが、鑑真はここで天皇をはじめとして多くの人々に授戒をした。
 そしてやっと小さな唐招提寺を自分たちで創ったが、鑑真の寿命はそこで尽きる・・・。

「西の戒壇院」は天下三戒壇院のひとつだという。


(4) 太宰府天満宮

    

人影もまばらな往路の参道                            石の鳥居

東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花

        あるじなしとて 春な忘れそ (春を忘るな)

今年は寒さがずっと続いていたが、大宰府訪問のこの日は暖かい日和に恵まれた。

天満宮といえば“梅”と、相場は決まっている。2月中旬なら梅の花はちらほら、あるいはすでに満開に近いのかもしれないが、今年はまだ蕾の気配のみで、残念ながらあの甘酸っぱい香りも味わうことはできなかった。



境内の、牛ならぬ麒麟

朝の早いうちは人手も少なかったが、10時を過ぎるころから増えだした。

***

     

太宰府天満宮本殿に参拝                       復路の賑わい

今回の旅は、じつは大宰府に住む古くからの友人T氏の采配による。

昔から親分肌で率先してグループのまとめ役をやってくれたT氏は、東京での仕事を卒業して故郷に帰って大宰府に居を構えた。

数年前から仲間内で「T氏を訪ねよう」という気持ちが高まって、“フグ”をあいことばにこの旅が実現したというわけである。

ただフグだけでは、いくら美味しいといっても、大人の旅としては味気ない。

歴史も文化もたずねて体感したい、そんな意を汲みとってT氏はみごとな旅程を組み立ててくれた。どのような展開になるかは、このあとを読んでいただければわかっていただける・・・。

***

北野天満宮でも見かけたが、天満宮には“寝そべった牛”がいる。

神のお使い? ヒンドゥー教の牛は神聖なものとは聞いていたが?

その理由を聞いたところ、菅公にやはり関係していた。・・・・・菅公が病に倒れて59歳で亡くなったとき遺骸は牛車で運ばれたが、今の太宰府天満宮の本殿あたりで牛が止まって寝そべってしまった。門弟たちはかしずいてこの場所に菅公を祀り、牛を神の牛として境内に侍らした、ということのようである。

すこしだけ道真先生のことに触れます。

若い才人道真は宮廷一の詩人の才能が認められ、宇多天皇の寛平9年(8976月大納言となり、さらに醍醐天皇の昌泰2年(899)、家柄的にも異例の右大臣にまで栄華の道を上りつめた。

その後讒言によって大宰府に左遷される。別れに際して詠んだのが冒頭の歌である。

のちに菅原道真自身も、左遷から名誉が回復され、正一位太政大臣を追贈され神となった。

そのあらましは「北野天満宮絵巻」のところで書いているから省きたい。(参照『北野天満宮』

***

牛の背中を撫でて、わたしたちは本殿に進む。

かつて大宰府に詣でた記憶がある。昭和58年ごろだろうか、旅の途中で駆け足の参詣だった。したがって天満宮さんとは29年ぶりの再会である。

「また来ましたよ。お元気ですか」とまずはご挨拶。

チャリン、チャリン、と賽銭の音。善男善女、老いも若きも、みなさんたくさんの願い事があるのでしょう・・・。


(5) 心ウキウキ、大宰府模様

時間が経つほど温かくなって、その陽気に誘われたのだろう、人の波が押し寄せてきた。

天満宮は奥が深い。大きな楠木を横目に本殿の裏側に廻ると、紅白の幕を張った茶屋が店を開けようとしている。

***

学業成就、合格祈願の社だけに絵馬の数がすさまじい。

困ったときの神頼みは昔から日本人の習慣だ。

なかに「離婚後の幸せを祈る」絵馬を見つけた。人生さまざまで、悪趣味だが、そんな他人の祈りを覗いてみるのが楽しい。

一角の祈祷受付所に絵馬売り場があった。乙女の笑顔が初々しいが、この娘から買った絵馬に願い事を書けばその願い実現する、そんな気になった。

小さな頃、彼女たちのような巫女は神の使いとして畏敬の念を抱いたものだが、実は就職戦線を通り抜けて朱と白の装束を身につけているのだとわかって、ほっとした記憶がある。

    

 「合格間違いなし」の笑み                   さまざまな願い事の絵馬がぶらさがる

絵馬の由来・・・昔は神仏に祈願する際に馬を引いていって寄進したが、
時代は移り、生きた馬ではなく、画で描いた馬で代用させるようになったという由である。




紅梅に たちて美し 人の老い
「“たちて”は立ち止まっての意」と聞いた

***

大宰府名物“梅ヶ枝餅(うめがえもち)”はもち米で作った生地にツブ餡を入れて焼き上げる。甘い匂いが参道いっぱいにひろがって生唾が出る。

T氏が美味しいと評判の店で調達してくれ、熱いうちにひとつをいただいた。昔ながらの素朴な味に舌鼓を打った。これで今年の家族の健康は保たれる!



名物にならぶ人垣

参道には魅力的な店が並んでいる。マーケティングに優れるスターバックスは大宰府らしいカフェに変身していたし、九州は優れた陶器の産地であるからにはそんな店がならび、評判の蕎麦屋の前では「フグのあとは蕎麦がいい」と思いもした。

けっきょく昼食は横道に入った寿司屋『寿し栄』で懐石の膳をいただいた。人気店のようでたいへんな混雑、予約のおかげで奥のこあがりで落ち着いた昼食をとることができた。

空き腹で飲む昼の酒はよく効いた。

***

もうひとつなかなかの庭を拝見させてもらった。

天満宮の参道を上り詰めたところ、わたしたちは博物館(後述)からショートカットしたが、そこにこの寺は静かに佇んでいた。

正式には“光明禅寺”というが「苔寺」の名で親しまれている。

冬に来たことが恨めしいが、夏には石楠花が、秋には紅葉がこの庭を一段と美しく彩ってくれるのだろう。

枯山水というのだろうか。

砂は海、苔は陸、所々におかれた石にも意味があるのだろうが、全体として“光”の文字を演出していた。

落ち着いて座禅でもしたい心境になる・・・。



光明禅寺、「苔寺」の庭  気持ちが落ち着く

つづく「九州〜博多・阿蘇・熊本城 その3」へ


△ 読み物TOP

△ 旅TOP

△ ホームページTOP


Copyright ©2003-12 Skipio all rights reserved