

しかし今回あらためて街を歩き、小路の店を眺めて、少しずつ新しい街づくりの機運が高まりつつあるのを感じた。表層的かつ断片的ではあるが。
ここ道後で夏目漱石はたくさんの話題と商売ネタを残し、それが現代になお息づいている。漱石は明治28年(1895)4月、友人、菅虎雄の斡旋で松山中学(現在の松山東高校)に英語教師として赴任。同年12月に帰京するまで9ヶ月という短い期間ではあったが、顕著な足跡を残した。
漱石在住のころの道後温泉は木の香りも新しい建物だった。

松山城は市の中心の小高い丘の上に立っていて周囲の眺望がすばらしい。近くの駐車場に車をいれ、ケーブルカーで上ってみた。
いずれも美しい姫路城、和歌山城とともに日本三大・平山城に数えられる松山城は、戦国の世、賤ヶ岳の合戦において七本槍の一人として武勲を立てた加藤嘉明に起源がある。家康に関が原の戦いでの戦功を認められ、6万石から20万石の城主になったことから、かれは松山城の築城に着手した。
今から約400年前の寛永4年(1627年)、25年の歳月をかけて完成した。正式には伊予松山城といい、今では重要文化財に指定されている。標高130〜140mの本壇・本丸、中腹の二の丸、麓の三の丸と、三段にわたる城構えは「平山城」という築城方式。




Copyright c2003-6 Skipio all rights reserved