<宇治川の先陣>

先陣の碑

 宇治川にかかる喜撰橋をわたり中の島に出ると、「宇治川先陣の碑」と刻み込んだ大岩が重々しく座っていた。

 平家物語の中でもっとも格調高く、「血わき肉踊る」シーンであり、高校の古文の教科書にも採用されていた。


 「寿永3年(1184)、後白河上皇より朝日将軍・木曽義仲(義経には従兄弟にあたる)追討の命を受けた源九郎判官義経は、宇治川を挟んで義仲軍と対峙する。
 天下の激流を挟んだ両軍の決戦は、義経軍の名馬『するすみ』に乗った梶原源太景季と、これも頼朝より拝領の名馬「いけづき」に乗った佐々木四郎高綱の先陣争いで、幕を切って落とした。

雨の宇治川

 急流に馬を進めた結果は、梶原源太が先陣と思われたのだが、四郎高綱は『梶原殿、腹帯が緩んでいる!』の偽言の策を弄し、梶原がひるんだ隙を縫って先陣争いを制した。
このとき四郎高綱25歳、源太景季22歳。いずれも堂々とした若武者振りであった。」

 昔の戦は緩やかで、かつ華やかであった。軍馬が隊伍を組んで、宇治川の川中を幾段にもわかれて戦列を押し進めていく様は、さながら無数の花筏がただよい浮かぶようであった、と平家物語は伝えている。



朝霧橋< 讒 >

 宇治川で大勝した義経は義仲を追い詰め、その後、義仲は近江粟津原で討ち取られる。

 この後、連戦に連勝を重ね、平家を追討するのに勲一等の働きをし、後白河の覚えも愛でたかった義経だが、ある人物の讒言によって、またそれを採用した兄・頼朝によって追い落とされる。
 讒言をはいた人物の名は梶原平三景時。
 そう、『するすみ』に乗った梶原源太景季の父である。老練な戦人であった。



<梶原・・・>

 結果として、九郎判官義経は歴史の中で「判官贔屓(ひいき)」ということばが生まれるほど後々まで慕われ、国民的英雄となるのだが、梶原の名は忌み嫌われることになる。
 讒言を受容した頼朝まで悪印象を残すことになった。

 わたしはかかる物語の展開は、騒乱や悪疫・飢饉など千変万化する時代を生きた後世の人間の想像により、多分にゆがみ伝えられているという立場をとりたいので、にわかに信じない。

 ただその時の梶原に「これからまとまろうとする天下国家のため」という大義名分があったか否かが問題。個人の栄耀栄華や立身出世のため、あるいは私憤のためというのであれば、断じて斬すべき。

 真実はすべて過去の闇の中・・・

 しかしながら結果として、梶原氏の命運もわずかでしかなく、頼朝亡きあとの勢力争いの中で味方も現れず朽ち果てる運命が待っていた。自業自得というべきか。
 現代サラリーマン社会でも、社内の権力争いでこれに似た道をたどるものがいかに多いことか。昔も今もいちばん可愛いのは自分。だからといって自分だけに利益を誘導する人間は嫌われる。さりとて、清廉潔白にして公の利益を優先して生きる聖人君子になることもきわめて難しい・・・。人間の業は深い。

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