北陸紀行
「若き日の追憶」
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<吹雪>
昭和50年(1975)厳冬2月末の夜半、わたしは一人、北陸自動車道を走っていた。福井市の北・丸岡インターから乗り、金沢に向かってあと15kmの地点・根上町(ねあがりまち)のあたりであった。
突然チェーンが切れパシッという音がしたと思ったら、鉄の鎖がカンカンカンカンと鋭い音を立てて車体を叩いた。マズイと思いながら急遽、片効きのブレーキを踏んで高速道路の路肩に車を止め、吹雪混じりの寒風吹きすさぶ極寒の車外に出た。左側すぐ近く、怒涛逆立つ大荒れの日本海は暗闇に隠れ、海から強く吹きつける吹雪のため、まともに目を開けることもできなかった。
<北陸路>
・・・・・その月曜日は朝から長い会議が続いて、名古屋支店を出たのは冬の日が西に傾くころになってしまった。名古屋に転任して、初めての北陸出張、しかも一人旅。
朝の天気予報で、低気圧が日本列島に近づいていて「北国は大雪の恐れがある」ことを知っていた。同僚に、もっと早く出たかったのに、と口から出かかったことばを中に押し込んだ。1300CCという能力不足のカローラバンは商品を思いっきり積んで悲鳴を上げていたが、250kmの夜の長距離ドライブだからガソリンも目いっぱい飲み込ませた。女子社員の「気をつけて行ってらっしゃい!」に激励されて出発。
名神高速を関が原で降りると右手に、伊吹の山々が深い雪を抱いて、灰色の屏風のように高く聳えていた。車は琵琶湖東岸を走る。長浜・虎姫・木之本という湖岸の町を経由して要衝・敦賀にいたる。
国道8号線は近江を始発とし日本海に沿って新潟にいたる重要な道路だが、昔から難所が多く、陸路よりむしろ海運(北廻船)を利用して物資の輸送が行われていた。
今は北陸自動車道が完全に開通し、冬季も車で苦労なく北陸に行けるが、1975年のころは高速交通網が整備されていなかったために、ただ悪路をひた走るのみ。今とは天国と地獄ほどの違いがあった。
<四苦八苦>
とくに敦賀から武生・鯖江に抜ける海岸線の山道はたいへんな難所で、急坂・七曲のうえ道路が狭い。
この道を抜けるほかに選択肢はないから、恐いもの知らずの大型トラックがビュンビュン飛ばしている。おまけに恐れていた雪が降ってきた。山道の道路の側溝からシャワーが飛び、雪を溶かしている。前方から吹き上げるような雪は、ヘッドライトの光線の中にもろに飛び込んでくるから視界を著しくさえぎる。ハンドル操作を誤れば、左は深い海、右は対抗する大型トラックと、どちらも命の保証がない。仕事とはいえ、まさに命がけの運転なのだ。
山道が尽きる武生までおよそ40km。命が縮むような2時間の恐怖の運転はやっと終わった。
この当時福井の北方・丸岡インターから金沢西インターまでしか北陸自動車道は開通していなかった。したがって鯖江から福井の市街地を抜けて、丸岡から高速道に乗ったというわけである。
そして冒頭のチェーン切れに遭遇した。
<雪に埋もれた金沢>
車に撥ねられないように後続車に注意し、軍手をはめてチェーンを取り外しにかかった。指の先でチェーンを探りながらロックをはずそうとしたが、暗いうえに、手がかじかんで思うようにならない。白いワイシャツの手首の部分がチェーン油で汚れてしまったが、それどころではない・・・。
やっとの思いでチェーンをはずし、逃げるように金沢のホテルに飛び込んだ。
翌朝、あれほど猛威を振るった冬将軍はすっかり収まり、静かな朝を迎えた。部屋の窓から外を眺めると一面の銀世界で、その中に、すっぽりと雪に埋もれてしまった車を見つけた。
あのときからすでに30年近くが経とうとしている。
余談だが、現在、わたしがチェーンを切ったそのあたりの海とは反対側近くに、ヤンキースに行った松井秀喜選手の「野球の館」が、茶色の屋根もま新しく、すっくと立っている。高速道路上からさえぎるものもなく、だれでも確認することができる。
当時彼は生まれたばかりの赤ん坊だった。
<続く>
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