尾瀬沼と大江湿原
   2005年6月17日 

<4/6> 燧ケ岳



序曲:尾瀬沼へのアプローチ沼山峠大江湿原燧ケ岳東岸・三平下フィナーレ


間近に険阻な燧ケ岳の高みが


<燧ケ岳と三本唐松>

原に咲く小花しか見てこなかったその目を上げると、いつの間にか燧ケ岳が聳え立っている。

この山を形容するには深田久弥氏の「日本百名山」を借りるしかない。

 「尾瀬沼から燧ケ岳をなくしたら、山中の平凡な一小湖に化してしまうだろう。昔、関東と奥州をつなぐ道の一つがこの沼の淵を通っていた。沼田街道と呼ばれるもので、上州の戸倉を最後として、会津の桧枝岐に出るまで、まったくの深い山の中の道であった。その心細い山中の途中で、山と沼と両々相映発した美しい風景にめぐり合った旅人の気持ちは、いかがばかりであっただろう。」

その燧ケ岳は、尾瀬ヶ原の南に立つ至仏山の女性らしさに比べて荒々しい男山である。屹立する3つのピーク(実際は5つ)がそれぞれ鋭く天に向かって牙をむいている。「燧」の文字は「尖った石と鉄とを打ち合わせて火を発する」意であり、まさに名が体を表している。望遠レンズで覗いてみれば高所には多くの雪渓が残り、冬を想像するほど寒々としている。山頂に春が来るまでには、あと一ケ月を待つ必要がありそうだ。

尾瀬沼の象徴・三本唐松

ずっと遠くに見えていた尾瀬沼が近づいて、その手前に尾瀬沼の象徴である三本唐松が見えてきた。この景観は尾瀬沼をバックにしてはじめて完結する。しかも遠景がいい。晴れた青空があればさらに価値が上がる。かつて沼田街道を旅してきて、遠くから三本の木立が見えたとき、「ああ、尾瀬にやってきたのだ!」と感動を覚えた旅人がどれだけいたことだろう。

尾瀬沼東岸からの三本唐松


<尾瀬沼東岸・長蔵小屋>

すぐ近くに尾瀬沼東岸の山小屋の屋根が見えている。
 緑の森に囲まれた里山の家屋のイメージだが、大江川越しに見る長蔵小屋の存在感は格別だ。
 明治23年平野長蔵氏が北岸の沼尻に「行人小屋」を建て、それが山小屋に変わり、大正に入って現在の東岸に引越しされた。その明治23年が一般的に「尾瀬開山」の年と言われるようになった。その後一族三代が小屋を守り、尾瀬の自然を守りながらここまできた。


尾瀬の女王・水芭蕉様東北なまりの団体客を引率してきた女性のガイドさんは、「この辺りの水芭蕉がもっとも若いので、まだかわいらしく咲いていますよ!」と説明していた。たしかに、山の鼻に咲く栄養十二分の、尾瀬の親分的水芭蕉とは姿が違っていて、小粒で幼い。

尾瀬の水芭蕉に何を期待するかと問われれば、汚れのない純白の可憐さとでも答えようか。その意味であまりに巨大に育ってしまった水芭蕉は、その本分を失ってしまったと揶揄されても仕方がない。人間世界でも往々にしてあるが、大事に育てられ過ぎたツケが廻ってきて、いまは受難の時代を迎えているのかもしれない。

 そうはいうものの、昨年霜害で痛めつけられた水芭蕉は、雪が多かったことも味方して今年はたくさんの純白の花を咲かせ、心行くまで堪能させてもらった。感謝。

<続く>


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