蘇州は概して日本人には好意的で、それゆえに進出企業も多かった。今回の尖閣問題でどれだけの被害を出したのか、想像するだに心苦しい。撤退を模索している企業を取材した、虚しい報道も見られるようになった。

今後しばらくは江南を歩くことはできないだろう。


<蘇州 起源以前からの繁栄の歴史>

蘇州の歴史は、春秋時代の紀元前514年まで遡る。

呉王闔閭(こうりょ)がここに城壁を築いた。

呉の都として栄え、古来より「天に天堂(極楽)あり、地に蘇・杭(繁栄の蘇州・杭州)あり」と称えられてきた。街中を走る幾筋もの運河は大運河を経て、なんと北京までつながっている。運河の規模の大きさには驚かされる。

古代のこの地の歴史には何回も触れる、触れないことには真髄に近づけないのでご容赦いただきたい。

長江流域で稲作社会を作った楚、呉、越は、中原の殷・周の人々とは文化を異にする。古代タイ語に近いという説がある。稲作はその国境あたりが起源かもしれない。

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少し横道にそれるが、“南船北馬”という言葉がある。それに関連して、食に関しては“北麺南飯”である。

北の華北台地は小麦の産地で馬がよく似合う。一方揚子江流域の南は水路が縦横に発達して、そのあいだを舟が行き交う、米の一大産地である。

習慣的に北の人たちは小麦で麺を打ち、南は米の飯を食う。

私たちが旅している江南は、米文化の発信基地で毎昼食、夕食に米(長米)の飯が出た。

ついでに惣菜のことも書いてしまうと、素材は野菜と鶏肉、豚肉、川魚、川エビなどで、毎回十品以上の皿が円卓に並び、栄養満点だ。

たっぷり栄養を摂ってその脂肪分を、中国茶で洗い流す。

これこそ中国流!

しかし朝食のホテルで隣り合わせた、見ず知らずの大阪人ご夫婦がいみじくも言っておりました。

「毎回、毎回同じようなメニューで、美味しくてもあきますがネー」

同感!

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江南はタイに近いという話に戻す。

そんな民族がゴチャ混ぜになって現代の江南があるとは思うが、心なしか、人々の顔かたちが南方系に見える。

ごちゃ混ぜのことを追求すると、それだけでは収まらない。
 
もうひとつ、蘇州の民家について興味深い考察がある。(司馬遼太郎著作より)

<華北から来たわたしを魅きつけたのは、民家だった。白くぶ厚い壁に四角くうがたれた窓、窓にはめられた鉄のれんじ・・・・・こういう民家の作り方は、本来、イスラム世界のものである。

木造建築のように、玄人(くろうと)の技術を必要としない。近所の人があつまって力をあわせれば素人(しろうと)でも建てることが可能である。しかも風雨に堅牢で、耐久力がつよく、さらには寒暑をよく防ぎ、美観としても悪くない。・・・>

ほー、イスラム教か・・・。唐の時代(長安)に始まり、モンゴルの元も、明の時代にもイスラム教徒は大量にこの国へやってきた。多民族国家中国、さもありなん!

江南にはどこに行っても豊かな水がある。

長江と、そのありあまる水を導いて開削した運河の恩恵は大きい。

水は生命の源であり、人は水なくして生命を維持できない。日本でも、何処の国でも、水争いは歴史のなかにしばしば登場している。水は稲作を可能にして、その米が巨大人口を養っているということでもある。



水郷錦渓

明・清時代の遺構で現在観光化されている建物は、その水際の狭い場所にことごとく寄り添っている。中国が早い時期に文明化(資本主義化)していたら、きっとこれらの遺構はスクラップになっていたことだろう。

町を近代化するための余裕がないことが幸いした。

こういうことが往々にしてあるが、その古い町や建物が今や観光資源となって客を呼んでいる。

しかし古さイコール観光ではない。

たとえば水の流れを見てみよう。水郷を謳う観光地は、柳川や潮来など日本にも多いが、水がきれいでないと訪ねる気がしない。

ところが江南の水郷はどこも、たとえば三島・柿田川のような、透き通った水など見られない。濁っていて汚いゴミが浮かんでいる。場所によっては溝(どぶ)臭さすら漂わせる。

「どこが水郷か!」 と幻滅すら感じてしまう。

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これが明・清時代の庶民の暮らし・・・と良心的な解釈をするしかないのだが、異なことを新橋の姉御から聞いた。

「観光客目当ての演出があるそうですよ。予め順番が決められていて、その時間がきたら水場で茶碗の洗い物をする、などという・・・。それで役所から生活の扶持を貰う」。



蘇州運河

しかしせっかくの旅は楽しむに越したことはない。

家の裏を流れる運河で洗濯をする人々

これが昔から何百年も続いている生活習慣

“歴史の街で暮らす素朴な人々”

戦後日本の田舎の田園風景や人々の生活、子どもの頃に経験したあの懐かしい光景に出会う。

そう、ズバリ、ノスタルジアだ!



水際にある関羽廟
昼間は煤けて見えるが
夜はライトアップされて煌びやか


闇は総ての汚れを隠してくれる



狭い運河とたくさんの橋



<蘇州盤門の竜>

朝早く、蘇州で唯一つ残っている城門・盤門を訪れた。この門は町の南にあって14世紀半ばに再建された。すでに多くの観光客でにぎやかである。

蘇州城を普請したという呉の謀臣・伍子胥(ごししょ)の、盤門をめぐる逸話は凄まじい。司馬遷の『史記』にこういう記述がある。

「而して吾が眼をえぐりて呉(蘇州)の東門の上に懸けよ」
 伍子胥が讒言によって貶められ、自らの命を絶ったことはすでに書いた。その恨みもあるが、かれは越の逆襲を心から怖れていた。えぐられた眼には「越に睨みを利かす」という伍子胥の強い意思がある。

目玉は、遺言で指定した東門にかけられることなく、方角違いの西南角であるこの盤門にかけられたという伝説の門。

いにしえは蟠門(蟠は“わだかまる”の意)といった。かつて木彫りの蟠竜(ハンリョウ=まだ昇天していない竜)をこの門に置き、もって呉は越を鎮めようとした」

ここにも呉越の争いの痕跡があり、伍子胥(ごししょ)の怨念がこもっている。



門の上に竜

一般に都市を包み込んだ城壁のことを羅城(参考:芥川の小説に羅生門)という。

普通羅城は一重だが、蘇州城は二重構造になっていて、ここにも伍子胥の思惑がある。

敵を誘い込んで、外側の門をシャットアウトしてしまえば、敵の逃げ道が無くなる。閉ざすときは、上から石の扉を落とすそうだ。巨大な一枚板の花崗岩の大板を落とす。閉ざされた越の兵士たちは四方から矢を射られ、文字通り“袋のねずみ”となって、皆殺しにされる・・・。

もうひとつおまけ。盤門と外門のあいだは敵の直進を妨げるため、少しずらしている。敵には突入して戦っている味方の優劣がわからない。戦国時代の日本の城下町にもこれを真似た町が多くあった。

紀元前5世紀のこの時代、三国志の軍師・諸葛孔明はまだ生まれていないが、優れた軍略は発揮されて、蘇州は難攻不落の城塞都市となった。

***

さて、現代のこのあたりは「蘇州盤門風景区」として整備されている。

入口からは「風景区」に立つ瑞光塔が眺められた。1700年前に建てられた蘇州では最も古い塔である。途中修復されているが、基本となるレンガの塔心は900年前のものをそのまま使っている。

中国の寺院建築に詳しい方なら興味深いだろうが、わたしは門外漢、ただ眺めてシャッターを切るだけの人。

外門の入口の地面に、かつての蘇州城のレリーフに並んで、石彫りの碑が埋められていた。そこにはこう書かれていた。深い意味がありそうな・・・どなたか教えて欲しい?

北有長城之雄」・・・北に長城の雄あり

南看盤門之秀」・・・南に盤門の秀を看る

  

帰り道、広い運河の橋上から、対岸の町並みが見渡せた。その手前に大きな太鼓橋が架かっていた。どっしりとした姿には、均整の取れた優美さを感じた。



<蘇州郊外寒山寺>

寒山寺は6世紀南北朝の梁の時代に創建されたといわれる。当時は「妙利普院塔院」と呼ばれていたが、7世紀の唐の時代に、風狂の人寒山と拾得とが移り住むようになってから、寒山寺と呼ばれるようになった。

その寒山寺は蘇州西郊にあった。



日本の協力で新しく建てられた五重塔

枯れたイメージとはだいぶ違いすっかり観光地化しており、正直いってガッカリ。

想像以上の俗化が、何によってなされたのかは知る由もないが、日本人観光客もこれに一役買っていることは間違いないだろう。

わたしは多くの日本人と同じように教科書の楓橋夜泊によって寒山寺を知り、自分なりのイメージを持っていた。これには東京郊外奥多摩にある寒山寺も一役買っている。

***

<奥多摩の寒山寺は、ままごと屋を経営する「澤の井酒蔵」当主の尽力によって、昭和5年に落慶した。もともと明治の書家・田口米舫氏が中国遊学の折に寒山寺主僧・祖信師より『日本寒山寺』建立を託されたのが始まりで、全国遍歴の中で幽邃(ゆうすい)の地・澤井にたどり着いた。

したがって中国本家を再現しようという高雅な風流があった。そして川畔に割烹旅館「紅葉亭」が建てられ、多くの文人墨客が集まった。この景観を愛でながらの酒宴が盛会を極めたのは想像に難くない。>

いまや蘇州の外貨獲得を目指す重要な観光地なのだろう。

若者たちが明るく境内を闊歩するかと思えば、その隣で、周辺の農村からお詣りに来たご婦人たちが、和して声明(しょうみょう)を唱えている。

***

すべての現実を取り払って、唐代の寒山寺の光景を頭の中に描いてみる。

季節は冬、周囲は凍てついて人の吐く息は白い。

月落ち 鳥啼いて 霜天に満つ

塔堂伽藍に極彩色はなく朽ち枯れて、周りに修行僧がちらほら見えるだけで静寂が支配している。

突然、鐘が鳴った。

ごーん、ごーん、ごーん・・・・

静寂のしじまを引き裂くように低い唸りが響きわたった。

江楓 漁火 愁眠に対す

姑蘇城外寒山寺

夜半の鐘声 客船に到る

張継の「楓橋夜泊(ふうきょうやはく)」は、知らない人がないほど人口に膾炙しているが、詩の裏側には張継の失意が込められている。科挙に失敗した張継はうなだれて、ひたすら心を空にするしかない。かれは呆然とした気持ちで寒山寺の鐘を聞いた。



壁面に大きな文字で



感懐詩 二作


奥の社殿に三体の像が据わっていた。

どこかで見たことがあるのが左右に一体ずつ、しかし正面の人物を私は知らない。

さて右は?・・・・・そうか、唐招提寺創建の鑑真だ。日本で見慣れたお姿よりだいぶふっくらとしている。

何回も国抜けをしようとしてその都度運命に押し返されて、やっとのことで我が国にやってこられた唐僧鑑真和上。奈良に到着したときには痩せ衰えてしまったのも無理はない。おまけに目が見えなくなっていた・・・。

***

では左は?・・・・・若い!こちらは、若い時の弘法大師・空海だ。

あの時代に決死の覚悟で海を渡った人々、今でいえば(不確かな)宇宙旅行のような、不安があったことだろう。

阿倍仲麻呂にはじまって、最澄、空海、円仁、鎌倉時代には栄西、道元が宋にわたった。画僧の雪舟も入宋(にっそう)している。

江南を経由して都長安へ向かった僧が多かったが、このあたりにとどまるものもいた。

最澄もその一人、紹興の竜興寺という寺で多少の密教を学んで帰った。

生半可に学んだ密教を最澄が日本で広めていることを知った空海は怒った・・・。その空海さんも海を渡るのに苦労された。ずっと南の海辺まで流されて、陸路戻ってきて長安まで旅をした。

かれらが学び終えて帰国したのも江南の港からだった。

もうひとりは「三蔵法師ですよ!」 と教えてくれた。

そうか、陸路で天竺(インド)への旅をして、大きな苦労をして中国に経典を持ち帰った玄奘三蔵法師か。平山郁夫の絵画が頭に浮かんだ・・・。

いずれも仏教布教のために身を投げ出して旅に出た。そしてここ蘇州に滞在した。



“和合”の碑の前で
仲むつまじい若いカップル

境内の奥へ歩いていくと低い塔の前で人だかりがしている。この塔が鐘楼であった。その鐘を観光客が打っている。

この鐘を1回打つと10年長生きできるという言い伝えはあまりにも俗っぽい。誰も信用していないが、それでも打つ。それが人間の性(さが)、庶民のささやかな余興でもある。

寺の前の運河に架かる古びた橋がかかっている。“江村橋”という。

その“江村橋”に脚の長い可愛い少女が登っていく。

脚の長さに見とれてしまう。あぶない、あぶない、と自身を戒めながら、しかしこちらの若い女性は総じて腰の位置が高いなぁと羨ましく思う。



江村橋

(つづく 「江南を行く 5蘇州美女と快楽と」へ


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