第4章 ロリュオス遺跡
そしてポル・ポト


<最終日=第3日>

おなじみ二人乗りオートバイ 旅もいよいよ最終日。

 朝の町の雑踏にも慣れた。二人乗りのオートバイ、女学生の乗る自転車、ナンバープレートのない車、ペットボトルで販売するガソリン、家屋建築のために山積みされた資材のレンガ、オールドマーケットの人だかり、道端に広がる種々雑多な品物など、朝の町は活気に満ち溢れていて、心地よく映る。

 アンコールビールも日本のビールに負けず劣らずおいしかった。カンボジャマッサージの店やシアヌークの別荘の場所も覚えた。やっとこの町に馴染んだというのに、もうすぐお別れだ。

 しばしシェムリアプという町の風景を眺めて見ようと思う。やはりナンバープレートがない
ガソリンと飲料を販売する露店
(左上)ホンダのオートバイで何を買おうとしているのだろうか?この店はガゾリンをペットボトルで売っていた。
(右上)ナンバープレートのないライトエース。車の課税制度がまだ確立されていないようだ。
シアンーク・ヴィラ(別荘)
タケオのカタカナ
(左上)オレンジ色の看板に「タケオ→」とカタカナの案内が書いてあった。日本人バックパッカーご用達の宿舎だろうか。
(右上)シアヌーク殿下の別荘
バナナ売りの純情おばさん
宝石商とかわいいBaby
(左上)オールドマーケット内宝石商のママと赤ちゃん。さすがベビーの左腕にブレスレットがはめられています。
(右上)南国のバナナ、大きなトラック満載でやってきました。
ベトナム産のドラゴンフルーツ.
多様なスパイスにびっくり
(左上)こんなにたくさんのスパイスがある。自在にあやつっておいしい料理を作る料理人は魔術師だ。
(右上)ベトナム産ドラゴンフルーツ
AngkorBeer
格子の外はシェムリアップの町
(左上)最終日の昼食をいただいた中華レストラン「ウッドハウス」漢字で「木房子餐庁」と記されていた。逆光で撮ったため格子窓だけが異様に写っているが、店内は明るく料理もなかなかのもの。
(右上)幾度となく世話になったアンコールビール。汗をかいた後だけにいつもおいしかった。ありがとう。謝謝。

ロリュオス遺跡群

 この日はアンコールの古代王朝の遺跡を訪ねる。

 シェムリアプから国道6号を南東に13`走ると、昔の王都ロリュオス村に着く。ここはシェムリアプを一段と小さくした村落で民家が点在している。


 ロリュオス遺跡は790年頃ジャヤウ゛ァルマン2世が礎を築き、インドラウ゛ァルマン1世が造営した。その中心に須弥山を象徴したバコン、王の両親に捧げた寺院プリア・コーを、
また大貯水池インドラタターカの中心にはロレイが建立された。

 共通するのはヒンドゥー寺院で、シヴァ神を祀り、その象徴であるリンガ(男根)やその乗り物である聖なる牛「ナンディン」像が要所に配されている。

ロレイ・大貯水池インドラタターカ

 朝一番のせいか静寂の世界。ここにある遺跡はかなり初期のもので、風化も進んでいたが、デバターのやさしい微笑の彫刻は美しい。

 893年創建のロレイ遺跡は大貯水池の中の小島であったという。
今や貯水池は田園に変わり、かつての面影をまったく感じさせないのだが、高台に立って周囲を見渡すとその有様を想像することができる。雨季に大量の雨が降るこの地方は、水を溜め、その水を活用する灌漑の設備なくして生活は成り立たない。

 古代から現在にいたるまで世界中のどの為政者にとっても「水を制する」ことは世を治めるための大きなテーマであった。ましてや雨季・乾季のはっきりした亜熱帯のこの地方のこと、なおさらである。当時の苦労が思いやられるが、王は築城と同時に治水にも大きな配慮をしたに違いない。

スラ・スラン 王の沐浴の池

 この地方では大小さまざまな貯水池に出会うことができる。

 アンコール観光の最初に訪れた
スラ・スラン12世紀末:ジャヤウ゛ァルマン七世創建)はバンテアイ・クディの正面に位置する「王の沐浴の池」。シンハ(狛犬)とナーガ(蛇神)が凛として池を監視している。大きな池である。

 神の子たちが一糸まとわぬ素っ裸で、水遊びをしていた。傲慢な白人が、神の子に飛び込むよう命令し、忠実に従う神の子をカメラに収めていた。わたしもその横で悪乗りしてパチリ。

 ニャックポアン
は治水信仰の寺院。池の真ん中に絡み合うナーガ(蛇神)がいて、これと対峙するのが観世音菩薩の化身・神馬「ヴァラーハ神」。ここでは東西南北の地下に工夫がなされている。水を導くための樋口に、動物をモチーフにした石像の頭が配置されている。西側には牛頭を、南側には獅子(ライオン)を、北側には象を、そして東側は人間が鎮座していた。

 さすが、「水の都」とも言われる所以である。



 話を戻そう。

 大貯水池の中心
ロレイ遺跡は高台にあるヒンドゥーの小寺院という印象。すぐ横に新しく建てられた赤い屋根の仏教寺院があり、その脇には実をつけたマンゴーやパパイヤなど南国の果樹がすくすくと育っている。牛を引く農夫や就学前の子供たちが戯れている。子供たちは砂塵を上げて走るバスを追って裸足で前後を走る。のどかで平和な世界。観光地という気がしない。

ありの巣


プリア・コー

(879年創建:インドラヴァルマン1世 ヒンドゥー)

欠け落ちて半身無惨、砂岩のデバター 「聖なる牛」の別名を持つアンコール最古の寺院。がらんとした敷地の中に遺跡が小さくまとまっている。崩れた楼門をくぐると、基壇上にヒンドゥーの神々を祀る6基の祠堂が並ぶ。

 建物全体が漆喰でできていたようで 漆喰彫刻の跡が今も残るが、裏手には無残にもはがれ落ちた壁も多く、もの悲しい。無残さすら感じてしまうが、残された彫刻はどれもすばらしい。特に塔門の破風の鴨居に彫られた「カーラがナーガ(蛇神)を口に咥える」シーンはすさまじい。カーラはインド神話の食欲旺盛な怪物で、自分の手足も食べてしまったために胴体がなく、顔のみが残ることになってしまった。

 仏教における閻魔大王のこと。

 いよいよ最後のプログラムへ。ここでも長いナーガ(蛇神)の歓迎を受け
バコン881年創建:インドラウ゛ァルマン1世)に入場。


バコン

東塔門左の小学校と自習する生徒 バコンには小さな学校が隣接している。

 戦後、日本にも神社の境内に粗末な板敷きの幼稚園があった。私もそこに通った記憶がある。裏山に戦争の名残の防空壕があり、神社の境内には閻魔大王の恐ろしい像が屹立し「嘘をついたら舌を抜かれる」と繰り返し教えられた。怖いもの見たさに防空壕探検をしたり、閻魔大王の後ろから小便をかけたりした。

 そんな幼時の記憶を思い出しながら学校に近づいた。

 廊下も壁もないオープンハウスで、授業の様子は外から丸見え。

 この日は先生がいないためか、子供たちは自習していた。そのさまをカメラに収め、興味深くこちらを眺めていた子供にデジカメの画像を見せたら、すぐに仲間が集まってきて純朴に喜ぶ。

 授業の終わる時間なのか、三々五々帰りかけた子供たちだが、突然先生が戻ってきた。「おーい、戻れ!」と呼び戻す先生の掛け声があって、子供たちはぞろぞろと教室に入り始めた。時刻はまだ9時半、そう、まだ下校するには早すぎるよね、君たち!

象さんと記念写真

 われわれもバコン観光に戻った。

 ラテライト周壁で三重に囲まれ、アンコールで最初に建てられたピラミッド式寺院。ミニ・アンコールワットといえないこともない。象とシンハ(狛犬)の像が整然と並ぶ。ほとんどのレリーフは剥がれ落ちてしまったのに、なぜか1箇所・阿修羅だけが残っている。阿修羅の不思議な力が働いているとか、いないとか・・・。

 また、ここのデバターがふくよかな顔をしているのは、創建の穏やかな時代を象徴しているのだろう。

 中央祠堂の高みから下界を望むと、東側にまっすぐ伸びる一本の赤い道。世界に通じる王様の道。

 西の楼門をくぐって城外に出る。

       




 手入れをする余裕がないのだろう。昔の栄華を忘れてしまった環濠は草の生えるに任せ、水草が生い茂り沼沢と化してしまった。「これも整備すれば、アンコールワットのような外堀になります。」とサロム君。

シンメトリーのシルエット

バコン城を背景に

 しかしここはさわやかである。まるで日本の5月のような涼風が吹きわたり、心地よいことこの上ない。バコン城のシンメトリーのシルエットと青空高くすっきりと伸びた椰子の大樹が瞼に焼きつく。緑は青く、静寂そのもの。


日本語ガイドサロム君のこと


 この3日間、サロム君には早朝から夜までいろいろと世話になった。

 この国の事情についても少なからず、いろいろなことを聞いた。

憂いの表情のサロム君 サロム君は勉強熱心で朝出勤前に英語を1時間、夜は夜で日本語の勉強を1時間、毎日続けているという。

 「ワタシハ最初英語ノガイドノ資格ヲ取リマシタ。シカシ、英語ガイドハ、タクサンの人ガ始メタタメニ、日本語ヲ勉強始メ、2年間デ日本語ガイドノ資格ヲ取リマシタ。オカゲデ英語ヲ忘レテシマイ、モウ一度勉強シテイマス。」

 「日本語ハ難シイケド、楽シイデス。」とはにかみながら話す。日本語の教則本を見せてもらった。小学生が学習する漢字練習帳のようなテキストに鉛筆書きの幼い漢字が並んでいた。なんとか成功してほしいと思わずにはいられない。


大きく成長し天高く聳える椰子の木 最終日の休憩時、椰子の茂る木陰でサロム君は静かに語った。

 「1年前に父親は亡くなりました。内戦の疲れから、病気になり、回復しないまま死んでしまいました。父は石運びの仕事をしていました。」と。いつも笑顔を絶やさない彼の顔に一瞬悲しみが走り、正視できなかった。

 「母は国道6号線で30`行ったところから北へ7`ほど入った石切り場の山の近くの村に住んでいます。私だけがシェムリアプの町に出てきています。シェムリアプは土地も高く、とても家を持つことはできません。私は小さなアパートにひとりで生活しています。」とたどたどしい日本語で話す。


 彼の笑顔はこの国の人特有のはにかみだろうか。戦争の悲劇の故か、哀愁がある。

 28歳で未婚なのだが・・・。

 サロム君も言っていたのだが、カンボジャ国民のほとんどが内戦の悲劇を経験している。

 その内戦とは・・・。

ポル・ポトの行為

 カンボジャはつい最近、悲惨な歴史を経験した。このことはあまりにも不幸な出来事であったから、観光ガイドには詳述されていない。しかしカンボジャの現実をみつめるなら、看過することはできない。

 ポル・ポトによる国民の大虐殺。

 ベトナム戦争の影響を深刻に受ける中で、1975年4月カンボジア全土は、共産主義を主張するクメール・ルージュと暴君ポル・ポトによって制圧された。今から27年前の話。
 そのポル・ポトは、世界政治史上に特筆される特殊な思想の持ち主で、政権を執るとかれは次々と独断的な政策を実行した。

 貨幣は富の蓄積を生み貧富の差を拡大するという理由で廃止され、経済は物々交換が原則となった。農業を基幹産業に据え置いたため都市は不要とし、プノンペンなどの都市生活者を農村に強制移住させた。

 原始共産主義への逆戻りであり、独裁政治の始まりであった。


 ポル・ポトは理想国家の建設を装い、協力者を募った。「例えロンノル政権に加担していたとしても私は許す。資産家、医師、教師、技術者、僧侶は名乗り出て欲しい。それから海外に留学している学生も帰って来て欲しい。理想国家を作るためには君たちの力が必要だ。大切なのはカンボジアの未来なのだから」と言って・・。
この言葉に共感したインテリが続々と現れ、それこそ国内のほとんどの教養人、海外に留学していた学生がポル・ポトの元にはせ参じた。

 しかし彼らはポル・ポト兵に連れて行かれたまま、再び戻ることはなかった。電撃的に・・・。

 ポル・ポトは大嘘をついていた。彼はフランス留学の経験から、民衆の集団決起の怖さを知っていた。理想国家を作るためどころか、将来自分に歯向かうかもしれない民衆、その指導者になれそうな教養人を一掃したかった。約十万人いた僧侶のうち大部分は還俗させられて、農村に送られ、残りは抹殺された。教授・教師の75%は抹殺された。

今はこんなに豊に実った稲 3年半にわたる恐怖政治の中で、カンボジア国民約800万人のうち100万人以上が殺されたと推定されている。

 これらの出来事が起こってからまだ20年あまり。決して遠い昔話ではない。1998年にポル・ポトは死んだとされているが、その真相も明らかではない。洗脳されたポル・ポト兵の一部は未だジャングルに潜んでいるかも知れない。カンボジアはまだ荒れている。目つきの悪い警察官はワイロ欲しさに犯罪者を捏造するという。


 しかし、ポル・ポトは一体何を目指していたのか。彼が掲げた理想国家の真相とは何だったのか。何のために自国民の大虐殺を行ったのか。


人間の狂気と再建の槌音

 原子爆弾もそうであるが、戦争とその狂気が、人間の想像力を超えた惨禍を引き起こす。

 本来人間の性は善、生まれつき他人を慈しむ能力がある。その同じ人間が、豹変してしまう。極限状態に置かれると、人間の正気と狂気の間は紙一重となる。歴史を顧みれば中国の文化大革命など、証明する事実に事欠かない。日本の大東亜戦争・南京大虐殺も例外ではなかった。同じくホロコーストの虐殺を歴史に持つドイツは、いまだに過去の過ちの清算ができないで苦闘している。北朝鮮は・・・。

 カンボジアは内戦を終えて、ようやく過去と対面し始めている。再建の槌音が高く聞こえてくる。この目で見たとおり、シェムリアプ市内はホテルラッシュの様相を呈し、病院も学校も急ピッチで建設されている。私たちがタラップを降りたバラック作りの空港も、瀟洒な新しい空港に変身しようとしている。観光客もカンボジャの再建と平和を聞きつけ、こぞってアンコールワットを訪れる。

 私たち平和な日本人には、シェムリアプのオールドマーケットやアンコールの遺跡で見かけた手足を失ったたくさんの人々で悲惨と感じるに十分だが、その裏にはさらに声も出せずに死んでいった100万の罪無き民がいた。

 他国の悲惨な歴史を高みの見物では、あまりに傲慢が過ぎる。
 せめてその事実を見つめ、なにかをしてあげなければと思う。


エピローグ

 美しい南の国のデバターを求めて、大きな期待を胸に秘めてはるばるやってきたタイとカンボジャ。

 同じ上座部仏教を信仰し、国境を接する隣の国で、同じ顔をした人間が住み、共通する文化を持っているのに雰囲気はまるで違う。経済発展の程度のせいもあるだろうが、豊かで猥雑なバンコクに比べ、シェムリアプは静かでおとなしい。

 両国の間は歴史を紐解いても、幾多の戦争が繰り返されてきた。時には侵略し、また時にはそれが逆になり、それはつい最近まで続いたのだが、やっと平和な時代がやってきた。

 そして今やカンボジャも復興の狼煙を上げた。一日も早く健全な市民生活を取り戻すよう、元気でがんばってほしい。


 米ソ冷戦の終結時、識者は「これからの世界の問題は小国間の小競り合いと宗教摩擦」と指摘していた。人間二人いれば喧嘩が始まる。10人いれば論争が始まる。1万人いれば・・・。確かに人間が地球上に存在する限り、摩擦は避けられない。

 大きく悲惨な戦争を何回も引き起こした人類だが、その戦争に幕を引いて平和を取り戻したのも人類の叡智である。


 「イラクと北朝鮮が悪の枢軸」と決め付けたブッシュ政権だが、戦争の罪と罰を胸に刻み、ホモサピエンスの繁栄のために、第3次世界大戦という悲劇を生まないよう改めて願わずにいられない。

 


 さて、冒頭に真のデバターを求める旅と書いたのだが、とんでもない大きな問題にぶつかってしまった。しかしながら、平和な日本に住んでいるからこそ、たまにこういうことを考えるのも必要なのではと自分を慰めて、筆をおきたい。

 最後に美しいデバターのこと。
アンコールの赤いレンガやラテライトの壁の中に、私にはけっして手の届かない永遠の理想のデバターが・・・。

<完>
  

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