明治39年発行の第一歌集「赤光」が文壇へのデビューで、爾来「アララギ」の中核として日本の現代短歌の指導的役割を果たすことになる。その「赤光」の句。 白き華 しろくかがやき 赤き華 あかき光を 放ちゐるところ (明治39年) 「実相に観入して自然自己一元の生を写す」がかれの短歌創作の姿勢信念で「写生道」と定義され独自の作風を確立した。 のど赤き ふたつにゐて 足乳根の母は 死にたまふなり (大正2年) 人の死を悼む挽歌としては、柿本人麻呂や藤原俊成や定家の哀傷歌などたくさん見られるが、近代では茂吉の「死にたまふ母」が断然群を抜いていると高い評価を受けている。田舎に住む母親に対する茂吉の愛はたいへん深いものであった。 最上川 逆白波の たつまでに ふぶくゆふべと なりにけるかも (昭和21年=戦後) |
もともと上杉藩の藩祖は川中島で信玄と戦った戦国の英雄・謙信で、当時120万石という巨藩。越後春日山で謙信が急死した後、二代藩主景勝は会津に移封、その後関ヶ原の戦いで西軍側に組みしたため、米沢30万石に減封となる。その上、三代藩主綱勝は跡継ぎを決めずに急逝したため、幕府の叱責に合い十五万石に削封させられる。家臣団を抱えたまま減封されたため、藩財政は逼迫。生活の厳しさから独特の気風が育つ。駿府・今川に頭領が幽閉された岡崎・松平(徳川)の臥薪嘗胆に似たところがある。 |
山 遠くを眺めながら 静かに生きている 山 ある日 つぶやいている 山 そこにある わすれられない 表情(かお) 山 私たちの先祖 (昭和48年建立) |
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