(第五日:上山、米沢、裏磐梯から東京へ)

5月・坊の平の朝

<坊の平の朝>

 朝はすがすがしく目覚め、1周4`のジョギングコースを散歩。海抜1000mと高所だけに、春の訪れは遅い。広葉樹はまだ芽をつけたばかり。寒々とした光景だが、この日は比較的暖かく、はや足で歩けば汗ばむくらい。緑のじゅうたんとウッドチップが交互に
敷き詰めてある快適なクロスカントリー・コースは早朝の足にやさしい。山の中腹に、蔵王の平安を祈願した「山の番人」の碑が、恐い顔をして立っている。悪霊を退治するのだから、怖い顔に決まっている。

 林の中、新鮮な空気を思いきり吸い込んだ。小鳥のさえずりが間断なく聞こえる。


 平倉(たいらぐら)は坊平の旧名。つつじ公園に茂吉の歌碑が立つ。

   平ぐらの 高牧に来て
   あかときの 水飲み居れば 雲はしづみぬ



 都会から連れられてきた犬が、緑の筵の上で戯れている。人間以上に興奮して、楽しそうに駆け回っていた。犬も精神が開放されるとはしゃぐのだ。

白樺の向こうに



< 幼 児 >

ペンションのダイニング 旅は「袖摺りあうも多少の縁」。大阪から来た若夫婦の1歳を過ぎたばかりの男の子が、珍しいもの見たさに、ペンション内を走り回る。夫婦は交代で食事をしつつ子供から目を離せない。誠実そうな二人が周りに気を使うさまは、気の毒にも感じたが、宿泊客は子供の無邪気なかわいらしさをむしろ歓迎していた。ほほえましい光景であった・・・。

 ペンション「アルム」に別れを告げて上山に下る。

 今日が本当の旅の終わりである。最終日は米沢から裏磐梯を抜けるルートを選択した。

<斉藤茂吉記念館>

斉藤茂吉記念館

 明治15年、茂吉は山形県上山市に生誕する。

 そこは最上川の支流・須川のほとり、東に蔵王連峰を仰ぐ景勝の地であった。茂吉は幼少時代、蔵王を父の山、最上を母の川として育つ。冬は雪深い寒村である。


< 俊才 >

 上山駅に近い茂吉記念館では、その生涯をスライドで紹介してくれた。

 茂吉のことは日経新聞の「私の履歴書=斉藤茂太編」でも語られていたが、明治・大正・昭和の激動期を波乱万丈ながらゆるぎない信念を持って生き通した。

館内は撮影禁止のため外観のみ 寒村出身の俊才は15歳の時母と別れ、父に連れられて関山峠を越えた。仙台に出て、その後上京する。菩提寺の和尚の紹介で、東京の斉藤病院に養子として入りこんだ。
 歌人としてより、医者の卵としての東京生活のスタートである。開成中学、第一中学、東京帝大医学部を卒業、大学の副手となる。24歳の時斉藤家の長女てる子の娘婿として入籍。

 明治39年発行の第一歌集「赤光」が文壇へのデビューで、爾来「アララギ」の中核として日本の現代短歌の指導的役割を果たすことになる。その「赤光」の句。

 白き華 しろくかがやき 赤き華
      あかき光を 放ちゐるところ

                (明治39年)

 「実相に観入して自然自己一元の生を写す」がかれの短歌創作の姿勢信念で「写生道」と定義され独自の作風を確立した。


 のど赤き ふたつにゐて 
      足乳根の母は 死にたまふなり

                (大正2年)


 人の死を悼む挽歌としては、柿本人麻呂や藤原俊成や定家の哀傷歌などたくさん見られるが、近代では茂吉の「死にたまふ母」が断然群を抜いていると高い評価を受けている。田舎に住む母親に対する茂吉の愛はたいへん深いものであった。

 最上川 逆白波の たつまでに 
     ふぶくゆふべと なりにけるかも
 
             (昭和21年=戦後)

< 血 族 >

茂吉記念館裏から蔵王連邦を望む 戦後は郷里山形に引き込み晴耕雨読の生活を続ける。

 辞世の言葉「人生は苦界ユエ、僕ハ苦シミ抜カウト思フ。毎夜、睡眠薬ノンデモカマハヌ。正シキ道ヲ踏ンデ行キツクトコロマデ行キツカウ。」
 昭和28年2月25日逝去。

 その風貌といい、訛り言葉といい、茂吉は生涯山形の人であった。近代都市東京に身を置きながら、臨機応変にことに対処する術も無く、田舎ものの自意識だけを内に潜め、生きた・・・。
 
茂吉の遺伝子は斉藤病院長・斉藤茂太と作家・北杜夫に引き継がれ、斉藤家の有様は「楡家の人々」に結晶された。



< うなぎ > 

 番外・・・茂吉はうなぎの蒲焼が大好物であった。
 昼に夕にと生涯に驚くべき数のうなぎを食している。うなぎによって頭脳を覚醒し、うなぎによってペンを走らせた。戦時中うなぎの養殖が停滞していたときにも、蒲焼の缶詰を買い置きして食卓に供したという。
そのレシピの例・・・熱いご飯に熱した缶詰の蒲焼を載せ、紅生姜を少々ふりまき、その上から温めた牛乳をたっぷりと注いでいただく・・・やってみたら意外にこれはいける。


 後ろ髪引かれる思いで斉藤記念館を辞した。




< 米 沢 >

米沢駅

 米沢にはいる。

 道の狭い町並み、高いビルもなく、幹線道路の混雑は別としてどことなく落ち着いている。これが城下町の雰囲気なのだろう。

 米沢上杉藩は、1601年上杉景勝が徳川家康より30万石を賜ることから始まる。


 もともと上杉藩の藩祖は川中島で信玄と戦った戦国の英雄・謙信で、当時120万石という巨藩。越後春日山で謙信が急死した後、二代藩主景勝は会津に移封、その後関ヶ原の戦いで西軍側に組みしたため、米沢30万石に減封となる。その上、三代藩主綱勝は跡継ぎを決めずに急逝したため、幕府の叱責に合い十五万石に削封させられる。家臣団を抱えたまま減封されたため、藩財政は逼迫。生活の厳しさから独特の気風が育つ。駿府・今川に頭領が幽閉された岡崎・松平(徳川)の臥薪嘗胆に似たところがある。


< 鷹山公 >

ハズレ!! 時代は下る。窮乏期に養子に迎えられ、十七歳で九代藩主となった鷹山(ようざん)公は、殖産興業に努め米沢藩中興の祖となる。これは近年NHKドラマの題材にもなり、記憶に新しいところ。

 なせばなる なさねば成らぬ何事も 成らぬは人の為さぬなりけり

は鷹山公の歌。

 そんな米沢での昼食は、手もみ・縮れの米沢ラーメン「喜久屋」で昼食。

<白布温泉(しらぶ)>

 上杉神社の横を通って、県道2号線を南下。西吾妻スカイライン入口の白布温泉

堂々たる茅葺の西屋旅館 温泉もいい

 一服の墨絵の世界。

 山の中である。萱葺きのおちついた温泉宿が並ぶ。東家、中家、西家の三家が数百年余の歴史をつないで宿を営む。
 
白布温泉は七百余年前に開湯。米沢藩の隠し湯に始まり寛永時代には蔵王温泉、吾妻高湯(信夫)とともに奥州三高湯として知られ、湯治客で賑わった。

 まったく残念なことに、2000年3月25日午後5時頃出火し中屋本館を全焼。東屋旅館に類焼東屋旅館も全焼した。現在温泉全体が懸命な復興の努力をおこなっている。
 わたしは西屋の風呂を借りた。とうとうと湧出る湯は透明、熱いが、肌に気持ちよい。旅の途中、ゆったりと汗を流した。名湯であった。

 小雨の中、最上川源流「白布の滝」で、猛烈な水量を滝つぼにたたきつけるさまを見た。
 春の雨が激しさを増してきた。

<裏磐梯は雨>

 1410mの白布峠を越える時は本格的な雨足が襲ってきた。それとともに濃い霧が行く手をさえぎり、前方がまったく見えなくなる。この峠は5月の今も夜間通行止めとなっているほど、季節は春いまだし。峠から、本来は見えてもいい磐梯山や桧原湖ははるか霧のかなた。また、ぶなの原生林の新緑にもお目にかかることはできなかった。

 峠の駐車場に「山」の石碑が立っている。

ガスでほとんど見えない中、カメラのレンズのほうが人間の目より優れている
 山 遠くを眺めながら 静かに生きている 山

 ある日 つぶやいている 山

 そこにある わすれられない 表情(かお)

 山


 私たちの先祖  
   

 (昭和48年建立)

 磐梯山の景色が最も充実するのは盛夏、緑が深まった8月頃である。高度を上げるにつれ、まるで映画を見ているような、いや、それ以上のすばらしいシーンを展開する。5月では少し早いのである。昔の記憶では日本離れしたスケールの大きな風景がここにあった。

 さて、下ってたどりついた紅葉の名勝・桧原湖も煙雨のうち。

 
さすがに東北でもっとも早くリゾート化した土地だけに、ペンションやお店が風景になじんでいる。五色沼辺りでは連休の観光客で渋滞が目立つ。猪苗代まで、一気に下る。

帰ってくれるな!と雨も泣いていた

 渋滞が恐い。そのまま東京へ走って、夕刻いつもの飲みやで乾杯。

 そして非日常から日常の世界へ・・・。


<エピローグ>

 はるか遠い東北に思いを馳せる。人間が荒々しく平然と殺し合いをしていたころのことである。この歴史に登場する人物は征夷大将軍・坂上田村麻呂。幾度も辺境の兵将となり、出陣のたびに戦功があった。寛容をもって士を処遇し、死力を尽くして戦った。

 奈良・平安時代の東北は蝦夷(えみし)の地と呼ばれ、田村麻呂はその地に住んでいた荒ぶる蝦夷を平定し、大和朝廷の判図を拡大した。蝦夷にとっては敵であり征服者である。

 蝦夷は記録を持たなかったし、偶像を作らなかったから、生存の確証を歴史に残せなかったのかもしれない。また、被征服者の歴史は隠されてしまうのが世の常である。

 大和朝廷と戦った蝦夷の伝説は数多くあるものの、歴史の歩みの中で、その殆どは「鬼」或いは「悪」として封じ込められてしまった。

 陸奥の旅に、厳しい風土を生きてきた人々の艱難と、それを克服する叡智を見た。その歴史が質の高い文化として昇華し、感動のオーラとなってわたしを襲った。


おだやかにもうひとつの結論。

 静かに目を閉じあれこれを思い起こすと、一番に、目に焼きついているのは日本のどこにでもある素朴で平和な里の風景。視覚の底に沈殿していて離れない、原風景。わたしは永遠にその呪縛から逃れられないようだ・・・。

完>

 陸奥トップへ

△ 旅TOP

△ ホームページTOP


Copyright c2003-6 Skipio all rights reserved


2002年4月30日〜5月4日
プロローグ  プロローグ
      4月30日 東京ー山形ー山寺ー村上ー尾花沢ー大石田ー銀山温泉(泊)
5月1日  5月01日 銀山温泉ー鳴子峡ー遠野ー宮古・女遊戸(泊)
5月2日  5月02日 宮古ー浄土ケ浜ー盛岡ー小岩井農場ー田沢湖
          ー乳頭温泉郷・黒湯(泊)
5月3日  5月03日 黒湯ー角館ー平泉ー蔵王・坊平(泊)
5月4日  5月04日 蔵王ー上山ー米沢ー白布温泉ー裏磐梯ー東京  エピローグ