京都五山第一位
天竜寺
嵐山から仏野・念仏寺あたりまでの小道は山里の落ち着いた雰囲気がそのまま残り、のんびりと散策を楽しむことができる。
宝厳院をもどり、平成
6年に世界遺産に登録された禅寺・臨済宗大本山「天竜寺」の庭園を拝観した。
<檀林皇后>
ここにも古い物語があった。
この地にはもともと、檀林皇后(
786−850年)が開創した檀林寺があった。
皇后が招請した唐の禅僧義空が開山となり、わが国最初の禅学興隆の道場として知られるが、皇后没後、延長6年(928)に焼失しその後平安中期に廃絶した。
さて嵯峨天皇(786-842)の皇后、檀林皇后(橘嘉智子)のこと。
杉本苑子さんは「檀林皇后私譜」を書いているが、「橘嘉智子」はその美しさゆえに、橘氏一族の期待を一身に集めることになる。彼女の祖父・橘奈良麿は、藤原仲麻呂によって反逆者として死に追いやられており、その橘氏復興の切り札となったのが嘉智子。
嵯峨天皇の寵愛を受けた彼女は、嵯峨妃である桓武帝息女・高津王妃の死もあり、皇后に上る。橘氏は一時でも皇后の座につくことができ勢力を拡大するが、結局嘉智子が死んでしまうと元の木阿弥、藤原氏にとってかわられる。力が力を制する歴史は厳しい。
余談。六波羅の項でも触れたが、嵯峨天皇と弘法大師との結びつきは強かったため、檀林皇后も弘法大師に深く帰依していた。
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<夢窓国師創建>
時代は下り鎌倉の世。嵯峨好きな後嵯峨天皇(1220-72)は上皇になってから離宮仙洞御所・亀山殿を営まれた。(仙洞御所は上皇の住まいの意)
かつてその規模は、今の天龍寺を中心に北は大覚寺、南は桂川畔におよぶ広大な地域を占め、自然の風光をそのままとり入れたものだった。現在は、当時のおよそ10分の1ほどの規模になるというから、時の権力者の威力はたいへんなもの。
亀山殿は後嵯峨天皇から亀山天皇(1249-1305)を経由して孫の後醍醐天皇へ伝領されたが、建武の新政が破綻し京を追われた南朝・後醍醐天皇は歴応
2年(1339)8月大和吉野で薨去した。
この時期、背景に南北朝時代という日本史においても稀有な権力闘争があり、楠正成をはじめとする幾多の武者の戦死があった。
天龍寺は、統一を得た足利尊氏が宿敵・後醍醐天皇や、戦塵に倒れた幾多の兵士の菩提を弔うために、その頃既に荒廃していた亀山殿の地に勅願寺として創建した。双方の妄執を昇華させようと、尊氏の禅の師・夢窓疎石(国師)が提案し、自ら開山された。
<夢窓疎石(1275−1351年)>
夢窓疎石は、鎌倉後期から南北朝時代にかけて活躍した臨済宗の僧。天龍寺開山でもある。
禅宗には臨済宗・曹洞宗・黄檗宗(おうばく→普茶料理)などがあるが、栄西を開祖とする臨済宗は主に上流社会に広がり、時の権力と結びついて拡大していった。これに対し道元禅師の曹洞宗は底辺の一般民衆に伝播した。
夢窓疎石は鎌倉・仏国国師(1241-1316年:後嵯峨天皇の第三皇子)より印可を得ている。仏国国師は円覚寺を開基した宋の僧・無学祖元(1226 - 1286年:仏光国師)の弟子。
話は数十年逆流するが、鎌倉末期、元に滅ぼされた南宋から多くの優れた禅僧が日本に渡ってきた。無学祖元もその一人。時の執権・北条時宗は文永(1274)・弘安(1281)の両元寇での戦死者を供養するために、無学祖元を招いて円覚寺を創建、かれはその開基となった。彼の流派をその名から仏光流と称し、室町に至り法孫は天下に満ち、五山の学僧の主流となった。
その流れを汲む夢窓疎石は天皇や貴族、武士から帰依を受け、門下は1万人を数えたという。生前に3人、没後に4人の天皇から国師号を贈られ「七朝の帝師」とも呼ばれている。
左の塑像は、疎石の坐禅を組む姿を現したもの。顔の細かい表情や疎石独特のほっそりとしたなで肩、体を包む衣の質感など、生前の姿を写し取ったかのようだ。
山水を愛した疎石は、庭園もよく営んだ。禅の厳しい修行と高い教養を基にした美的感覚を活かし、 禅宗様式庭園の発展に大きな足跡を残している。 |
背景のぽこっと飛び出た山が愛宕山
<曹源池>
庭園拝観受付をくぐり左に回ると、「大方丈」の堂宇が威容を誇っていた。とにかく大きくてデジタルカメラの視角にはとても収まりきれない。この方丈を半周回ると曹源池に出た。
天竜寺十景の一つ曹源池は
夢窓国師の作で、周囲を借景にした池泉回遊式庭園である。右手はるか奥に愛宕山、近くは小倉山、左は嵐山そして正面に亀山と、三方を歴史豊かな小高い山に囲まれた佳景の地にある。
繁茂する林の奥に竜門の滝:左下の鳥は鷺でしょうか?
正面に三段の滝がある。これを「竜門の滝」という。登竜門ということばになじみがあるが、「鯉は滝を登って竜になる」ことわざに由来し、「苦労して努力しなさい。そうすれば難関を突破することができますよ!」という
夢窓国師のメッセージだろう。
方丈に座ってのんびりと庭全体を眺めている旅人が多い。
池を巡る木立や池面に配した巨岩など、借景を含めた全体の景観が風雅にまとまっている。
司馬遼太郎さんは「嵯峨散歩」で、「夢窓の激しい撃砕の禅骨は、露出することなく大和絵で包まれている。池や木々の生物どもにとっていかにも棲みよげである。」とこの庭を評している。
竜安寺の石庭も有名だが、考えてみれば竜安寺も臨済宗・妙心寺派の禅寺で、細川勝元の手になる枯山水。禅宗寺院には独特の「美意識」があるようだ。
<京都五山:臨済宗>
鎌倉五山に対する京都五山の意。
五山の寺名が具体的に列挙されるのは、鎌倉・北条幕府が瓦解した直後の建武年間(1334〜1336)で、復権した後醒醐天皇が「第一南禅寺 第二東福寺 第三建仁寺 第四建長寺 第五円覚寺」という位次を定めてからである。さすがに京都育ちで権力志向の後醍醐は鎌倉を下位においた。
その直後、足利氏が政権を握り天竜寺を開創すると、「第一建長寺・南禅寺 第二円覚寺・天竜寺 第三寿福寺 第四建仁寺 第五東福寺」という鎌倉主位、武家本位の位次に改めた。
ついで後年、足利義満は「第一建長寺・南禅寺 第二円覚寺・天竜寺 第三寿福寺・建仁寺 第四浄智寺・東福寺 第五浄妙寺・万寿寺」の位次に改めて、ここに鎌倉五山と京都五山が成立することになった。
しかし1386年(至徳3年)義満は自ら創建した相国寺を五山に列するため、新たに南禅寺を別格の五山之上(ごさんしじょう)に昇格させ、京都五山の位次を「第一天竜 第二相国 第三建仁 第四東福 第五万寿」と変更し、京都主位・鎌倉従位の五山制に改めた。これが京都五山の位次のほぼ最終的な決定となって幕末にいたった。
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天竜寺 |
■ところ 京都府京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町68
■交 通 京福電鉄嵐山駅より徒歩2分、又はJR嵯峨嵐山駅より西へ、阪急嵐山駅より北へ徒歩10分
■開 園 8時30分ー17時30分(10月20日〜翌3月20日ー17時)年中無休
■入園料 500円、こども300円(小中学生)
■問い合わせ 電話075-881-1235
(2004年正月現在) |
<続く>
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