北陸紀行
「東尋坊」
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<越前のイメージ>
「越前」のことばから想起するのは水上勉の世界。
「越前竹人形」や「はなれ瞽女おりん」の世界。
わたしにとってそこは、「素足にわらじ履きで冬の日本海を歩く」という厳しいイメージ。あるいは冬の朝の寺坊、修行僧が磨き上げた冷たい廊下を、経文を唱えながら静かに歩くイメージ。庭には竹林と石灯籠と蹲(つくばい)。
こんなことをいうのは傲慢であり、あるいは生活の場としている地元のかたには失礼なことなのだが、わたしの越前は冬でなければいけない。
若い時代に冬の北陸で厳しい商いを強いられた反証かもしれない。
<柱状節理の奇岩>
福井市街を抜けて九頭竜川をわたりしばらく走ると、松の木が目立ってきた。日本海の防風林だろうと思っていると目の前が開け東尋坊の看板が見えた。
そんな越前の名勝「東尋坊」を訪れたのは春たけなわの4月はじめ。
日本海の荒波に削られた断崖絶壁が約1kmにわたって続く東尋坊は「日本海の奇勝」と呼ばれている。輝石安山岩の柱状節理に特徴があって、四角い塔状の岩が縦に積み上げられ、横に重なり合い、足元は海中に没している。この景観は地質学上でも珍しく、世界に3箇所しかないという。
高さ十数mの深淵を覗くと、高所恐怖症でなくとも足がふるえる。
群青の海がわたしを呼んでいた。
つい誘われて、ドボーン・・・・・などと人に迷惑をかけるようなことをしては駄目ですよ!
こういう危険な場所でも女性の勇気が目立つ。断崖の先端に立って記念写真を撮る。最新の携帯電話は画素数も増え、十分に精密な画像を撮ることができる。そのほやほやの写真をメールであちこちに飛ばす。これが現代観光地の風俗だ。
しかしこの日は(荒天ではなく)好天で、荒ぶる日本海を期待したわたしにとって肩透かしをくった感がある。「日本海は波高く荒れていなければならない。」穏やかな海は味も素っ気もないのだ。
とは思うものの・・・・・
<越前ガニって?>
(静かで波一つない日本海もいいものだ)と、両側に土産物屋が並ぶ参道を歩いていると、意気の良いお兄さんから声をかけられた。海産物の土産の売り子である。前から疑問に感じていた質問をしてみた。
「ちょっと教えてもらえるかなあ。あのね、この辺では『越前ガニ』っていっているでしょう?京都の丹後半島に行くと『松葉ガニ』っていうでしょう?どこが違うんですか?おいしさなんかも違うのかなあ!」
「うん、ね!説明するのはちょっとむつかしいけどね、簡単にいうと同じカニですよ。『ホンズワイガニ』なんですよ。ただね、越前ガニのほうがね、おいしい。というのはね、こちらの漁師は朝漁に出たら日の明るいうちに戻ってくる。夜出たら明け方までに戻ってくる。12時間以内に戻ってきてね、水揚げをする。だから新鮮ですね。向こうはね、一昼夜ね、24時間操業するからね、水揚げするまでに時間がかかるから、その間に味が落ちてしまうね。だから味が違うのね!わかった?」
「わかったら買ってちょうだいね!」語尾の「ね。」のことばが妙に耳障りに聞こえたのだが、「ところで、カニは冬の食べ物でしょう?漁はもう終わったんじゃないですか?」と質問すると、「ハイ、3月20日で禁漁となりました。」
「じゃあ今店に並んでいるカニは冷凍?」「ハイ、そのとおりね、よくわかりましたね!」
もちろんわたしは冷やかしだけで購入する意思はなかったが、教えてくれたお礼に、娘たちへの土産として「親亀の背中に小亀を乗せた5匹の亀」の貝殻細工を買った。ありがとうさん!
ところで越前ガニは「越前」である証拠に脚に黄色いタッグをつけている。丹後半島の松葉のブランドガニ「間人(タイザと読む)」もタッグをつけていた。どちらもブランド戦略なのだろうが、先鞭はどっち?
そしてほんとうはどちらがおいしいの?
<文学碑と高見順>
東尋坊から右手に砂州のような半島が続き、先端は「雄島」という島になっている。約200年前に噴出した輝石安山岩による島で、周囲2kmの廻りはすべて岸壁からなり、標高27mの無人島だ。1kmほどの遊歩道が整備されているから原生林の中を散策することもできる。
そしてその雄島までのアプローチは「荒磯遊歩道」と名づけられ、ラブラブのデートコースになっている。
そんな風流なことはできないが、ここにはこの地・三国町東尋坊を訪れた多くの先達の碑が建っている。
地元出身といえば高見順にまつわる話。
その碑文は「おれは荒磯の生れなのだ。おれが 生れた冬の朝、黒い日本海は激しく荒れていたのだ。」と厳しい文言が記されている。なぜ?
高見順は福井県三国町平木で明治40(1904)年に誕生した。父は当時の県知事、母はお針の師匠。2歳の時に母と祖母の3人で、父を追って上京した。
一高・東大と、白樺派にあこがれ左翼傾向の道を進みながら小説家となった高見は、第一回芥川賞候補となるや、つぎつぎと作品を発表し文壇での地位を確立した。
高見は自分の出生に屈辱と偏見を持っていた。正妻の子ではないのだと・・・。
その心が氷解したのはずいぶん後年のことで、高見52歳の昭和31(1956)年の三国訪問にあった。長い時空を越えて訪れた故郷は、温かだった。三国の人々の篤いもてなしを受け、かれは心を開いた。やっとたどり着いた本当の故郷がここにあった。
高見と永井荷風とは父親同士が兄弟だから従兄弟にあたる。血筋に文学的才能の優れた遺伝子が流れているに違いない。娘の高見恭子もそんな流れを受け継いでいるのだろう。
そういえば荷風も高見も浅草に縁が深い。彼らの文章に多くの戦前の浅草が出てくる。よく知っている店の名前が登場するので、浅草好きのわたしには嬉しいのである。
<続く>
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