2004年11月の長瀞の紅葉狩りがプロローグだけで放置されていました。そして今年もまた秩父に秋が巡ってきました。昨年の写真と日記を引っ張り出して味付けをし、書き上げました。今年こそ秋真っ盛りに「中津川渓谷」あたりを歩いてみたいと思っています。(2005.10.8)
秋のレストランランチで「奥秩父にもずいぶんいいところがあるようですね!」と仕事仲間が語った。
その週末、テニス仲間が「中津川渓谷に紅葉狩りに行ってきましたが、すばらしかったですよ!」と声をかけてくれた。するとすぐに、隣から横槍が呼応した。「わたしも先日オートバイで行ってきましたが、なかなかのものでした!」と。
(中津川ってどこ?)
かつてどこかで聞いたことがある地名だが・・・・?
まさか岐阜の中津川ってこともないだろうが?
うーん、頭をひねっているうちに、ひょっとして?と思い出した。・・・・・そういえば数年前に西武鉄道のチラシで山歩きを募集していて、応募しようとした企画があり、それがたしか「中津川渓谷」であったような気がした・・・?
はたして秘蔵の「マイ地図」を引っ張り出してみてみると、三峰口からさらに西方、埼玉県と山梨県との県境に近い山の中に赤ボールペンで「中津川渓谷」にチェックが入れてあった。
(ここかあ!)
やっと見つけ出してほっとするわたし。
しかし紅葉もすでに盛りを過ぎているので、ふたたび件の秩父通の仲間に連絡してみると、「長瀞のほうが暖かいので、紅葉はまだ間に合う。今年は特におくれているようだ。」という情報を得た。
思い立ったが吉日、さっそく「藤宮さん」と足を運ぶことにした。
例によって旅の朝は早い。
しかも下の道は時間がかかるとみて、関越道を利用して花園インターで下りたのだから、この長瀞の入口の町に到着した時刻はだ8時30分とめっぽう早かった。時間がたっぷりあると思えば気持ちに余裕ができるから、安全運転を励行できるし、心の中は空の青さのような爽快な気分なのである。
寄居町からカーブの多い一車線の舗装道140号線を走るのだが、早くも道の左側に荒川が姿を現した。
東京湾に注ぐあの荒川だが、源流は埼玉・山梨・長野三県の県境にあたる「甲武信ヶ岳」の山岳地帯にある。この山は(こぶしがたけ)と読むが、漢字を解読すれば一目瞭然で甲斐、武蔵、信濃の三国を跨いでいることが理解できる。
したがってここが分水嶺となり3つの大河が夫々の方向に水色の筋を引く。西には千曲川が流れ出し、信州の山岳地帯をはるかに下り、越後新潟で信濃川と合して日本海に注ぐ。小中学校の社会科の教科書に出ているとおり、長さ367km、流域面積11,900`uという文字通り日本一の大河である。
南には、これも紅葉で有名な西沢渓谷から発し、塩山や石和の盆地を潤す「笛吹川」が西南に蛇行し、甲斐駒ケ岳から発する「釜無川」と合流して富士川となり、やがては駿河湾に流れ込む。
そして今目の前に、青岩の岩肌もあらわに紅葉の峡谷を現出している荒川は関東平野の西側を滔々と流れ下る。
「すこし寄り道をしていこう!」
「この地に日本一の青色卒塔婆が立っているから・・・」と藤宮さんが提案した。
「むかし、電車で来たことがある!」という。
格別な装飾は何もない小山のうえに立っている解説によれば、この卒塔婆は、当地に存在した仲山城の「城主・阿仁和直家が落城討死した、その13回忌に奥方が供養のために建立した」とある。
建立の1361年といえば鎌倉幕府が滅亡した南北朝時代(1336-1392)の半ば、後醍醐も足利尊氏もすでに亡く、その長子・義詮が南朝の攻撃に京を追われ近江に逃げた年。
関東武者が跋扈し、秩父の里山を舞台に戦闘が繰り広げられたことがあったのだろう。
現在の平和な山里を眺めている限り、そんなことは想像もできないのだが・・・。
<続く> 「葛の寺・間瀬峠」へ
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