フグを訪ねて九州へ (その5)
博多・阿蘇・熊本  2012年2月


(10) 雨に濡れる熊本城



雨のなか、姫を取り囲んで

熊本城は2月の雨に煙っていた。



桜も寂しそう

この難攻不落の美しい城は、秀吉と家康とが拮抗して、虚々実々の駆け引きをしていた時代に構想が練られた。

上に行くほど急勾配となる石垣「扇の勾配」や、忍者の侵入を防ぐために鉄串を採用した「忍び返し」、籠城戦にそなえて120箇所以上の井戸を掘るなど、敵に攻められたときに簡単に攻略できないさまざまな工夫がなされている。

造ったのは“賤ヶ岳の七本槍”のひとり加藤清正、熊本では清正公(せいしょうこ)さんと呼ばれて親しまれている。

この“せいしょうこさん”は生まれが秀吉と同じ愛知県(尾張)で、秀吉とは親戚であったという説もあるぐらいで、切っても切れぬ仲である。

9歳で秀吉に仕え、幾多の戦陣にも同行し、前述の賤ヶ岳の武功その他によって異例のご褒美をいただいた。それが肥後北半国195000石への仕置(領主となる)であった。天正16年(1588年)、“せいしょうこさん”なんと27歳のときだった。

その後若い清正公は善政をしき、豊かな国を築きあげた・・・。



熊本平定
加藤清正公の心

関ヶ原で東軍(家康側)についたとはいえ、豊臣家に対する温情の念は並大抵のものではなく、二条城で、秀吉の遺児秀頼を生かそうとして家康と会見させている。

しかし清正は二条城の会見から熊本に帰る船中で発病し、熊本城で亡くなる。享年50歳。豊臣陣営にとっての打撃は大きく、清正の没後わずか4年の大坂夏の陣に破れてしまった。

後に入ったのは豊前小倉城主細川忠利、『細川家の至宝』でも登場した細川家初代藤孝(幽斎)の孫、戦国武将忠興(三斎)の嫡子である。

この時代の武家ははかない。

せっかくの努力の蓄積は子孫に継承されず、紙切れ一枚で領主が変わる。

それが掟(おきて)だから仕方がないが、その掟を逆手にとって利用したのが、したたかな細川家であったような思いがある。

これも時代の流れ、城は一言も発せずそんな歴史を眺めてきた・・・。

***

傘を持たないわたしは入城してすぐの売店で傘を買った。

その途端に雨脚は激しくなってきた。そういえば、あのときも雨が降っていた。

♪ 雨は 降る 降る 人馬は濡れる  越すに越されぬ 田原坂 ♪

♪ 右手に血刀 左手にたずな ・・・・・ ♪

西南戦争である!



“せいしょうこさん”が植えたとされる大銀杏の向こうに熊本城
『銀杏城』とも呼ばれる


(11)熊本城と西南戦争

明治初期の世の中は混乱していた。

とくに特権を奪われた武士のなかでも、維新の功労に浴さなかった西日本の藩士たちに不満がたまっていた。

「意気に感じて討幕の戦には参加したけれども、帰ってきたら武士の身分はなくなる、田畑は荒れ、しかも報償は何ひとつない!明治政府はいったいなにをやっているのだ!」

マグマのようにたまったエネルギーの向かう先は一つ。

不満はついに爆発する。

明治9年(18761024日に熊本県で「神風連の乱」が起きるとそれに呼応するかのように、27日に福岡県で「秋月の乱」が、さらに28日には山口県で「萩の乱」が起こった。

これに西南の役を加えれば、「勝てば官軍」の薩長土肥のなかで土佐の高知を除いたすべての国で、内乱が発生したということがいえる。



こういう戦姿(いくさすがた)で
戦ったんでしょうかねえ!

さてその鹿児島・・・西郷さんの周辺でも不穏な動きは起こっていた。

明治政府から野に下った西郷隆盛は私学校を作って、薩摩の若者たちを鍛錬した。明治政府のなかに、これが「反乱を企てる志士を養成している」 とする見解があった。

「西郷は多くの青年たちに慕われている。彼がひとたび立てば内乱は深刻なものになる」 とでも考えたのだろう・・・。

結論を急ぎたい。

戦争のきっかけの一つは、鹿児島にあった近代兵器(藩内で生産されていた精緻な武器弾薬)を明治政府が奪取したこと、二つは、反乱の根となる西郷を暗殺してしまおうという情報が、西郷側にもたらされたことだろうか。

西郷には日本の立国に対する強い思いがある。

かれは士族を中心とする「強兵」重視路線を推した。しかし四民平等・廃藩置県を全面に押し出した木戸孝允・大隈重信らの「富国」重視路線によって退けられてしまった。また盟友であったはずの大久保利通も内憂外患にあり、けっきょくは敵対することになる。



司令官・谷干城は籠城を決めると
食料や薪炭を蓄え、橋をはずし、通路をふさぎ
射撃を容易にするため市街を焼き 敵の来襲に備えた

そして薩軍が城の周りを取り巻いた!

「起つと決した時には天下を驚かす」 西郷の決断によって西南戦争は始まった。

薩摩側の進軍方針は「熊本城を我が物にした後、一部の抑えをおき、主力は陸路で東上する」というもの。

この時点では明治政府を倒す、という心意気が強くあったが、敵もさるもの、政府軍の反攻も早かった。

・・・・・合戦は始まった。

熊本城に籠城する官軍側には、司令官の谷干城少将、参謀長の樺山資紀中佐(後に海軍大臣・軍令部長=白洲正子の祖父)はじめ、児玉源太郎少佐(後に陸軍大臣・参謀総長)、川上操六少佐(後に参謀総長)など、後年の大物軍人・政治家らが参加していた。

熊本は簡単に落とせるとしていた薩軍は、思いもよらぬ抵抗に遭って驚いたことだろう。

その後の戦局は政府側の一方的なものになる・・・。

「♪ 雨は降る 降る 人馬は濡れる 越すに越されぬ 田原坂 ♪ ・・・・・」。

西郷は被弾したあと自決する・・・。終焉の地城山で「わしは官軍に負けたのではない清正公に負けたのだ」と独白した。

言わずもがなの「この城の堅牢さよ」・・・。

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