金森長近(かなもりながちか)は尾張に生まれ近江守口で育ち、成人して織田信長の近侍となり、親衛隊・赤母衣衆(あかほろしゅう)を経て武将となる。
本能寺の変後は賤ケ岳の合戦に柴田勝家軍の将として参戦している。しかしながら形勢不利と見たのか、前田利家らと戦線を離脱してしまい、このことが秀吉軍の快勝、柴田軍壊滅の原因になったといわれている。もっとも、それ以前に秀吉によって懐柔されていたという説もある。
天正14年(1586)、長近は飛騨国3万3千石の国主として入府し、ここから金森氏6代、107年の治世が始まる。関ケ原の戦いでは徳川方について前線で戦い、美濃国上有知(みののくにこうずち)1万8千石、河内国金田(かわちのくにかねた・大阪府)3万石が加増されている。飛騨に入国した長近は、天正16年(1888)から城の建設をはじめ、慶長5年(1600)までの13年間で全国に5つとない見事な城を築城した。当時は関が原の戦勝組に築城ブームが起こっていた。
また、城と同時に城下町の工事も行われている。京都になぞられて東山に寺院群を設けた。農民一揆の対策としては、門徒の多い照蓮寺(現在の高山別院)を高山城と向かい合わせに配置し、人の心を安め、宗和流茶道をはじめ、寺社の再興、さまざまな文化をおこすことも積極的に行った。
金森氏の貢献は、室町時代まで下々国といわれ流罪の地くらいの扱いだった飛騨の国に高山を作り、耕地が少なく山地ばかりの飛騨にめげることなく、それを林業や鉱山の発展に力をいれ、後年幕府が直轄領にするほどの魅力ある地域を築きあげたことにある。その意味では会津における蒲生氏郷(1556〜1595)に似ている。
金森長近を始祖とする金森氏の善政は今現在においても高く評価されている。