北野天満宮
2004.1.4
<五条大橋と牛若丸・弁慶>
2004年1月4日、快晴。
早朝、食後にぶらりと五条大橋まで散歩に出た。
鴨川は寒々と流れ、川面には千鳥が餌を求めて舞っている。
五条大橋のたもとに「牛若丸と弁慶」の一対の像が立っていた。丸く抽象化した像で、わたしには幼稚な猿のようにしか見えなかったが、そういえば二人の逸話は小学校唱歌で歌われていた。「♪京の五条の橋のうえー、牛若まーると弁慶はー・・・♪」と。二つの像は、修学旅行の小学生にわかりやすく説明するためのものかも知れない。
私の想像力は直ちに「平家物語」や「義経記」の世界に飛ぶのだが、この像は健全すぎて、奥州平泉で憤死する荒武者弁慶とはどうしても結びつかない。
<初 詣>
午前9時、今出川通りに面した北野天満宮を訪れた。
京都には初詣の名所が数多いが、そのうちの一つといっていいだろうか。
元旦には25万人もの人が訪れたという。
参道にずらりと並んだ屋台にはいまだ三が日の余韻が残っているようで、準備する若衆も疲れ気味の様子に見えた。松の内にあるとはいえ、おおかたの勤め人の正月休みはこの4日まで。初詣客も一段落することだろう。とすれば屋台の商売もこの日が最終日という正念場、裏で仕切る親分の鞭にも力が入る。
鳥居を抜けた右手の松林一帯は、豊臣秀吉が北野大茶会を催した所。
中門(重要文化財)をくぐると社殿。何度も再建され、現在の建物は慶長12年(1607)豊臣秀頼の造営である。
拝殿(国宝)と本殿(国宝)を前後に並べ、間に石の間(国宝)を置いて1つの社殿にまとめている。回廊、北門、東門など重要文化財の建造物も多い。
<菅原道真公のこと>
北野天満宮といえば、菅原道真公を祭神とする全国の天満宮の総本社。
ご存知のように学問の神様。
天神さんと親しまれ、特に受験シーズンは合格祈願の人で賑わう。
道真公には悪いが、わが子供たちは学校の学問は卒業してしまったので(孫が立派に成長しますように)と祈念した。もっとも学校の学問より社会に出てからの勉強の方がずっと大切なのだが・・・。
道真公のことを少し詳しく・・・。これからがおもしろい・・・・・。
平安時代の政治家・学者。若い才人道真は宮廷一の詩人の才能が認められ、宇多天皇の寛平9年(897)6月大納言となり、さらに醍醐天皇の昌泰2年(899)、家柄的にも異例の右大臣にまで栄華の道を上りつめた。
結果、藤原氏の讒奏(ざんそう)を受け、延喜1年(901年) 正月25日左大臣藤原時平らの策略により、 太宰権師(だざいのごんのそち)として九州大宰府に流罪 された。
かれの被った罪は重く、23人の子供のうち成年男子は四方へ流罪、女子は留京、幼い男子のみが、連れて行くことを許された。別れの歌がある。
「東風(こち)吹かば 匂いおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春を忘るな」
恨み辛みの果ての筑紫落ちであるが、この話には恐ろしいおまけがついていた。
<怨念と復讐>
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北野天満宮に秘蔵されている「北野天神縁起絵巻」がある。それによれば・・・・・
道真は無実の罪を訴えるべく、祭文を作り天拝山に登って七日七夜、釈迦のように天に祈った。そして遂に「天満大自在天神」という大魔王になった。
かれの死(縁起3年2月25日=59歳)後、怨霊はかれを罪に追いやった藤原時平や醍醐天皇に対し凄まじい復讐をする。
縁起9年(909)時平は病気になり死んだ。39歳。人々は「菅公の怨霊のせいだ」と噂したが、間もなく、その娘も孫の東宮も、長男の大将保忠も三男の敦忠中納言も亡くなり、一家はほとんど死に絶えた。あなおそろしや!
菅公の怒りは天皇とて容赦しない。
醍醐帝も怨霊を恐れて菅公を元の右大臣に戻し、官位を正二位に追贈した。流罪の宣旨(せんじ)も焼き捨て、年号も改めた。しかしそれでも怒りは収まらなかった。
延長8年(930)6月26日、清涼殿に雷が落ちて火事となった。何人かの近習が火焔に取り巻かれ悶えながら息絶えた。「縁起絵巻」は、「天満大自在天神の第三の使者・火雷火気毒王の仕業」といい、醍醐天皇はこの火事の毒気がもとで病に落ち、9月29日出家し、その日に亡くなった。46歳。
普通はここで一件落着となり物語は完結するのだが、菅公の怨念は収まらない。さらにさらに、地獄の業火で天皇を襲うという執念は、死後の世界にも及ぶ。まったくもって恐ろしげな物語である。
そして、菅公の復讐はこれをもって完了した。
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ところがこの話にはさらに尾ひれがある。
藤原忠平という人物がいる。菅公を陥れた藤原時平の弟である。かれは太宰府天満宮や北野天満宮を造ることによって怨霊を鎮魂し、流罪を引き起こした責任を兄・時平一人になすりつけた。
兄に対するたたりが激しいほど、かれは安全圏に逃げられた。はじめから漁夫の利を狙っていたのだ。
その結果、かれの思い通りに周囲の状況は動き、やがてこの世の権力を独占することになった。
以後藤原忠平一門は─師輔─兼家─道長─頼通─師実─師通─忠実─忠通へと、摂関家として隆々たる繁栄の時代を築く。
皮肉なのは、かれがポーズ(か否かは?)で造営した北野天満宮が、その後も藤原摂関家の守り神になったということ。
地下の道真公はそんな成り行きに驚いているに違いない。自分を陥れた張本人の弟がわが世の春を歌い、自分を祀り上げていることなど、あっていいものか、世の中は思い通りにいかないものだと・・・・・。
<梅の名所>
梅を愛した道真公にちなんで境内には約50種2000本が植えられており、京都随一の梅の名所となっている。
寒さ本番という1月中旬には、冬至梅・照水梅・寒紅梅等の早稲咲きが、春を告げるかのように咲き始め、境内一円は馥郁たる香りに包まれる。
梅苑は例年2月初旬から公開され、紅梅・白梅・一重・八重等の順に咲き始め、2月中旬から3月初旬までが最も美しい時期となる。
2月25日の梅花祭には、境内で上七軒の芸妓による抹茶の接待がある。採れた梅は、年末に「大福梅」として参拝者に授与(有料)される。毎月25日の天神さんの縁日には宝物殿が公開される。
<牛のこと>
境内のいたるところに牛の石像が目立った。
インドでは、ヒンドゥーのシバ神の乗り物が聖なる牛(ナンディンといったと思う)で、大事にされている。わたしはここでも北野さんの神さんの乗り物かと思っていたら違った。
道真公が亡くなられたのが丑の年、丑の日、丑の刻というところから奉納されたもので、この牛の頭をなでると頭が良くなると信じられている。
しかし別の話もある。道真が大宰府に落ち延びる際、刺客に命を狙われたところを頭突きをかました牛に助けられた、という話もある。
さて真相は?
どちらにしてもたくさんの参拝客になでられた立派な牛たちは、すべからくツルツルの立派な頭をしていた。
<長五郎餅>
境内の奥のほうで「長五郎餅」を売っていた。
天正年間、北野天満宮の縁日に決まって現れる一人の老人がいた。境内で小さな餅を5−6個売っては、何処となく去っていく。薄い餅皮に餡を包んだ上品な餅で、次第に評判になったが、名前を尋ねると「河内屋長五郎」と名乗った。
天正15年(1587)10月、九州平定を終えた秀吉は北野天満宮の松原で大茶会を催すことになり、市中に高札を掲げて上下の別なく参加を呼びかけた。長五郎も仲間に誘われて茶屋を出し、秀吉に献上したところ気に入られ、その後「長五郎餅」と命名された。
400年以上も続く由緒正しい餅菓子。昨今の人気はいかに?今も「長五郎餅本舗」は北野下の森に店を構えている。
<続く> 「知恩院と八坂神社」
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北野天満宮 |
■ところ 京都府京都市上京区御前通今出川上ル馬喰町
■交通 JR京都駅→市バス50・101系統で23分、バス停:北野天満宮前下車、徒歩すぐ。または京福電気鉄道北野白梅町駅→徒歩5分
■開園 6〜17時
■入園料 境内無料(宝物殿300円、梅苑500円)
■問い合わせ 電話075-461-0005
(2004年正月現在)
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