北陸紀行
「足羽川(あすわがわ)」
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<朝食はバイキング>
福井の朝、部屋に差し込む明るい太陽の光で起こされた。
昨夜ホテルに到着したのは12時を半ば過ぎていた。睡眠時間5時間の強行軍だが、旅をしている最中は疲れを感じないものだ。
朝食は和洋両用のバイキング。食事前に周囲を散歩していたので、おいしい食事を迎える準備はできていた。
ふだんの倍の量はいただいただろうか。これが健康の源泉。
447名収容というビッグなワシントンホテルは中央公園の脇に偉容を誇る。レセプションでホテルマンに声をかけてみた。
「いつごろ建ったのですか?」「十年少し前ですが。」「じゃあ、バブルの直前でしょうか?」「はい。そうなんですよ。」「ではたいへんでしょう?」
正直なホテルマンは、顔にありありと苦労のニュアンスを見せていた。日本全国どこにいっても出会う厳しい顔であった。
9時にホテルをスタート。
<川の町>
福井市街の南西に位置する標高117mの足羽山。
その足元を流れる足羽川。この辺り一帯は福井市民の憩いの場所だ。
川のある町は清涼感を感じ、なんとなく落ち着くことができる。いい町にはいい川が寄り添っている。
そんな町をたどってみると・・・札幌には豊平川、仙台に広瀬川、福島には阿武隈川、水戸には仙波湖と那珂川、前橋には利根川、静岡に安倍川、岐阜に長良川、京都には鴨川、岡山に旭川、広島に太田川、北陸においても金沢に浅野川と犀川、富山に神通川、高岡に庄川・・・・・というより、川のほとりに人間が住み着いて都市ができたというのが正しい解釈だろうから、これは当然の話か。
いずれにしろ、それらの川は都市生活者に潤いとゆとりを与えてくれる。
<桜花爛漫・足羽川>
ここ福井市の足羽川は「全国・桜の名所100選」に選ばれたほどの桜の名所。2kmにわたって続く土手沿いに500本のソメイヨシノが植えられており、さながら桜街道のようだ。
雲ひとつない河畔の堤は桜色一色に染まり、七・八分咲きというところだろうが今を盛りに咲き誇り、延々と続く両側の桜並木は桜の森というほど重厚な景観を見せていた。
「わあ、きれい!」という女性の感嘆詞を何十回聞かされたことやら。 地元のテレビ局がこの夜特番を組んでいるようで、進入禁止の看板が仰々しく立てられていたし、朝早くからスタッフが準備に飛び回っていた。
この桜は戦後、昭和27−8年の植樹ということで、それだけにそろそろ寿命がくるころ。次代に引き継ぐため、市民からの寄付による「さくらルネッサンス」事業を進めている。公園近隣に3000本の苗木をを植栽するという。
<町の度重なる不幸>
ちょうどこのとき居合わせた老紳士が、悲惨な町の歴史を聞かせてくれた。
赤いセーターを身につけたおしゃれな紳士は福井の出身で、今は東京に住んでいるのだが福井市を襲った空襲を体験していた。
「今わたしは78歳になりますが、わたしが紅顔の美少年だったころのことです。」と前置きして話し出した。
それによれば・・・・・戦前福井市内には軍需工場があった。そのため北陸の都市としては唯一米軍の標的にされた。空襲警報がけたたましくなり、焼夷弾は情け容赦なく頭の上から降ってきた。自分たちの住んでいた家が、みんなとともに育った福井の町が、めらめらと紙くずのように燃え落ちていった。逃げ惑う市民は水を求めて足羽川に駆け込んだのだが・・・・・。いつもは市民にいっときの涼を楽しませる夏の川は熱河と化し、一帯はさながら阿鼻叫喚の地獄絵図のようであった。・・・・・
さらに福井には不幸が追い討ちをかけた。
戦災から3年後の昭和23年。やっと立ち直りかけた町を大震災(北陸地震)が襲い、またしても廃墟の町と化してしまった。当時の市民の気持ちは無念やるかたないものであったろうが、なぜわたしたちばかりが不幸の連鎖を?という想いが強かったのではないか。
今も市民公園の一角に「福井市市民憲章」の碑文「不死鳥のねがい」が立っている。
不死鳥のねがい
わたくしたちは
不死鳥福井の市民であることに
誇りと責任を感じ
郷土の繁栄と幸福をきずくため
力をあわせ
不屈の気概をもって
このねがいをつらぬきましょう
話は前後するが、太平洋戦争時、燃料不足のため足羽川沿いの桜はほとんど切り倒されてしまった。
福井市は市民の努力を結集して、戦後の混乱から見事に立ち直った。
これら先人の努力を無駄にしてはならない。さらに立派な町となるよう心から応援したいと思う。
<続く>
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