上高地  その5 

2006.5.5

神々の降りたまう地

1.神の国(プロローグ) 2.大正池 3.田代池 4.河童橋へ 5.最終章

<河童橋>

河原に下りて梓川の清流を眺めました。



河童橋の下で梓川と戯れる



逆光の中の焼岳
どっしりとした大きな山ですが・・・

子どもたちは裸足になって川と戯れています。都会の子どもには貴重な体験です。あまりに水がきれいなので腰を下し触れてみました。雪解け水は氷水のように冷たく体がぶるっと震えるほど。

ふと顔を上げると下流部が大きく開けています。巨大な焼岳が見えます。大正期に大爆発した傷跡が、生々しく逆光の中にさらされています。大きくえぐられ、また崩落して削り取られ、なんとも痛々しいのですが、自然の神様には勝てません。その脅威を目のあたりにした想いでした。



こちら(左)サイドのほうが眺望に優れています

そして河童橋には人があふれています。

昔も今も上高地一番の人気スポットがここにあることは誰もが認めます。

長さ36.6m、幅3.1mのカラマツ材を用いたつり橋で、明治中期にはじめて架けられたようです。現在の橋は5代目とか。人間の寿命と似ています。

橋の上で記念写真を撮るのが上高地旅行の重要な証拠。したがって人が群がるのですが、その重量によく耐えて河童橋はがんばっています。

ヨッコイショと腰を上げて河童橋の上に這い上がりました。

うーん、すばらしい。

冬がやっと終わってほっとした表情というふうに、たっぷりと雪を残した銀色の高嶺は明るい太陽に照らされてくつろいでいるように感じました。

遠景と近景の明と暗のメリハリ、中央を割って流れる梓川・・・それらが渾然一体となって強烈に訴えかけてきます。か弱い力ではとても支えきれません。

降参です。情けないけど全面降伏です。

<芥川龍之介の上高地>

 さて話は100年昔にもどります。
 明治42年8月、芥川龍之介は友人たちと槍ヶ岳に登っています。今では想像もつかないほどの苦労があったことでしょうが、その登山記が残されていますので一部を抜粋します。
 また芥川はその後の昭和2年、河童橋からヒントを得た風刺小説「河童」を著していますが、その年の7月24日服毒自殺で亡くなっています。

槍ヶ岳に登った記 芥川龍之介

さあ行こうと中原がいう。
 行こうと返事をして手袋をはめているうちに中原はもう歩き出した。そうして二度目に行くよといったときには中原の足は自分の頭より高い所にあった。上を見るとうす暗い中に夏服の後姿がよろけるように右左へゆれながら上がっていく。

自分も杖を持って後ろについて上りはじめた。上りはじめて少し驚いた。路といってはもとより何にもない。魚河岸へ鮪がついたように雑然ところがった石のうえを、ひょういひょいとびとびに上るのである。どうかするとぐらぐらとゆれる奴がある。

おやと思ってその次の奴へ足をかけるとまたぐらりと来る。仕方がないから四つん這いになって猿のような形をして上る。その上にまだ暗いので何でも判然とわからない。ただ真っ黒なものの中をうす白いものがふらふらと上ってゆく後を、いい加減に見当をつけて這って行くばかりである。心細い事夥しい。おまけにきわめて寒い。昨夜ぬいでおいた足袋が今朝はごそごそにこわばっている。手で石の角をつかむたんびに冷たさが毛糸の手袋をとおしてしみてくる。鼻のあたまがつめたくなって息が切れる。はっはっいうたびに口から白い霧が出る。

途中でふり向いて見ると谷底まで黒いものがつづいてその中途で白い円いものと細長いものが動いていた。「おおい」と呼ぶと下でも「おおい」と答える。小さいときに堀井戸の上から中を覗き込んでおおいというとおおいと反響したのが思い出される。

円いのは市村の麦藁帽子、細長いのは中塚の浴衣であった。黒いものは谷の底からなお上へ上って馬の瀬のように空をかぎる。その中で頭の上の遠くに、菱の花びらの半ばを尖ったほうを上にして置いたような、貝塚から出る黒曜石の鏃のような形をしたのが、槍ヶ岳でその左と右に羊歯の葉のような高低をもって長く続いていたのが、信濃と飛騨とを限る連山である。空はその上にうすい暗みを帯びた藍色に澄んで星が大きく、明けに白毫のように輝いている。

槍ヶ岳とちょうど反対側には月がまだ残っていた。七日ばかりの月で黄色い光がさびしかった。あたりはしんとしている。死の静けさという思いが起こってくる。
 石をふみ落とすとからからという音がしばらくきこえてやがてまたもとの静けさに返ってしまう。路が這松の中へはいると歩くたびに、湿っぽい、鈍い重い音はがさりがさりとする。

ふいにギャアという声がした。おやと思うと案内者が「雷鳥です」といった。形は見えない。ただ闇の中から鋭い声を聞いただけである。人を呪うのかもしれない。静かな、恐れを孕んだ絶顛の大気を貫いて思わずも聞いた雷鳥の声は何となく、或るシムボルでもあるような気がした。

<岳沢口湿原>

時間が許せば是非明神池まで歩いてみたいと考えていました。とりあえず行けるところまでと川沿いのぬかるみの道を歩き始めました。

梓川の支流は細い枝に別れ林の中を縫っています。
 緩やかな流れの中央に水藻でしょうか、苔色をした太い筋ができています。前穂高登山道に道を分ける手前で右側に木道がはりだしています。

ここですばらしい光景に出合いました。

透明感のある流れと林立する木々の向こうに、突如巨大な“六百山”が姿を現したのです。山は、静寂を湛えた弛みの上にも等身大の逆さの影を映し出していました。

さらに上流では流れのなかに伏流水が湧き出ています。ボコボコッと、アルプスの高みからのメッセージを携えて、水面に複雑模様の波紋を広げています。

苔むした緑の間を清冽な渓流が音をたてて流れる姿は「これぞ上高地!」と叫ぶにふさわしい光景でした。

<完>


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