第3章 乱立する観世音菩薩
     バイヨン

<アンコールトム=第二日>

西洋式朝食 宿泊したアンコール・プリンセスホテルの朝食は、コンチネンタルブレックファースト。日本のホテルとほとんど変わらない。野菜とフルーツをたっぷり、卵はスクランブル、クロワッサンとオレンジジュース、食後はコーヒー。これは滞在中同じメニューをいただいた。

 今朝もお迎えのマイクロバスは時間前にはホテルの前で待機しており、ガイドのサロム君もさわやかな笑顔を見せてくれた。
 8時きっかりにホテルをスタート。この日のスケジュールは、アンコールトムと外回りコース。

アンコールワット3日間パス まずアンコールへのチェックポイント(関門がある)でパスを見せて通過。昨日「3day's pass」を40ドルで購入。他の物価からすればべらぼうに高いのだが、アンコールの全てをこれで見られるというのはあまりにも安い。
 その意味でも事前にきちんと勉強して、ターゲットポイントを決めていくことが満足度を高める秘訣。


 

アンコールトム(大きな町)南大門のナーガと神々


 さあ
アンコールトム南大門に着きました。

逆サイドでナーガを引く阿修羅たち 熱さを感じるものの朝の世界遺産はさわやかである。さあ、きょうも張り切って一日楽しもう!
気力を充実させて第一歩を。

 バイヨンへと続く南大門は、東西南北を向いた穏やかな菩薩を乗せて、旅人を導く。象に乗ってバイヨン参りというオツな白人もいれば、パジェロの新車も南大門を通過する。

 四大海を意味する濠の欄干の上で、ヒンドゥーの説話の中でも有名な「乳海攪拌」をモチーフにした、阿修羅と神々が蛇神ナーガを引き合いながら、我々を迎えてくれた。

像とパジェロの南大門 まず、アンコールトムの概要から。

 戦乱の世、ジャヤウ゛ァルマン7世は、1177年にベトナム軍に略奪されたアンコールワットを、取り戻した。そして、さらに新たに、3`四方を高さ8mの城壁で囲んだ大きな町を築いた。それがアンコールトムである。アンコールワットの造営から半世紀が経っていた。


 この時代はクメールが最も繁栄した時代であり、かれはまさにクメールの覇者であった。

 アンコールトムは仏教寺院で、王宮やテラスから構成されており、その中心が四面仏で有名なバイヨン寺院である。

四面仏の微笑み

 バイヨンに入場すると周囲一面の石造・四面仏に圧倒される。四面仏とは四方に観世音菩薩の顔を持つ石像のこと。アンコールワットとは明らかに趣が違う。どことなくまじめさと冷たさを感じたワットに比べ、心和む雰囲気がある。それは、柔和な笑みを浮かべる観世音菩薩のおかげであることは間違いない。
 50面を超える巨大な像が不連続に直立している。整然と直線上に並ぶわけでもないし、シンメトリーでもない。高さもまちまち。カメラマニアにとっては魅力的なアングルが至る所にあることになる。
500リエル札
 デバターが微笑む窓を画額に見立てすっぽりとおさまる日本のご婦人、長方形の門扉の向こうに菩薩の横顔、同じく正面から菩薩がひょっこり顔を出す。遠近図法さながらにずらっと並ぶ微笑の列、500リエル札のモデルになったという菩薩などなど。

 石造なのに妙に暖かい。ここも異次元の空間である。シャッターを押し続けるうちに、自分がどこにいるのか、否、自分が誰なのかもわからなくなってしまった。

四面菩薩の微笑



観世音菩薩

 仏像には4つの種類があるようだ。まず、最高の地位を占める如来。これは悟りを開いた仏さまで釈迦如来や阿弥陀如来や大日如来が挙げられる。

 次が菩薩で、これから悟りを開くという如来の候補者で、俗っぽくいえばただ今修行中。観世音菩薩はこの仲間になる。


 それから如来や菩薩を守る役割を担う明王・・・憤怒相をした大日如来の化身・不動明王などがこれにあたる。

 そして最後に超人的な力を持った神・天部・・・バラモンの仏教移入から生まれたが、東西南北の四方を守る持国天、広目天、増長天、多聞天など。
 

東西南北の微笑


 観世音菩薩は、読んで字のごとく「世の中の音を観する」菩薩で、音とは民の声、苦しみ、悩みなど、世間の生きとし生けるものの苦しみをあまねく観る菩薩のこと。

 わたしなりの単純な解釈をした。バイヨンの観世音菩薩は時の王ジャヤウ゛ァルマン7世その人であるということ。敬虔な大乗仏教信者であったという王は、菩薩として徳を積んでこの世の苦しみを救い、やがて如来に・・・現実はそんなに甘くはなかったのだが。

バイヨン回廊は一大絵巻

 第一回廊の壁画の趣もアンコールワットとは明らかに違う。厳かでうやうやしい神話だけが描かれるのではなく、クメール軍とチャンバ(ベトナム)軍の戦いが写実的に表現されているし、当時の庶民生活のあれこれが生き生きと浮き彫りにされている。

 海戦で水上に投げ出された兵士が鰐に食べられるシーン(これはほんとうにあったことなのだろうか?)、凱旋の料理で豚を丸ごと鍋に突っ込むシーンとか、行進の途中亀にお尻を噛まれる兵士など、戦争の悲惨さよりユーモラスな絵物語といったところ。
 当時の軍隊の有様がよく理解できる。兵士の数もたくさんいたが、それをサポートする輜重部隊(食料や日常雑貨などの後方支援をする)も、まるで観光旅行のようにどっさりと行列の後方にいた。


 庶民生活のほうも多種多様のモデルが描かれている。

水上戦 鰐が敵を襲っている場面 このあたりの湖沼は魚資源が豊富にあったのか投げ網による漁は常に豊漁で、漁師の妻が、漁った魚を何匹か串に刺して七輪で焼いている。
 中国人相手の闘鶏賭博のシーンでは胴元が金袋に手を入れて勝負の行方を見守っている。
 狩に行って虎に追いかけられて木に登る兵士もいる。
 出産の模様や市場の様子、建築現場で働く人々などとにかくあらゆるシーンが微にいり細をうがち描かれている。

有名な闘鶏シーン=左クメール、右中国人、胴元も

左がクメール人、右が中国人
後ろで壷を抱えているのが胴元

 レリーフにはチャンバ人や中国人も多数描かれているのだが、クメール人はすぐに見分けることができる。それは彼らの耳が長いから。日本では大きな耳は福耳として歓迎されるが、彼らの世界では・・・もっと大きな意味があるような?

 赤茶けた彫石は一切言葉を発しないが、戦勝凱旋の歓声や調理のにぎやかさ、あるいは動物の鳴き声まで、古代よりの原始の響きが石の間から聞こえてくるようだ。食物のにおいまでも・・・。


第2回廊から中央基壇へ

暗い回廊に仏像が バイヨンの第2回廊は暗い。昼間でも足元が確認できないほど暗く、しかも迷路のように入り組んでいる。後世持ち込まれた仏像が安置され、熱心な僧侶によって線香の香りが消えることはない。

 この回廊は幅2Mほどの敷石の道でつながり、ところどころに小部屋が配されている。四面菩薩の下部にあたり、内部は人間の体内の構造に似ている。ちょうどわたしたちは菩薩の体内にいることになる。
 上を見上げてみるとかすかな明かり以外に何もない。「空・くう」である。

 般若心経の「色空異空 空不異色 色即是空 空即是色」の「一切の存在は空なり」が思い起こされる。
 第2回廊が修行の場とすれば、中央基壇は悟りを開いた如来が集まる特別な世界。俗人の入る余地はないのだが・・・。


大乗仏陀による救済を感じませんか?

 暗い回廊に中央基壇から光が差し込む。わずかの光がまぶしい。この暗夜行路のような回廊から中央基壇に登ると名状しがたい上昇気分を感じる。

修行僧と少年の笑顔信仰の人線香を絶やさず 菩薩の顔が手に触れるほどに近く、微笑みの口元からその吐く息が感じ取れる。菩薩の隣には別の菩薩、その向こうにまた別の菩薩、菩薩の清らかな呼吸によって浄化された神の国。
そこはもはや人間世界ではなく、ほとんど神々の領域であった。

 狭い回廊を歩き回りいささか疲れた。


 それぞれの場所に女神像や彫刻群、天を仰げば威圧するかのような建造物、要所から覗くことができる計算された景観など、すべてが歴史的文化遺産であるにも関わらず、自分の手で触ることすらできる。

 いつまでも去りがたく、しかし、時間の無情を恨みつつ・・・。

象のテラス・ライ王のテラス

 バイヨンの豊富なご馳走から開放されやや放心状態で、北にまっすぐ歩くと右側には大きな広場がある。

 その前面には王族たちが閲兵を行ったというテラスが長く続く。
像のテラス
 蓮の花を摘む鼻を柱にした象が三体、砂岩に刻まれている。ここが「象のテラス」。

 この広場は勝利の門からまっすぐ続く広場でもあり、凱旋する兵士を閲兵する王の姿もここにあったに違いない。この場所に古代の人たちを置いてみれば、そのまま映画のシーンになる。王の一声で勝鬨が上がる。



 すぐ北隣が「ライ王のテラス」。

テラスの上のライ王 昔の王の神話から命名された。大蛇を仕留めようとして返り血を浴びてハンセン氏病に感染したというのだが・・・真実は闇の中。

 この「癩王のテラス」の伝説を裏付けるレリーフが、バイヨン寺院第2回廊東面小室の中に彫られている。そのレリーフは王が大蛇と戦う次の絵図で、従者に手足を揉ませている図を描いている。王が民間療法によりマッサージをさせているもので、油を身体に塗るカンボジア式マッサージである。さらに連続した絵図には、侍女の膝に足を乗せた王の涅槃を描いている。すぐ傍では苦行僧が懸命に祈祷を続けている。


内壁と外壁の間の空間のレリーフ ジャヤウ゛ァルマン7世は執拗なまで精力的に領土を拡張したが、忍び寄る肉体の衰えには勝てず、悲哀の中に世を去った。そして王が創建した寺院の仏教的装飾も、次代のヒンドゥー権力者によって削り取られる運命が待っていた。

 テラスの上にライ王は右膝を立てて厳かに鎮座している。

 1965年この地を訪ねた三島由紀夫がライ王伝説を主題とした戯曲「ライ王のテラス」を発表。アンコールの栄華を作り出した若き王ジャヤウ゛ァルマン7世がやがて病魔に冒され、運命の悲劇に見舞われ、王国の衰亡を見届けながら逝去するというストーリーである。初演は帝国劇場で、北大路欣也がジャヤウ゛ァルマン7世を演じた。


王宮北門を抜けて女池

 王宮北門を抜けると、かつての王城内は静かな公園となっている。涼しい風が吹きぬけ、汗ばんだ肌に心地よい。女池の石垣に座ってしばし休憩。その聖なる池に蓮のつぼみが今にも花を咲かせようとしている。千年前と変わらない蓮の花・・・。

 ピミアナカス宮殿に登り周囲を眺望し、椰子のジュースで一息入れた。1個1ドルなり。



木陰の売店売行きNo1は椰子実天上の「ピミアナカス宮殿」11世紀初頭建築

 隠し子」を意味するピラミッド型寺院パプーオンの空中参道(左下写真)は現在フランスを中心に修復中。大きなクレーンが目立っていました。

評判のカンボジャ料理店samapheapシャムとカンボジャの伝説の場所

 この後市内に戻り昼食。アンコールビールで乾杯、午後に向けて生気を養う。
 この店は人気の店で、商売繁盛。店のお兄さんのホクホク顔を見ればいかに儲かっているかがわかる。

巨大な「タ・プロムのスポアン」

タ・プロムの巨大なスポアン 記念写真スポット

1186年:仏教:ジャヤウ゛ァルマン七世創建)

 アンコールトムの東側の遺跡の一つタ・プロムは奥まった所にあって、静寂を保っている。創建は仏教僧院で、後にヒンドゥー寺院に改宗された。そのため仏教色の濃い彫刻は、ここでも悲惨にも削り取られてしまった。

 当時は広大な敷地の中に、5000人の僧侶と615人の踊り子・アプサラが住んでいたと伝えられる。その踊り子たちは何をしていたのか、宮廷での踊りは神への祈りとして捧げられていたというが、彼女たちが、今も残る美しいデバター(天使)のモデルであったに違いない。

 暴君ポル・ポトは歴史あるアプサラの踊り子たちをも処刑の対象としてしまったが、生き残った数人の先生によって伝統舞踊・アプサラの踊りがまた復活しようとしている。

 ここもまた周壁の内部が迷路のように入り組んでいて、自分の居場所を見失ってしまう。

自然の芸術と大蛇=東塔門内

 しかしなんと言ってもこの遺跡の最大の見所は、巨大に成長したスポアン(ガジュマル)だ。東門をくぐってすぐ左側にびっくりするほど大きなスポアンがあり、観光客の度肝を抜く。

 ここでは自然の力を明らかにするため、樹木の除去や壁の積みなおしなどの修復作業を一切行っていない。数々のスポアンが遺跡の中から這い出して、あるスポアンは苔むした石を割って触手を伸ばし、別のスポアンはゾンビのように壁にまとわりつく。
 恐竜のように回廊をまたぎ、吠えているかのようなスポアンもある。これでもか、これでもかとスポアンの脅威を目の当たりにする。

 成長の早い南国の自然の芸術とも言える。
発見時のまま・倒壊した石塊
 妙なことを思い出す。盛岡の石割桜のこと。浅田次郎の「壬生義士伝」に「盛岡の桜は石を割って咲く。南部の武士なら春を待たず、石を割って咲け。」の一説がある。石を割ってでも咲く強さを持て、人に先駆けて行動を起こせ、と言っているのだが、タ・プロムのスポアンは人に邪魔されず、思うままに自由を謳歌してきた。

 その神秘さとあいまって日本人には人気スポットのようだ。

 タ・プロムを出たところに小さな仏像があった。印象に残る仏像だったのでカメラに収めた。


タ・ケウ寺院と高所恐怖症

11世紀初頭:ヒンドゥー:ジャヤウ゛ァルマン5世)

タ・ケウに登ってきた警官 「クリスタルの古老」という意味のこの寺院は、王の突然の死によって未完成で放置されることになる。五塔主堂の平面寺院で、そのデザイン、建て方からしてアンコールワット造営の試金石とされている。

 寺院はみな、石を積み上げてから彫刻を施すという工程をとるが、頓挫したためほとんど彫刻がない。

 中央祠堂は高く聳え、高所恐怖症のままさんは、大汗をかいた。


助っ人の押売警察官 この高みからの景色は感動的。周囲の緑が目にやさしい。さわやかな風が噴出した汗を止めてくれる。

 押売の警察官(本物)が後ろから慣れた手つきでホイホイと昇ってきて、危険な下りに手を貸してくれた。サービス満点である。お土産の無心というみえみえの下心がわかっても、ままさんはそれにすがった。結果、禁輸品の警察官バッジを買うことになる。

 安月給と貧困のゆえに官吏もアルバイトをせざるを得ない。女子供ばかりか本物の警察官が、職務中に警察官バッジを売る。アンビリーバブルだが、真実!!


バンテアイ・スレイと
東洋のモナリザ

ヒンドゥー教シヴァ派バンテアイ・スレイ「女の砦」の意

 午後4時、トヨタ製のミニバスはシェムリアップの町から北へ40`ほどの「バンテアイ・スレイ」(967年創建:ヒンドゥー)へと走った。高床式の質素な住居が続き、電気も来ていない。

 途中人が集まってボクシングの中継をテレビで見ている。「車のバッテリーから電気を引いています。」というサロム君の話に唖然とした。日本の戦後よりひどい文化の遅れを垣間見た。

 しかし、かれらはこれで幸せなのではなかろうか、とも考える。亜熱帯の国では雨露をしのげば何とか生活は維持できる。食べものさえあって、家族そろって平和に暮らすことができればそれで幸せ・・・。生活のために無為な努力や工夫も必要ない。成長がなくとも、南北格差があってもそれは他人様のことで、私たちには関係ない。晴耕雨読の生活はかけがえのない楽しみですよという考え方。そして彼らは決して見世物ではない。

赤色のバンテアイ・スレイ寺院
 「女の砦」の意味を持つ小寺院・バンテアイ・スレイ。

 このアンコールで最も美しいと言われる寺院に、夕闇が迫っていた。

 外壁は赤色砂岩とラテライト、参道も赤い絨毯を敷き詰めたような赤茶色をしている。中央の伽藍は燃える炎のよう。

 壁の彫刻が特に美しく、彫りが深く人間味がある。その造形美はアンコール遺跡の中でも群を抜いて洗練されている。

 中でも「東洋のモナリザ」と称されている女神像(デバター像)は出色なのだが、残念ながら立ち入り禁止で見られず。しかしほかのデバターでもその優美さは十分に感じ取れた。

 その美しさゆえに事件が起きた。1923年、ほぼ80年前の話。

バンテアイスレイのマルロー事件

第3周壁内の3基の祠堂 フランスの作家アンドレ・マルローは、このデバターのあまりの美しさに我を忘れ、妻クララと共謀してこれを国外に持ち出そうとした。

 審美眼のある人なら誰でも、アンコールワットの何万かあるデバターの美しさに素直に感動するに違いない。マルローがヨーロッパ人の傲慢さと不遜さで「東洋のモナリザ」を持ち出そうとした心理はさもありなんと思う。

 ましてやフランスの植民地時代、しかもかれは文化大臣であった。自己の権限で持ち出したとしてもクレームはつかないだろうと推測するのだが、彼は運悪くつかまってしまった・・・。


シヴァ神とヴィシュヌ神に捧げた小寺院 明治初期同様なことがわが国でも起こった。事件にはならなかったが。

 日本文化の検証と教育のため東京帝大で教鞭をとったフェノロサも中世日本文化に強い関心を持った。その心境はマルローに似たものがある。フェノロサは岡倉天心の助力を得て、多くの仏像や書画骨董の類を掘り起こした。そして海外に持ち出した。持ち出すことができた。これは鎖国による日本の文化的後進性と思われるが、当時は自国の文化的価値を過小評価していたに違いない。

 クメールの人は自国の文化遺産の価値を理解している。

 フランスは罪滅ぼしのためか、現在、先頭に立ってアンコールの修復を行っている。

バンテアイスレイ もう一つの事件

 実はこの寺院は数年前までは道程が危険なため、観光そのものが認められていなかった。

 確かに今でものどかな田園風景だが、ゲリラが突然現れてもおかしくないような草むらが道の両脇にある。

不気味な道の夕刻 一人の日本人の事件が映画になった。

 映画「地雷を踏んだらサヨウナラ」の主人公のカメラマン「一ノ瀬泰造」氏。

 かれはポル・ポト時代に、報道カメラマンとしてカンボジャを駆け巡った。そしてバンテアイ・スレイの近くでクメール・ルージュに捕らえられた。わたしたちが通ったこの道路で襲撃に遭い、藪の中に連れ込まれたという。5日間何も食べさせてもらえず殺された。戦後、泰造氏の両親がここを訪れ、遺骨の一部を持ち帰ったがその心はいかばかりであったか。

 ポル・ポトによる悲劇に関しては後述したい。


土産を売る子供

 カンボジアの政情も経済も、最悪期を脱したかに見える。しかし依然として貧困は続いている。先生や警察官という公務員の月収が30ドル(3,600円)という少なさで、それだけでは食べられないからアルバイトをしている。家によっては一日1ドルの収入のない日もあるという。

 だから子供も駆り出される。どの遺跡でも、バスが止まると「オニーサン、カッテ」と観光客相手の子供たちが集まってくる。

 アンコールワットやバイヨンにも観光客相手に飲み物や、おみやげを「ワンダラー、ワンダラー」といって売りにくる子供が大勢いた。

そう、なぜか遺跡内の物売りは子供ばかりだ、これが大人だったら「ノーサンキュー」とかいって断るのも簡単だが、子供だとそういうわけにもいかない。日本でも街頭で子供が赤い羽根募金とかユニセフの募金を呼びかけていることがあるが、あれに似ている。買って当たり前と考える子供が多い日本と違って、カンボジアの子供はなぜか可愛いく純真だ。目が違う。笑顔は本当に愛らしい。なんでこんなに楽しそうに笑えるのか不思議なくらい。満面の笑み。くったくのない笑み。幸福って何・・・。

 そして、短く発する日本語が心に刺さる。

 「オニーサン、カテクダサイ」
この舌足らずな呼び声はおそるべき破壊力を秘めていて、無視して通り過ぎることに少なからず罪悪感を持ってしまう。しかし・・・買ってあげて、ニコニコされると悪い気はしないのだが、次から次へと攻められるのには閉口してしまった。毎日やっている彼らのほうが、初めて訪れた自分たちより一枚上手であることは間違いない。

 そんな中で「ワタシ 1ドル!」と冗談とも思えない言葉を発して笑いこける、唇に紅を引いた年頃の少女に出会った。

 笑えない言葉だ。


シェムリアプの夜

 シェムリアプでの二日目の夜は、だれもが質素と感じるほどに、これまでと比べて品のないカンボジャ・レストランであった。外観も、メニューも。しかも観光の続きで、汗も流していない状態であり、一同不満は募った。しからば、アルコールで流し込むしか術はなく、この夜もアンコールビアの世話になってしまった。魚のフライにアンがかかっていた料理以外に、何を食したか思えていないほどである。

 他の食事はほとんどが満足できる水準であっただけに、一番くつろぐべきアンコール最後の晩餐が質素すぎて、画竜点睛を欠いた思いは否めない。


マッサージの女性 そしてほろ酔い気分のままに、カンボジャ式マッサージの店に立ち寄ることになる。

 オールドマーケットのPsarChas Lotus レストランから100mのところにある「TRADITIONAL KHMER HEALTH」である。2時間10ドルはタイに比べたらやや高い。もちろんカンボジャ価格からすればたいへんな高額で、金持ちの日本人観光客しか来られない贅沢である。

 薄暗く妙に淫卑で、頭の上を交錯する現地の猥雑な言葉を聞き流す間に、疲れていたのだろう、眠ってしまった。

<続く>
  

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