<高山の歴史と文化>

高山市には縄文時代の遺跡が数多くあり、古くから人が住み着いたことが立証されている。また古墳時代に、地方豪族たちの権威の象徴である古墳文化がこの地にも花開いた。しかし歴史として全国的に特質されるようなエポックメイクはほとんどない。

以後歴史上に名の出る人物といえば高山下記だろうか。永正年間(1504〜)に天神山(てんじんやま=現在の城山)に城を築き、外記の城の近くを「高山」と呼ぶようになったという。

戦国時代になると、三木氏が南方から高山へ進出して、高山外記らを攻略し、松倉城を築城。さらに北方の江間氏を滅して飛騨を手中に収めた。しかし、富山の佐々成政(さっさなりまさ)と同盟したため、豊臣秀吉は越前大野城主であった金森長近(かなもりながちか)に飛騨の攻略を命じたのである。

この金森長近が飛騨の中興の祖といえようか。

金森氏の貢献は、室町時代まで下々国といわれ流罪の地くらいの扱いだった飛騨の国に高山を作り、耕地が少なく山地ばかりの飛騨にめげることなく、それを林業や鉱山の発展に力をいれ、後年幕府が直轄領にするほどの魅力ある地域を築きあげたことにある。その意味では会津における蒲生氏郷(1556〜1595)に似ている。
金森長近の詳細はこちら


3 高山の歴史と文化・・・屋台と陣屋

2005年3月

春の奥飛騨・雪景色


<屋台会館と高山祭>

残念ながら祭好きのわたしも、これまでタイミングが合わず高山祭を見ていない。見ていないからなにもいえないのだが、せめて噂の山車の一つや二つは見ておきたいと屋台会館を訪ねた。桜山八幡宮・参道近くの駐車場に車を停め、820円也を支払い、ハワイから来たという日系の一団と前後して入場した

解説によれば高山祭は年2回開催される。春は南町の日枝神社(山王様)の氏子が務める山王祭、秋は高山市の宮川以東・北半分の氏神である桜山八幡宮の例祭・八幡祭。年に2回も、しかも絢爛たる山車が曳きまわされる町をわたしは知らない。単純に想像できるのは、「この街の人たちは祭のために働き、祭のために生きているのでは」ということ。半年待てば祭がくるのだから、日々の生活に多少の苦労はあっても我慢することができる。祭好きならそのように思う。

この仕組みは江戸天下祭に似ている。どうもその仕組みを真似たようだ。江戸の天下祭は江戸を二分する赤坂山王と神田明神それぞれの氏子が隔年で開催し、江戸城に入場し将軍の上覧を得たというもの。祭好きな江戸っ子はさぞかし狂喜乱舞したことだろうが、高山っ子ははたしてどうだろうか・・・。

さて、高山祭が日本の3大美祭の一つとして喧伝(けんでん)されているのは、「動く陽明門」といわれる前述の屋台があるためだろう。荘厳で華麗、絢爛で豪華、それに幽玄と哀愁がほどよく調和した屋台は、伝統美と工芸美が一如となったものである。

高山の屋台について少し勉強した。その母体をなすものは、桃山時代の豪華な建築と美術工芸(上方文化)、および江戸初期の日光造営に見る新興技術(江戸文化)の融合であり、それが名工左甚五郎を生んだ「飛騨の匠(たくみ)」の技量によって攪拌止揚され、一大絵巻物となる屋台芸術となって花開いたというところだろうか。なにしろ飛騨の匠たちは寺社建築の技術者として、600年の長きにわたり都に送られ、その技術を供し、あるいは磨きをかけてきたわけだから、「わが町」の屋台作りに一肌も二肌も脱いだことはまちがいないだろう。

江戸では亭保6年(1721年 江戸に大火のあった年)に屋台は禁止されたため消えたが、高山では笠鉾、山車が消えて屋台のみが残った。以後4〜50年後に上方よりカラクリ人形を移入することによって屋台は江戸形の単層から重層となり、その後5〜60年を経て文化、文政期(1804〜1830)には高山形ともいえる独特のかたちを作りだした。独自の高山文化の完成ともいえる。


<高山陣屋>

大粒の春の雪が降りしきるなか、中橋近くに広大な敷地を構える「高山陣屋」を訪ねた。

この陣屋の価値は、全国にたった一つしか残っていない幕府の陣屋跡であるということで、当時の『お代官様』の暮らしぶりをつぶさに拝見できる。ただ、歴史に興味のある人以外は特別すごい話があるわけではなく、逆につまらない話を長々と聞かされるということになる。

実際歴史好きのわたしたちはあえて案内をお願いしたのだが、熱心なお話をありがたいと思う一方、1時間は長すぎるという感想をもった。(学校の先生をリタイアした方だろうかと推測したのだが)説明をいただいた方は細かな数字も含めてやたらと詳しかった。

陣屋ができたのは「金森氏が上ノ山(山形県)に転封」直後、飛騨国が徳川幕府の直轄領となった元禄5年(1692)から3年目のこと。やっと徳川の治世も落ち着きを取り戻したころだろうか。元禄8年(1695)4月、高山城の取り壊しが始まり、金森重頼の三人の娘が居住していた屋敷に代官役所を移して、高山陣屋と称した。これが陣屋の始まり。

以降、明治維新にいたるまで、飛騨国の政務は高山陣屋で執行された。

要するに飛騨の行政・経済・司法の中心であったということ。

しかしこの時代は平安が保証されていたわけではなく、逆に米作に不向きな寒冷地ゆえの不作・凶作は恒常的で、一般の民・百姓の生活は常に飢えとの戦いであった。「水のみ百姓」の蔑称のとおり、自分たちが収穫した米は年貢として供出してしまうから、粟や稗が主食となった。加賀(石川県)や越中(富山県)ほど頻発しなかったが、代官様の治世のやり方しだいで一揆が起きたとしてもなんの不思議はなかった。そしてそれは死を覚悟の直訴というかたちで、何回も行われた。

捕えられた者は厳しい取り調べや拷問の末、獄門、遠島などの刑を受けた。現代的感覚ではさばく者、さばかれる者の感情や意識を想像することは難しいが、一般大衆の不幸がそこに詰まっていたに違いないと思う。

<高山市周辺町村と合併の話>

本年2月1日、高山市を中心とした1市2町7村(丹生川村・清見村・荘川村・宮村・久々野町・朝日村・高根村・国府町・上宝村)は合併し、新しい高山市が誕生した。合併までにさまざまな葛藤はあったのだろうが、飛騨が一つにまとまり自然や歴史・文化などの観光資源がさらに豊富になった。観光誘致という意味では大きなメリットになったはずだ。

小異を捨てて大同に立つ意味は大きいと思うが、わたしが周囲の市町村の土産屋さんや民宿で質問してみた限りでは「恩恵はなにもありません!」「逆に生活コストは高くなりました。」という批判的な意見が多かった。

一つにまとまっていくのはこれからだろう。


<続く> 「荘川桜物語」

後ろの山に金森氏の城があった
陣屋大広間
高山陣屋玄関
高山の屋台
祭の衣裳
大八台
御役所で庶民の苦情を聞き取り
一隅



























































































桜山八幡宮

金森長近は信長・秀吉・家康の時代を
したたかに生き抜いて高山の基礎を作った

陣屋の背景となる城山に城址がある

















































秋に例祭を司る桜山八幡宮

屋台会館内部に据え置かれた屋台

平安朝風の
御殿造り
大八台で
優雅な
屋台囃子を

祭衣裳


全国に唯一現存する郡代・代官所

書院造の大広間・大会議室

お役人様は右手の畳の部屋で聴聞
百姓町人は左の土間に膝まづいて
これが江戸のしきたり

陣屋の外は雪景色
うさぎの紋章

うさぎの紋章

忠臣蔵の討ち入りのイメージだ!


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