五箇山の合掌集落は白川郷ほどまとまりがないが、五箇山IC近くの菅沼集落は庄川右岸のわずかな土地に、9棟が雪の中にひっそりとたたずんでいた。
世界遺産・相倉(あいのくら)合掌集落。街道から少しはいった段丘に24棟が立ち並び、山人の生活が昔のままに保存されている
「五箇山」とは上平村、平村、利賀村の3村を含めた総称である。重畳する山塊の峡谷を縫って庄川源流が流れ、この川は下って高岡の町から富山湾に注ぐ。
その歴史を紐解けば、平家落人伝説に行き当たる。
これはわたしの想像だが、寿永2年5月11日の『倶利伽羅峠の戦い』で、都に向かって攻め寄せる木曽義仲軍が平敦盛、平維盛ら平家軍を追い落とし、そこで敗れた平家の武将たちが五箇山方面に逃げ延びたのではなかろうかということ。倶利伽羅は石川・富山の県境でいまや国道8号線にトンネルも貫かれたが、五箇山から山中50キロの道のりだ。もっとも源氏の落武者探索は厳しかったというから、果たして生き延びることができたかどうかは定かでない。具体的な記録などは何も残っていないようだから、このまま想像の世界に閉じ込めておくのがいいように思う。
余談。
わたしが仕事でこのあたりを回っていたころか、東京に戻ってしばらく経ったころか、いずれにしろ25年も昔のことだが、五箇山の一つ利賀村が観光開発の一環として「ストリップ」小屋を建設しようとしたことがある。住民の反対があってストリップは頓挫したが、その代わりに「早稲田小劇場」の誘致に成功した。こんな田舎にそんなものを誘致してどうするのだろうかと意外に思ったのだが、富山出身の友人からすれば「それだけ文化度が高いのさ!」ということになる。たしかに、文化レベルが高かった平家の公達の末裔ならばさもありなんと納得もできるし、実際に現代の富山県は国立大学進学率全国一の地位にあるわけだからなるほどと、感心したことを記憶している。
とにかく合掌造りの家を建て、静寂な逼塞を慰めるために民謡を歌い昔の栄華を偲ぶ平家のみなさんの姿は容易に想像できる。そして幾星霜・・・・・。
合掌造りは歴史の流れの中、居住性の不便さからどんどん改築され急速に姿を消しつつあったが、世界でも珍しい建築様式の文化的価値を認めた文部省が動いた。そして山間の桃源郷・五箇山の合掌集落は白川郷とともに世界遺産に登録された。
「相倉合掌集落」「菅沼合掌造り集落」があるほかに、西赤尾町地区に「岩瀬家」、上梨地区に「村上家」の2軒が重要文化財として保存管理されている。
庄川沿いに、赤尾谷、上梨谷、下梨谷、小谷、利賀谷の5つの谷間の集落があり、その「五ケ谷間」を音読して「ごかやま」と呼ぶようになった。
日本有数の豪雪地帯。
雪国の生活を垣間見る
二階から暖炉のある大居を
いろりに火を入れてお茶を一杯
加賀百万石の威光・岩瀬家
その一つ「岩瀬家」を覗いてみた。
大きな家に火の気は少ないため寒い。ご主人と二人暮しでこの家を守っているという奥方が、まず囲炉裏に火をおこし、その火に手をあてながら、短時間で歯切れよく説明してくれた。
「よくいらっしゃいました。どちらからですか?」聞き手はわたしたちしかいない。
「それでは説明させていただきます。」
「この建物は間口26.4m、奥行き12.7m、高さ14.4mの結構であり、この地方に200ほどある合掌造りの中でも最大級の建物です・・・」と折り目正しく5分ほどの説明の後、内部を見せてもらった。
(この広い屋敷を年齢のいったご夫婦で管理されるのはさぞかしたいへんだろうな!)そのご苦労を想像したが、約300年前に8年の歳月を費やして建てられた5階建ての合掌造りは、この地区最大の規模を誇る。加賀藩煙硝上煮役の旧家・藤井長右ェ門の財によるもので、天領・白川郷の向うを張って加賀前田藩の威光を示したものだという。
建物の下手半分は総檜作り、座敷は書院造となっている。
上層部が養蚕作業場であったため間仕切りがなく、床板が簾の子張り(透かしの目皿)になっているのは、白川郷の合掌造りと変わらない。春の養蚕のとき1階の囲炉裏の暖を階上に通すためであり、かつ家屋を長持ちさせるためでもある。
随所に加賀前田藩の足跡が残っており、前田家の寄進と思われる遺物がおかれていた。現前田家当主の書や初代富山県知事の書なども飾られているほか、珍しいものとして『学習院初等科地理研究会』の寄せ書きが掲額され、その中に皇太子・浩宮徳仁のサインを見つけた。
仏間の仏壇も立派だが、立派すぎて写真を撮るのがためらわれた。
帰り際にわたしが「むかし『地獄谷』とかいう難所を車で通ったことがあるのですが、今でもあるのですか?」と記憶を頼りに質問したところ「ああ、『人食い谷』のことですね!いまでもありますが、立派なトンネルができましたので、そちらを通ることはありません。当時はバスなんかも通っていましたが、名前のとおり恐いところでしたね。」と感慨深げに話してくれた。
もうひとつおまけの話。その『人食い谷』の近くに温泉があった。やはりダム建設のために集落が底に沈んだが、村人から愛された温泉を何とか続けようと豊富に湧き出る源泉を湖底から採り込み、交通手段は船を頼りに再興された。秘湯の「大牧温泉」は今でも船が唯一の交通手段ではないだろうか?
昭和50年(1975)当時、五箇山は交通も不便で富山県の他の町村とは隔絶された孤立感があった。今では立派な道路が開通し、橋がかけられトンネルが掘られ、普通の山村になってしまった・・・。
この地に名高い民謡がある。『こきりこ節』という。「♪窓のサンサもデデレコデン ♪はれのサンサもデデレコデン」という囃子の歌詞を記憶されている人は多いのではないだろうか?越中五箇山・上梨の山里を中心に伝承された古代民謡であり、「烏帽子」「狩衣」の衣装をまとって純朴に踊る。
多くの民謡は起源や伝承の経緯がつまびらかでないのに比べ、こきりこ節は古文献に記載されており、来歴がかなり明確である。したがって、大化改新(約1400年前)のころから田楽として歌い継がれてきたという語り伝えも、かなり信憑性がある。
すっぽりと雪に埋もれて山も見えず
楽器は、鍬金(くわがね=鍬の先に紐をつけて使う楽器)、筑子(きこりこ)竹、ささら(短冊形の薄い桧の板が108枚つづってある打楽器で魔よけの意味があった)、鼓、横笛、太鼓など往時のままのものを今も使う。
筑子(こきりこ)の竹は七寸五分じゃ 長いは袖のカナカイじゃ♪
窓のサンサもデデレコデン はれのサンサもデデレコデン♪
万(よろず)のササイ放下すれば 月は照るなり霊祭(たままつり)♪
窓のサンサもデデレコデン はれのサンサもデデレコデン♪
波の屋島を遁れ来て 薪樵るてふ深山辺に♪
前項で触れた皇太子・浩宮は五箇山を巡遊の際に耳にされた『こきりこ節』を次の歌に詠んだ。
五箇山を おとずれし日の
夕餉時 森に響かふ こきりこの唄
わたしたちはこのあと、もうひとつの有名な民謡を優雅に保存している里に向かった。
<続く> 8 越中八尾おわら節へ
2005年3月