山内一豊と妻・千代 掛川城で想う
功名が辻−2
戦乱の世の中、少なからず慌しい境遇の中で生を受けたのがこの時代の武士たちである。
それにしても織田信長と山内一豊は酷似した出自を持っている。
1534年、尾張国下四郡守護代・清須織田氏の家老・織田信秀の三男として生まれたのが信長。いっぽう一豊は遅れること11年の1545年、尾張国上四郡守護代・岩倉織田氏の家老・山内盛豊の三男として誕生している。どちらも守護代の家老から誕生というのが面白い。
この二人は敵味方に分かれていた。
鎌倉政権が敷いた守護地頭の制度に歪みができて、それまでの秩序がガラガラと音を立てて崩れ落ちた時代。
(守護は、鎌倉や京都につめて中央の政務に携わることが多く、任国を留守にする期間が長かった。家臣の中から代官を任命して実際の政務を代行させた。これが守護代である。)
そんな時代背景のなかで下剋上に成功した信長と、失敗したあげくに信長・秀吉に拾われた一豊という対比がある。
一豊の前半生は信長に翻弄され続けた。
そして29歳のとき織田氏の麾下にいた牧村政倫の推挙を得て信長(後に秀吉)の家臣となった。
天正7年(1573)8月、朝倉義景軍を追いかけた刃根坂の戦いで、三段崎(みたざき)勘右衛門という剛勇の士に、矢を顔面に浴びても怯まず組み伏せて見事首級をあげた。その褒美として近江唐国(からくに)4百石を拝領した。この時代、戦で功をたてるしか出世の道はなかった。
秀吉に仕えた一豊の最初の殊勲がかれの栄達の第一歩となった。
掛川城二の丸御殿
嘉永7年(1854)の大地震で被害を受け倒壊したため、
安政2年(1855)から文久元年(にかけて再建された。
京都の二条城など御殿建築としては全国で数カ所にしか残っていない
大変珍しいもので、昭和55年国指定の重要文化財
山内一豊を掛川城主に任命したのは豊臣秀吉。
天承18年(1590)の小田原攻めで(後)北条氏を滅ぼしたあとの論功行賞による。
秀吉は最大の危険人物・家康を関東に封じ込める戦略をとった。そして家康が往復する、関東と京・大阪を結ぶ東海道の要衝に配下の武将を配備した。
掛川は“越すに越されぬ大井川”を所轄する戦略拠点であり、秀吉の一豊への信頼度がうかがわれる。
一豊は武勲によるより、民生官として有能であった。
46歳にして要衝・掛川に入城した一豊は、粗末な城に修復を施し、立派な天守閣も新築した。城を囲む総堀を掘って城郭も築きあげた。さらに大井川の反乱を防ぐため大規模な治水土木工事を断行した。(天正の瀬替え)
また城下町の整備にもまじめに取り組み、職業別の町割を敷くなど今日に残る街づくりを行なった。
この間10年。
10年という歳月は一豊が最も長く滞在した城である。現代企業の支店長的役柄は簡単に安住の地を求めることができなかった。
長浜に2年、若狭高浜城主として5年、そしてこの掛川に10年、その後関が原の戦いを経て、徳川政権下で土佐20万石(安住)の城主に抜擢されるが、5年の後に61歳で世を去っている。
城の町並みは現在の行政が指導して
整備されつつある
一豊の才覚は前述のように民生官としての知恵にあり、冷静沈着に怒涛の戦国という時代を読み、信長・秀吉・家康という巨象の人物を見抜き、したたかに自分の人生を全うした。
かれは将来のことも考え、養子の国松(後、二代将軍秀忠の一字をもらって山内忠義)に家康の養女・阿姫を嫁として迎えた。結果、土地にに残る長宗我部勢力の遺臣とも調和を図りながら、明治にいたる土佐・山内家の長い安泰を得たのである・・・。
掛川城は戦国時代の文明年間(1469−86)、駿河守護大名・今川義忠が遠江支配の拠点として、重臣・朝比奈氏に築かせた。
桶狭間で信長によって今川義元が倒されると、義元の子・氏真は甲斐の武田氏に駿河を追われ、掛川城に立てこもる。
大身・今川氏もこうなると弱り目に祟り目、周囲のハイエナ軍団の格好の獲物となったわけだ。翌年、こんどは徳川氏に攻められ、開城させられる。その家康も武田氏が怖いわけで、重臣の石川家成を配備して、武田氏侵攻に備えた。
まさに戦国時代真っ只中。群雄は割拠してそれぞれが虎視眈々と領土拡大、京都進攻をねらっていた。
結果この時代の覇者は豊臣秀吉で、前項に書いたとおり目下の敵・家康を関東に封じ込めると、掛川を山内一豊に託した。
一豊の出世物語は別段に譲るが、掛川城は、江戸時代を通じて徳川親藩の松平氏や、江戸城を築いた大田道灌の子孫太田氏など、11家26代が受け継いで明治維新を迎えることになる。
貴族的な美しさを持つ天守閣は「東海の名城」と謳われたが、嘉永7年(1854)の大地震(ちょうど150年前の出来事)によって崩壊する。そして明治2年廃城。
霧噴き井戸
今川氏真の立て籠る城を家康が攻めたとき
井戸から霧が立ち込め家康軍を翻弄したという逸話の井戸
御書院 上の間 城主の対面所
城の入口で係りの方に話を伺った。
それによると、天守閣の再建は私の記憶にもある平成6年で、資金は10億円ということ。
「掛川は天守がかかったのに、駿府城はどうして再建されないのでしょうか?」とわたしが平素より疑問に思っていたことをぶつけてみると、学芸員らしい年配の方は、「お金がかかりすぎてまったく無理でしょう!この城も実は、東京在住の奇特なおばあちゃんが5億円も寄付してくれたからできあがったのです。あのころはバブルでしたからよかったのですが、今だったらきっと建っていないでしょうね」と説明してくれた。
もうひとつ、その方に「榛村(しんむら)市長さんはお元気ですか?」と尋ねたところ「この間の選挙で戸塚さんに負けてしまいた!」と、予想外の返事が返ってきた。
アイデアいっぱいで掛川市に明るい話題をふりまいた名物市長が負けたことは理解しがたかったが、7期も勤めたことがマンネリにつながったのだろうか。いずれにしろ市民は元国会議員の戸塚進也氏を選んだ。
実は私の手もとに98年1月に共同通信社が実施した全国自治体トップアンケートがある。下の記事でわかるように、その当時榛村市長は全国的にも有名な市長だった。
《「今後のまちづくりのモデル、目標としたい自治体」を全国の首長に選んでもらったところ、掛川市がトップ、宮崎県綾町が2位になるなど全国173の自治体が挙げられた。地方分権を進めるには、地方自治体の独創的、積極的な取り組みがこれまで以上に求められている。そのため少ない財源、人材を有効活用し個性的なまちづくりに成果を上げている自治体を参考にし、各地域の風土や特性に合った工夫をすることが必要となっている。 掛川市は、全国に先駈けて生涯学習の実践に取り組み、土地利用計画の策定に市民参加を促すなど、まちづくりの姿勢も評価されている。》
わたしはこの街に入る前から、元市長と山内一豊に類似性を感じていたのだが・・・
朝比奈氏から城下鎮護に下付された獅子がデザインされ
壁画に描かれていた
広々と立派になった掛川駅前ロータリー
掛川には平将門とその一族の首塚がある。940年に起こった乱で討ち取られた将門以下19人の武将の首が、常陸の国から京へ送られる途中 京都からの使者とこの地で行き会い首実験が行なわれた。
近くには首を洗ったといわれる血洗川が流れているが、興味深いのは命名の由来にまつわる話で、川のところで首を懸けたので「掛川」にしたという・・・まさかと思うが、さてこの話の真偽は・・・?
<続く> 「功名が辻ー3」へ
Copyright c2003-6Skipio all rights reserved