北陸紀行
「戦国歴史街道・
お市とその娘たち」
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<浅井長政とお市の方>
琵琶湖から越前にかけては、戦国大名が夢を追った歴史街道である。
また信長の妹で美貌と才女の誉れ高い「お市の方」が政略に翻弄された悲しみ街道でもある。そしてその娘たちも・・・・・。
浅井長政(1545−1573近江国小谷城主、下野守久政の子)は、政略により信長の妹「お市の方」を娶る。信長を味方につけ、六角義賢を破り近江の国の大半を領する。長政は剛毅闊達な若者で妾もおかず幸せな数年が過ぎた。
しかし信長が約束を破って越前の朝倉義景を攻めたのを期に、朝倉との同盟の義を重んじて、信長打倒の兵を挙げる。
これには裏話がある。長政は親・信長派であり、信長も婿殿を可愛がっていた。信長の朝倉攻めを前にした城内の軍議で、長政は信長につくことを主張した。しかし時世を見誤る固陋の父・久政の一言で運命が決まった。「妻の色香に迷って武将の義に背くか!」
元亀元年(1570)6月の「姉川の戦い」で、朝倉と連合して織田・徳川連合軍と戦うが、大敗して朝倉義景は討死。
その3年後の天正元年(1573)、再び信長軍の羽柴秀吉に小谷城を攻められ、長政はお市の方とその子女らを逃がし、父とともに自害して果てた。哀れを後世に伝えられたのは二人の息子たちのこと。捕らえられ、長男の万福丸は串刺しにされたという。信長は裏切られた長政を必要以上に憎悪したというが、これは愛情の裏返しに違いないと思う。
下克上の戦国時代、躊躇や情けは禁物、血を血で洗う戦(いくさ)がこの時代の歴史そのもので、天下をとらなければ滅亡しかない。血縁すらも、いや血縁こそが安心できない敵となった。
<柴田勝家と再婚>
お市の方はその後の天正10年(1582)10月、信長が本能寺に倒れて数ヵ月後、35歳で後継者争いの一人柴田勝家に再嫁する。秀吉の横恋慕から避難したという話もあるが。
尾張出身の柴田勝家は、勇猛果敢で信長の尖兵として活躍し、猛将の名をとどろかせていた。・・・・・天正3年(1575)9月、信長が越前の一向一揆を滅ぼすと、勝家は越前のなかで49万石を与えられて、現在の福井市中心部にあたる北ノ庄に壮大な天守閣をもつ城を築いた。その治世は評判もよかった。・・・
しかし信長の死後勝家は、後継者をめぐって羽柴(豊臣)秀吉と対立。天正11年(1583)4月、賤ケ岳の戦で秀吉軍に敗れた。 同24日、北ノ庄城にて妻のお市の方とともに自害した。嫁してからわずか6ヵ月後のこと。
お市の方は戦乱の中で果てる。
辞世は「さらぬだに うちぬるほども 夏の世の 別れを誘う ほととぎすかな」
そして、その娘たちも数奇な運命をたどる。
その三人の娘とは・・・長女・豊臣秀吉側室淀君(茶々)、次女・京極高次室常高院(於初)、三女・徳川秀忠室崇源院(於江)。
<長女・淀君のこと>
長女「淀君」、幼名は「茶々」。1573年(天正元)伯父信長に包囲された小谷城から、母に伴われて妹二人とともに脱出し、信長の尾張清須城に入る。その9年後1582年柴田勝家に再嫁した母に従い、越前北ノ庄に入る。翌年秀吉に攻められ北ノ庄は落城、母は勝家とともに自刃したが、茶々は妹二人とともに秀吉に庇護される。やがて秀吉の寵愛を受け、文禄2年(1593)大坂城で次男秀頼を生む。
正室「北の政所」に子がなかったため、大奥において権勢をふるう。秀吉の死後、慶長4年(1599)秀頼とともに大坂城西の丸に入り豊臣の再興を画すが、元和元年(1615)5月8日、大坂城落城により秀頼とともに自刃した。
どちらかといえばわがままでヒステリック、時世の見えない女性というイメージが強いが、彼女もまた戦国の世の犠牲者か。
<次女・お初の方 常高院>
次女「お初の方」は秀吉のとりなしと姉・淀殿の計らいで天正15年(1587)、名門の嫡男・京極高次(近江高島郡大溝城主)と結ばれた。20歳。幸せは長く続かない。1609年に夫・高次が死去すると、直ちに出家して常高院と称した。それから1615年5月の大阪夏の陣で豊臣家が滅亡するまでの6年間、彼女は徳川方と姉・淀君との仲介役を精一杯努めた。
そして大阪落城。しかし彼女の役目は終わらない。
今度は、徳川二代将軍・秀忠の正室(三代家光の母)となって権勢を誇る四才下の妹「お江の方」の、相談相手として江戸城に通うことになる。寛永10年(1633)8月、没。享年66歳。
<三女・お江 崇源院>
三女「お江」(小督)は器量も地味で、目立たないおとなしい娘であったが、縁組みは一番先に決まった。
相手は母の姉の子、つまり従兄である尾張の小大名、佐治与九郎。ところが天正12(1584)年、秀吉によって離縁させられてしまう。
次に「お江」が嫁がされたのは、秀吉の姉・智子の次男、羽柴秀勝。ところがこの夫は朝鮮出兵で戦地に赴き、またもや戦死してしまう。
秀吉が三人目の夫と決めたのは、徳川家康の三男・秀忠、徳川二代将軍である。
このとき秀忠17才、「お江」23才。
新郎は初婚、新婦は3度目の結婚でしかも子供も生んでいるが、お江にとってこの結婚は幸せだった。
長女の千姫(のち秀頼に嫁ぐ)をはじめ、7人もの子供に恵まれる。
長男・竹千代はのちの3代将軍家光となるが、将軍の正室の子が将軍職を継いだのは、後にも先にもこの家光ただひとり。
歴史の奇遇はたくさんある。
「お江」の三女「勝姫」は、祖母「お市の方」が自刃した越前福井藩主・松平忠直に嫁いできたのだ。因果はめぐる宿命だろうが、こんなに早く福井の地にめぐらなくてもよさそうなのに・・・。
<東福門院・和子>
もう一つ世に知られた有名な話がある。
「お江」の五女「和子」は1620年、後水尾天皇の正室(女御)となる。徳川家としては念願の天皇家への入内であり、これはたぶん家康のいちばんの願望だったのではないか。しかし家康存命中には実現せず、死後4年目のことであった。
「和子」は二女・興子(おきこ)を産んだ。興子は1629年父の譲位により7才で第109代明正天皇(めいしょう1624〜1696=女帝)となり、21歳まで天皇位にあった。
三人とも歴史の表舞台に生まれ、女性であるがゆえに政略に利用され、自分の意思とは無関係のところで翻弄され続けた。これは当時の中流以上に生を受けた女性の宿命。女性にとってはなんともやるせない気持ちだろう。
現代女性は今の時代に生まれてよかった?
皮肉に思うのは織田の血も、織田に滅ぼされた浅井の血も、徳川の血に交じって連綿と徳川300年の歴史を支えたということ。そればかりか天皇家にまでその血が・・・・・。
<続く>
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