11章 サロマ湖

サロマ湖、30年秘めた記憶の跡に

 アパレルの案件で北見まで出張したあと、翌日が土曜であったことから、同行した若いスタッフNG君と駅で別れ、学生時代から一度行かなくてはと思い続けていたサロマ湖まで一人で足を延ばした。

廃線となった今は交通公園に

 伏線は昭和45年(1970年)9月にある。かれこれ30年も昔のことである。大学の最後の夏休みに竹馬の友・伊藤保典君と北海道旅行に出かけた。綿密な計画を立て層雲峡から留辺蘂(ルベシベ)に出て、その夜は網走駅近くの旅館に泊った。

 翌朝、宿の主人が勧めるままに、朝食前に早起きして北行きの電車に乗った。この電車は今では廃線になりバス輸送に変わってしまっているし、はるか昔の記憶で定かではないのだが、網走から3駅目の卯原内(ウバラナイ)という駅で降りたと思う。

 駅前の国道を渡ると、あたり一面を、まるで鮮やかな赤いじゅうたんを敷き詰めたような広大な光景に出会った。私にとって初対面の深紅の小花は珊瑚草という。能取湖(ノトロコ)の自然の風景で、湖畔のまぶしい朝日の中にたたずんで、真っ赤な珊瑚草を時間の経つのも忘れて眺めた。厚岸草とも呼ばれるこの赤い群落を始めてみたあの時の感動は今も忘れることができない。


 その時、旅行者の誰かが教えてくれた。「サロマはもっとすばらしく感動的だ」と。

珊瑚草とわたし

30年前の写真が出てきました
朝日を浴びて珊瑚草にたたずむわたしです
懐かしい!



 サロマには火祭がある。これはアイヌ民族が冬に行う熊祭りで、イヨマンテと呼ぶ。彼らの伝説では、神が仮装して人間界に現れたのが熊で、その皮や肉の仮装を脱がせて、その霊を熊の国に送り返す儀式がイヨマンテ。2〜3年飼育した子熊を弓矢で射て食するという。刺激的で幻想的な話であった。

 その記憶がずっと脳裏から離れず、今日まで引きずってきていた。

 そしてサロマに来た。

<サロマ湖の夕日>

 留辺蘂駅からバスに乗り、数少ない路線を内陸の佐呂間町で乗り継いで、やっとこの日の宿にたどり着いた。サロマ湖南岸に瀟洒なたたずまいを見せる「緑館」は湖岸の数少ないホテルの一つで、唯一温泉を謳っている。

 しばしホテルの窓からサロマの湖を眺めた。故郷の浜名湖と比較しその寂寞とした光景に言葉を失い、哀愁の思いにひたった。ここは寒風吹きすさぶ北の果て、人間が住むには最も厳しい風土だから仕方がないのかと納得して、夕刻の湖畔の温泉に浸かった。

サロマ湖の夕陽

 サロマ湖はもやっていた。
 北海道随一の広大な湖は遠くまでぼんやりと霞み、あくまで静かである。湖面に沈む夕日に期待して長湯をしてしまったが、太陽は雲にさえぎられ微かな光芒を湖面に落とすのみ。野天風呂から眺める湖は灰色一色で物音のけはいすらなかった。

<原生花園、浜茄子とおにぎりと>

センダイハギ(先代萩)

 翌日、湖畔のワッカ原生花園を散策した。

 ホテル前からバスを拾い、浜サロマを経由して栄浦で下車。栄浦大橋をわたり「ネイチャーセンター」で自転車を借り、この花園とは不似合いの背広姿でペダルを踏んだ。(地図

 この原生花園は、オホーツク海に面して東側の常呂町からサロマ湖を塞ぐようにせり出した砂州の上に出現しており、別名を「竜宮街道」と呼んでいる。砂州の広さはところにより200〜700mとうねっているが、長さは20kmに及ぶ。西に位置する湧別町側からも砂州は10kmほどせり出し、真ん中が水門となり、オホーツク海の海水とサロマ湖の淡水が出入りする。サロマ湖は潮の満ち干によって海水が出入りする汽水湖である。

 したがって絶好の漁場ともなっており、とくにホタテの養殖が盛んである。

オホーツクからの海水の侵入




はまなす ハマナシ 長い冬の風雪に耐えてやっと小さな花を咲かせた浜茄子をいとおしく感じ、6月になっても強風に吹かれながら、なお花をつける我慢強さには敬意を表した。

 サロマの冬の情景は想像を絶するものがあるだろう。オホーツクの海は荒々しく吠え、海からの飛沫交じりの吹雪がすさまじくこの無防備な砂丘を襲う。人間でも立っていられない強風の中、じっと我慢し、春に花を咲かせるその姿に心から感動した。

エゾゼンテイカの群落


 エゾカンゾウ(ゼンテイカ=ニッコーキスゲ)の黄色の群落と記念撮影がしたくなり、通りがかった50年配のご夫婦に何気なく「シャッターを押して欲しい」と頼んだ。

エゾスカシユリ 美幌からハイキングに来たというそのご夫婦は話好きで、「昨年はおとうさんが体を悪くしてどこにも行けなかったがやっと元気になって、浜辺の散策に出られるようになった」と、傍らのご主人をふり返り、素直に喜んでいた。

 そんな田舎のご夫婦の暖かい好意に甘え、勧められるままに握り飯ばかりか卵焼きまでごちそうになってしまった。眺望のいい砂丘の一隅に座り、静かなオホーツクを眺めた。短い時間であったが、海風に吹かれながら話に花が咲いた。

 何を販売していたのか聞くことができなかったが、ご主人は営業マンで北見地区を忙しく走り回っていたそうだ。病気で倒れたときは一瞬目の前が真っ暗になったそうだが、お二人で「健康が一番。こうやって二人でハイキングができるようになって本当に良かった。」と述懐してくれた。

 今思えば連絡先だけでも聞いて礼状を書くべきであった。


 そして・・・
 砂丘でお聞きした災厄が我が身にふりかかろうなどとは、このとき想像だにしなかったのだが、出張から帰った翌々日の早朝に、わたしは一人きりの札幌のマンションで倒れた。(「死の恐怖」へ)

<続く>

もどる すすむ

△ 北海道トップへ

△ 旅トップへ

△ ホームページトップへ


Copyright ©2003-6 Skipio all rights reserved