<晩秋の北大>
12:30かつてはいっしょに仕事をした後輩の臼田君(千葉大写真学科を卒業した業界のエリートであったが)と札幌駅東口にて待ち合わせ。その足で北海道大学工学部W研究室に直行する。広大な北大の構内は銀杏の紅葉も終わり、寒々として雪を待つばかりの表情をしていた。この初冬の景色に出合うと(またしばれる雪の季節を迎えるのか)と、憂鬱になるのだが。

先生の研究は顕微鏡を利用して血流を高速度撮影したいというもので、2時間半ほどで説明を終了、十分理解してもらった。製品の写真をカメラに納めた事務方の契約担当者からも「支払は月内に。」と心強い言葉をいただき、気持ちよく研究室を後にした。
<クラーク博士のこと>
北大のこと。
攘夷から解き放された明治維新の日本は、産業革命を成し遂げた欧米から、あらゆる新しい価値を導入するのに必死であった。
北海道の開発は開拓使長官の黒田清隆によって導かれた。かれは米国の農務長官ホーレス・ケプロンに白羽の矢を立て、開拓指導責任者として未開地に招き、その経験と能力に道の行く末をゆだねた。高名な現役の政治家がよくきたものだと思うのだが、当時の日本を取り巻く背景には欧米列強によるアジア植民地化のための熾烈な主導権争いがあった。

農業立国としての北海道の将来を企図したケプロンは、駐米少弁務使の森有礼の奔走もあり、当時マサチューセッツ農科大学の学長ウイリアム・クラーク博士・当時50歳を招聘し、北大の前身「札幌農学校」の教頭に据えた。
クラーク博士は1876年7月31日に札幌に到着し、8月に札幌農学校が開校したのだが、その年は奇しくも合衆国が独立を果たしたセンテニアル(100年)のメモリーイヤーであった。(1776年7月4日独立宣言)
(独立宣言からちょうど百年目の夏に東洋の見知らぬ国に旅立つのだ)という奇縁に、博士は「天命」を感じていたのではなかろうか。そのキーワードは”開拓者精神”。
1年に満たない短期間ではあったが精力的に教壇に立ち、キリスト教精神で弟子たちを導いた。直接教えたことのない第二期生の内村鑑三や新渡戸稲造にも先生の影響は大きく残り、さらにその弟子たちにも教えは継承されていった。
人間「クラーク」の晩年は挫折と失意の日々であったが、「少年よ、大志を抱け!」の言葉は不滅である。このことばは博士の最後の講義で語られたものだが、短いセンテンスだけが一人立ちしてしまっている。講義の概要は以下の通り。
<クラーク博士最後の講義>
「開拓は崇高な事業。神は自然を自然のままに造りなして、人間に与えた。それを自らの役に立つように作り変えるのが人間の義務であり、それによって住む土地を増やし、穀物を増やせば、応じて人の数もまた増える。
北海道はちょうどアメリカの西部と同じように未開の地であり、そこにはいってこれを開くのは日本の若い人々の義務、豊かに開かれた土地はやがて多くの人を養うであろう。この1年北海道の血をつぶさに見て、また諸君の勤勉にして篤実な勉学の姿勢を見て、この地を開けば多くの実りを期待できると信じる。
紳士であれ。紳士であれに加えて、野心的であれ。大いなる志を持て。金銭や、利己的な勢力拡大、人が名声と呼ぶところの儚い栄誉に対してではなく、知識と廉直とこの地の人々すべての向上という目的に対して野心的であれ。」
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さて、観光の目玉として、あるいは札幌農学校の象徴として一世を風靡したポプラの並木もいまや老木化して旧日の面影はなく、立ち入り禁止となっている。これが歴史というものだろうか?
<人懐かしくなる季節>
臼田君と帰り道での会話。「こんなに寂しそうな冬枯れの景色の中にいて、寒風に吹かれて夕方を迎えたら、出張者も早く東京に帰りたくなるよね。」「観光なんて、もう、どうでも良くなるでしょう。」
コーヒーを飲みながら「まだ結婚しないのですか?」とプライベートの話を向ける。彼は29歳になるが、最近の若者の結婚観はわからないところが多く、「子供は欲しいけれども、結婚は面倒くさくて嫌です。」「でも、適齢期を迎えると焦りますね。私は35歳までにできれば良いと思っています。」とのこと。
「種の保存のためにも、人間の責任として子ども最低2人は育てなければ・・・。」と持論を展開してしまった。
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1.プロローグ|2.晩秋の北大|3.時計台・小樽逍遥|4.札幌の夜・ススキノ|5.ヘソを目指して・桂沢湖・三段の滝|6.富良野・美瑛パッチワークの丘|7.美瑛のラーメン・望岳台|8.十勝岳温泉|9.札幌すし善|10.エピローグ中島公園
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