



まがいものを非難するわけではなく、まがいものも大事だという話。人間はけっして本ものだけの中で暮らすことはできない。息が詰まってしまう。まがいものはその息抜きをしてくれる。気持ちをほっとさせてくれるのである。
旅館「くらしき」は江戸時代から続いた砂糖問屋の蔵屋敷を旅館に改造したという。その裏庭にある喫茶室で「お抹茶」をいただく。ガス灯と石灯籠となまこ壁の庭、ぎしぎしと鳴る黒茶けた木の床、この雰囲気は大正ロマン・・・。
店内の薄暗い片隅にある古びたリビングボードの中には骨董的価値のある「ライカ」や「コンタックス」のカメラやレンズがぎっしりと詰まっていた。さりげなく見せている主人の感性にこの町の文化を感じた。<閑話休題> 旅館「くらしき」をTVの旅番組が放映していた。 現女将は90歳になるが、誕生以来この蔵の町を離れたことがない。 昭和30年代に前持ち主の砂糖問屋が左前になったとき見込まれて譲り受けた。 その条件が二つあった。 「生まれ育ったこの建物を取り壊さないで欲しい。」 「庭に生えているタンポポや草花も昔からのもの。粗末にしないで欲しい。」と。 以来50年の歳月が過ぎ去ったが、言いつけを守り通してここまで来た。これこそが真の伝統といえるものだろうか、今も「くらしき」の庭には黄色いタンポポが咲いている。 おまけ。このおばあちゃんの若いとき、たとえようのないほどの美人であった。 「旅館くらしき」へ |

その街づくりに前述のキーワードやイメージを感じる。この町は生き生きとしている。意志を持って動いている。時代を経た古い文化を大事にし、新しい文化をも先取りしようとしている。清潔で静かで伝統の根付く町、そんな倉敷が好きだ。
吉井勇は昭和11年中国地方歌行脚で立ち寄り、「千光寺の御堂へ昇る石段は わが旅より長かるしかな」と歌って
いる。
戦災にあわなかった尾道は、由緒ある寺社がそのままの姿で残っている。山の中腹や民家の間に挟まってたたずむこれらの寺は全部で25寺あり、さながら寺の町のようでもある。
西側には千光寺山荘が山から突き出すように西日の影で威容を誇り、その先の尾道水道はただ逆光の中で光るのみ。

ちょうど「シルクロード光と影のロマン」を開催中。![]() 戦後、東京美術学校彫金科主任教授の大伯父・清水南山の勧めで同校日本画科に入学、卒業後は前田青邸の下で創作活動に励む。しかし原爆の後遺症にもがき苦しみ、すさまじい葛藤の中で「仏教伝来」を発表、高い評価を受けると不思議なことに健康も回復、かれは次々と大作を制作することになる。 死を覚悟した平山画伯が一点でも救いと平和のための作品を描きたいと思い、制作したのが「仏教伝来」で、これは唐の都・長安から17年の歳月をかけ苦労の末インドの経典を持ち帰った玄奘三蔵の喜びを描いた作品。 |
潮聲山耕三寺は、耕三寺耕三和上が御母堂逝去にともない増籍に入り、その菩提追悼のために建立した浄土真宗本願寺派の寺院。
翌日。この日は2002年の大晦日。
「開湯してまだ2年だが、予想を大きく上回る入浴客があちこちからやってくる。もっと『ああせい、こうせい』と町長をつついているところだ」と意気軒昂であった。田舎の人が元気なのはいい。
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