Miss Lou Playfair
お食事ですよー!
イワナのコツ酒 トクトクトク
年季の入った柱と
磨かれた廊下
寒い寒いといいながら夕食が始まった。山里の食事は当たり外れが少ないが、大きな期待もできない。山菜や禽獣肉や淡水魚というメニューが相場だ。ビールで一息ついたあと、コツ酒を頼んだ。大きな深い皿によく焼いた岩魚を一匹いれ、その上から熱燗の日本酒二合を注いだ。じゅっと音がして、香ばしい香りが鼻にきた。どんぶりを回して飲むのが本来の飲み方かもしれないが、おたまですくい、湯飲みで飲んだ。やっと人心地ついていい気分になってきた。380`の雪道を走破した疲労が身体全体にまわってきた。
この日いっしょに囲炉裏の食卓を囲んだのは3組。わたしたち以外はみな外国人だ。英語を解さないで泊めてしまうご主人の根性には感心したが、世界遺産に登録され国際化は必至の白川郷ではこういった光景は日常茶飯事なのかもしれない。
ノルウエイのペール・ヴィッゲン君は闊達でけれん味がない。中国人の初々しい奥方をゲットして新婚生活を楽しんでいるふうが見えた。互いに留学していた時代に知り合って華麗なる国際結婚。ところが今回はノルウエイからご両親が訪日され、二人して親孝行をする旅となった。暖かい沖縄が希望だったようだが、「寒いけれども雪の白川郷もいいですね!日本の原点を見た思い!」と感動と興奮の様子が見て取れた。ご両親もこの旅を十分堪能しているようであった。
オーストラリアのシドニーから一人旅の美人の賓客はLou Playfairさん。見た目でそれとわかるアングロサクソン正統の美人。12日間の休暇をとって、東京・京都・奥飛騨の旅に。実は二人で来日したのだが、お相手は休暇が終わり帰国してしまった。外国の方から「日本は美しい国!」と褒めてもらえば日本人はそれだけで嬉しくなってしまい、あれこれと世話を焼きたくなる。明日の予定が五箇山ということだったので「いっしょにいかが?」とお誘いしたのだが、白川郷をゆっくりと散策したいというので、メールアドレスを交換して翌朝別れた。
彼女に関してエピソードが一つ。不慣れな日本の民家に宿泊して、入浴後に風呂の栓を抜いてしまった。彼女のコモンセンスでは当たり前のことだが、あとにはいる人が困った困った!
かれらは夕飯のお酒を一滴も飲まなかったが、食後の団欒の時間はわいわいがやがやと常以上に盛り上がった。もともと日本のことをもっと知りたいという好奇心が根底にあるから、会話が面白い。白川郷の写真を見ながら明日はどこに行こうかという話に始まって、合掌集落と日本古代の縄文・弥生の時代のこと、ヨーロッパのパックスローマのこと、ノルマンのバイキングによる南下のことなど高尚な話題は何時果てるともなく延々と続いた。
こういった出会いがあるから旅は楽しい。
ペール・ヴィッゲン君とは「東京で食事でもしましょう!」が別れの挨拶となり、“Have a nice trip ! Von voyage !”で別れた。
展望台からの帰り道 雪が背の高さより高い
展望台も雪に埋もれて
中腹から街道のトンネルが見えた
雪静かに 降り止まず
15世紀にこの地を支配していた内ケ島家が、出城として建てた荻町城の跡地(北側の小高い丘)が展望台になっている。ここからは眼下に広がる白川郷の合掌集落を一望できる。登ってみてはっきりとわかったが、『合掌集落』を発信するいい写真はここから撮ったものが多い。たいした時間もかけずに登れる裏山という感じの展望台だから、ここには是非登るべき。「城山展望台に登らずして白川郷を見たというなかれ!」
ところが翌朝の登山道(というより散歩道なのだが)は、40cmの新雪が覆いかぶさり歩くのも困難な状態。6時52分、(展望がきくところまでなんとか上がりたいという気持ちで)新雪をゴム長靴でラッセルし、雪中行軍開始。転んでしまうと起き上がれず、悪くすると息ができなくなるという危険が隣り合わせ。民宿のお父さんは「無理だから止めときなされ!」と警告を発していた。
いい大人二人は(子供のような)腕白心を発揮して少しずつ上がり始めた。朝食前の散歩にしては激しすぎる。しかし執念は恐ろしく、7時24分頂上に上り着いた。
苦あれば楽ありのことわざは正しい。人のけはいのない新雪に埋まった展望台から美しい村を見下ろした。穢れのない静寂な白川郷がわたしたちを待っていた。真っ白な白川村荻町集落は片手ですくえるほどで、両目の中にきちんと焼きつけた。
ここから眺めるとすべての合掌家屋が東西に屋根面を向けているのがよくわかる。冬の強い北風を三角の妻面で受け、家にかかる風圧を上手に逃がしている。
右手の庄川もいいアクセントになっている。何時まで眺めても見飽きない光景だが、朝食の食いっぱぐれが気がかりになって山を下りた。
帰りは山の裏側の自動車道を選んだが、こちらはすでにラッセル車がきれいに雪を除去していた。
民宿の近くで愛車の状態を確認したら、ほとんどすっぽりと雪に埋まってしまい雪の小山となっていた。それでも朝食を済ませもう一度いってみると、屋根の雪や車の前の雪はきれいにはねられていつでもスタートできる状態になっていた。民宿のお父さんどうもありがとう!!
<続く> 「白川郷 合掌集落」へ
その白川郷にやってきた。
じつは数日前、(白川郷に雪があるなら週末に行ってみようか)と思いついて電話で確認してみた。民宿のおかみさんは「周囲の山々や田畑には未だ雪がたくさん残っていますよ!」というので、その場で即座に宿泊を予約した。このことから今回のすべての旅が始まった。
そしてこの日、たしかに雪は残っていたが、それどころか、長いドライブの途中も雪はずっと降り続き、まさに「どか雪」の様相を呈していた。翌朝、庭で雪かきをしていた女性に聞いてみたところ、「昨夜一晩で40cmは積もったでしょうか。3月末にしては珍しい!」と驚いていた。
都会のサンデードライバーには厳しい雪道であるが、幸いにも北海道での運転経験が生きた。
民宿は合掌集落の奥の高みにあった。眺望の有利さを考えてあえてここを選んだのだが、新雪の田舎道をここまで上がってくるのは、スタッドレスタイヤだけでは苦労が多かった。側溝に落ちることが恐い。新雪はスリップして前に進みにくい。一度バックして、勢いをつけて前進という運転をくりかえした。やっとの思いで民宿近くの雪道に空いている場所を見つけたので、躊躇せず車を押し込んだ。(あとは明日の話、なんとかなるだろう!)
民宿「かんじや」にたどり着いたのはちょうど午後5時。軒先にツララがぶら下がっていたのが印象的だが、ここは観光名所・明善寺郷土資料館の裏手に当たり、田圃の水に雪の明善寺が映る夕刻の光景は感動的ですらあった。(頁頭の写真)
白川郷は真の隠国(こもりく≒籠口)である。隠国(こもりく)とは、左右を山に挟まれた狭い土地のことで、万葉集では「泊瀬(はつせ)」にかかる枕詞として使われた。囲われて外からは見えない状態を隠(こも)るといい、その国(く)だから「こもりく」である。このことばから過去の閉鎖性とおどろしい神秘を感じるが、白川郷を形容することばとしてはぴたりと当てはまるのかと思う。なお泊瀬(はつせ)とは奈良の長谷寺の裏に立つ初瀬山のことで古代は奈良の都から伊勢に抜ける重要な街道。神の宿る三輪山を間近に望む、神さびた谷間の盆地である。
司馬遼太郎は「街道を行く」で「白川谷に住む人々はすべて、室町末期に浄土真宗の門徒となり、その法儀によって統一された単一の秘境文明を作った。」と書いている。
富山県(白川郷は岐阜県だが)は真宗門徒の数が他の宗派に比べて圧倒的に多い。真宗は一向宗とも呼ばれ、越中における真宗の布教は、南北朝の中頃、親鸞の曾孫、存覚の布教によって始まった。南北朝の末頃、第五代綽如(しゃくにょ)が京都より越中礪波郡井波の里に瑞泉寺の基をひらき、布教の根拠地とした。急速に広がったのは、それから80年後文明3年(1471)、本願寺第八代蓮如上人が比叡山の圧迫を避けて越前吉崎に御坊を建ててからである。
司馬のいう『秘境文明』のことばによってわたしは人里離れた『結界』に似た神秘の空間を想像する。時代劇に出てくる忍者の里というような・・・。
また「浄土真宗は弥陀の本願を信じる信仰以外のすべての呪術や迷信を排除する」と指摘している。この里にはその昔、山々に祟りをなす山霊や妖怪が住んでいて、里人は怯えに満ちた生活を送っていた。それが浄土真宗の布教のおかげで魑魅魍魎が排除され、いわれのない恐怖から解放された。喜ばしいことである。
合掌造りの連なり
民宿「かんじや」お世話様
軒先のツララがポトリと落ちた
Lou-san from Australia